小説『虹をつかむ人 2020』第十三章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 13
第十三章
部長が捕まって半年が過ぎた。きっと部長は社会復帰を果たし、たとえば関連会社に再就職しているのかもしれない。世の中には、そういう人間も少なからずいて、彼らは大抵、少なくない金を持っている。悪いとか、悪くないとかではなく、そういう特殊なルールで、彼らはゲームをしているのだろう。モラルなども、あるような、ないような。あったとしても私とは少し違う。部長の抱える真実もあるだろうが、そこにある真実も私とは少し違う。だからこそ私たちは共に働くことができなかったのだろう。
石川からの連絡も特に何もない。ときどき、奥さんと子供たちの顔が浮かぶが、私にできることはなさそうだし、私に何か役割があるとか、期待されているとも思えない。石川は最後のメールで私に知らせたように、きっと大丈夫なのだ。仮に、そうでないにしても、私の助けなど必要ではないし、私にできることもない。そのことは、私にも石川にもわかっている。
私の役割とは、ただ虹を捕獲することだ。だから私は、部長のことも石川のことも忘れて虹を捕獲した。
山の中で、川辺で、湖の上で、ビルの上で、線路の上で、外人墓地の崩れ欠けた十字架で、小学校のグラウンドで、高速道路の路上で、大きな古墳の上で、……。
虹はいたるところで生まれている。私はいくつかの虹の捕獲に失敗していた。私は、それを以前ならエラーだと感じていただろう。ゴールデングラブ賞を狙う遊撃手のように、エラーを悔やんでいたはずだ。しかし今は違う。虹を逃したのではない。逃げたのだ。虹は生きているのだ。それは龍のように生きている。
私は虹と向かい合った。雨降りには虹を求めた。研修所で学んだことを学び直した。
私は虹捕獲師になって、私自身になれた気がした。私は誰かと競いたいわけではない。私は昨日の私よりも、少しでもまともでありたいと思っているだけだ。
そして私はただ穏やかに暮らしたいだけだ。穏やかであるということは、自分だけでなく、すべての人に対して、大らかでありたいと思い、願うことだと思っている。私は、誰かを蹴落としたくもないし、蹴落とされたくもない。誰かと戦わなくても、生きていけるのが、今、という時代なのではないのか。いやそれこそが今という時代なのか。わからない。私は、資本主義という弱肉強食から、最も離れて生きていきたい。ただそれだけなのに。なぜそれが認められないのか。
私には家族もいない。猫もいない。社会的貢献もしていないが、貪欲に金儲けもしていない。それは、できない。私に何もないことが、穏やかに生きることの、ある意味での「資格」にはならないのだろうか。そもそも資格は必要なのか。自己責任という言葉は、罪を問い責めるだけでなく、戦いのステージに登らないという意味での、罪を問われない、罪を責められないための、違う目的の駅(終着の駅だろうか)に向かう列車に乗るための、その人のための切符にはならないのだろうか。私は金儲けに参戦しないのだから、そうではない世界で、そうではないように生きることが、できるはずではないのか。それは誰かが許すものなのか。誰かの許しを請うべきものなのか。そうだとしたら間違ってないだろうか。赦しなんかいらないだろう。責任など、どこの誰からも問われたくない。
私は虹を、龍を捕まえようとしている。私は初心にならなければ。初心を忘れてはいけない。無心にならなければ、虹を、龍を捕まえることができない。虹を、龍を捕まえることが直接、誰かの不利益にならないように、常に気をつけている。私の利益は、穏やかに、大らかに生きることだ。それは誰かの不利益になるのだろうか。いくら考えても、誰かの不利益になるとは考えにくい。
ああ、ムロエさん。私はムロエさんに会いたかった。会えないとしても話したかった。話せないとしても存在を身近に感じたかった。どこかに生きていることを実感として受け止めたかった。ムロエさん。今、どこで、何をしているんですか。私は今、虹捕獲師として生きています。なんとか上級になりました。でもそんなことは意味がありません。虹を捕まえて静かに生き続けたいのです。その資格が、私に本当にあるのか。それとも、ないのか。それをあなたにこそ判断、判定して欲しいのです。それをあなたは、私の甘えとか、私の弱さとか、言いますか。ムロエさん、今、どこにいるんですか。
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