高橋について語るべきことは

序章 高橋とは

 

私が最後にその友人に会ったのは二〇二一年十二月の初めのころだった。いつものようにふらりと私の店に現れた。雪でも降りそうな夕方の四時くらいだった。いつもより姿が小さく見えた。疲れているようだった。彼は独り言みたいなことを話して帰った。それ以後、私は彼に会ったことがない。

 

 私の店は大きな公園の隣のショッピングセンターにある。婦人服のブティックだ。パートの女性を雇っている。優秀な女性で顧客も付いている。任せておけば大丈夫だ。彼女が休みのときに私が代わりに接客する。私は彼女ほど熱意がないが、私の店だから店に出る。私は大学を出てから大した理由もなく紳士服の製造卸会社に就職して二十年ぐらい勤めた。そのあと自分の店を持つことになって会社を辞めた。この店を持って二十年くらいになる。その間に結婚して娘がいる。先のことはわからないが、私は運がよかったのだろう。店はそれなりに順調で家庭も最近は落ち着いている。

 彼とは一九八二年四月に大学に入学して知り合った。在学中も卒業後も着かず離れず、そんな感じだった。一九九八年の三月に会ってから音信不通になったが、二〇一一年三月にふらりと店に顔を出した。彼の手には葉書があった。私がずいぶん前に送った開店告知の葉書だった。そうやってわれわれは十年以上のブランクを超え、また友人に戻った。そしてまた十年後、彼は消えた。

 

 ここで私はその友人のことを語る。中肉というより痩せていて中背。髪は薄い。ときどき笑顔を見せる。それも薄い。近眼と乱視で眼鏡をかけていたが、中年以後は老眼も追加され遠近両用眼鏡になった。酒も煙草も博打もスポーツも何もしない。不健康ではないが猫背だ。もう若くない。前述のように大学のころからの付き合いだ。彼の名は何でもいい。とりあえず、高橋。先に断っておくが、実在の高橋某とは無関係で、仮にあなたが高橋であっても、もちろんあなたについて語るわけではない。念のため。

さて高橋について語るべきことは何か。やはり間違いなく、それは仕事だ。なぜ仕事なのか。この先を読めばわかる。そして高橋の仕事には、大いなる達成とか自己の実現とか、そういうことは何もない。そのことも先を読めばわかる。そこにあるのは焦燥、寂寥、嫌悪、無職、求職、絶望、転職だ。

これは高橋の転職の歴史、つまり「転職史」である。世の中には「自分史」というものがあるらしいが、ここに記されたことは仕事に焦点を当てた「高橋史」といってもいいかもしれない。

前書きはこのくらいにして本題に入ろう。けれど、もう一言。「これを読んだら何か得をするのか。よい仕事を見つけるヒントがあるのか。仕事の質が向上し こなせる量が増え、上司から評価され、その結果として出世できるのか」とあなたは質問するかもしれない。私の答えは「得にならない。ヒントもない。出世もできない」。するとあなたは次の質問をするはずだ。「なぜ『高橋(転職)史』を書くのか」と。私の答えはシンプルだ。「高橋は友人だから」。

あなたにも友人がいる。あなたは友人と一緒に笑う、泣く、ハグする、乾杯する、歌う、かもしれない。私はあなたに問う。「なぜ友人と笑うのか?」と。

私の場合は泣き笑いする代わりに高橋の転職の歴史を記す。会社(社会)とか職場(他人)とかに馴染めなかった男の話など誰も書かないだろう。その馴染めなさを、わざわざ記すことが私の役目だ。さすがに「友情の証」なんて言葉は大げさすぎるから使わない。

もう一言、蛇足として。私が語る高橋の話は彼から聞いたことをもとにしているが、事実関係は確認できない。高橋が私に嘘をつく理由もないが、彼や私の記憶違い、私の聞き間違いは大いにあり得る。映画によくある『これは史実をもとにした物語である』という程度で読んでもらえたらと思う。

 

第一章 二十代の始まり

 

高橋は北の地方都市で生まれて高校を卒業するまで地元にいた。そのあと大学入学を機に西の都市部に移り住んだ。私は高橋と大学で出会う。当時の高橋は大学の近くのアパートで独り暮らしをしていた。私はときどき泊めてもらった。大学時代のあれこれは、ここでは語らない。また語るべきときがきたら語るが今は語らない。

高橋は入学するとすぐに近所の書店でバイトを始めた。半年を過ぎるころには仕事ぶりが店長に評価されて店長代理になった。店の鍵を持たされ、本の出し入れ、入れ替え、陳列だけでなく、伝票を整理したり、レジの売り上げをチェックしたり、そのうちバイトの面接までするようになった。私にも「バイトしないか」と声がかかり、私もバイトすることになる。

高橋と友人として付き合い、いろいろな話をするようになって、私は気づいた。高橋は頭が悪くない。そのうえ常識も節度もあった。あんな大学でそんな人間に会えるとは思っていなかった。

高橋ならもっと偏差値が高い大学にでも入れそうだったから「なぜこの大学を選んだんだ?」と尋ねた。「本命に落ちたが浪人はできない。偏差値が低くて学費の安い大学を探したら、ここがあった」という答えだった。高橋の本命は確かに偏差値が倍くらいありそうな国立大学の、しかも専門は数学だった。「なぜ落ちたのかわからない。進路指導の教師は模試のデーターを見ながら『合格する』と太鼓判を押したのに」と高橋は笑った。

当時のわれわれが在籍していたのは文学部国文学科だったから、高橋は人生の進路を大きく変更したことになる。仮に本命に合格していたら、これから語るような転職を繰り返す必要もなく、楽しく穏やかに暮らせたのかもしれない。

 

本屋のバイトに話を戻そう。高橋は仕事中、雑誌の棚を整理していたら、ある雑誌を見つけた。広告関係の雑誌だった。特に広告に興味があったわけではない。表紙が可愛い若い女の子の写真だったから、ちょっと手に取っただけかもしれない。ちなみに高橋は雑誌を読まない(小説は読む)、テレビも見ない(当時の高橋の部屋にはテレビも電話もなかった。携帯電話もスマホもない時代で、実家からの緊急連絡は電報だった)。

その広告関係の雑誌には、時代の先端を表現するテレビコマーシャルとか雑誌や新聞の広告が紹介されていた。制作会社や制作者の名前も記載されていた。そこにはディレクターとかコピーライターとかデザイナーとかのカタカナが並んでいた。そのとき高橋の頭には「映画監督」と「複写機付き百円ライター」と「パリコレ」が漠然と浮かんだ。さすがに「複写機付き百円ライター」なんてあり得ないと思った高橋は、一体コピーライターとは何だろうと考えた。考えながら最後までその雑誌を立ち読みすると「コピーライターになるためには」というページがあった。

高橋はそのページを読んで理解した。簡単にいえばコピーライターとは広告の文案を考える人なのだ。そういう人になるためには、そういう人を養成するための講座に通って勉強するらしい。講座の講師陣は現役のコピーライターで、そういう人との交流の先には就職の道もあるらしい。なるほど、これも何かの縁かもしれないと思った。高橋は今の大学を出ても何をしたいということもなかった。このまま卒業しても営業マンになるしかないだろうと思っていたが、自分が見ず知らずの誰かに頭を下げながら物を売りつけている姿は想像できなかった。それよりは、と高橋は思った。文案を考えているほうが楽しそうだ。そのページの終わりに講座に必要な金額が記されていた。講座に必要な金額は払えない額ではない。でもすぐに振り込めるほどの金銭的な余裕は高橋にはない。高橋は実家からの仕送りで生活していた。足りない分を何とかしようと思って本屋でバイトした。そのバイト代を一年分貯めれば何とかなりそうだった。将来への目標ができたことは高橋の生活に張りをもたらした。モラトリアム的な時間稼ぎとして、ここに入学した意味もあった。

 一年後のはずが大学生活や友達関係でいろいろあって、二年後の三回生の春に高橋は週三日の講座に通うことができるようになった。講座が始まると高橋のバイトは日曜と祝日の店長代理業務のみとなった。その講座は夜の六時から八時まで、雑居ビルの一室で行われた。講座は時間的にも距離的にも大学の授業の支障にはならなかった。すでに高橋は大学のほとんどの単位を優で取っていたから、卒業に関しても特に問題はなさそうだった。

 

高橋がダブルスクーリングを始めるようになって、以前のように私は高橋と頻繁に会うことはなくなった。こちらは卒業も危うかったし、あちらは未来に目を向けて忙しそうだった。うらやんだことがなかったといえば嘘になるが、そもそもこの大学にいることが高橋にはイレギュラーなのだから、うらやむよりも応援する気持ちのほうが強かった。

ときどきバイト終わりに飲むことがあり、そんなときには高橋の語る講座の話に耳を傾けた。だるい大学生活に比べて刺激的だった。講座で学ぶ内容は、広告業界の概要であり、どのように広告がつくられるのかである。コピーライターの役割が語られ、考え方や書き方を身につけるために、さまざまな課題をこなす。

私にとって面白かったのは講座そのものよりも、講座に通う生徒のほうだった。生徒は全員で百人くらい。小さな教室は満員御礼状態。いろいろな経歴の人間が集まっていた。半分は会社の金で「勉強して来い」と送りこまれた広告や広報の担当者であり(会社の金、というところがいかにもバブルな感じだ)、残りの半分は自腹で学ぶ普通の人たちだ。たとえば、無職、フリーター、大学生・高校生、大手商社の受付嬢、新幹線で通ってくるおばさん、孤独な老人もいたという。

 一カ月もしないうちに教室はスカスカになった。やる気のないサラリーマンたちが消えた。やる気のあるサラリーマンも仕事が忙しくなると欠席が目立つようになった。その中で高橋は教室の最前列の真ん中で、かぶりつくように授業に集中した。大学の講義以上に。

高橋のような生徒は他にも五人いた。三つ年上の元自衛隊、ヒゲ面のフリーター、軽妙な経済学部の学生、寡黙な芸大の学生、痩せすぎのカメラマン志望の若い女。彼らには自然と仲間意識が生まれた。講座が終わったあと、ときどき飲んで語り合った。広告の今と未来について。コピーライターとしての自分たちの明るい将来について。結局、最後は誰かの部屋に泊まって二日酔いの頭を抱えて朝を迎えるが、それは絵に描いたような青春であり、高橋にとっては大学よりも楽しかったのだと思う。彼らは一度だけみんなで海水浴に行ったという。「泳げないけど行った」と高橋の告白を聞いたときは大変だなと思った。

その後の五人組のことを簡単に書けば、元自衛隊は講座を主催する会社の人間と仲良くなり広告代理店に潜りこみ、いくつかの広告賞を受賞して、広告を発注する側に転職して、今はゲームメーカーのアメリカ支社で偉い人になった(個人名から私がネットでチェックした)。フリーターは新興宗教にはまって消えた(高橋の聞いたところによる噂を含む)。経済学部の学生は広告代理店に新卒で入ったものの一年で辞めて、外資系の保険代理店の支店長になった(個人名から私がネットでチェックした)。芸大の学生と若い女についての消息は不明だった。

「元自衛隊があそこまで上り詰めるとは思ってなかっただろう?って。いや思っていたよ。元自衛隊の提出するすべての課題は常に講師たちに最高ランクで評価されていた。別格だった。彼は工業高校から自衛隊に入って、そのあと航空会社の整備士になり、社内でミニコミを創刊してから、すべてを捨てて講座に通った。当時、文才があるとは正直思えなかったけれど、企画力や人を惹きつける魅力は確かにあった。講座を主催する側からみれば、彼には実力があり人柄があり、講座における偉大な成功事例であり、だからこそ代理店に人材として売りこんだと思う。それは講座そのものの優秀性を同時に証明することになる。彼にとって単にラッキーなだけではなかったことは想像に難くない。新卒でも大卒でもない、そのうえユニークな経歴だ。厳しい環境を生き抜いて、あそこまで上ったんだ。尊敬するし、ともに同時代に学んだ人間として誇りに思う」

「元自衛隊とはずっと連絡を取り合っていたのか」と聞いてみた。高橋はしばらく無言だった。

「仲がよかったと思っていたのは、こちらだけだったようだ。講座で生徒同士だったときは頻繁に連絡があったけれど、いつの間にか連絡が取れなくなった。講座終了後も、彼を除く残りの最前列組とは連絡を取り合ったりしたけれど、誰も彼の消息を知らなかった。彼の名前が広告賞に出たとき、仲間の一人が問い合わせたらしいが特に回答はなかった。そのあとは残りの最前列組も、それぞれ忙しくなって連絡が途切れて、今は誰のことも知らない。元自衛隊を嫌な奴だとか、そんなふうには少しも思わない。ただ少し悲しい気はする。今から思えば彼は必死だった。こっちだって真剣だったがレベルが違う。所詮こっちは学生やフリーターだ。そんな気楽な連中とは付き合う価値がないと切り捨てたとしても仕方ない。それより最前列組の1人が世界で活躍している。すごいよ」

立場が逆なら高橋は周りを切り捨てないと思う。切り捨てられる側の人間が高橋かもしれない。それを望む人間はどこにもいないが。

 

第二章 二十代の続き

 

 講座を卒業したとき、高橋は大学をまだ卒業していなかった。あと一年あった。ゼミだけだったから、どこかでコピーライターのバイトをしようと決めた。そういう世界で自分が通用するのかしないのかを知りたかった。

高橋は新聞の三行広告で小さなA(以下、高橋の転職した会社をアルファベット順に並べる)という広告会社を見つけた。代理店ではなくて制作のみを請け負う小さなプロダクションだった。問い合わせると面接するという。といってもまだ学生だから広告制作の実績はゼロだ。勝手に原稿用紙に鉛筆で書きためていた広告文案を面接のときに持参した。ちなみに書きためていた広告の商品は洋酒、煙草、ファッション、自動車など、講座の課題の延長にあるもので、絶対に高橋が扱うことのない商品だった。

そのプロダクションは電気屋街の端の印刷屋の2階にあった。そこは商社と印刷会社と家電メーカーがつくった会社だった。社長は印刷会社の老人で、ほかに商社から出向している色白で影の薄い若い男(営業担当)がいて、魔法使いの老婆のような鼻が目立つ中年男(制作責任者)がいた。それからコピーライターとしてサーファー風の背の高い、高橋よりも五歳くらい年上の男がいた。

高橋を面接したのは魔法使いの男だった。彼は原稿用紙の束を読みもせず、履歴書をちらりとも見て「まだ四回生か」と吐き捨てた。その反応で高橋は落ちると思ったが「明日から来れるか?」と質問されて、反射的に「金曜のゼミ以外なら」と答えていた。即決だった。次の日、高橋がその会社に行くとサーファーは消えていた。その代わりアシスタント兼事務の女の子が二人いた。一人は少年みたいで一人はチーママみたいだった。少年みたいなほうは出向男の趣味で、チーママみたいなほうは魔法使いの趣味であることが、のちに判明した。

 高橋はそこに一九八五年四月から一九八五年八月までいた。トイレ掃除からお茶くみから、郵便局とか銀行へのお使いとか何でもやった。「週二回は徹夜した」と言う高橋の言葉に私は驚いたが「そういう業界だから」と高橋は気にしない。週1回は朝まで飲みに連れまわされた。それも東南アジア系の(妙な日本語で話す)年齢不詳の女たちに囲まれながら。そのあと必ずゴルフの打ちっ放しに連れて行かれてフラフラになって、会社で仮眠してから、朝になればまた仕事をした。今でいうところの「やりがい搾取」だろう。驚くほど安い時給にも動じなかった高橋だが、結局五カ月で辞めた。理由を尋ねると「ほとんど文章を書かせてもらえなかったから」。

 ちなみに魔法使いの男と、出入り業者の男と、高橋は干支も血液型も誕生日も同じだった。魔法使いは二十四歳上で業者は十二歳上である。「それ以来、干支も血液型も星座も、あらゆる占いを信じていない」と高橋は笑った。

 

 その年の九月、私が卒業のためにドタバタしているとき、高橋は次の仕事場を見つけていた。新聞広告で見つけたBという会社だ。前のAよりもまともそうで、営業と経理と制作に分かれていた。「即戦力を求む」と明記されていたが、もちろん高橋には作品と呼べるものは原稿用紙に書かれた広告コピーしかない。それでも面接してくれた担当者は黙って読んでくれた。それだけで高橋は満足だった。この担当者は星野さん(仮名)という制作部の責任者で十三歳年上の静かな男だった。

 この会社は即戦力を求めていながら、当時まだ学生の高橋を採用した。私は不思議に思って採用された理由を高橋に尋ねた(高橋も同じ質問を出勤初日に星野さんにしたそうだ)。

「会社の近くの広い喫茶店でハンバーグランチを奢ってもらいながら、ちなみに夜はジャズのライブハウスになる店だけど、そこで尋ねたら『文字は汚いけれど文章は面白い。あちらこちら命がけ、という感じがしたから』だって」

 よくわからないが要するに勢いがあっただけかもしれない。高橋は学生でありながら、ついに「コピーライター」の名刺を手に入れた。高橋が最初に名刺を渡した相手はもちろん私だ。その一枚の小さな紙切れは、うらやましいくらいに輝いていたことを今でも鮮明に覚えている。

 高橋はその秋に大学の近くから会社の近くに引っ越した。こちらは卒業に向けて忙しくて、あちらは仕事で忙しくて、そのころのわれわれはゼミの授業で会うくらいだった。高橋は、ますます元気そうだった。元気過ぎて怖いくらいだった。気になるのは忙しいわりに貧乏そうなことだった。世の中はバブルが始まろうとしていたし、やっと卒業できた私でもちゃんと就職できた。

 高橋は四月になって、それまでのバイトから正社員として働き始めた。その会社でコピーライターは、高橋と外語大出の年上の女の二人だった。女はブランドで着飾ったショートボブだそうだ。彼女はほとんど残業をしないので、仕事は高橋に回される。喜々として高橋はコピーを書き続けた。朝から夜まで、いや朝から翌朝まで。守衛のおじさんに名前と顔を覚えられるくらいに働いた。

 久しぶりに高橋と飲めたのは梅雨明けのころだった。焼き肉を食べて、流行のカフェバーで飲み直した。私は、そこそこの初任給とそれなりの賞与があって、なるほど世の中は景気がいいと能天気に思っていた。高橋は学生のころから会社で働いていたし、新人でありながら即戦力であり、主戦力なのだから、私なんかよりも給料も賞与ももらっていた、と言いたいところだが、そうではなかった。私よりも倍は働いているし、そのうえ専門職である。それなのに私よりも給料が三割も少なく、賞与はゼロだ。寸志は出たと言うが、それだけではカフェバーの支払いすらできそうになかった。

「どうしてボーナスがないんだ?」

「どうしてかな。まあ好きなことをしているから、いいけど。金はあとからついてくる、って言うから」

「それならいいけれど。壊れるなよ」

 私の慰めなど不要だと言わんばかりに高橋は笑っていたが、未来の今から振り返れば、高橋の希望的予想は外れ続けた。あとからついてくるのは金ではなく死神だった。

 時代は重厚長大から軽薄短小になろうとしていたが、高橋は工作機械や業務用編機のカタログで、それぞれの機械の特長を解説するコピーを書いた。ほかには製鉄会社や製薬会社を紹介するコピーを書いた。安全靴のカタロのコピーも書いた。コピーライターになるための講座で学んだことが役に立ったのかどうか。高橋にも本当のところはわからなかった。少なくとも自分の文章が印刷されて人の目に触れている事実、それで自活できる事実は、何物にも代えがたいものだった。

 ときには業務用編機のPR誌で日本文化について読み物風の文章を書いたり(英語やスペイン語にも翻訳された)、ショッピングセンターのキャンペーンコピーを書いたり、そういう面白い仕事もあった(撮影の立ち合いで外人モデルに見とれた)。小さな会社でも企画制作力があれば、そういう面白い仕事ができる明るい時代だった。

高橋はそこに一九八五年九月から一九八八年三月までいた。高橋は最後まで金のことは言わなかったが、それも辞めた理由の一つだったと思う。辞める半年前に高橋は中型のバイクを手に入れていた。たまたま仕事でバイク用品カタログのコピーを書いたとき「魔が差して」バイクを衝動買いしたそうだ(四十八回ローン)。バイクを買ってからは会社にもバイクで通うようになった。

ある朝、バイクに乗った高橋は会社ではなくて海に着いた。いつもの交差点で、普通なら右折するところを、そのままずっと直進したらどこまで行けるのだろうと思って、真っ直ぐ走ったら海に着いた。無断欠勤した翌日の早朝、誰もいない会社の星野さんの机の上に辞表を置いて帰った。星野さんからその夜電話で「早まるな」と忠告されたが「いろいろお世話になりました」と、そのまま辞めてしまった。このことを笑うべきなのか泣くべきなのか、今でも私にはわからない。

 

春の高校野球の決勝戦が終わるころ、高橋は次の仕事を、また新聞広告で見つけていた。Cというバイク便である。バイク便といっても宅配便ではない。普段は通信社やテレビ局や新聞社で待機しているが、事件や事故があれば現場に駆けつけて、記者が書いた原稿やカメラマンが撮影した写真フィルムや映像テープを運んで帰るというプレスライダーである。今もあるのだろうか。ネット環境が整備された二十一世紀の今では消えた仕事かもしれない。

たまたま採用が決まっていた男がスピード違反で免停になり、そこに高橋が応募した。面接した社長は、高橋の前職の(大卒にしては安かった)給料より安いが大丈夫かと念押しした。高橋は構わないと答えた。大学出に務まるのかと一瞬社長は悩んだが、人手不足だから採用した。

当時、こんな会話を高橋としたことを覚えている。

「なぜライターではなくてライダーなんだ?」

「なぜかな。ライターで文章が書けるのは楽しいけれど。自分のための文章を書けたら、いいかなと思って」

「自分のため? 小説とか?」

「小説とか、詩とか…」

「詩? 詩人じゃ食えないだろ。それに、そもそもライダーになる必要はないだろう」

「よくわからないな、自分でも。とりあえずバイクに乗っていれば頭が空っぽになれる。今のところ」

高橋は疲れたんだ。ほとんど休みなく書き続けてアウトプットし続けて、インプットできていなかった。高橋の言う「空っぽ」とは違う意味で何もなくなったのだ。そういうこともあるかもしれないが、高橋がいつまでライダーとして働くのかわからなかったし、できればライターに戻ってほしかった。私からみれば当時の高橋は自分の人生を遠くから眺めているような気がした。よい悪いの問題ではなくて、高橋の持っているある種の危うさが私には気になったし、正直にいえば、気に入らなかった。他人の人生だといえばそれまでだが、ライターからライダーでは極端すぎた。危険でもある。

高橋は暴走族でもないし熟練のライダーでもなかった。それは高橋自身も認めている。大学で中型バイクの免許を取って、社会人になってから自分のバイクを買って通勤に乗っていただけで、遠方へツーリングなどしたこともなかった。高橋もそれは十分わかっていたから、スピードも出さないし、無理をしないで慎重にバイクに乗っていた。しかし仕事となれば話は別だ。「安全運転しろよ。同じライダーでも趣味とプロでは危険度は雲泥の差があるだろうから」と言うことしか、私にできることはなかった。

その会社にはさまざまな人間(全員男)がいた。高橋の話によると、社員たちは中卒・高校中退・高卒で、大卒は高橋だけだった。元暴走族の二十代、男前の元受刑者の三十代、挨拶もできない引きこもり気味の十代、半分バンドマンで茶髪の三十代、バイクマニアで貧乏な四十代、社長とその弟(どちらも四十代)、歴史に残るような事件のフィルムを運んだという五十代が、主要メンバーだった。そのほかにも得体の知れない若者たちが事務所に出入りしていた。

 高橋はすぐに仕事を覚えた。普段は事務所に待機していて、連絡が入ると事件や事故の現場に行って、先乗りしていた記者から原稿をもらって急いで帰る。空輸されるものは空港まで取りに行く。スポーツの大会があれば競技場へ、高校野球やプロ野球のある日は球場にも出かけた。

何もない日という日はほとんどなかった。いつもどこかで事件や事故は起きていた。港では船が燃えていた。反社会的勢力は抗争を続けた。路上では誰かがひったくられた。誰かが誰かを人質にして立てこもった。交通事故は日常茶飯事だ。エアポケット的な何もない日には高橋たちは何かが起こるのをじっと待った。「何だか死神とか疫病神とかになった気分だった」と高橋は言う。

 大学出の高橋は取っつきにくいと思われて、最初のころはほかのメンバーから距離を置かれていた。しばらくすると、その距離は縮んだ。実際に話をしてみると、いい奴じゃないか、それほど悪くない、まともだよ。ちゃんとしている人間も、ここにいたほうがいい、という声が多くなった。高橋のフラットな態度が周りの人たちとの壁を低くしたのだ。相手が誰であっても、高橋は丁寧に接する。それが彼らを優しくしたのだ。そんなふうに私は思う。

 高橋はプレスライダー時代に二回事故を起こしている。どちらも被害者だった。

1回目の相手はタクシーだ。昼間の都心の交差点。タクシーが客を降ろすとき後方を見ずにドアを開ける。開いたドアに、擦り抜けようとする高橋のバイクが突っこむ。幸い怪我はなかった。転倒した際にジャンパーとジーンズに穴が開いた。それからヘルメットとバイクに傷が付いた。タクシー会社の事故担当者が見舞金を持って事務所に来て頭を下げた。

二回目の相手は大型のトラックだ。夜間の高速道路の出口。出口は左側。高橋は左車線を走りながら出口に向かう。右車線を走るトラックが車線変更して強引に左車線へ。トラックの死角に入った高橋のバイクは、高速道路の側壁とトラックの後輪に挟まれそうになる。急ブレーキで何とか回避。「スローモーションみたいにバイクとともに転がった」とき、高橋の心臓は氷のように冷たくなった。トラックは消えていた。出口にカメラなどない時代。目撃者もいない。どうやって事務所に帰ったのか覚えていない。誰かが高速に乗り捨ててあった(大破した)バイクを引き上げて修理したはずだ。修理代は高橋の給料から分割で天引きされた。そのとき着ていたジャンパーとジーンズはボロボロになった。ヘルメットとブーツは傷だらけで買い替えるしかなかった。「生きているのが不思議だ」とみんなに言われた。

事故のあと、夏が終わり、秋雨のある日、事件が起こる。

その日、高橋はあるテレビ局地下の車両室で待機していた。初めての現場だった。仕事の内容はいつもの事務所と同じようなものだが、ここには社員や出演者を乗せるためのハイヤーの運転手も出入りした。ここには机があった。その事件が起きるまで高橋は机を意識していなかった。その机は配車担当の総務部課長が置いたものらしく、引き出しには高速券が仕舞ってあったそうだ。その日、高速券が消えた。

最初に気づいたのはハイヤーの運転手だ。テレビ局で出番を終えた出演者を乗せて高速で空港に向かう。高速券は必要なとき必要なだけ使用できた(本来なら煩雑な手続きが必要だが課長の判断で省かれていた)。机の引き出しの、あるべき場所に高速券がないことに気づいた運転手は課長に連絡した。課長が車両室に来て引き出しを隈なく探すが一枚もない。課長の話によると午前中に高速券を三万円分買って引き出しに入れて鍵をかけたという。鍵のある場所を知っているのは課長と運転手とプレスライダーである。プレスライダーが疑われた。

高橋は事情がよくわからないまま課長から事情聴取を受けた。朝から今まで何をしていたのか。質問されたあと「お前も鍵の場所を知っていたのだから」と言う課長の言葉を遮って「知りません」と高橋は答えた。実際に机のことも鍵のことも高速券のことも高橋は何も知らなかった。事前に誰かから何も知らされていなかった。

「知らないはずはないだろう」

 課長は高橋を睨みながら、高橋の会社の社長に電話した。高速券紛失の経緯を説明してから電話に向かって怒鳴った。

「お前のところの人間は『鍵がどこにあるのか知らない』と言っているが、知らないはずがないだろうが! とぼけているのか?」

 高橋の耳には「とぼけているのか」という言葉は「鍵の場所を知っているくせに、とぼけているのか」というより「高速券を盗んだくせに、とぼけているのか」と聞こえた。その瞬間に高橋は自分を取り巻く状況を把握した。それは最悪な状況だった。

 課長は高橋のロッカーを調べた。すべてのポケットも調べた。持ち物も調べた。抵抗すべきかもしれないが、それもどうでもよかった。課長の求めるものは何も出てこなかった。ハイヤーの運転手たちが調べられたのかどうかわからない。

 最後まで犯人は特定できなかった。ハイヤーの運転手の所属する会社と高橋の所属する会社とで折半して高速券代を弁償した。そのときそこにいた運転手と高橋は、そのあと出入り禁止になった。不幸中の幸いだったのは仕事を切られることがなかったことだ。事件後、迷惑をかけたことを高橋は社長に詫びた。

「お前がやってないことを俺たちは知っている。だから謝ることなんかない。俺たちみたいなのは必ずいつも疑われる。やったと決めつけられる」

「犯人は誰だと思いますか?」

「それがわかったところで意味なんかないし、状況は変わらないけど。そうだな、課長の自作自演だと俺は思う。高速券代の3万を使いこんだんだろう。馬か女か酒か。そんなところだ。本当に紛失していたら誰が犯人であっても俺たちは切られていたから。あの課長はそういう奴だ」

高橋はそこに一九八八年三月から一九八八年十一月までいた。辞める前に、それまで世話になっていた年下の先輩である大沢さん(仮名)に「いろいろありがとうございました。辞めるつもりです」と報告した。「高(タカ)ちゃん(そう呼ばれていた)、高ちゃんはいい奴だから気をつけて。後悔するな。俺からは、それだけさ」と言ってくれた。そのあと高橋は後悔のない人生を送れたのだろうか。

高橋は自分が大破させたバイクの修理代を(退職すれば給料から天引きできなくなるから)自分のバイクを売って支払った。社長に全額渡したが半額を社長は高橋に返した。

「半分でいい。どうせ売ったバイクのローンは、まだ残っているんだろう? その足しにしろ」

 高橋はプレスライダーのころに小説を書いて新人賞に応募したらしい。デビューはできなかった。プレスライダーの経験は高橋を成長させたようだ。今思えば、異質な環境で異質な人間と交わり異質な経験を重ねることは、そのあと高橋にとって避けがたいことになる。宿命のように。

 

 その年の初雪が降ったころ、高橋はコピーライターに戻った。求人情報誌で見つけたDという会社で、雑居ビルの五階にあった。社長はどこかの広告代理店を辞めて会社を設立して十年目だった。自分の妻を経理にしていた。外車を乗り回して車載電話を自慢にしていたが、その電話が鳴ることはない。携帯が普及する前のことだ。社員はデザイナーが四人(色黒の若い女のアシスタントを含む)、イラストレーターが一人(色白の優男でアシスタントと寝たことを聞きもしないのに話した。噂では社長の妻とも何かあったらしい)、コピーライター二人(高橋以外に、煙草臭い年上の女)、営業の初老の男(背は低いが筋肉がスーツを押し上げていた。目つきが鋭い)。

官公庁の仕事が中心で役所の外郭団体からもらう下請け仕事が多かった。ほかには不動産関係のカタログやチラシもあった。その仕事はやり手のデザイナーと煙草臭い女が担当していた。社長が仕事を丸投げしていた。高橋はとりあえず警察関係、それも交通安全関係の広報誌の原稿を書いた。原文は担当者の作文である。それを読めるように高橋がリライトした。担当者は天下りの元役人で、リライトした原稿のチェックを「検閲」と呼んだ。何度も検閲を受けているうちに最初(担当者が書いた作文)に戻ることも度々あった。

妻帯者のチーフデザイナーと女好きのイラストレーター以外は明日にでも辞めそうだった。そこに入った直後に高橋と飲んだ私は「バイクの仕事を辞めてよかったな」と言うと、高橋は「まあね。でもDにも長くいるつもりはない」と言う。その理由を聞くと「会社が何か変なんだ」と言う。具体的何が変なのかわからないが、とにかく何か変なのだという。

年末の忙しいときに、やり手のデザイナーが会社を辞めた。自分の事務所を開くからと、不動産関係の仕事を丸ごと盗んで出ていった。「お前なんか絶対潰してやるからな!」と社長は怒鳴ったが盗まれた仕事は戻ってこなかったし、今となってはどちらも潰れているかもしれない。一緒に煙草臭い女も辞めるかと思ったが辞めなかった。どうやら袖にされたらしい。その代わり色黒のアシスタントが消えた(気が付いたら会社に来なくなっていた)。それから妻帯者ではないほうの、残っていたデザイナーが消えた(過労で入院した。徹夜が続きで、休みもなかったから当然だ)。

社長は高橋にも仕事を丸投げするようになっていた。高橋には仕事を持ち逃げするほどの度胸はないと思われていた。その通りだった。高橋は仕事を持ち逃げするつもりはなかった。会社を辞めて自分一人でやっていくことも考えていなかった。しかし丸投げされたために進行管理や営業的な動きが増えるほど書く時間が削られ、満足なものが書けなくなっていく。高橋は混乱した。書く仕事でキャリアを重ねるのは書かなくなることなのか。昭和が平成に変わったころ、高橋は会社を辞めた。社長からは罵倒もされなかったし引き止められもしなかった。

高橋は一九八八年十二月から一九八九年一月までいたが、その会社は何だかバラバラでまとまりがなくて、最後まで変な感じだったという。高橋は「以前勤めていたBが懐かしい」と何度もぼやいた。

 

私は一度も転職したことがない。そのころ私の給料は順調に上がっていたし、それなりに賞与もあった。車も買ったし、さすがに株や不動産には手を出さなかったが、財布には今思えば千円札のように一万円札が入っていて、飲んでも買っても、まだまだ余っていた。ポストの中には「クレジットカードをつくれ」というDMが詰まっていた。

このころから高橋は「自分はこの先どこに向かうのだろうか」と悩んでいた。景気は悪くなかった。高い物から売れていくような時代で、また若かったから次の仕事を見つけることは難しくなかった。ただ高橋の給料は初任給から高くなかったし、昇給もしなかったし、賞与も寸志があるかどうかというレベルだった。業界的な問題なのか、構造的に広告代理店の下請けのプロダクションの社員はすべてそうなのか、高橋の制作能力が低いのか、高橋の会社が搾取しすぎなのか、私にはわからなかった。高橋は気がついたようだ。同年代と比べて自分の低賃金は異常ではないかと。

高橋は貧乏だったからこそ、常に次の仕事を見つけなければならない状況にいた。借金はないが(バイクのローンは返し続けていたが)貯金はない。Bを懐かしむ高橋は、当時の上司だった星野さんの行きつけのバーで偶然再会した。偶然ではなくて、高橋は実はそのバーで待っていたのではないかと思う。意図的ではなくても、そうなればいいと思っていたのではないか。

「久しぶり。今何している?」と声をかけてくれたので、高橋はこれまでの経緯を話した。

「フリーでやるのはどうだ? 一度くらい実力を試してみてもいいじゃないか?」と勧められた。

 高橋にはそんな気はなかったし、できるとも思わなかったが、挑戦するなら今のうちかも知れないとも思った。星野さんの言葉に従って、とりあえず『高橋広告事務所』の名刺を100枚つくった。

星野さんからはタウン誌の編集長、広告プロダクションのディレクター、印刷会社のブローカーなどを紹介された。書いたコピーは、求人情報、不動産(マンションや二世帯住宅)、ゴルフ場会員権勧誘、百貨店季節祭事、ツアー旅行、アウトドアグッズ、ファッションショー、貴金属宝石腕時計、学習塾など多岐にわたった。泳げない高橋がサーフィンについて語り、甲殻アレルギーでありながら絶品の蟹のうまさを紹介し、おしゃれとは何光年も離れていながらファッション情報を発信した。

 求人情報を書くために各社の求人担当者にインタビューしているときには、何度も「うちの会社に来ないか」と誘われた。特に市場の人事担当者からは情報誌の仕事が終わってからも「いくら欲しい? 朝は早いが昼からは自由だ。ゴルフも平日にできるぞ」と電話がかかるほどだった。朝が弱くてゴルフに興味のない高橋は丁重に断った。

 高橋はまた輝きを取り戻したようだった。相変わらず金銭的には恵まれているとは言えなかったが「好きなことをしている」ことが高橋にとって最優先であり、「好きなことをしている」から経済的にギリギリでも仕方ないと考え続けた。

 フリーライターとしての高橋は一年も持たなかった(一九八九年一月から一九八九年八月)。忙しすぎたのだ。営業以外はすべて一人だった。断ることができなかった。だから眠る時間を削るしかない。それでありながら食うに困る日もあった。高橋には貯金がなかったから、締め支払いの金の流れにタイムラグが生まれると、財布の中に小銭だけという現実を突き付けられることになった。

 

 高橋は充実した生活を送っていたが、その毎日は先の見えない、はっきり言えば先のない貧乏生活でもあった。そんなときDの仕事を盗んで辞めたデザイナーが声をかけてきた。

「今何している? 会社をつくったんだ。ライターが必要だから一緒にやらないか?」

 話を聞くために高橋は、そのデザイナーが社長として立ち上げたEの事務所に出かけた。事務所は高速道路沿いのマンションの狭い部屋だった。そこにはD時代に消えた色黒のアシスタントと見知らぬ背の高い男と、目つきの鋭いD時代の営業マンもいた。この営業マンを通して、Dの仕事の半分くらいが流れているようだった。

「高橋くん、久しぶり。Dはもうすぐ潰れるよ」と営業マンは笑ったが目は笑ってなかった。背の高い男は社長の友人のデザイナーだと紹介された。

「忙しくても忙しくなくても月五十万でどうだ? 保険も保障も何もない。すっきりしていていいだろう? 参加するか?」

 高橋は馬鹿ではない。不動産をベースにした当時の好景気が続くはずはないと思っていた。「忙しくても忙しくなくても月五十万」なんて話が信用できるとも思えない。風向きが変われば真っ先に切られるのは自分である。そのことは承知していた(後日、実際にそうなった)。それでも高橋が参加したのは一人で仕事をすることから逃げたかったことと金だった。高橋は金が参加の理由であることを私に否定したがゼロではなかったはずだ。その証拠に高橋は毎月半分以上を貯金した。

 EではD時代の不動産の仕事が中心であり、社長と代理店の担当者とは深すぎる関係が続いていた。担当者は高すぎる見積もりを受け入れる代わりに社長に一定額(裏金)を要求した。担当者は私腹を肥やし、Eで働く者たちは労働に釣り合わない高給を手に入れた。

 しばらくして裏金がバレた。代理店の担当者は左遷され(代理店内の派閥の力関係でクビにならなかった)、もちろんEは出入り禁止になった。そして社長は高橋を切った。「また仕事出すから、それまで生き延びてくれ」が最後の台詞だった。最後の五十万は入金されなかった。後日電話すると「現在使われておりません」というアナウンスが聞こえた。マンションに出かけてインターホンを押しても誰も出てこなかった。高橋は一九八九年九月から一九九〇年三月までEにいた。そのあと関係者に会ったことはない。

 自分が切られることを予想できていたから高橋にはショックはなかったし、少しだったが貯金ができたことを喜んだ。高橋は貯金を使って引っ越しをして、アルトサックスを買って(音楽教室に通い)、緑色の自転車を買った(電動アシストではない。当時そんなものはどこにもなかった)。

 

 高橋は求人情報で次の職場のFを見つけた。景気はまだよかった。高橋は二十代だった。その会社は若者たちが集う賑やかな街中の一角にあった。社長は五十代半ばで元菓子メーカーの企画担当者だった。広告を出す側にいた人間だ。社長の兄が広告代理店の上のほうの人らしかった。その流れで仕事が来た。主に代理店の下請けだったが面白い仕事が多かった。高橋はショッピングセンターの担当になった。このショッピングセンターでは近隣ニュータウンで暮らすファミリー層に向けて毎月四ページのフリーペーパーをつくっていた。今月のおすすめファッションからグルメまで、センター内のショップを紹介する。季節の読みものページや日々の暮らしを楽しむヒントを掲載した。有名なエッセイストに原稿を依頼して寄稿してもらうこともあった。あまったスペースには星占いも載せた。高橋はそのすべてを担当した。ライターでありエディターでもあった。

「ファッションやグルメとかに興味はなかったけれど読者から葉書が届くと、誰かが読んでくれているという実感が持ててうれしかった。来月も頑張ろうと思えた。占いはよく当たると好評だったよ」

 社長はゴルフばかりで会社にはほとんどいなかった。それは社長の趣味であり仕事上の接待であり新規開拓の営業でもあった。経理は社長の若い愛人だったが優秀だったし、社員に対しても愛想がよかった。高橋のほかに遠藤さん(仮名)というライターがいたが、驚くことにわれわれの大学の2つ上の先輩だった。まさかこんなところに大学のOBがいるとは。それからOBと同じ年のデザイナーが一人(以前勤めていたが独立後うまくいかず出戻っていた)。デザイナーのアシスタントの女の子が一人(ギャグアニメのキャラクターにそっくり)。あとはイラスト担当の眼鏡の女の人(本職は売れない漫画家)と印刷物配達運転手兼雑用担当の髪の長い青年(本職はインディーズバンドのギタリスト)。小さな会社だったが、みんな仲がよかったし、よく飲みにいった。週末には高橋はサックスの教室に通った。ときどき遠藤さんとデザイナーと運転手と四人で雀荘に行った。

高橋は遠藤さんが気に入った。以前勤めていたBの星野さんに共通する、独自の世界観が、面白くて勉強になったし波長が合った。高橋はどうやら個人的な相談もしていたようだ。

 高橋はこのFという会社が好きだった。自分の部屋から会社まで自転車で十五分くらいだった。会社のある街が好きだった。若者が集う街で時代のダイナミズムが感じられた。「そのままずっと勤めたかった、と今でも思っている」のに高橋は辞めることになる。社長が高橋に書くことよりも営業活動を求めたからだ。高橋は悩んだ。

そこで働く遠藤さんもデザイナーも、そういう営業的な役割を担っていた。小さな会社だから制作だけやっていればいいというわけにはいかない。ちなみに遠藤さんは無理が重なって胃潰瘍になって緊急入院した(本人は胃癌だと信じて疑わなかった。高橋が神妙な顔で見舞いに来るからだぞ、と後日笑った。快復したから笑い話で済んでいる)。それを見ているので高橋は二の足を踏んだ。それは近未来の自分でもあった。高橋は結局のところ怖くなって逃げた。

高橋はFに一九九〇年四月から一九九二年三月まで勤めていた。もうすぐ高橋の二十代は終わろうとしていた。「自分はもう若くない」と不安になっていた。それは私も同じようなものだった。誰だって年を取るが誰もが年を取るのは初めてだから誰だって不安になる。

 

Fを辞めるころ高橋はB時代の上司である星野さんに相談した。高橋はBへの出戻りが可能かどうかを尋ねた。Fのデザイナーが「出戻った」ことを覚えていたからだ。

「君が戻りたいと社長に言えば社長は歓迎するだろう。しかし僕は君が戻ることには反対だ」と星野さんは否定的だ。「フリーでやればいいじゃないか。仕事は出せると思う」と言ってくれたが、高橋は前回のフリー時代で懲りていた。自分には向かないと考えていた。

星野さんが否定的であることには理由があった。そのときの星野さんはすでにBを辞め、友人のフリーデザイナーと組んで仕事をしていた。あとからわかったことだが、星野さんが辞めた原因は社長と揉めたことにあるらしい。実はBの社長は星野さんの実兄である。どうやら社長が会社を私物化して、トップとしての営業活動もせずに詩作(自費出版)に励んでいたことを、専務として社長を(弟として兄を)諫めたが、それが兄弟喧嘩の枠を越えて星野さんの退職を招いたらしい。

「もう一度言うけれど君が戻ることには反対だ。それだとBが延命してしまう。僕は潰れたほうがいいと思っている。今いるメンバーは一旦辞めて、そっくりそのメンバーで別の会社をつくればいい」と展望を語った。高橋がBを辞めたのは四年前だった。四年あれば何でも起こり得る。何が起こったのかわからないし、これから何が起ころうとしているのかわからない。それでも高橋には「仕事を出せると思う」「別の会社をつくればいい」と言う星野さんの言葉は楽観的すぎると感じた。高橋の、その感じは後日当たる。星野さんと友人デザイナーとの活動は先細りしていく。

 最終的に高橋は出戻ることに決めた。社長は歓迎してくれたし、高橋が在籍していたころのメンバーも半分は残っていた。気心が知れていたし、自分が担当していた昔の仕事もそのままあった。こまかいことはわからないけれど大きな問題はなさそうに見えた。出戻ることに決まって星野さんに挨拶に行くと、こう言われた。「もう一度言うけれど君が戻ることには反対だ」。そのあと、高橋は星野さんから拒絶されることになる。たとえば避けられ、無視された。

 Bに出戻ってすぐに会議が開かれて会社の現状が知らされた。営業成績が下降気味であること。競合には落ちすぎていること。昇給や賞与は期待してないように。社長が所有する土地に自社ビルを建てたのが(バブル真っ只中の)二年前。今会社があるビルは場所がよすぎて(地下鉄が二つ交わるオフィス街のど真ん中で)賃貸料が高すぎる。そろそろ引っ越ししなければならない。営業マンたちが反対するが社長からは「ゴクツブシ」と一喝された。学究的な社長が、そんな荒い言葉を使ったことに驚いたし、それが社内でどう響くかを配慮できない社長の心の内を思うと、社長が追い詰められていることが痛いほどわかった。この人は仕事を間違えたのだ。社長ではなくて学者にでもなるべきだった。

実質的に会社をまとめていた実弟である専務が辞めたことは、社内的にも社外的にも大きなマイナスだった。制作部をまとめていたわけだから制作部のメンバーは動揺していたはずであり、それを鎮めるために高橋が出戻ってきたのではないか、という憶測が流れたほどだ。高橋には制作部をまとめるほどの実力はなかったが、その憶測が出戻りを円滑にしたことは間違いない。

出戻り直後から高橋の立ち位置は微妙だった。制作部は自分よりも若い人間ばかりだった。彼らと対等に仕事ができるほど感性が豊かだったわけではない。だからといって三十間近の人間が備えているような(備えておくべき)落ち着きや押し出しというものもなかった。それが高橋の人間的な魅力でもあるが、仕事の現場では有利には働かない。

仕事は四年前の続きのようなものだったが、編機会社のPR誌はページ数が減らされて、海外向けの翻訳も消えていた。仕事そのものも直取引ばかりだったはずが、代理店経由の安くて急ぎのブラックな仕事が増えていた。チェックばかりで前に進まない。締め切りは変わらないから徹夜が増える。疲弊する。給料は増えない。辞めてほしくない人から辞めていく。悪循環だった。

「君にはフリーのほうがあっている。仕事は出せるよ」と高橋は社長から引導を渡された。結局、高橋の出戻りは一九九二年四月から一九九三年三月まで一年で終わる。一年前の実弟の台詞と似ていた。

その直後に私は「出戻ったことに後悔しているのか?」と高橋に尋ねたことがある。すると高橋は「星野さんがいなければ自分が単なる世間知らずの坊っちゃんだった。そのことに出戻って初めて気づいた。星野さんとの関係を壊してまで出戻ることはなかったかもしれない」と絞り出した。仕方ない。誰だって過ちは犯す。だからこそ、そこから何かを学ぶべきなのだ。でも何を学ぶのか。

 

高橋の二十代は終わり、ついに三十になった。まるで高橋の二十代の終わりと連動するように世の中の好景気も終わった。それでもまだ幾らか景気の温もりは残っていたが、それはそのあと再加熱するとは思えなかった。それはただ静かに着実に冷えていくだけだ。そのことが高橋にはわかった。景気は悪くなる。仕事を見つけることが難しくなる。仮に見つかったとしても、それは、ろくでもないものかもしれない。ろくでもないことをする自分という人間こそが、ろくでもない存在なのかもしれない。高橋は宿痾に出会ってしまった。出会ったことにまだ気がついていない高橋。それは鬱。当時はまだその言葉を知る人間は少なかった。ネクラとか、ノイローゼとか、精神病とか言われていた。高橋にとって鬱は死神でもあった。

 

第三章 三十代

 

地元を離れて独りで暮らす高橋の最大の弱点は頼れる存在が身近にいなかったことだ。具体的にいえば経済的に頼れる存在である。親兄弟との関係は希薄だったし、実の母親からは詳しい理由はわからないが「実家に戻ってくれるな」と言われたらしい。高橋は嫌われる人間ではないが、特に目上に可愛がられたり誰からも好かれたりする人間ではない。次の仕事が見つかるまで金銭的な援助を申し出たり、無利子無担保で金を貸してくれるような人間はいなかった。仮にそんな人間が現れても、高橋は申し出を拒否していたと思うが。

何らかの理由で会社を辞めたとしても、すぐに次を探さなければならない。失業保険の金は(自己都合で辞めてばかりの)高橋には、すぐには支払われない。飲まず食わずで暮らしても家賃を払わなければホームレスになる。都会で暮らす高橋の家賃は給料の四割以上になる。貯金などできるわけがない。だからと言って返す当てもないのにサラ金から高利で借りることは論外だった。

 ゆっくり仕事が探せないということは吟味するとか熟慮するとか一切できないことを意味する。まさに出会いがしら的な再就職ということになる。結果は目に見えている。

 再就職の困難さは高橋の能力にも起因する。資格や免許は運転免許以外皆無だ。バイクには乗れるがクルマには乗れない(免許はゴールドだがペーパーだ)。コピーライターという仕事を目指した段階で、特に資格はいらなかった。今さら職種の方向を転換するとしても、それはそれで難しい。資格を取るには金が要る。資格のために勉強するには時間がいる。高橋は年を取る。景気は悪くなる。人脈もコネもない。誰も名前を知らないような三流私立大の文学部国文学科卒では望むべきもない。

 

 ということで出会いがしら的に求人雑誌で見つけたGという会社に潜りこむ。社長は日焼けした元住宅メーカーの広告部の人間で会社を設立して五年ほどになる。社長の日焼けはゴルフではなくて海釣りだということが後日判明する。社員はデザイナー三人(二人は転職組で、もう一人は古株のチーフ)、それからライター二人である。ライターの一人はアシスタントレベルの青年で、もう一人のライターは風俗好きの禿げあがった中年男だった(高橋が三人目のライターとなる)。この中年男は社長の補佐も兼ねていたので、新幹線で頻繁に出張していた。

 面接の際に社長から釘を刺されたことは「くれぐれも社員には給料を教えないこと」。もちろん言わないし尋ねないが、なぜか?と聞くと「君より安いから」という答えが返ってきた。高橋はそのとき、自分ですら前の会社よりも給料は下がっているのにと思ったし、ニュアンスとしてその発言は「君よりも安すぎるから」を意味すると思った。青年はともかく、中年男のライターとチーフデザイナーはこの会社で古株であり設立メンバーでもある。他人事ながら自分よりも安い給料でどうやって暮らしているのかと心配になった。

 高橋の担当は住宅メーカーの新聞広告の文章を書くことだった。年齢的に、書くだけでは済まないことはわかっていた。打ち合わせや接待にも参加した。きつい香水の、自分よりも若い女たちの中で、まずい酒を飲むのは何とか我慢できたが、釣りの接待は一度で懲りた。高橋は泳げない。水に対する恐怖心もある。当然、船酔いもした。生臭い魚にも触れない。釣りに興味もなかった。

 住宅メーカーの担当者はGという会社を憎んでいるのかと思うほど執拗にチェックしてきた。その新聞広告は五段の半分程度だった。高橋のこれまでの経験ではせいぜい三回ほどでOKのはずが何度やってもOKが出ない。OKが出たはずのコピーやレイアウトもチェックを続けるうちに「やっぱり元に戻せ」ということになる。「お前の会社は、企画力がない、提案力が感じられない。制作力もさっぱりで表現が曖昧だ」と担当者は言う。「それではどのようなものがお望みですか?」とお伺いをたてると「こんな感じでやってくれ」と言う。それに従って文句が出ないように何度も指示を受けながら文字通り一字一句一ミリずつ制作する。それが最後になって「なんか違うな」と吐き捨てる。「そちらのイメージをカタチにしています。その都度、OKをもらっていますが」とたたみかけると最後の答えは「だから何だ?」。結局、日程が間に合わず広告そのものがなくなることも頻繁で制作費が請求できない。今までの苦労と時間と経費は水泡に帰す。一緒にいいものをつくろうという気持ちが全く感じられない。珍しく当時の高橋は常に憤慨していた。

高橋は社長に「あの担当者、大丈夫ですか?」と直訴すると「あの男は大丈夫じゃない、まともじゃないが、あいつのお守として君がいると思ってくれ。それが君の仕事だ。会社としても、別の仕事でそれなりに金は回収できているから、その点では損はしていない。大丈夫だ」。

私は高橋からそのことを聞いて、ずいぶん変な会社だと思った。その担当者と仕事の話をしなければならない高橋は大変だろう。結果的に広告がつくれないというのは、仮に会社には損が出ないとしても、コピーライターとしての高橋には納得できないだろう。そのストレスが高橋の胃を破壊した。ついに胃潰瘍である。

夏の盛り、あの大丈夫ではない男を釣り船で接待するために、高橋たち全社員はせっかくの休日を費やした。そして高橋は海に大量の血を吐いた。周囲はただの船酔いだと思っていた。苦しみながら船倉で転がっているうちに意識を失う。目が覚めたのは夜中で、そこは病院だった。周りには誰もいなかった。ナースコールのようなボタンを押すと、機嫌の悪そうな看護婦がスリッパを鳴らしてやって来た。「入院施設がないから出ていってくれ」と言われた。

どうやって帰ったのか覚えていないが、翌朝、出勤前に会社へ電話すると「病院に行って今日は休め」と社長が言った。次の日、会社に行って「胃潰瘍でした。何とか入院せずに済みました。薬をもらってきました」と報告した。

古株のライターとデザイナーは「大変だったね」とねぎらってくれた。「実は俺たち二人とも、隠していたわけじゃないけど、あいつのせいで同じように入院したんだ。高橋君は入院せずに薬で何とかなるんだから、今のところまだ大丈夫だよ」と笑った。高橋は笑うに笑えなかった。そして高橋は胃潰瘍と引き換えに担当を外されたあと、しばらくして自分から辞めた。高橋はGに一九九三年四月から一九九三年七月までいたことになる。

私も高橋も家を買う予定はないが、間違って家を買う(建てる)ことになっても、あの担当者がいた住宅メーカーだけは死んでも(胃潰瘍になっても)選ばないだろう。

 

 Gを辞めたことでストレスが軽減され胃潰瘍は少しずつよくなっていったが、次の仕事を決めないことには、それがストレスになり再発して、重症化になりかねない。高橋は誰でもできるような仕事を探した。単純で長く勤められるような仕事。和気藹々としていて楽しい職場。文章を書くことは趣味でいい。定時で帰ってこられる仕事。プライベートを充実させれば、それなりの人生になる。それなりにみんな生きているのだから、特に資格がなくても仕事は見つかるはずだ。

 高橋は職安で婦人服の倉庫の軽作業という仕事を見つけた。Hという会社だった。職安の担当者は、これまでの経歴と違いすぎる仕事を選んだ高橋の顔をじっと見て「いいんですか?」と確認した。そしてすぐに決まった。

 採用されたあと、いくつかの行き違いを知ることになる。正社員で採用されたはずが契約社員だった。自転車で通える倉庫だったはずが地下鉄を乗り継いで一時間もかかる郊外の倉庫だった。高橋はいろいろ考えるのに疲れていた。それでいいから働かせてくれ、と。仕事は単純だった。注文があったら倉庫にある在庫からピッキングして段ボールに詰めて送るだけだ。

 嫌なことが一つだけあった。昼食のことだ。昼飯は会社が一括で業者に注文して、みんなが揃って食堂で食べる。愛妻弁当やコンビニ弁当でも問題はないが、ほとんどの作業員は昼飯を頼んだ。新人の高橋も先輩たちに従った。味噌汁や豚汁やカレーやシチューなど、温かいものが食べられるぞ、と倉庫担当課長から教えてもらった。

 汁物は大なべから各自が自分の食器に盛るのがルールだった。ある日、味噌汁が出たが最後尾に並んでいた高橋の分はなかった。何度見ても大なべの底には何も残っていなかった。別の大なべが遅れて届くこともなかった。そういうことか。高橋は思った。もともと大鍋には注文した人数分の味噌汁はあったのだ。最後の人間(つまり常に最後尾に並ぶしかない新人)のことを考えずに途中の誰かが大盛にした。だから高橋の分がなくなったのだ。それは考えすぎかもしれない。偶然かもしれない。被害妄想かもしれない。そう思った高橋は判断を一時保留した。

またある日、豚汁が出たが高橋の分だけがなかった。そしてまたある日、カレーが出たが高橋の分だけがなかった。スプーン一杯の福神漬けだけで白飯を食べた。「新人だから仕方ないよな」。周りの作業員たちの誰かが高橋に聞こえるように言った。

高橋は翌日から昼飯を抜いて、倉庫の隅の段ボール箱の中で昼寝をした。昼飯の注文は一カ月単位だったから、残りの半月分は、高橋が食べても食べなくても給料から天引きされた。ほかの作業員たちは心おきなく大盛を食べたことだろう。私はその話を高橋から聞いたときに同じ人間として情けなかった。

高橋が昼食を抜くようになって食堂に来なくなると、もう誰も高橋に話しかけなくなった。もちろん高橋からも話しかけることはない。高橋が孤立していることに気づいた倉庫担当課長は「自分から先輩たちに溶けこんでいかなければ駄目じゃないか。昼休みに一緒に将棋を指したり、競馬の予想をしたり、溶けこむ方法はいくらでもあるだろう」と叱責した。高橋は曖昧に頭を下げた。「はい」と素直に返事ができない高橋のことを課長は見放したようだった。そのとき高橋は何とも言えず情けなかった。ほかの作業者に対する怒りよりも、自分が今そんな環境にいることの、そんな人間と同じ空気を吸っていることの、やるせなさが心を満たした。高橋にそういうことに対する免疫がなかったと言えばそれまでだが。世の中にはよくあることだとしても、高橋は耐えられずに辞めた。倉庫の仕事は一九九三年八月から一九九三年十月までだった。我慢できなかった高橋の気持ちは私にもわかる。

 

 高橋の転職にはあるパターンが表れていた。もちろん結果的にであり、意図的なものではないと思う。それは文字を書く仕事か、それとも誰でもできそうな仕事か。振り子のように揺れ動き、その揺れは収まらなかった。それとともに高橋は履歴書を適当に誤魔化すようになった。書く仕事の会社の求人に応募するときには、広告関係以外の会社に在籍していたという経歴を省いた。空白の期間は「フリーライターをしていました」と言った。嘘をついて仕事を探すことに抵抗がなかったと言えば嘘になる。でも仕方がなかった。正直に職歴を書いていたら絶対に採用されないことは明らかだった。

そういう履歴書を書いていると、情けなくなると同時に、高橋は自分が自分ではないような気がしてきた。自分という人間の一貫性が曖昧になってくる。本当の自分を知っている人間なんて、自分を含めてどこにもいない。そんな薄ら寒い気がしてきた。人間の一貫性は仕事だけで確認できるものではないだろうが、定年退職まで何十年も同じ職場で働き続けた人間と比べるまでもなく、転職を繰り返す人間は、どこに自分の一貫性を見つければよいのだろうか。

 

 求人情報誌で高橋は次の会仕を見つけた。Iという会社の広告制作会社だった。振り子はまた書く仕事のほうに振れた。その社長の顔と名前には見覚えがあった。コピーライターを養成する教室で教えていた講師の一人だった。過去の広告賞受賞作品には必ず名前が出ていた。

 高橋も馬鹿ではないから、その会社の名前が最近聞かれなくなったこと、噂によればいくつかの金銭的な訴訟を抱えているらしい、ということを踏まえれば、昔と同じ名前であっても中身は違うことは想像できた。はっきり言えばレベルダウンしているからこそ、自分のような人間が採用されたのだ。自分がここでも長続きしないことは、入社直後からうすうす高橋にもわかっていた。

 高橋はあるショッピングセンターの情報誌を担当した。内容はFでやっていたことと同じようなものだった。ショッピングセンターの名前と規模と客層が違うだけだった。規模が大きく、ファミリーではなく若者やカップルがターゲットであり、担当者はGで出会った住宅メーカーの担当者よりも陰険だった。情報誌そのものは一見ゴージャスだったが、よく読めばただの虚飾だった(Fで制作した情報誌のほうが素朴な分、嘘が少なかった)。こんな物を買ったところで買った人間は豊かにはならない(金を払う以外の意味がない)物を言葉巧みに売りつけていた。バブルははじけていたのに、それに気づかない(気づきたくない)人間が買うだけだ。

ゴージャスな情報誌の裏では、それなりの金が動いているようだった。週末には接待ゴルフがあり、毎晩のように飲み会があった。ショッピングセンターのクリスマスイベントで集められた善意の募金は数百万円集まったようだが、誰かの銀行口座に入金されたあとのことは誰にもよくわからない。

Iで大学時代の同級生に出会った。お互いに名前を記憶している程度の、そういう名前の男がいたかもしれないという程度の、記憶しかなかった。彼にはすでに妻子がいた。必死で会社にしがみ付こうとしていた。常に腰を低く保ち、どの派閥が有利かを考え続けていた(全社員は二十五人程度なのに派閥は三つもあった)。嫌味抜きで大変だろうと思った。高橋とは違う世界を着々と生きていた。高橋にはそういう人生を送ることはできない。

Iにはユニークな女が一人いた。高橋と同じ年齢で小さなリスのようにいつもキョロキョロと動き回っていた。外から見ていると上司の受けが最悪なのに本人は気づいていない。それどころか本人は上司からの評価は悪くないと思っている。リス女は何度も徹夜を繰り返していた。徹夜が増えるほど評価が上がるとでも信じているようだった。一度だけ徹夜に付き合わされたことがある。地下鉄の最終を気にして帰ろうとすると、明日でもいいようなことを、どうでもいいようなことを、わざわざ持ち出して引き止める。一度結論が出たはずのことを蒸し返す。そして終電がなくなる。夜中を過ぎるころ帰ろうとするとこんな会話が始まる。「もう電車ないよ」「タクシーで帰る」「領収書があってもタクシー代出るかな? 出ないと思うよ」「どっちにしても請求してみる」「それより始発で帰れば? まだ検討すべき案件はあるから」。そしてまた一度結論が出たはずのことが蒸し返えされ始発の時間になる。

あとになって高橋は私に「リス女は広告会社で働いている自分自身を長時間確認していたいから徹夜していたんだ。だから観客としての誰かが必要だったと思う。二度と観客役は御免だけど」と語った。私は少し違うと思っている。リス女は単純に帰りたくなかったのだ。一人の時間をどう過ごしていいのか、過ごし方がわからなかったのだ。もっと言わせてもらえば少し病んでいたのだろう。

 高橋はIに一九九三年十一月から一九九四年三月までいた。高橋が担当していたショッピングセンターは今でも存在しているが往時の勢いはない。残り少ないテナントたち(婦人向けブティックとコンビニとドラッグストアとファストフードと喫茶店)が生き残っている。私が二十年ほど前から経営するブティックも実はここにある。私はもちろん、高橋もこのつながりには奇妙な縁を感じた。もちろん今となってはゴージャスな情報誌なんて影も形もない。

 

 高橋はいつものように次の仕事を見つけた。毎回思うが、よく次の仕事を見つけるものだ。高橋は言う。「いろんな会社でいろんな仕事をしていると、その仕事を続けて会社を辞めずに続けていたら、どんなことになっていたのかと思う。でも現実的には、それはあり得ないとも思う。辞めた会社は、ほとんど潰れているから。それに辞めていなければ、こっちが潰れていたかもしれない」。

次の会社はJという名前の市場調査会社で、高橋は記者のような仕事を任された。ある業界を調査する。たとえば新素材が開発されると、それを使った製品を調べる。調べるといっても特に何もしない。業界紙をチェックして、その業界の大手五社くらいの担当者にアポを取ってインタビューしてまとめる。担当者は口が堅いわけではないが、高橋は記者としては素人同然なのだから深い話を聞きだすこともできない。難しいことは大学の先生や研究者に原稿料を払って執筆してもらう。業界紙以上のことが調べられるわけでもない。制作時間があるためタイムラグが生まれてタイムリーですらない。原稿をまとめて本ができたときには書かれた内容は古くなっている。新しい写真も撮らない。担当者に用意させる。Jで高橋がつくる本の内容が面白かったり目新しかったりするわけがない。

この会社の記者は制作と同時に営業も行う。「こういう調査本が、いついつでき上がるから、買いませんか。前払いの完全予約注文制です」と。

私は高橋に「そんな本を誰が買うのか?」と聞いた。「各企業の担当者が十冊くらい買って、合計五十冊から六十冊、それから業界紙とか社長のコネとかで、あと十冊くらい売れるよ」と言う。「どう頑張っても百冊は売れないのに会社の経営は大丈夫か?」と心配すると「一冊数万円だから。完全前払い予約制で、同時に何冊も制作して同時に営業もしている。会社を潰さず給料の遅配がない程度には売れているらしい」と言う。「数万円? 一冊数万円って、高すぎないか?」と驚くと「そう思うけど完全前払いの予約金で自転車操業を続けているから仕方ない。執筆料の催促とか、前払いしたはずの本はいつできるのか、そういう電話は頻繁にかかってくる。予約のキャンセルもある。当然前払いの本代は返金することになる。実際に、上司に怒鳴られた担当者が会社にやって来て泣きつくこともあった。そんなとき、社長は雲隠れする。経理担当の奥さんは頭を下げる。でも不思議なことに悲壮感はなかった。いつ潰れてもおかしくなかったのに」と思い出す。

 Jは不思議な会社だった。東大出の左翼の七十代の背が高い痩せた社長。社長は元経済新聞の記者でインテリでありながら、落ちていた傘を平気で拾ってきて当たり前のように使いながら、その傘を「いい傘だろう?」と自慢する人だ。その奥さんは経理と庶務を担当する小柄な六十代だった。育ちのよさが言葉遣いと立ち振る舞いに出ている元令嬢で、たぶん谷崎の細雪的な箱入娘だったはずだ。一体どこで左翼青年と知り合ったのか謎だ。それから両親の仕事を手伝っている高橋と同じ年の息子がいた。一流私大大学院英文科に在籍中に担当教授と喧嘩して中退したあと、両親の仕事を手伝っている。恵まれた人生を過ごしてきて、これからも過ごしていくであろう人間が備えているある種の精神の安定と上品さが、その笑顔に表れていた。少女漫画に出てきそうな雰囲気だ。パラサイトではあるがパラノイアでも鬱病でもなさそうだった。ほかにも高橋より五つ上の先輩ライター(髪の薄い顔の長い色白の太った男)がいた。高橋と同様に卒業した大学名を聞いてもわからない。卒論はゴッホの手紙だということが印象的だった。この男には離婚歴があった。元妻はものすごい美人だったが家事を一切しなかったらしい。それからモアイ像のような顔をした事務員の女がいた。年齢不詳で切手を真っ直ぐに貼ることもできないし字も汚い。この会社にはパソコンもワープロもなかったから、事務員の字の汚さは致命的だった。社員たちはモアイの仕事のできなさを認識していた。パラサイトな息子は「できの悪いロボット」と陰で笑っていた。しかし誰もモアイをクビにしようとは言わなかった。

「今ならわかるよ。たぶん緩衝地帯的な役割がモアイにはあったんだ」と高橋は言う。

 自転車操業の自転車の車輪が回っているうちは何とかなっていたJも、ついに車輪が回らなくなってきた。バブルが終わったから。業界の担当者の予算が削減された。もともとそれぞれの会社のそういう部署にとっては、いらない不要な本だったが予算取りのために注文していただけだ。担当者は異動でどこかに行って、本ができていてもいなくても、自分の金ではないのだから、そんなことは知ったことではない。しかし時代が変わった。企業内であらゆる無駄が、たとえば保養施設から社用車から文房具まで、冷酷に省かれていく。そのうちに、何年も前に予約したはずの本がどこにもない事実が明らかになる。納品された事実もないのだから返金しろ、ということになる。Jは返金の対応に追われる。Jが内部留保している金から返金できるならまだいいが、そんな金はどこにもない。最終的には(というか常態化していたようだが)運転資金や社長夫婦の貯金を取り崩して対応していくしかない。

「なぜ辞めようと思ったのか今でもよくわからない。詐欺みたいな仕事が嫌になったのかもしれない。先輩記者が真顔で『わかりにくいように捏ね繰り回した文章を書かないと価値が出ないよ。君の文章はわかりやすいし読みやすいから書き直したほうがいい』と言われたことがきっかけかもしれない。仕事のできないモアイがクビにならない不条理にあきれたのかもしれない」

 高橋は一九九四年五月から一九九五年九月まで、奇妙な会社で奇妙な記事を書き奇妙な本を四冊つくった。高橋は拾った傘を自慢するような左翼の社長が好きだったから、あの会社を辞めたのだと私は思う。「辞めさせてください、と言ったときの社長の笑顔を思い出すと、会社にとっていいことをしたと思えた。きっと、こっちが言うのを待ってたんだ」と高橋は当時を振り返った。

 

 高橋は次に勤めるKという会社で悪魔に出会う。求人情報誌で見つけたKという会社は、広告制作プロダクションであるがもともとは印刷会社である。印刷会社の隣にプレハブの制作室があった。社長はどう見ても悪い顔をしていた。悪役とか悪代官の顔だった。女子社員の一部は陰で社長のことを排泄物大と呼んでいたらしい。社長は五十くらいで太っていた。ブヨブヨではなくて筋肉質の関取のような体形だった。たぶん広告のことなど何も知らないのだろう。それでも社長ができるのは、旅行代理店の支店長と癒着していたからだ。しかも別の市にある支店の支店長と、である。バレないように画策していたのだろう。その別の市というのは社長の地元だ。かつて社長は地元のクリーニング店の二代目として放蕩の限りを尽くしていた。クリーニング店の二代目がどの程度まで放蕩できるのかは知らない。「俺はクリーニング屋になるための資格を持っている」というのが酔って叫ぶ自慢だった。自慢になるのかどうか微妙だが、そういう資格があることを初めて知った。社長の父親が急死すると土地建物を売却してかなりの財産をつくって、地元を離れたそうだ。そういう物語を立身出世伝として社員たちに話す姿は、お前たちの給料は「その俺」が払っているんだから、俺を敬えというアピールでもあった。わかりやすい人ではある。もちろん愛人もしっかり社内で勤めさせていた。社長秘書というのは露骨すぎると考えたのか、営業を担当させていた。といっても接待要員として。観賞用の動く生け花のようなものだ。もちろん社内的にも社外的にも、その女が社長の愛人であることはみんなが知っていた。ちなみにプレハブ制作室の隅々には盗聴器が仕掛けられているらしかった。その証拠に社長の悪口はすべて筆談で行われていたという。

私は高橋に「その社長が悪魔なのか?」と確認すると「違う。その程度で悪魔なら大抵の会社の社長はみんな悪魔になってしまう」と笑う。

 悪魔は別にいた。高橋よりは三つ上の、高橋よりも背の低い、古いタイプの男前で、元イラストレーターのデザイナーで、ロックボーカリストの誰かに似ていた。過去には広告の賞も取ったらしい。自称サーファーで離婚歴あり(元妻は元モデル)、小学生の息子がいる(息子は元妻が引き取った)。

高橋が悪魔と会ったとき、悪魔は社長の水槽を洗っていた。腕捲りして水に濡れるのもお構いなしに洗っていた。ブランド物の黒いスーツでなかったら、業者の人間だと思うほど手際がよかった。悪魔の趣味は熱帯魚と爬虫類だった。「社長の趣味も偶然だが熱帯魚で、バカでかい水槽をプレハブの受付に置いていて、それを定期的に掃除する必要があったから」と悪魔が言う。

 悪魔はその会社で自分のチームをつくろうとしていた。実は高橋は文字の校正者としてKに入社した。この会社はライターよりも校正者を必要としていた。校正者の主な仕事は印刷物と支給された原稿のチェックである。もともとチームは(仮に)AとBの二つがあったが、それらのチームは営業がもらってきたデーター(写真や文字等)を適当にコンピューターで割り付けるだけだった。それぞれのチームにはデザイナー(レイアウターというべきか)が二人、アシスタントが一人、校正者が一人という構成だった。Bチームの校正者が辞めてしまったので補充として高橋が採用された。

これまでの仕事は今までのチームでこなせるが、社長が考えるデザイン重視の提案型の広告のためには、新しいCチームが必要になった。それがのちに悪魔のチームになる。

 悪魔が採用された理由はよくわからないが、賞を取るほどデザイナーとしての経験が豊富だったからだろう。しかし当時すでに主流になっていたコンピューターソフトによるデザインワークは全くできない男だった。マウスもキーボードも毛嫌いしていた。だから悪魔はどこかからデザインセンスはゼロだがデザインソフトを文字通り悪魔のように使いこなす若い女を連れてきた。アイドル歌手に似ていなくもない。この女は見た目よりも生きることに貪欲で彼氏がいるのに卒業したデザイン専門学校の講師の愛人でもあった。「だって彼は好きだけど貧乏だから。若い女の子が楽しく生きていくのにはお金がかかるんです」と自己嫌悪も罪悪感も何もない。高橋はその貪欲さがうらやましいと思った。

Cチームに話を戻す。提案型の広告のためにはオリジナルの文章が必要で、そのためにはコピーライターが必要だ、と社長に唱えていた悪魔は、どうやって高橋の経歴を調べたのか不明だが「高(タカ)ちゃん(高橋をそう呼ぶ)、コピーライターだったんだって? 俺と組まないか?」と誘ってきた。少なくとも高橋はそれまで悪魔と話したことがなかったが、高橋もできれば文章を書きたかったから、悪魔の囁きは渡りに船だった。こうやってCチームができた。高橋の抜けたBチームは新しい校正者として健康志向のおばさんを雇うことになる(愛煙家でありながらドクダミ茶を愛飲するおばさんを健康志向と呼べるなら)。

それではCチームは提案型の広告の仕事ができたのか。全然できなかった。そんな仕事を持ってこられる営業マンが社内にいなかったからだ。悪魔も小悪魔も高橋も営業はできない。だからCチームはずっと旅行パンフレットをつくり続けた。国内海外のスキーやスキューバ、買い物やグルメ、豪華客船や寝台特急や日帰りバス、何でもこなした。悪魔のセンスは過去に賞を取ったというだけあって(やや古いが)素直に感心した。小悪魔の秒速のパソコンデザインワークには感動した。

Cチームのモットーは残業ゼロだった。ほかのチームが徹夜しても、お構いなしに定時で帰り、日付が変わるまで飲んだ。悪魔のおごりで悪魔のクレジットカードで。ときどきレジで待たされることがあった。カード会社のコンピューターが悪魔のカードを拒否する。悪魔はあわてる素振りもなく別のカードをレジに渡す。五枚くらいのカードで、そんなことを繰り返しているうちに支払いが終わる。

しばらくすると小悪魔は彼氏との同棲が始まり(同棲の資金はパトロンからか?)朝までの連日の飲み会から離脱した。そうなると高橋と悪魔が二人で飲むことになる。毎晩飲んで話すことがあるのか?とあなたは尋ねるかもしれない。尋ねないかもしれない。私は尋ねた。答えは「特に話すことはない」。

「楽しくないだろう?」

「そうでもない。悪魔の話を聞くだけだけど、それはそれで面白い」

「どんな話?」

「自分が、どこで生まれて両親はどんな人でどんな仕事をしていて今何をしているとか。爬虫類を宅急便で取り寄せていることとか(実際に不在がちなので会社に冷蔵宅急便で小さな白蛇が送られてきたこともあった)。元モデルの奥さんと別れてからは十三も年下の女と付き合っていたのに大地震のせいで別れることになったとか。自分はセックス依存症だから女がいないと生きていけないとか。仕事のエネルギーは酒と女だとか。黒い服しか着ないとか。『俺はいつか何かをやる男だぜ』と言うけれど、いつ何をするのかは本人にもわからないそうだ」

「退屈すぎて欠伸が出そうだ」

「それを超えると笑えてくる。この男は一晩中話しても一回も他人を褒めない。自分がうまくいかないことはすべて他人のせいにする。話を聞いていると、反省とか、内省とか、一つもないんだ。それはそれで潔いほどはっきりしている。バブルは続くと能天気に信じていたし、バブルがはじけたのはアメリカの陰謀だと力説していた」

 悪魔は仕事の忙しい十二月に入院した。肝臓かと高橋は思ったが、実際には糖尿だった。見舞いに行ったとき、ベッドで寝ながら悪魔はこう説明した。

「お袋のせいなんだよね。ときどき実家に帰るとお袋が喜んで脂っこいものばかり大量につくる。それを食べさせられる。俺の糖尿はお袋の唐揚げのせいだよ、絶対」

 高橋には唐揚げと糖尿の因果関係はわからなかった。飲酒が唐揚げよりも原因になりそうだったが余計なことは何も言わなかった。

「入院費は親父持ちだよ。お袋のせいなんだから。それからカード代の支払いも親父に押し付けたよ。それだってさ、もとをただせば両親のせいなんだから」

 カード代の支払いを父親に押し付ける悪魔の言い分をまとめるとこうなる。悪魔の父親は公認会計士だった。それなりに資産もあった。悪魔は子供のころから一人息子として何不自由なく暮らした。だが欲しいものをすべて手に入れることは不可能だ。そんなことは誰でもわかるが子供のころの悪魔には理解できない。なぜ自分が我慢しなければならないのか。その不条理は悪魔の心に消えることのない染みのように残った。大人になって経済的に自立してカードを持つようになると、我慢ばかりの子供時代の記憶がよみがえってきた。あのころは我慢したが今はもう我慢なんかしない。どんどんカードを使って、ブランドファッションで着飾り、うまい料理や酒を楽しみ、女を抱いた。不条理の染みを洗い落とすために。しかし結婚して子供ができて離婚しても、その染みは消えるどころか大きく鮮明になる。比喩としての染みが落ちたかどうかよりも、現実的な問題は支払いである。最初は何とか給料で賄ったが、当たり前の話だが、すぐに破綻する。悪魔は、カードの支払いと同時にカードローンにも手を出す。自己破産の一歩手前である。そしてついに親に泣きつく。いや、泣きつくというよりも脅した。「息子がカード破産では会計士としての評判はどうなる?」とか言って。馬鹿な親は借金を肩代わりする。脅しに屈したというより親馬鹿なのだ。そんなことは永遠には続かない。悪魔の搾取が続けば親が破産してしまう。

「今度見舞いに来るときは酒と煙草を頼むよ。退屈でさ。女は自分で何とかするからさ」

翌週、高橋はジャックダニエルとマルボロを隠して持って悪魔の病室を訪ねた。しかし悪魔はどこにもいなかった。もう退院したのかと思って、受付に尋ねると「勝手に消えたんですよ」という。転院でも退院でもなく勝手に消えたそうだ。支払いについては聞かなくてもわかっている。

悪魔はもう会社にも来なかった。Cチームは実質的に活動停止になった。しばらくすると小悪魔も同棲相手と結婚するために会社を辞めた。Cチームはついに解散した。高橋は所属チームも、やるべき仕事もなかった。高橋は完全に孤立した。朝から晩まで何もせずに椅子に座っていた。砂時計の砂のように時間はゆっくりと確実に落ち続けた。ほかのチームのメンバーは同情的だったが、分け与えるほどの仕事はない。そのうち社長と旅行代理店の支店長との癒着が世間に暴露された。暴露の経緯はわからないが、会社が傾き、ついに高橋はクビになった。お決まりの「自己都合」という理由で。高橋はKで一九九五年九月から一九九六年三月まで働いた。

私はKを辞めた高橋に「悪魔と飲んでいて、得たものは何かあるか?」と質問した。「全然ない…でもないか。一つだけある。楽しくはなかったけれど、不思議に『死にたい』と思はなかった。生きる意欲が湧いたわけでも、悪魔が自分のためになったとか、それはない。全然ない。でも、落ちこんだこともない、死んでしまいたい、とも思わなかった。そのころ悪魔の無反省に感染していたのかも」。

 悪魔は消えたが、きっとどこかで生き延びている、と高橋は信じている。もう一度会いたいとは思わない。会って話すべきこともない。にもかかわらずこんな妄想が頭をよぎる。ある夜、どこかのバーで高橋が飲んでいると誰かが肩を軽く叩く。「高ちゃん、久しぶり」。振り向かなくても誰だかわかる。

 

 高橋はまた次の仕事を探した。バブルははじけていたのに、仕事は求人誌で見つかった。Lという広告制作会社だった。小さな自社ビルを持っていた。若い女子社員のために社員寮として安普請のアパートも所有していた。福利厚生が充実しているように見えるが。

「とんでもない。終電で帰れないくらい残業させている。壁の薄い1DKの部屋代は給料から天引きされている。それを充実というのか。社員寮には常に空きがあった。ちなみに社長は愛人の社長秘書もそこに住まわせていた。ときどき本妻が怒鳴りこんで来て大ゲンカで大変だったらしい。壁が薄いからさ」と寮に住む社員から聞いた話をしながら高橋はあきれる。

こんなことを言うのは高橋に失礼だが、転々と転職する高橋が入れる会社というのは、どこか普通ではない。実際に高橋が転職した会社は潰れた。「潰れる会社は嫌な臭いがするんだ。サービス残業が発するブラックな臭い。それを嗅ぎ取ったらすぐに辞める。負け惜しみじゃないよ。無職になるほうがましさ。沈む泥船と一緒に溺れるよりも」と高橋は冗談めかして言うが半分以上本気だ。

 Lでする高橋の仕事は旅行のパンフレットだった。Lの社長は前の会社のKのことも知っていた。世間は狭くて業界はもっと狭い。競合プレゼンに参加しても必ずLは負けた。提案力とか制作力の差かもしれないが、最大の差は接待力だった。Lは清廉潔白だから勝てなかったのではない。接待の額が少なすぎたのだと高橋は推測する。その証拠に白瓜みたいな高橋よりも年下の営業マンは、都市開発がらみの大きな案件のために、官公庁の担当者と毎週末どこかに出かけていた。しかしその案件をLが受注することはなかった。噂では白瓜が会社を介さずに直接受注して、そのまま会社を辞めたらしい。白瓜より先に辞めた高橋は、そんなことが本当に可能なのかどうか確かめる術はないが、ありそうな話ではある。

 Lは電話帳みたいな分厚いカタログも年に四回くらいつくっていた。どこかの商社の商品カタログだ。コピーライターの出番はないが、若手デザイナー(レイアウター)はこの仕事が始まると帰れなくなる。電話帳的カタログの制作会議で、泣き出す女、絶叫する男、それを恫喝するバーコード社長、無口なライターたち(高橋を入れて三人)、泣き続ける女を介抱する先輩デザイナー、阿鼻叫喚の会議は朝まで続く。「誰もが知っているけど、電話帳的カタログを年四回しなければ確実に潰れるのだから、やらないという選択肢はない。ブラックさを発揮して、どんなに徹夜が続いても、完成後にどんどん退職者が出ても、最初からやることは決まっている」ということを、会議に遅れてきたヒッピーみたいなイラストレーターの男が小声で教えてくれた。「高(タカ)ちゃん、こんな会社、長居は無用だぜ」と言うわりに、ヒッピーは船とともに沈んだらしい。

 高橋はよせばいいのに「サービス残業をしなければ会社が潰れるようなら一回潰したらどうですか?」と白瓜に言ったことがあった。白瓜は高橋の発言に曖昧な微笑みで反応した。その話は社長まで伝わったらしい。

 高橋は一九九六年四月から一九九七年十月まで仕事をした。最後の一カ月は高橋には何も仕事が回ってこなかった。ほかの二人のライターは大忙しだったが、高橋は一行もコピーを書かなかった。朝タイムカードを押す。夜タイムカードを押す。それだけが仕事だった。そのうち話しかける人間はいなくなった。高橋が「サービス残業しますから仕事をください」と言うのを、社長が待っていることはわかっていたから、高橋はあえて言わなかった。最終的に追い出されるように辞めた。

 高橋が一年半もLにいたのには訳がある。その会社で数少ない友人ができたからだ。一緒にテニスに泊りがけで行ったそうだ。その友人同士で結婚するカップルに頼まれて二次会の司会進行をした。古くからの友人であり今も友人の私からすれば驚きすぎて言葉が出ない(結婚式の二次会の司会!)。もちろん高橋のことだから、そういう友人関係は長くは続かない。いつしか年賀状さえも途切れ音信不通に。実に高橋らしいオチだと思う。しかし、そこで高橋が友人をつくったことは事実だし、彼らが当時の高橋を精神的に支えたのは間違いない。きっと鬱も影を潜めていたことだろう。

 

 また高橋の迷走が始まる。次の仕事は新聞の求人広告で見つけたMという運送会社だった。Mは文房具メーカーの倉庫管理も委託されていた。高橋の仕事は十三時から二十二時(休憩は十九時から二十時)まで、文房具メーカーの倉庫を歩き回って、伝票を見ながら商品をピッキングする。「慣れたら九時から十八時にするから」と年下のロン毛の倉庫責任者が言った。「慣れたらフォークリフトの免許を取ってもらって倉庫の責任者になってもらう」とも言った。

 高橋がこの倉庫に決めたのは、倉庫の隣に大きな図書館があったからだ。そのころ高橋は広告文案よりも自分の文章を模索していた。詩を書いたり、随筆を書いたり、短編小説を書いたり、そういう文を思いついたときに書いていた。そのための資料探しに、ときどき図書館に行っていた。でもほとんど資料のことなど、どうでもよかった。ただ図書館で膨大な書籍に囲まれるだけで癒やされていた。

「これまで遅くても九時から勤務してきた人間にとって昼から勤務というのは変な気分だった」と高橋は振り返る。仕事は大したことはない。誰でもできる。文房具だから重いものもない。ただ品種は多かった。鉛筆だけでも百種類はあった。メーカーが違う、濃さが違う、サイズが違う、新製品、旧製品、売筋や定番製品など。少量多品種にもほどがあるが、少品種ではピッキング要員は不要になる。

 高橋はそれまでと同じ時間に起きた。あと三時間くらい寝ていても仕事には間に合うとわかっていても、寝坊することに罪悪感のようなものを抱いてしまう。仕事の休憩中に独りで夕食を済ませていたが、それでも帰宅してシャワーのあと落ち着くと、すでに日付が変わっていた。最初は、図書館に寄ってから倉庫に出勤していたが、結局、図書館で本を読みながら眠ってばかりだった。簡単ではあるが慣れない仕事や新しい人間関係に気疲れしたのかもしれない。

 ある日、高橋が図書館から出たときに、同じ倉庫で働く男にばったり出くわした。七十前の嘱託の男だ。若いころから配送トラックの運転手をしていたが、定年間際に飲酒で捕まって、先代社長の温情で倉庫に回されて、そのまま嘱託として勤めているという。先代社長のお気に入りだったという過去の栄光にすがりながら倉庫内で幅を利かせていた。

男は出勤途中だった。そこが図書館であることも知らないような男だ。男は高橋に気がついたようだが挨拶もせずに行ってしまった。嫌な感じがした。その夜、休憩時間のことだ。高橋が近くの定食屋で一番安い定食(出巻定食)を食べていると、奥のテーブルから声がしてきた。

「仕事もまともにできないような中途採用の初心者が図書館で本なんか読む時間があったら早出して仕事したほうがいいんじゃないか」

 あの男の声だ。振り返らなくてもわかる。倉庫の隣が図書館だということは知っていたようだ。高橋より先に仲間と定食屋に来ていたようだ。高橋に聞こえるように話している、奥のテーブルでの話の流れはわからないが、昼間高橋に出くわしたことを話題にしていたのだろう。男の発言には一理あると高橋は思った。高橋は初心者だったし、その男よりもピッキングが遅かった。

次の日、同じ時間、同じ場所。高橋が同じものを食べていると、奥のテーブルから同じ声がした。

「カタカナ職業だった人間からみたら、ピッキングなんてバカバカしくてやってられないだろうけど。そういう気持ちでチンタラやってるから相変わらずトロいんだよな」

あの男の声だった。昨日と同じように、高橋に聞こえるように話している。今度は少し腹が立たった。「相変わらずトロい」ことは認めるとして「チンタラ」はしていない。高橋は「ピッキングなんてバカバカしくてやってられない」とは思っていなかった。古い言葉だが「職業に貴賤はない」。「バカバカしくてやってられない」ような仕事は存在しない。

男の声に応えるように奥のテーブルから別の男の声がした。「ピッキングだってさ、カタカナ職業だぜ」と。そのあと笑いが起こった。なるほど。だが下品すぎるから、あんたはコピーライターにはなれないだろう、と心の中で高橋は笑った。

高橋は相手にしなかった。仕事に集中した。早出して、仕事を覚えて、スピードを身に付けた。伝票の束を、どんどん処理していった。いつしかあの男にあと一歩まで迫っていた。

 年末の忙しい時期になった。高橋の試用期間は間もなく終了で、年明けから本採用の予定だった。大きなミスがなければ大丈夫だから、と倉庫責任者から内示を受けていた。

その日も高橋はいつものように伝票を手にして体育館のように広くて安置所のように冷たい倉庫を早足でピッキングした。その日の高橋の伝票には滅多に注文されない商品(大昔に大ヒットしたマグネットキー付筆箱など)が含まれていた。在庫の最後の一つをピッキングすることもあった。

注文されない商品の在庫は少ない。そもそも製造を終了した商品もある。最後の一つを取ってしまえば在庫はなくなるから、ほかの伝票に同じ商品が記載されていてもピッキングできない。だからその日は出庫できない。製造している商品なら、その商品だけを後日送ることになる。後追い再送の費用はすべて(倉庫管理を委託されている運送会社)Mの負担になる。その負担は馬鹿にならないが、在庫を切らしたのは在庫管理のミス、という理由でMの責任にされる。理不尽だが慣例となっていた。

高橋は伝票に従って自分がピックアップした商品をトラックターミナルの隅に並べて、伝票と最終確認した。ミスはない。大きめの段ボールに梱包して、段ボール上面の目立つところにピッキング済みの伝票を貼り付けた。伝票には初めて見る文具店の屋号が記されていた。ここまで手順通りでミスはないはずだ。明日の朝早く、指定のトラックに積まれて、発注した地方の名も知らぬ文具店に送られることだろう。

このとき高橋は知らなかったが、高橋が先取りした最後の一つの商品のために、かなりの後追い再送案件が発生していた。それはそれで仕方がない。逆の立場でピッキングしたことは高橋にもあったから、お互い恨みっこなしだ。そもそもピッキング作業者は在庫管理の責任は問われない。ピッキングのミスは責任を問われるが。

翌日、その年の最終の仕事日だった。いつものように少し早めに倉庫に着くと、営業マンとドライバーと倉庫責任者と、それからあの男がトラックターミナルで何かを囲んで話し合っていた。

「あ、高橋、丁度いいところに来た。これだけど」と、あの男が指を差した段ボールを見ると、それは昨夜高橋がピッキング済みの商品を梱包した段ボールだった。

「私が梱包しましたが何か?」

「伝票は?」と営業マンは明らかに怒っていた。段ボールに貼ったはずの伝票がない。はがされた跡もない。どういうことだ? 一瞬、高橋と男の目が合った。男の目が泳いだ。ハメられた。やられた。証拠はなったが確信した。男の罠にはまったのだ。

「伝票はどこだ? 高橋」と倉庫責任者が穏やかに聞いてきた。何かの間違いであり、伝票はどこかにあり、この問題はすぐに解決するだろうと期待する声だった。

「知りません」と言うのが高橋の精いっぱいの返答だった。

「知らないって。どういうことだ? お前がピッキングしたんだろ? 伝票なしでしたのか? どうやって?」と営業マン。

「何かを貼った跡も、はがした跡もないぜ」と段ボールを触りながら男が言う。

「適当にサボったんじゃないのか? 仕事するふりして、朝になればバレるのに」と重ねて男が言う。

「高橋、どういうことだ? 説明してくれ」と懇願する倉庫責任者。

「伝票に従ってピッキングして、梱包して、所定の位置に伝票を貼りました」と高橋は事実を説明した。

「誰から? 一体、誰から伝票をもらったんだ?」と男が言う。

「いつもの机の上から取りました。積んであった中から一枚取って」と高橋は言いながら想像した。伝票は軽く百枚はあった。男は百分の一の確率で罠を仕掛けたのだ。高橋以外の人間が万一あの伝票を手にしていたら、どうなっていたのだろう。それは高橋の想像を超えていた。

「そうだ!」と倉庫責任者が気づいた。「伝票があるなら事務の女の子が入力して出力したから聞いてみればいい」と名探偵のように一同に宣言した。 

「入力データーがあるから伝票を確認できる」と営業マンが言う。

 一同は高橋を容疑者のように囲んで事務所に移動した。男はその間一言も発しなかった。高橋は記憶を頼りに伝票にあった屋号を、パソコンの前に座るオペレーターに伝えた。データーを確認すると、そんな屋号はどこにもなかった。営業マンも「そんな得意先は知らない」と言った。

 パソコンにデーターはなかった、ということは伝票がなかったことになる。伝票がないということは、意味のないピッキングしたことになる。何のために? 時間潰し? 結局、高橋がサボったことが証明されたようなものだった。すぐに高橋が梱包した段ボールが開けられ、後追い再送商品のデーターと照合した結果、すべて合致した。つまり高橋が意味のないピッキングをしたせいで、再送しなければならなくなったことが証明されたわけだ。

「どういうことだ? 高橋! わざとか? お前が再送代を出せ!」と営業マンが恫喝する。

「まあまあ。まだ正社員じゃなくて試用期間だから。クビにすれば済むから」と男が営業マンを宥めて、「そうだよな?」と倉庫責任者の顔を見た。

倉庫責任者は曖昧に頷いただけで無言だった。高橋は廊下に立たされた気分だった。倉庫責任者が高橋に「もういいから帰れ」と言った。その日、高橋は何もできずそのまま帰った。

今思えば伝票をはがした痕跡を消すために、誰も見ていないときに、男は新しい段ボールで梱包し直したのだ。だとすればデーターもこっそり男が消去したのだろう。もちろん証拠はない。証拠が残るようなことを男がするはずがない。

その日が最後だった。一九九七年十月から一九九七年十二月まで倉庫で働いた。年を越えることはできなかったがクビでよかったと高橋は思った。あのとき仮に罠にはまらなかったとしても、正社員で働けたとしても、またいつかどこかで仕掛けられたはずだ。忘れたころに、もっと大きな罠にはまったかもしれない。そう思うと、高橋は心臓が冷やりとした。大きな罠そのものも恐ろしいが、それを仕掛けるあの男のような人間、その悪意、その悪意をどこかの段階で誘発してしまった自分自身にも冷やりとした。そこに悪意があることも知らなかった。誘発するつもりもなかった。それでも見知らぬ悪意は降りかかる。いつも高橋は無力だ。

 

高橋は自分のための文章をときどき書いていたらしい。私はその原稿を読んだことはない。私の知らない原稿はどこかの新人賞に送られていたらしい。結果的に新人としてデビューしていないところを見ると、送っていたとしても連続落選だったのだろう。

高橋の大学入学までのことはあまり知らない。彼の父親は数学の高校教師だった。高橋の言葉を借りれば「絵に描いたような」。高橋は私と同じ文学部だが、教職課程のために幾つか単位を取った。しかし教育実習が嫌で途中で投げ出した。だから教員免許はない。それでも誰かに何か教えるということには興味があったようだ。その証拠に、倉庫の仕事を辞めたあと、高橋は塾の先生という仕事を三行の新聞求人広告で見つけてきた。

Nという学習塾だ。その本部の営業統括部署は馴染みのない私鉄のターミナルビルにあった。そこで面接が行われた。そこに行くのに三回乗り換えて約二時間かかった。面接はただの雑談だった。塾長は東大とアメリカの何とか大学も出ている高橋と同世代の女だった。色の白いことを除けば特長のない顔だった。

自分はこれから大きな学び舎を建てる計画がある。街の中心部の土地はすでに押さえてある。アメリカ式の何とかメソッドは学力を飛躍的に高める。われわれは急成長する。あなたにも、そのつもりで頑張ってほしい。そんなことを延々と独りで話していた。

塾長は高橋の履歴書を斜めに読んだ。三流大学や未経験のことを突っこまれたらどう返答するか事前に考えていたが、そんなことは杞憂に終わった。何も聞かれなかったから。高橋の希望科目は算数か国語だったが、その二つには空きがないと言われた。空きがある教科は?と質問すると小学生高学年の社会科と言われたので、それでいいと答えた。すぐに採用された。

その塾は専用の校舎を持たない。五つの駅の近くの雑居ビルに、一つずつ教室があった。つまり五つの教室があるわけだが、高橋が配属されたのは高橋が住む街から最も遠い教室だった。教室は確かに駅に近いが、その駅の周りは田畑だった。高橋は片道二時間かけて夕方から三コマの授業をしに週三日出かけた。特に研修もなかったが、本部の本棚にあった中学入試用の社会科の参考書を三冊持って帰って勉強するように指示された。週九コマで月三十六コマでは収入が少なくて生活は難しそうだったが、とりあえずやれるところまでやるつもりだった。

授業そのものは本部が用意した穴埋め問題のプリントを授業中に生徒に答えさせるという単純なものだった。生徒は男子が二人だけ。近所に住む仲良しコンビらしい。「前の先生はどうしたの?」と質問されたが「突然消えた」とも言えずに、高橋は「先生もよく知らないんだ」と誤魔化したらしい。

「彼らは頭がよかった。態度も意欲も申し分なかった。予習復習もきちんとやっていた。学校の成績も悪くないのだろう。彼らの保護者は『塾に入れておけばきっと大丈夫。入試も心配ない』と塾に丸投げしていた。でも大丈夫じゃない。あの塾では入試は突破できない。彼らが穴埋め問題をやっている間に、一流塾に通うライバルは、難関校の傾向と対策を踏まえた予想入試問題を、何度も本番さながらにやっていたはずだ。勝てるはずがない。受験は落とすためにある。少子化でも油断はできない。彼らの保護者が手を抜いているとか、子供の将来を考えていないわけじゃない。しかし一流の塾には一流の講師がいる。彼らは高給取りだ。そういう塾に入るには、それなりに金がかかる。金が免除される特待生になるには、それなりの頭がいる。残念ながら男子二人と二人の保護者には、そこまでの頭と金がない」

「暗い未来しかなさそうだな」と私が聞くと高橋は首を振った。

「あの二人はわれわれよりも先が長い。学歴ですべてが決まるわけじゃない。生涯収入はどうかわからないが、高学歴のほうが幸福度が高いとは限らない」と答えた。

 高橋は不慣れながらも、わかりやすくて受験に役立つような授業をするために、徹夜で準備することもあった。こんな塾で長く勤めるつもりはなかったが、あの二人の合格通知を見たいと思った。経済的にも厳しい高橋だったが、合格を知るまでは頑張るつもりでいた。塾が用意していたボロボロの参考書では意味がないと考えた高橋は図書館で子供用の新聞を読んで、何とか世の中のことと受験問題をリンクさせようとした。最新の受験参考書を書店で立ち読みし、こっそりメモまでした。それをすべて授業につぎこんだ。穴埋めプリントなど五分で終わらせた。そもそも最初から彼らは満点なのだ。

どこまで効果的な授業ができたのかわからない。二人が希望する難関中学に合格したのかどうかもわからない。

なぜなら高橋先生は一九九七年十二月から一九九八年一月までしか存在しなかったからだ。春まで持たなかった。持たなかったのは高橋ではない。塾のほうだった。女塾長が詐欺の容疑で逮捕されたのだ。塾の経営は火の車で給料は滞納しがちだったらしい。校舎建設は塾の運営資金を出資させるための、絵に描いた餅だった。最初から校舎を建てるつもりはなかった。もちろん土地など押さえていなかった。即刻塾は閉鎖され前払いした授業料が生徒の保護者に返金されたのは四月だった。ちなみに高橋の講師代(何とか半分だけ)が振り込まれたのはゴールデンウイークのあとだった。

 

塾が閉鎖された直後のことだ。バイト代は振り込まれない。どうする? 高橋の迷走は止まらない。今度はOという郊外型ベーカリーレストランのパン焼き人に転職する。たまたま独り暮らしの部屋の近所にあったパン屋にフランスパンを買いに行ったとき、カウンターにアルバイト募集のチラシがあったので、それをもらって帰って、パンを食べながら電話をかけたら、とりあえず翌日面接になった。面接の場所は高速インターの近くのレストランだった。地下鉄と私鉄を乗り換えて駅からずいぶん歩いた、と高橋は言う。

「ずいぶんこれまでの経歴と違うけど大丈夫?」(もちろんそんなことは高橋にも自信がなかった。)

「将来、独立して開業するための修業のつもりで」(言いながら高橋は笑った。冗談でも酷すぎる。)

「うちのパン生地は冷凍で本部から送られて、マニュアルに従って、ただ捏ねて成形して発酵させて焼くだけなんだ。修業になるかな」(面接してくれた店長には冗談は通じないようだった。)

「じゃあ将来的に社員として仕事をしたいと思います」(高橋は少しだけ本気で考えてみた。)

その本気が通じたのかどうかわからないが高橋は採用された。近所のパン屋ではなくて、高速インターの近くのレストランでパンを焼くことになった、一日十時間(朝開店から夜閉店まで休憩一時間。)月に二十日間働いたが残業代もなければ福利厚生も何もなかった。パンすら社員でないバイトの身分では安くならないが、廃棄処分のパンを持って帰ることは見て見ぬ振りをされていたので食費は助かった(パンの種類が選べなかったとしても贅沢は言えない)。生活は苦しかった。当時の最低時給は幾らだったのかわからないが、それより安かったとしても、とりあえず働くしかなかった。新天地で開拓民になった気分だった。

仕事は簡単に覚えた。コツを覚えてしまえば立ち仕事もそれほどきつくはなかった。ともに働くパートのおばさんたちも親切だった。息子というよりも弟みたいに接してくれた。一番年長のおばさんは自家製のサンドイッチを分けてくれた。「高橋君、将来はどうするの? あっという間に四十よ」と心配してくれた。心配する気持ちはよくわかるしサンドイッチはうまかった。当時の高橋に将来はわからない。今だってわかってなんかいないだろう。

月に十日間ほど休んだ(週休二日)のには訳があった。体を休めるだけでなく、また自分のために何かを書く、書きたいと思ったからだ。それは恋愛でも、SFでも、詩でも短歌でも俳句で、何でもよかった。そこに自分をつなぎとめておきたかった。実際には何も書けなかったらしい。ただ体を休めるだけだったらしい。バイト代は生活費に消えた。映画も外食も新刊小説も遠退いた。高橋には、図書館まで散歩して図書館の椅子に座って何も読まずに、ただぼんやりすることくらいしか残されていなかった。

ある夜、Lで一緒に仕事をしていた背の高いデザイナーが偶然、高橋の勤める店に来た。その店は二階がレストランになっていて、そのレストランでは綺麗なお姉さんがピアノを生演奏して、焼き立てのパンを食べることができる。忙しい時間帯には、ときどきパン焼き人が「焼き立ていかがですか?」とパン籠を持ってテーブルにぎこちない笑顔を振りまく。その夜は高橋が当番だった。

「高(タカ)ちゃん?」

 相手が先に気づいた。あのときと同じ温和な笑顔だった。この人は兄貴分としてよく飲みに連れて行ってくれたし、泊りがけでテニスに行った仲間でもあった。同じテーブルにはスーツの男がいた。仕事の打ち合わせか、それとも打ち上げか。

こちらは仕事中なので長話はできない。客とパン焼き人という関係でもある。そのことを察したのか「元気?(元気です) 高ちゃん、電話とか住所とか変わってない?(変わってないです) じゃ、また連絡するから」と会話はすぐに終わった。

 その夜、高橋は独りの部屋に帰って泣いた。その原因は久しぶりに再会した、あのデザイナーであることはわかっていた。でもなぜ再会が涙の原因なのかは高橋にもわからなかった。

 一週間もしないうちに封筒が届いた。あのデザイナーからだった。

『偶然の再会を神に感謝しています。懐かしかったです。テニス以来ですね。高ちゃんが元気そうで何よりです。ところで、もうコピーは書かないのですか? 僕はデザイナーとしてだけでなく一人の人間として高ちゃんのコピーが好きでしたよ。僕はLを辞めてフリーのデザイナーとして事務所を構えました。近くに来たら寄ってください。名刺を同封します。それではまた。お元気で。』

 短い手紙を読み終えた。同封されていた洒落た名刺を手にした。センスが感じられるデザインで、触り心地のよい紙質の名刺だった。じっと見ていると、この前泣いた涙の意味がわかった。名刺の番号に電話をかけようとしたが、結局かけることができなかった。

高橋は、また鬱になった。部屋から出られなくなった。何度か部屋の電話が鳴り、何度か部屋のチャイムが鳴った。留守電に「速達で辞表を送るように」と店長から伝言が残されていた。辞表を書いて郵便局から速達で送った。そのとき二週間ぶりに外に出た。

高橋は「一身上の理由」を自問自答した。理由はわかっていたが他人にわかってもらうように説明することはできそうになかった。そうやってパン焼き人を辞めた(クビになった)。一九九八年一月から一九九八年三月までパンを焼いた。

「将来どうするの? あっという間に四十よ」と心配してくれたおばさんに最後の挨拶ができなかった。高橋にそんな余裕はなかった。

 

 鬱を抱えながら高橋は仕事を探した。揺れる振り子のように今度はまた広告の仕事を探した。新聞の求人広告を図書館でメモし、求人情報誌をコンビニで立ち読みして会社の電話番号だけを覚えた。新聞や情報誌を買う金が惜しかったからだ。いくつか募集はあったが、面接には作品例が必要だった。高橋にはキャリアが途切れている時期があった(広告以外の仕事をしていた時期だ)。履歴書は何とか誤魔化せても作品例はまともに揃えられない。

 それでも何とかPという小さな事務所に潜りこんだ。愛想のよい顔色の悪い三つ年上の男が社長兼営業マン兼デザイナーをしていた。無口な美男子がデザインのアシスタントをしていた。高橋と同じ年の目つきの悪い女がライターだった。そこに高橋が加わった。この事務所は会社組織ではなかった。社長とは名ばかりの個人事業主だった。つまりここに社員はいない。そこにいた三人は個人事業主として、事務所という名の3LDKのマンションに集まっていたにすぎない。毎月仕事の対価としての現金が手渡しされた。だから給料明細も存在しない。健康保険も社会保険も有給休暇も交通費も何もなかった。だから高橋の立場は専属のフリーライターだった。高橋は無保険で働いた。健康保険は病気になってからで大丈夫だと思っていた。鬱は相変わらずだったが病院に行こうとは思わなかった(心療内科が一般的になるのはもっとあとの話だ)。

 Pに入ってから十日後、桜が咲く前に、高橋の父親が亡くなった。疎遠だった三つ上の兄が電話で連絡してきたが、高橋は葬式に行かなかった。五月の連休に帰省した。「実家に帰りたくて帰ったわけじゃない」と高橋。当時結婚を前提に交際していた女性を連れて行った。相手の親に対するけじめだった。「自分の親兄弟に紹介したくて紹介したんじゃない」と高橋。九月に入籍し同居が始まる。高橋の実家には金がないから結婚式はあげなかった。高橋の恋愛とか結婚については、ここでは触れない。

 仕事は会社案内や学校案内やゴルフ場のカタログ、実証効果が不確かで怪しげな健康食品やサプリメントのチラシがあった。

それからPR誌もあった。社長は休刊中の業界紙(建設関係だったと記憶している)の権利を持っていた。業界紙は第三種郵便だ。法律的なことはわからないが第三種は郵便料金が安くなる。そこに目をつけた社長は休刊中の業界紙の名前を使って通販チラシを全国に配送していた。前半は業界のネタを公開されているプレスリリースから集めてリライトして、後半は通販カタログをそのまま再編集した。それを合体させて業界紙風のPR誌が完成する。それを大量に刷って同封して郵送する。前半のリライトが高橋の仕事で後半の再編集と前半との合体が美男子アシスタントの仕事だった。

それが合法なのか違法なのか、高橋にはわからなかった。以前から続いていたらしいので、定期購読者はいたようだ。読者コーナーや編集後記も、すべて高橋が適当に書いていた。読者からの葉書など一枚も返ってこなかった。「今回も楽しく拝読致しました」と鬱の頭を抱えて高橋が文章を書いた。もちろん周りは高橋の鬱を知らない。仮面鬱だ。それなりに楽しくはあったが、徹夜が続くと、明るく元気に振る舞うことが難しくなってきた。

社長との関係はうまくいっていたが、目つきの悪い女が高橋を苛め出した。最初は気のせいかと思った。苛められるようなことをした覚えは高橋にはないが、明らかに絡んでくることが多くなった。口論にならないように謝罪する高橋に対して、なお高圧的な態度で一方的に主張を繰り返した。たとえば高橋の文章に細かい駄目出しが増えてきた。「そんな日本語はおかしいわ。だから三流大学出は困るのよね」と舌打ちする。社長は聞こえない振りをしていた。

高橋の崩壊は近かった。仮面が剥がれそうになってきた。そろそろ限界だということが自分でもわかっていた。もう辞めごろだった。夏が終わる前、高橋は社長に電話をかけて「辞めます」と伝えた。もともと社員ではないので辞表すらいらない。残念がってくれたが、社長は引き止めなかった。いろいろお世話になった、と美男子アシスタントに礼を言うと、小声で教えてくれた。「あの人(目つきの悪い女)は病気です。相手が辞めるまで難癖を付けるんです。高橋さんで何人目だったかな?」

高橋はPに一九九八年三月から一九九八年七月までいた。相変わらず高橋は鬱という爆弾を抱えていた。

 

 高橋はまた無職になった。秋には三十六歳だった。寅年だ。十二年前はコピーライターとして輝いていた。高橋の個人的な感覚ではなくて、当時一緒によく飲んでいた私の目から見ても眩しかった。好きな仕事を見つけ、現場で努力を続け、金にはならないが、毎日は朝から夜まで充実していた。一言でいえばオーラがあったのだ。二十四歳からの十二年後に無職になっているとは、彼我も想像できなかった。それから十二年後の四十八歳、それからまた十二年後の六十歳の高橋がどうなったのかは後述する。

 前述のように、高橋は誕生日の一カ月前に入籍して同居した。結婚式はあげなかった。無職だったが相手の親はそのことを知らなかった。Pに勤めていることになっていた。勤めてはいなかったが、ときどきPから仕事をもらって広告文案を書いていた。目つきの悪い女がどう思っていたのか知る由もない。知りたいとも思わないが、少なくとも顔色の悪い社長は、高橋のことを気にかけていたのかも知れない。ほかにライターがいなかっただけだとしても。

 新居は公営団地だった。高橋の奥さんが当てた。何度か私はその団地に行ったことがある。私が子供のころ住んだ団地によく似ている。高橋の奥さんは「一生分の運を使ったんです」と木漏れ日のように笑った。鬱で無職の高橋を責めている素振りは微塵もなかった。

 

 さて高橋の仕事の歴史に話を戻そう。高橋は結婚を機に、都市部を離れ郊外のいわゆるニュータウンにある団地で暮らすことになった。結婚や引っ越しに伴って、婚姻届や転入届を提出するために市役所に出かけた。そこで窓口のカウンター越しに職員たちを眺めた。

「市役所職員になるというのはどうだろう」と突然高橋は閃いた。公務員になるという発想は、これまで一度もなかったから自分でも驚いたことだろう。高橋が大学を卒業するときの成績を考えれば、そのとき市役所職員を目指せば合格していたかもしれない。

 高橋と公務員との個人的なつながりはないこともなかった。その年の三月に亡くなった高橋の父親は公立高校の教師だった。一浪後に地元を離れる直前に、市役所で何かの手続きをしたときの窓口の女の子は、高校のクラスメートだった。彼女は立派な社会人で、高橋は何者でもない馬鹿な大学生になろうとしていたが。

 当時の高橋はフリーライターという名の無職だったから、職員になる方法を市役所に問い合わせてみた。何もなかった。市立の図書館や保育所や病院や学校など募集はなくはなかったが、年齢は問題なくても有期雇用や代用職であり、それなりの資格が必要だった。高橋は資格など何もなかった。在学中に図書館司書と教員資格を取っていなかったことを少し悔やんだ。

 ときどきもらう書く仕事もなくなるころ、市報十二月号に「新設コミセン職員募集」の記事を見つけた。年齢学歴経験性別不問、但し市民に限る。五名募集、給与は最低時給、一日六時間(早番遅番シフト制)休憩1時間週四日勤務。履歴書と『私の理想のニュータウン』というテーマで作文(四百字詰原稿用紙三枚程度)を十二月末までに郵送。書類審査後、書類・作文の通過者のみ一月末に面接、二月より研修、三月から勤務できる方。任期は五年(再雇用無)。

 高橋の暮らす団地から自転車で十五分くらいのところに三階建のコミュニティセンター(通称コミセン)が新設されるらしい。コミセンとは公民館のバージョンアップみたいな建物で、その職員を募集しているという。職員の主な仕事はセンター内の施設の貸出受付接客対応(部屋代などの金銭管理)、市役所がコミセンで行うイベントの運営支援、市民が交流するための行事の企画運営などである。

ちなみに完成後のコミセンには千人収容できるホール(グランドピアノと音響照明完備)もあれば、通信カラオケルーム、調理室(調理道具完備)やDIYルーム(電動工具だけでなく陶芸用の電気焼釜もある)、一階には喫茶店まで併設されていた。

高橋は履歴書と作文を市役所に送った。高橋は履歴書に書かれた履歴については自分でも(学歴と転職歴)問題があるかもしれないと思っていた。しかし作文は完璧だった。少なくとも自分ではそういう手ごたえがあった。高橋は特にニュータウンに興味も知識もなかったから、改めて市立図書館で勉強してから作文を書いた。

このニュータウンは高橋と同じころ(一九六三年)に市の外れの丘陵地に生まれた。欧米のニュータウンを手本に自然(公園や池)と各施設(住宅・教育・商業・行政・交通)をバランスよく配して、ミッドセンチュリーのニューファミリーの夢を実現するだけでなく、当時の慢性的な住宅難を解決する模範解答でもあった。しかし高橋が引っ越してきた二十世紀末にはすでにオールドタウンになっていた。その最大の理由は住民の世代交代に失敗したからだ。住民の世代が交代しないということは、住み続ける住民の高齢化が進むということであり、住み続けない住民は引っ越していくわけだから空き部屋が増えるということでもある。なぜ世代交代しなかったのか。そこに住むことに魅力を感じなくなったからだ。もっと設備の整った集合住宅はどこにでもある。昔は手が届かなかったかもしれないが、今なら給料も増えたから住もうと思えば住める。ボロ団地に住むメリットはない。あえて言えばメリットは家賃が安いことくらいだ(だから高橋夫婦は新居に選んだ)。ちなみに年収が増えすぎると退去しなければならない。周辺商業施設もほとんどシャッター商店街になり果てた。ボロ団地の付近に学校や公園があることが、周辺マンションの乱立を招いたかもしれない。

高橋が教えてくれないので作文の内容はよくわからないが、きっと新しい交流をテーマにして書いたのだと思う。たとえば高齢者たちと子供たちの二十一世紀の交流(近隣には小中高校がある)。それは自然をベースにした世代間の交流であるかもしれない(広い公園は将来的にも貴重だ)。それは新しい故郷の創生かもしれない(なぜならニュータウンの住民は故郷から離れた人々だから)。新しい交流や創生がニュータウンの再生につながり、その交流の中心(センター)にコミセンがある。というような作文だったかもしれない。そこに個人的なスキル、今までの広告業界で培った企画発想コミュニケーション能力をさりげなく盛りこんだのだろう。

高橋は倍率三十倍を勝ち抜いて見事に、Qというコミセンの事務局スタッフに採用された。とりあえず五年間は景気に左右されずに働くことができる。五年後のことは高橋には何も計画はなかったが、市役所職員が監督役として出向してくるはずだったから、その人物と何とかつながりたいと漠然と考えていた。五年もあれば何とか糸口はつかめるかもしれない。つかまなければ年だけ取って四十歳を超えてしまう。高橋は初めて若くないことに不安を感じていた。

スタッフの経歴もさまざまだった。局長は元生協の幹部で、次長は元某有名ファッションブランドの日本支社のマーケティング幹部だった。ちなみに次長は一年で辞めて、そのあとは地元の婦人会から支持を集め政界にデビューすることになる。元教師が三人(美術、国語、養護)、ボランティアや福祉関係で活躍していた人が三人、司法試験のために勉強中の二十代後半が一人、それから高橋だった。十人が早番と遅番に分かれて交代で仕事をする(大晦日と三が日を除いて年中無休)。十人中男性スタッフは弁護士を目指す二十代後半と高橋だけだった。報酬が月九万円弱では男性の応募そのものが少なかったから、スタッフの男女比で女性が多くなったのは仕方ないだろう。ちなみにセンター長は元市役所職員の天下りで、副センター長は市役所から出向した職員だった(どちらも男性)。

高橋はコミセンでの仕事を楽しんだ。受付もやっていたが、広告や広報や社内報を手掛けていた経歴から、主にコミセンの広報誌を任された。ワープロで四ページの誌面をつくり、複写機で百部ほどコピーした。市報に掲載されないようなコミセンの利用者たちの生の声を掲載したり、スタッフのつぶやきを掲載した。

高橋は伸び伸びと仕事ができた。基本的に誰も高橋の仕事にクレームをつけなかった。逆に、男性であったことと、ワープロが打てたことで重宝されていた。利益を追求することもなく、もちろんノルマもない。売上を気にする必要もなく、広報誌のことを考えたり、コミセン独自のイベントを考えたり、カウンターで受付業務をこなした。遅番のほうが暇だったし、時給が少し早番より高かった。八人の主婦たちは子育てや旦那の世話があるため早番に集まり、男性二人は時給の高い遅番になった。夜九時まで開けていたから防犯の意味でも男性が遅番のほうが、みんなにとって都合がよかった。

コミセンは市の予算から生まれたが、軌道に乗れば、部屋代を運営費や人件費などにまわしていくことになっていた。最大のポイントは部屋を利用する市民がいるかどうかだったが、それは杞憂だった。常に予約でいっぱいだったし、抽選に外れた利用者から苦情が寄せられることもあった。コミセンは周辺の意識高い系の市民の支えもあってかなり繁盛した。

市役所からの高橋の仕事への評価は高かった。準公務員的な常識と清潔感とそれなりの知性とスキルを備えていた。もちろんもっと優秀な人材は世間に山ほどいるが、そういう人材は月九万円の五年契約では集めることができない。比較対象が周辺の主婦たちであることも、高橋の評価を高めることに一役買った。その時点では何も問題はないようだったから、高橋の目論見通り五年無事に勤め上げれば、その間に人脈やコネがつくれれば、なんとか市役所職員への道が見つかりそうだった。

しかし高橋のコミセン勤務は二〇〇〇年三月で終わった(採用は一九九九年三月なので十三カ月)。辞めた理由を高橋はこう説明した。

「給料が安すぎたね。ダブルワークを探したけれど見つけられなかった。全部遅番にしても十万にもならない。ちょうど同じ時期に次長が辞めることになった。次長の給料は手取りで十二万弱だった。次長と局長が『高橋君の辞める理由がお金のことなら、次長のポストが空くから次長になったらいいわ』と味方になってくれた。二人で市役所側と交渉してくれたが<結局、交渉は決裂した。『高橋君は一般スタッフとして採用した。次長のポストにつけることはできない。それはルール違反だから』と役所らしい回答だった」

 私はその説明を聞いたとき違和感を覚えた。そして気づいた。奥さんの意向が働いたのだろう。たとえば「あなたは、もっとたくさん稼げるはず。あなたは月九万円の人じゃないわ」とか言われたのかもしれない。高橋は五年計画を奥さんに話しただろうか。話さなかっただろうか。どちらにしても五年後は四十歳を超えている。稼げる(年齢の)うちに稼いでほしいと奥さんが望んだとしても、それを責めることは私にはできない。

 最後の日には簡単なお別れ会が開かれた。たった一年余りだったが思い出話に花が咲いた。初代のメンバーの一員だということが、それぞれの会話の中で何度も強調された。高橋は寄せ書きをもらった。そこに書かれた一行が暗示的だった。

「高橋君へ いろいろありがとう 心身が健康なら大丈夫 これからも頑張って」

 心身が健康そうな主婦が書いた一文だった。この主婦と高橋は遅番で一緒になることが多かった。遅番は暇な時間が多い。だからいろいろ話したようだが、いつも「心身が健康なら大丈夫」と高橋に言っていた。高橋の鬱病体質を見抜いていたのかもしれない。

 このとき辞めたのは次長と高橋と、それから弁護士を目指す青年だった。あの寄せ書きはどこかに紛失した。そのあと、コミセンに行ったこともないし、ともに働いたスタッフと再会したこともない。

 

 高橋の次の仕事探しは次長になれないと決まった時点から始まった。四十前の男で、それなりの給料がもらえて、資格不問の仕事は多くはない。あったとしても過酷な仕事ばかりだ。その中から高橋は生鮮や乾物を取引する市場の近くにあるRという製氷工場を選んだ。応募して面接があり採用されるまで三日だった。条件は悪くなかった。コミセンの倍は毎月稼げたし残業代も昇給も賞与もあった。

高橋は四月一日から働いた。高橋の住む団地から最寄りの私鉄駅まで歩き、私鉄と地下鉄を乗り換えて、地下鉄駅から歩いて工場へ。片道一時間半かけて通うことになる。高橋が暮らす市の隣の市の、南の端に工場はあった。試用期間中の三カ月間は朝八時から夕方五時までの勤務時間だったから公共交通機関で通うことができる。しかし試用期間が終わると朝六時からの勤務になるため始発でも間に合わない。それを見越して高橋はスクーターを買った。その頭金の資金は奥さんの貯金から出た。奥さんは親戚からお祝いをたくさんもらっていて、いざというときのために貯金していた。その貯金の一部を使った。まさに今がいざというときだった。工場から月二万円以上の交通費が支給されるので、スクーターのローンは二年ほどで消える計算だった。ちなみに、ずいぶん前に買ったバイクのローンは結婚前に完了していた。

高橋の仕事は主に氷をつくることだった。七十を超えた老人が製氷部長だったが、そろそろ退職の時期だった。退職前に仕事を引き継ぐために高橋は採用された。ほかに二十代の無口で頑強そうな青年と三十代の小太りの中年男性が同時に採用された。

どうやって氷をつくるのかについて、私は高橋から教えてもらったが正直よくわからなかった。とりあえず水を巨大な容器(約四十×八十×百五十センチ)に入れてゆっくり冷やすと巨大な氷ができるらしい。氷一つの大きさは炎天下の動物園の白熊にプレゼントするくらいのサイズだそうだ。それを工場では同時に百個つくる。

ポイントはゆっくり冷やすことだ。ゆっくり冷やすと容器の中の水は容器の周辺から凍り始める。すると周辺が氷になって真ん中に水たまりができる。その水たまりには空気や不純物が集まっているらしい。だからそのまま凍らせると空気や不純物がそのまま残り、不透明で雑味のある氷ができてしまう(冷蔵庫の氷みたいに)。無味無臭無色透明の氷をつくるためには、水たまりの水を専用のホースで吸い上げて捨て、その空洞に新しい水を注入する必要がある。そしてまたその水たまりも周辺から凍り始めて、真ん中にさっきよりは少し小さな水たまりができる。するとまた水たまりの水を専用のホースで吸い上げて捨て、その空洞に新しい水を注入する。その繰り返される作業はすべて人が担う。氷は四十八時間かけてつくられる。でき上がった氷は一個ずつ検品倉庫にクレーンで運ばれ、汚れや雑居物がないか目視で確認されたあと、氷菓メーカーの工場に納品(納氷)される。

氷づくりの工程そのものは単純だが時間と手間がかかる。その日の天候によっても氷づくりは左右される。特に容器中央にたまる水の吸水(排水)と空洞への注水の頻度やタイミングは、老人の長年の経験と勘が頼りだった。

氷工場ではもちろん氷をつくっていたが、氷づくりの冷気を利用した冷凍氷温庫も備えていて、生鮮品や乾物の保管も請け負っていた。契約した会社や商店の代わりに、朝早くに競り落とされた生鮮品や乾物を市場から運んで保管するのも仕事の一部だった(それに伴う入庫出庫管理も)。

高橋は氷づくりの合間に市場に行って、保管する商品をトラックへ積みこんだり、トラックから倉庫への積み下ろしをした。最初は何も持てなかった。重すぎたのだ。さらに重すぎて腰を痛めた。肌寒い日でも午前中だけで、汗だくで濡れたTシャツを何枚も着替えた。しばらくすると身長が百七十センチ弱なのに体重は五十キロを切った。手の平が分厚くなり指が太くなった。運ぶことが苦になくなり腰の痛みが消えるころ、高橋の体にうっすらと筋肉がついてきた。冷凍庫に頻繁に出入りすることと関連するのかどうかわからないが、高橋の肌は脂っぽくなり白髪が増えだした。

高橋はすぐに仕事を覚えたし、体力的な問題もクリアーした。残る問題は二つあった。一つはトラックの運転である。市場から倉庫へ積み荷を運ぶとき、氷を氷菓工場へ納品するとき、トラックが運転できなくては話にならない。高橋はその年の春から夏にかけて、毎週日曜日に一万円を払ってペーパードライバー向け教習に通った。高橋は普通自動車免許を大学時代に取得していたが、免許取得後は一回も路上で車を運転したことがない。ましてやトラックなんて触ったことすらない。それでも何万円も使っているうちに、自信はないが何とか運転できそうな気分になってきた。

もう一つの問題は、早朝勤務の場合は事務所に泊まらなければならなかったことだ。高橋は独身時代から結婚後も外泊を好まない。だから旅行も苦手だ。事務所に泊まる最大の理由は翌朝が早いからだ(真夜中起床)。前日の夕方には眠る必要がある。ほかの作業員とともに雑魚寝である。それが高橋にはできない。無理して雑魚寝しても結局は眠れない。それはこれまでの数少ない経験(たとえば修学旅行とか)から証明済みだった。この件に関しては面接の際に工場長に「自分は事務所泊はできないが深夜に出勤するから」と懇願して、何とか宿泊は回避できそうだった。

桜が散るころから氷づくりは忙しくなる。休みなく百日間働いた。氷づくりの合間には市場で荷受作業も手伝った(この時点ではまだ運転はしていない)。その間に、高橋は老人から氷づくりのノウハウを貪欲に学んだ。そのころになると老人はワンカップを隠すことをやめていた。夜間の残業中に「飲むか?」とすすめられることもあった。もちろん高橋は酒を断ったが、老人の飲酒を諫めたり、工場長に密告もしなかった(たぶんお見通しだったと思う)。老人は筋金入りの酒好きだったし同時に話好きだった。

高橋は仕事をしながら老人からいろいろな話を聞いた。「特に印象に残っているのは何?」という私の質問に高橋は「シベリア抑留」と答えた。以下に老人の語りを記す。

「生まれたのは田舎の農家。末っ子。兄貴は賢くて、兵隊さんとして偉くなってった。儂は学校が好きじゃなかったから奉公に行くことになってた。だけど、その前に役場の人が『開拓しろ。満州行け。天国だぞ!』って誘ってきた。兄貴に相談したら『やめとけ。天国なんかどこにもない』って。でも田舎も奉公も嫌だったから、兄貴の反対を押し切って満州に向かった。兄貴は餞別に小遣いと辞書をくれた。露和と和露がくっついた一冊の辞書。わけがわからんかったけど『きっと役に立つ』という言葉を信じて鞄に詰めた。満州までは暇だったから、ずっと辞書を読んだ。もちろん、つまらんかった。満州は大都会だったけど、田舎から来た儂らは、すぐに原野に連れて行かれて開拓だ。天国? じゃないよ。まともな道具なんてありゃしない。逃げ出す者もいた。儂は逃げても帰る所がない。田舎よりましだ。居場所があるし、土地もある。そのうち慣れた。若かったからな。もちろん戦争のことは知ってた。でも日本が負けるなんて思ってなかった。ある日、飛行機が低く飛んできて鉄砲でババババババ。露西亜だ。恐ろしくて林の奥に逃げたら、またババババババ。周りの木が、文字通り、木っ端微塵。捕まってシベリアに連れて行かれた。何だか、あっという間のできごとで。抑留された場所は、まるで芝居とか映画とかの、つくりものみたいな、掘っ立て小屋みたいな町だった。床屋も医者も先生も落語家も坊主も農家も兵士も大工も商人も鍛冶屋も、まあ町にいるような人間が、そのままそこにいた。儂らのやることは石炭を掘ることだ。朝、パンを一つもらって。固いよ、すごく。腹は減るわ、力は出ないわ、掘るのはきついわ。へとへと。儂は仲間内で一番若かったけど、その数年で、すごく年取った気がした。地獄? 地獄よりも地獄。夏も嫌だけど冬が厳しい。死人も増える。凍死じゃないよ、栄養失調、餓死。まともに食べられないから。だからゴミ置き場をあさる。ときどき、露西亜兵が食べたあとの、肉か何かの空き缶を見つけて、その中に雪を詰める。ポケットに隠していた石炭のかけらに火をつけて、マッチ? 持ってたんだろうな、雪詰めの空き缶を焙る。雪が解けてお湯になる。肉だか何かの脂が薄く浮かんだスープのでき上がり。うまい? うまかないよ。けど死ぬのは嫌だ。冬に遺体を埋めるのは大変なんだ。一度やればわかる。凍土だから浅くしか掘れない。坊主がいればお経でも、いなければ簡単に手を合わせて葬式は終わり。悲しい? 確かにね。でも明日は我が身だから。気持ちが少し麻痺してくる。そうやって三年? いや五年か。何人か亡くなって、何人かは引き揚げることができた。儂は早いほうだったかな。田舎に戻ると、少し前に亡くなっていた両親の墓参りをした。自分の名前も墓石に刻まれていて力が抜けた。変な気分だった。儂は今、墓の前で生き残っているのに。死んだことになっていた。役場で戸籍を復活してもらった。兄貴も復員していた。戦争で生き残ったけど、末期癌で痩せ細って、半年で亡くなった。最期に会えてよかった。亡くなる少し前に、擦り切れて頁も落ちて、ボロボロの、あの辞書を兄貴に見せた。ずっと隠し持っていたんだよ。兄貴は満足そうに笑った。そう見えただけかもな。辞書は役に立ったか? 文字の意味はわかった。話す言葉も、何となくわかった気がした。だけど儂は一言も話さなかった。話せたかどうかも、今となってはわからん。ただ辞書が見つかっても没収はされなかった。不思議だった。そのお陰で生き延びたようにも思う。わからんけれども。引き揚げてから抑留仲間に会ったか? 一度だけ。あとは特に会ってない。忘れたいわけじゃない。忘れられるものでもない。戦争だから」

 高橋は私に「シベリア抑留なんて教科書の中だけだと思っていたけど歴史は生きている、今につながっていると実感した」と言った。

 高橋は今度こそ、定年まで、そしてそのあとも老人のように、ここで働けるかもしれと期待した。働く仲間たちは無口だったが、仕事を教えてくれた。一生懸命に働く高橋に好意を持ってくれていたようだ。昼食のときも、下っ端の高橋にもきちんと食事(白米、おかず、汁物など)を残してくれた(ここでは高橋も昼食を弁当屋に注文していた)。仕事以外の雑用、食事の配膳やトイレ掃除も先輩が率先してやっていて、新入りたちに押し付けることもなかった。もちろん苛めなど皆無だった。

残念ながら「今度こそ」という高橋の期待は実現しなかった。事故が立て続けに起こったからだ。

 まず市場の敷地内で高橋の運転する小型トラックが接触事故を起こした。止まっている大きなトラックの右後ろの角に、高橋の運転するトラックの左のバックミラーがぶつかった。敷地内は徐行だったから大した事故にはならなかったが、それでもバックミラーは大破した。ぶつかった瞬間に、パニックになってアクセルとブレーキを間違ったと思われる。高橋の隣には先輩が同乗していて、事故直後に高橋とともに深々と頭を下げて謝罪してくれたので、警察沙汰にはならなかった。しかし「高橋の運転は丈夫なのか」と社内での高橋の立場は少し悪くなった。老人は高橋を「最初は誰だって事故くらいする」と庇ってくれた。

 次に高橋はスクーターで事故を起こした。トラックで事故を起こしてから十日後だった。その日は市場勤務に当たっていたから、事務所で寝泊まりをしない高橋は、深夜にスクーターで出勤しなければならなかった。運悪く深夜は雨だった。事務所まであと五分くらいの、見通しの悪い急カーブで、飛ばしてきた軽自動車がセンターラインを越えた。何とか高橋は衝突を避けたが転倒した。スクーターは雨の路上を滑り、追いかけるように高橋も滑った。車は走り去った。奇跡的に骨折はなかったが全身打撲で、その日は欠勤することになった。もちろんスクーターは傷つき凹んだが、とりあえずエンジンは始動したし運転することもできた。事故のあと「なぜ高橋は事務所で寝泊まりをしないのか」という声が上がり、それは「なぜ高橋だけは特別なのか」という声につながり「高橋の事故は本当に軽自動車のせいなのか」と囁かれた。ついに老人も高橋に「泊まったらいいじゃないか」と遠慮がちに意見した。

 老人の言い分は正しい。しかし高橋は泊まりたくなかった。泊まると眠れないからだ。それは高橋の我儘かもしれない。我慢すればいい、慣れればいい、と誰でも思う。それが高橋には通用しない。それが高橋の弱点でもある。もっと突っこんで言えば、それこそが永遠のように続く鬱の病根かもしれない。そして高橋は辞めた。

高橋はRに二〇〇〇年三月から二〇〇〇年八月まで勤めた。最後に老人は「もっとお前に合う仕事が探せばあるよ」と慰めてくれた。今まで教えてもらったことに感謝して高橋は深く頭を下げた。

 

高橋はスクーターで職安へ通った。結局、前職の氷工場からもらう毎月の交通費で、スクーターのローンを返済するという計画は頓挫した。ローンは借金として残った。職安へのバスや電車の交通費を節約して、ローンの足しにするためにスクーターで通ったが、ほとんど意味はなかった。

高橋は次の仕事をゼロから考え直した。自分に合う仕事は何か。書く仕事であることは間違いないが鬱病が酷くなるかも知れない。倉庫の仕事や工場の仕事ができるほど力がない。特別な資格もない。フォークリフトにすら乗れない。トラックの運転も無理だ。

職安で文字校正の仕事を見つけた。小さな印刷会社のSだった。刷り上がりと原稿を突き合わせて、間違いを発見する仕事だった。少なくとも職安の求人票にはそう書いてあった。

面接に行くと、おばあさん社長が「文字校正よりも印刷工をしてみないか? 今いる工員はもうすぐ定年で社員から嘱託に変わる。お前が一人前になったら嘱託も辞めさせる。校正よりもずっと稼ぎがよいぞ。やってみないか?」と勧めてきた。

あとから聞いた話では、社長は工員を嫌っていたが、工員が辞めると仕事が回らないから、雇い続けるしかない。工員本人もそれを知っているから態度が横柄で、それがまたおばあちゃん社長の気持ちを逆撫でする。新しい工員が必要だ。そこに中年の男が飛びこんできた(高橋である)。

もちろん高橋は社長と工員が不仲であることは知らない。高橋は金のことより長く働き続けたいと思った。面接のときにちらっと見かけた印刷機は小型で古くてカラーでもなかった。教えてもらえば何とかなりそうだった。社長に逆らうのも悪い気がした。社長がそう言うのであれば、せっかくだからその提案を受けることにした。

高橋は職人というものを知らなかったが、素直に教えを乞えば、何とかなるだろうと思っていた。氷工場の老人ように、最初はぶっきら棒な工員でも高橋が日々一生懸命努力を続ければ、いろいろ教えてくれるはずだ。そうすれば何とか印刷機も扱えるようになるだろうと期待した。

初日が肝心だ。工員よりも先に出社して、工員が来ると「おはようございます。高橋です。よろしくお願いします」と元気に挨拶した。工員は六十歳よりは若く見える猿のような小柄な老人だった。工員からの返事がなかったので、また挨拶すると「静かにしろ!」と怒鳴り返された。仕方なしに高橋は工員に無言で頭を下げた。工員からの挨拶は一言もなかった。

高橋の「教えてもらえば何とかなるかもしれない」という期待は初日から砕けた。工員は自分の仕事を黙々とこなした。文字通り黙々と。工員は何も教えなかった。「私は何をすればいいですか? 教えてください」と高橋は何度も尋ねたが答えはなかった。目を合わせることもなかった。仕方がないので工員の邪魔にならない場所から、その仕事を観察した。

機械本体のローラーに原稿を巻く。醤油差しのような容器につまった油を機械の特定の箇所に差す。缶に入ったインクをヘラのようなものですくって機械のインク皿のようなところに盛り付ける。紙を保管している倉庫から紙を持ってきて機械手前の紙置きに積む。機械の微調整が済むと、機械のカウンターに速度と印刷枚数を入力する。電源を入れると機械がカタンカタンと動き出す。油が行き渡る。紙が送られる。インクがローラーに定着し、原稿が転写され、印刷される。刷り上がりの紙は機械の奥に積まれていく。一定の枚数なのか時間なのかわからないが、工員は積み上がっていく刷り上がりの紙を、ときどき一枚引き抜く。検品なのだろう。何度かそれをする。予定枚数が終わると機械は止まる。刷り上がりの紙は倉庫へ保管される。工員がどこかに行って戻ってこなかった。壁の時計を見ると昼だった。高橋は持参したパンを独りで食べた。午後からも似たようなものだった。何度か紙が補充され、何度かインクが補充され、何度か原稿が取り替えられた。そうして帰る時間になった。盛り付けられたインクは皿から拭い取られ、ローラーに着いたインクも綺麗に拭われて、ローラーは朝と同じようにピカピカに戻った。工員は無言で着替えて無言で帰った。

印刷場には一日のうち何度か営業の青年が出入りした。新入社員の高橋を見ると好奇心からか親し気に話しかけてきたが、工員が無言なので工員に遠慮して(つまり高橋と喋って工員を怒らせるのが嫌なのか)工員に印刷発注伝票を手渡すとそそくさと出ていった。それから裁断機を扱うおばさんもときどき印刷場をのぞいた。ほかの部屋で印刷原稿をレイアウトする中年の女ものぞいた。挨拶をして自己紹介をして出て行った。そのたびに高橋は自己紹介をしていたから工員には高橋の概要は伝わっていたはずだ。高橋がほかの誰かに「未経験ですが頑張ります」と言うたびに「ど素人なんか使えねえよ」という無言の声が工員の背中から聞こえてきた。

次の週、変化が起こった。何も教えていないことが、どうやらおばあさん社長にバレたようだ。もちろん高橋は告げ口なんかしない。案外、裁断のおばさんあたりかもしれない。

工員は渋々、高橋に声をかけてきた。「やってみろ」と原稿を高橋に手渡した。先週、工員のやり方を盗むように見ていた高橋は、初めて印刷機を操作した。原稿をローラーにセットし、インクを盛りつけ、油を差し、印刷発注伝票の指示通りの紙を積み、伝票の指示通りの印刷枚数をカウンターに入力した。見様見真似でやってみると、案外うまくいった。順調に印刷機が稼働していると思っていると、途中で刷り上がりのチェックを忘れた。高橋より先に気づいた工員は高橋を無視して、積み上げられていく刷り上がりの紙から素早く一枚抜いて、じっと見つめた。「止めろ」と言ってから、刷り上がりの紙を高橋に突き付けた。印刷機を止めて、その紙を見るとインクが擦れていたり、濃すぎたり、バラバラだった。それは明らかに不良品だった。

工員は無言で刷り上がりを下ろし新しい紙を積んで、インクの盛り方を微調整してから機械を作動させた。何度か刷り上がりをチェックしながら印刷を続けた。カウンターで指定された枚数が印刷されて機械が止まった。高橋は刷り上がりの紙を一枚抜いて見た。完璧だった。紙に印刷されたというよりも最初から書いてあったように文字が紙に馴染んでいた。

工員と高橋は昼飯を一緒に食べることも日常的な会話も全くなかった。それでも師弟関係は少しずつ構築されていった。小さな仕事から任されるようになっていった。印刷機が二台稼働する日も多くなっていた。

年末年始の休みが終わった。高橋が会社に慣れたころ、社内に二つの派閥があることがわかってきた(おしゃべりな裁断おばさんからの情報による)。おばあさん社長派と専務派である。先代社長は現社長のおばあさんの夫だった。先代社長はワンマンで営業も何もかも仕切っていた。この夫婦には子供がいない(若くして亡くなったらしい)。社長の死後、妻であるおばあさんが社長になった。社長の死後、専務が営業を引き受けることになった。さらに専務の妻が経理を担当するようになり、専務の息子が専務の下で営業マンとして勤めることになった。ときどき印刷場に顔を出すのは専務の息子だ。そういうことに疎い高橋にも、専務が会社を乗っ取ろうとしていることはわかる。社長の派閥はおばあさん社長と裁断機のおばさんと印刷原稿を制作するおばさんが3人くらい。工員はどちらの派閥でもない。職人らしく、そんなことには無頓着で距離を置いていた。専務は自分のところに引っ張ろうとしているようだった。高橋も今のところどちらでもないが、心情的には社長派だ。先のことを考えれば専務派かもしれない。そのうち高橋にも派閥への誘いがくるかもしれない。ちなみに専務は先代社長の兄の子供である(つまり甥だ)。だから先代とは血がかろうじてつながっている。しかし(理由は不明だが)専務とおばあちゃん社長は仲がよくない。そして専務の妻とも、息子とも、仲が悪い。会社に乗りこんでくる前からだが、だとしたら、さらに仲が悪くなったとしても不思議ではない。危ういバランスの中で、高橋は何とか見習い印刷工として働いた。

春になった。工員が社員から嘱託になろうとしていた。ある日の仕事終わりに、工員が高橋に言った。「俺は今日が最後だ。明日からお前一人だから」。高橋には意味がわからなかったが、質問しても答えが返ってこないことがわかっていたので、ただうなずくだけだった。次の日、工員は出社しなかった。

裁断おばさんによれば「嘱託の給料が今までの半分になるからよ」ということだった。専務から告げられた金額が正当なのか不当なのか高橋は知らないが、工員のプライドを傷つけたのだろう。専務からすれば「俺の派閥に入らないからだ」ということかもしれない。おばあちゃん社長が助けなかったのも同じ理由かもしれない。高橋は、残念なような寂しいような気がしたが、他人の心配をしている暇はなかった。すべての印刷仕事を一人でやらなければならない。派閥のことを考えている余裕はなかった。

ゴールデンウイーク前に仕事が大量にきた。忙しいときには注意が散漫になる。それは、どんな仕事でもそうだが、事故につながる。

その日の夕方、高橋は最後の印刷を終えてローラーに付着したインクを拭き取っていた。シンナーを染みこませたボロ布をローラーに当てながらインクを拭き取る。ローラー全面をすべて一度に拭き取ることができない。手が届かない部分があるので、少しずつ印刷機を動かしながら(ローラーの汚れた面を拭きやすい位置に移動させながら)インクを拭き取る必要がある。きれいに拭き取るためには、時間と手間がかかる。この作業を適当にやってしまうと、汚れが残ってしまい、明日の印刷が汚くなってしまう。

「魔が差した」と後日高橋は語った。「少しずつローラーを回さなければならない。左手でオンとオフを繰り返し、速度も最遅にしなければならい。右手に持ったボロ布でローラーのインクを拭き取る。それがいつもの手順だったのに、その日は、オンのまま作業してしまった。ぼんやりしていたのかもしれない。オフにするのを忘れていた。右手が巻きこまれた。正確に言えば、ボロ布のほつれた糸がローラーの隙間に巻きこまれ、右手の人差し指が巻きこまれた。一瞬パニックになったが左手ですぐに緊急非常停止ボタンを押した。人差し指をローラーから引き抜くときに歯車のエッジで指を切った。痛みはなかったが黒いインクまみれの指から赤い血が噴き出していた。たまたま通りかかった専務に、病院に行かせてくれと訴えた。営業車に乗せられて、近くの病院で施術してもらった。指は落とさずに済んだが何針も縫った」

高橋の怪我は労災にならなかった。申請さえさせてもらえなかった(会社による労災の隠蔽ということか)。そのとき気づいたが会社はそもそも労災保険に入っていなかった。さらに営業車のシートに付着していた高橋の血痕を落とすためのクリーニング代が給料から天引きされていた。高橋はそれらのことを不当だと感じた。(私でも、きっとそう思うだろう。)労災隠しなど言語道断で、天引きの額は忘れたが問題は額の多少ではない。労災申請に関しては、専務はのらりくらりと逃げていたので、おばあちゃん社長に直訴した。おばあちゃん社長は「御免ね」と言って、『病院代』と表書きされた封筒を渡した。高橋は中身を確認しなかったし手も触れなかった。そのとき、専務派が優位なのだと知った。

その怪我がきっかけとなって高橋はSを辞めた。二〇〇〇年十月から二〇〇一年六月まで印刷工の見習いだった。指を落とさないでよかった。この退職に関して、おばあちゃん社長は自己都合ではなく会社都合にしてくれた。労災隠蔽に対する謝罪の代わりだったのかもしれない。高橋は待機せずに失業保険を受け取ることができた。

高橋はSにいるときに小説を書いていた(小説の内容も、どの出版社の新人賞に応募したのかも忘れたそうだが)。応募原稿は辞める少し前に完成していた。職場の近くに郵便局があったので、Sを辞めたその日の帰りに原稿を速達書留で送るために郵便局に立ち寄った。郵便の窓口の列で並んで大人しく自分の番を待っていた。高橋は郵便局が好きだった。筆まめではなかったが手紙を書くことは好きだった。子供のころから自分が封筒に入れるくらい小さくなったら世界中どこにでも行けるのに、と妄想することもしばしばあった。コレクションするほどではないが記念切手もときどき買った。列に並びながら新しい切手があるかな、と郵便局を隅々まで見ていた。

 

偶然、高橋は壁に貼られていたポスターに目を止めた。そこに次の仕事を見つけたような気がした。ポスターには「外務員募集中」と書かれていた。外務員とは簡単に言えば郵便配達員だ。応募資格は四十歳以下だった。高橋はそのときこう考えた。年齢的にラストチャンスだ。郵便は好きだ。バイクに乗れる。プレスライダーの経験も役に立ちそうだ。公務員(郵便局で働く者は、当時はまだ公務員だった。)なら不況に強くて理不尽に解雇されない。ノルマや売り上げを気にすることもなさそうだ。経済的な安定が生活の安定につながる。きっと妻も喜ぶだろう。

そのとき高橋は氷工場で一緒に働いていた無口な二十代の青年のことを思い出した。「ずっと郵便配達のバイトをしながら何度も試験を受けたけど何度も落ちたから諦めて氷工場に決めた」と青年は言っていたような気がする。脈絡もなく思い出した。いや微かな脈絡くらいはあったかもしれない、だから今ここにつながったのかもしれない。青年に感謝した。

後日、私は高橋に質問した。「公務員になるなら試験や面接があるだろう? 不安はなかったのか」。「全然。何も外務省を目指すわけじゃない。公務員試験だけど郵政外務は合格すると思ったよ。自慢じゃないけど」と高橋は答えた。「それは結果論だろう」という言葉を私は引っこめた。

印刷会社を辞めたのは六月だった。試験は八月だ。すぐに大型書店で参考書と問題集と過去問集を買った。参考書や問題集を何冊も買うのは意味がない。何回も同じ問題を解くことにこそ意味がある。そう考えた高橋は、それぞれ二冊だけ買ってボロボロになるまで勉強した。高橋に言わせれば「簡単だった」そうだ。国語と数学と英語は完璧だという。理科と社会が自分の弱点だと知っていた高橋は、そこを重点的に補強した。高校受験の気分だった、という。

私はよくわからないが、公務員試験では、積み木や図形がたくさん描かれたものの中から同じものを選べ、というような問題をたくさん解く必要があるらしい。それを解き、結果で優劣を決めるとして、一体何の優劣を決めるのだろう。公務員としての優劣がわかるとも思えないけれど。

高橋の話に戻そう。高橋は問題集を十回繰り返して、間違ったところは徹底的に勉強し直した。小学中学時代の進学校時代の勉強法を思い出したという。当時は落ちこぼれだったが、それでもその環境で身に付けたこと、たとえば効率的に点を稼ぐ方法は三十年後も覚えていたというわけだ。問題集で満点が取れるまで勉強したら過去問に取り掛かった。本番さながらの時間帯とタイムで、一人で模擬試験をリアルに実施した。

高橋は試験勉強と同時に、職安でコピーライター募集を探していたし、昔一緒に仕事をしていたデザイナー(パン職人時代に偶然再会した先輩)から頼まれた(オフィスビルのテナント募集のカタログの)コピーも書いた。職安で見つけたいくつかの広告会社に履歴書を送ったが書類審査で落とされた。それは高橋にとってよかったのか悪かったのか今でもわからない。私たちの人生には、よくわからないことだらけだ。

八月になった。失業保険が切れるころ、外務員試験があった。試験会場は夏休み中の私立大学だった。台風が近づいていた。風が強く、雨も降りだしそうだった。「満点だった」と高橋は思い出して言う。「英語のリスニングがあるとは思ってなかったから驚いたけど、中身は高校受験レベルだった」そうだ。

九月に面接があった。「完璧だった」と高橋は思い出して言う。「なぜこの時期に四十歳以下を募集すると思う?」と逆に質問された。高橋の分析はこうだった。

「郵政を取り巻く状況は混沌としている。今までの組織、古い体質や思考では二十一世紀という新時代を乗り切れない。組織にない新しい多彩な経験と知識を備えている人材が必要だ。そういう人材は組織の内部で育てると同時に、外部から取り入れることが重要だ。新しい血を入れるんだ。それがたとえば今回の募集だよ」

「具体的な面接は?」と尋ねると高橋は微笑んだ。

「趣味嗜好思想健康状態家族構成などを遠まわしに聞かれたよ。本当はそう言う個人情報は今なら聞いてはいけないかもしれないけれど、当時は何でもありだよ。答えとして、趣味は読書だがバイクにも乗るし昔は陸上部に在籍していたし酒も煙草もしないし健康だし祝日には日章旗を玄関に掲げるし初詣と墓参りは欠かさないし終戦記念日には黙祷をするし、要するに『典型的な国民です』と答えたわけだ。可もなく不可もなく。面接とはそう言うものだからさ。さらに『万一、遠隔地でも大丈夫ですか?』という面接官の質問には『子供がいないので、いつでも引っ越しできます』と答えたよ」

「でもそれだけだと当たり前の国民すぎて面接官の印象に残らないだろう」と私が言うと「だから」と言って高橋は続けた。

「だから、個人的な経歴がものを言う。広告会社でインタビューした経験はお客様の声を迅速かつ的確に聴くことにつながる。お客様のボイスにニーズがあり、ニーズの中にシーズがあるわけだから。さらに広告会社で培ってきた企画力は集客につながるだけでなく局全体の活性化にも有効だ。かつてコピーライターという広告文案のプロだったから文章も話もうまいですよ、と売りこんだ」

「詐欺師みたいだ」

「冗談じゃなくて、そういう人材を求めていたと思う。当時の郵政は昭和を引きずっていたから。そして、最後にトドメを刺したんだ」

「トドメ?」

「あえてお客様の要求に応えないという新しい選択肢、そのことを伝える局員が必要だ、と説いたんだ。儲かればいいという利益至上主義では駄目なんだ。たとえ、こちらが損をしてでも、お客様に無駄な買い物をさせてはいけない。誠実に実直に、それがお客様にとって無駄であることを伝える。少なくとも今は不要であることを伝える。もちろんお客様が欲しいと言っているんだから、それを売ることは詐欺ではないだろう。でも、それについての知識も情報もこちらのほうが豊富であるのだから、だとしたら、その取引はフェアだとは言えない。目先の利益を追わないという発想が必要なんだ」

 十月に健康診断があった。高橋は結果に気になることがあったので、健診を担当した女医に質問した。「特に問題はないと思う。果報は寝て待て」と女医に言われた(「気になること」が何かは、私は知らされていない)。

高橋は、次のことを考えていたから、寝ている暇はなかった。健康診断のあとすぐに郵便配達のバイトを探した。合格は確信していたから実務を学ぶために。特に郵便配達として、最大のイベントである年賀状の配達を経験するために。

十一月に近所の大型郵便局で郵便配達のバイトを始めた。バイトの面接で課長に向かって「郵政外務の試験を受けて合格の確信があります」と言うと、好意的に笑われたそうだ。仕事は簡単だった。郵便物の仕分けをしたり、配達地域と配達ルートを覚えたり、早く配るテクニックを年下の先輩たちから学んだ。配属された六班では定年退職する職員が一人いた。「昔なら、代わりに君が入れたんだよな。今はどうかな? 班長に言っておくよ」。そのあと、班長からは何も言ってこなかった。

十一月の終わりに合格通知が届いた。すぐに六班のみんなに報告すると、カラオケボックスで有志による合格祝賀会が開かれた。高橋も何曲か歌ったそうだ。しばらくすると課長から「ここの局で働けたら楽だろう? その気があるなら、ここで働けるように、俺から局長に推薦しておくけど」と言われたので「お願いします」と高橋は頭を深々と下げた。そのあと、局長からは何も言ってこなかった。のちに高橋は課長のそのときの発言について回想する。「金持ってこい」という婉曲なメッセージだったんじゃないのかな、と。

十一月に合格通知が届いたが配属先の郵便局は決まっていなかった。来年の三月下旬に配属先が決定し、四月から研修センターで二週間の研修を経て、そのあと配属局で仕事を始める、ということが書かれた『予定表』が同封されていただけだった。当時の気分を高橋は「ドラフトで指名を待つ選手みたいだった」と言った。

もちろん年末年始にも配達の仕事はあったし、特に年始には年賀状を配達した。以前からの「大量の年賀状をどうやってバイクに積むのか?」という疑問も解決した。結論、全部は積まない。簡単に概要を説明すると以下のようになる。たとえば、ここに一〇〇〇〇通の年賀状がある。配達ルート順に並べ替えられている。バイクに積めるのは二五〇通だとする。大晦日にバイクに積める分の二五〇通だけ積む。残りの九七五〇通はバイクには積めないので、最大積載枚数である二五〇通ずつ袋に分けて入れる。袋は三十九になる。その三十九袋を配達ルートの一戸建て三十九軒の玄関に、大晦日に置かせてもらう。毎年協力してもらっている三十九軒へは何か贈り物をしていたようだが、詳細は高橋にもわからなかった。大晦日に協力三十九軒への配達は結構大変だったようだ。そして、翌日の元旦は二五〇通を配達して空になったら袋の中の二五〇通を積んで配達をする。そしてまた二五〇通を配達して空になったら、次の袋の中の二五〇通を積んで配達をする。その繰り返しで三十九袋目を積んで空になったら、配達完了ということになる。

バイト期間中、郵便局の闇を高橋は少し見た。一部の局員は、年賀状の販売枚数を増やすために大量に購入してチケットショップで転売する。当然、損が出るがそれは自己負担である。それを自爆という。まるで原理主義者のように。原理主義者との違いは英雄にはなれないことと生きていること。生きるために失職しないための自爆だ。ふるさと小包でも同じような自爆はあったようだ。さらにたとえば、保険や貯金といった別部署でも、その部署らしい自爆があっただろうことは想像に難くない。お客を巻きこんでの、詐欺まがいのことがあったとしても不思議ではないし、民営化後には実際にそういう事件も報道されていた気がする。

年賀状を配達すると配達人としての日常が戻り、二月はあっという間に過ぎて、三月になった。六班の話題は高橋の配属先がどこになるかに絞られた。

配属先の希望地域はすでに文書で提出済みだった。近隣の市の名前と、それから近隣の府県の名前を記入した。どれだけ通勤時間がかかっても勤務する覚悟があった。長時間ならその間に長編小説でも読めばいい。高橋自身はどこに配属されてもやっていける自信があった。それは期待や希望ではなく確信だった。高橋は残りの人生の幸せの確信を手にしていた。

ちなみに希望に沿わない配属先に決定したときには、その決定を辞退(見送り)もできた。ただし辞退の際には合格者としての権利は失わないが、合格者リストの最後尾に送られてしまう。次の配属先が決まるまで何年かかるか、決まるかどうかも保証されない。高橋の場合は年齢制限があるので辞退して見送ったら次の指名は百パーセントあり得ない。

年表的に言えば、高橋は二〇〇一年六月から十一月まで外務試験のために勉強して受験して合格したということになり、二〇〇一年十一月から二〇〇二年三月まで郵便局でバイトしたことになる。

 

三月の祝日の翌日の夕方、高橋の妻はまだ仕事から帰ってこない。西日の差す部屋の隅に置いていた固定電話が鳴る(スマホなどない時代、ずいぶん昔のような気がする)。一瞬、どちらだろう?と高橋は思った。妻からか、それとも配属先を伝える電話か。でも呼出音を聞いていると「妻からじゃない。配属先が決まったんだ」と高橋にはわかった。受話器を取ると高齢者の男性の落ち着いた細い声が聞こえた。

「高橋さんのお宅でしょうか。高橋**さんは御在宅でしょうか。わたくし****郵便局の局長の…」

 ****の名前を聞いて、一瞬、思考が停止した。そこがどこかわからなかったわけではない。わかってしまったからだ。

局長は老人のようだった。「高橋さんの赴任先は私の郵便局です。ここで働きますか? 今すぐ返事をする必要はありません。ご家族とご相談の上、一週間以内に返事をしてくだされば結構です」。その声は村の長老のように高橋の心に響いた。「通えますか?」と高橋は質問をした。質問したあとで馬鹿なことを聞いたと後悔した。「そうですね。正確にはわかりませんが、難しいでしょうね。…辞退しますか?」。最後の質問は、たとえそうであっても仕方ないし、そうであったほうがあなたのためにも私のためにもよいのかもしれない、という懐かしい思いやりが感じられた。「辞退します」という答えを高橋は飲みこんで「家族と相談してからお答えします」と言った。

赴任先の郵便局は高橋の住む場所の隣の県だった。隣の県までなら電車で三十分もかからない。しかしその郵便局までは、朝一番早い八時過ぎのJRの特急に乗っても着くのは十一時少し前だ。八時半には局に出勤しなければならないから電車では無理だ。適当な電車がない。電車があっても通勤代はどうなるのか。仮に車で高速道路を飛ばしても二時間半以上はかかる。高橋は車を持っていない。スクーターは問題外だ。山を三つは越えないといけないだろう。雨の日もある。夜はどうするのか。高橋は広域地図と時刻表を何度も睨んだが最初から答えはわかっていた。通うことはできない。そんなことは長老の答えを聞く前からわかっていた。

「でも結論から言えば、お前は辞退せず、その温泉街の中の郵便局員として働いたわけだ」と高橋に確認した。この時期について高橋はあまり語りたがらない

「その日の夕方、仕事帰りの妻を駅に迎えに行った。すぐに赴任先を告げた。妻もショックだったようだ。『返事はまだだが辞退するつもり』と言うと、無言で意外そうな顔をした。『辞退しては駄目か』と聞くと、曖昧に笑った。一晩悩んだけど辞退できなかった」

 次の日、高橋は長老に電話して「お世話になります」と伝えた。電話の向こうから「後悔しませんか」と聞かれた気がした。バイト先の郵便局には辞表を出した。六班のメンバーからは、辞退すべきだったのではないか、次の赴任先の決定を待つべきではないか、と高橋に寄り添う発言も少なからずあった。高橋はうれしかったが、どうすることもできない。次の日、すぐに特急に乗って温泉街の郵便局に顔を出した。局長は長老というよりも田舎の小学校の校長のようだった。局員は内勤外勤合わせて十人程度。挨拶をすると、みんないい人そうだった。みんな田舎のエリートという顔をしていた。自転車とか軽自動車とかで三十分とか一時間くらいのところから通っているらしい。高橋とは明らかに違う人たちだった。

高橋の小旅行は顔見せだけが目的ではなかった。住むところを探さなければならない。局長の紹介で駅前の木造アパートに行ったが、なぜだか難航して、結局貸してもらえない。土地勘もないし知り合いもいない。そんなところで部屋が見つかるのか。見つからなければいいのにと思いつつ、商店街の不動産屋に飛びこんだら、1Kの部屋があっけなく見つかった。この部屋の大家の住所は(皮肉なことに)高橋夫婦が暮らす団地から十分以内だった。

四月から始まる研修前に引っ越しを終えた。引っ越したのは高橋だけだった。高橋はまた独りの生活に戻った。高橋の奥さんは団地に残った。高橋の奥さんは母親を置いてはいけない。母一人子一人で生きてきたから。義母は見知らぬ土地では生活できないし、生活したくもないし、独り娘の夫が単身赴任をすることに対して、少しの疑問もなかった。引っ越し費用は義母と実母から出してもらった。義母には結婚生活に伴う金も出してもらっていて返せないままだった。高橋の勤務局は田舎にあった。物価が安かったから、月給の半分以上を奥さんに送金しても暮らしていけそうだった。

二週間の研修はあっという間に終わった。朝のラジオ体操のあとは座学ばかりだった。研修内容は想定の範囲内だったから高橋には退屈だった(終了試験で九十八点を取った)。四十人の研修生たちは、みんな社会人(フリーター、サラ金、水商売、自衛隊などの)経験があった。一人を除いて全員の赴任先が通えない局だった。通える一人も二時間半かけて車で通うしかないそうだ。既婚者は最高齢の高橋だけだった。研修生たちは、いろいろな事情を抱えていたようだが、お互いにそこまで語り合う時間はなかった。

四月中旬から郵便局での仕事が始まった。仕事そのものには特に問題はなかった。高橋がバイトしていたエリアに比べれば広いが、会社も店舗も住民も少ないので、配達ルートも住民構成もすぐに覚えた。郵便の仕分けや配達はどこでも同じだ。

高橋が困惑したのは田舎特有の詮索好きである。「なぜ単身赴任なのか」「奥さんも引っ越せばいいのに」「奥さんのお母さんも引っ越せばいいのに」「住民票をなぜ異動しないのか」「スクーターを置いてきたのはどうしてなのか」。曖昧に笑いながら適当にあしらったが正直辟易した。

高橋は赴任してすぐに局長に尋ねた。

「妻の元に帰ることはできますか? 地元の局に異動できますか?」

「何年先かわかりませんが、実績を積めばできないこともないと思いますが、今は何も言えません」

 高橋は局長が嘘をついていることがわかった。薄っすら泣いていたからだ。妻の元に帰ることはできない。異動などできるわけがない。たとえ実績を積んだとしても。

 局長の「実績」とは何か。当時このような田舎の小さな郵便局では、外務員は配達だけでなく外交員としての働きもしなければならなかった。つまり簡易保険や郵便貯金を売るのだ。新規契約を取ることが求められた。その売り上げが実績だ。新人の一年間は先輩のフォーローに回りながら仕事を覚えるが、そのあとは独り立ちする。

郵便を配達するなら田舎のほうが簡単だ。なぜなら人の動きが少ないから。大きなマンションなど建たない。住民が爆発的に増えることもない。住民は減少する一方だ。つまり外交員としては最悪の状況だ。すでに住民は保険も貯金も契約済みだ。それぞれの住民には担当の外交員が貼り付いている。地縁血縁も何もない高橋には手も足も出ない。新規開拓など不可能なのだ。

配属が決まり研修を終え転居してから、高橋の鬱は加速度的に地獄化した。仕事中は何とか平静を保った。職場の人は基本的には田舎のいい人たちだった。苛めもなかったし仕事も教えてくれた。高橋が仕事を終えて帰宅するときに、同じ方向に帰る年下の先輩がわざわざ遠回りして軽自動車に乗せて部屋まで送ってくれた。一時間に一本しか来ない帰りの電車を待つ高橋を見るに見かねたからだ。部屋に帰ってからが地獄だった。奥さんに携帯で電話をすることが唯一の楽しみだった。月の携帯代が高橋の月給の半分の半分を超えることもあった。週末の土日は奥さんの元に帰った。金曜日の夜中発の夜行列車で帰り、土曜の朝に奥さんの元に辿り着き、日曜の夜中に独りの部屋に帰った。金曜の夜は天国だが日曜の夜は地獄だった。週末の交通費は高橋の月給の半分の半分を超えることもあった。つまり携帯代と交通費で高橋の給料の半分は消えていたことになる。奥さんへの仕送りはどうなっていたのだろうか。計算が合わないところをみると貯金を食い潰していたのかもしれない。

当時の地獄について高橋ははっきり言わない。奥さんへの暴言や暴力もあったかもしれない。辞退できなかったことを奥さんのせいにしたかもしれない。高橋の孤独な状況、平日の逃げ場の無さ、週末の明暗、月曜日から始まる絶望感。自死を選んでも不思議ではなかった。

「配達中にいつも大きな川が見えるんだ。そこに落ちたら死ねるかといつもいつも考えていた」と高橋は地獄を簡潔に表現した。高橋は完全に仮面鬱だったから、局内で鬱を知る人は誰もいなかった。

 何とか危ういバランスを保っていた高橋の足元を揺らすことが起こった。実際にはまだ起こっていなかったから、それは確実に起こる予言と言うべきかもしれない。

 ある月曜日の朝、そろそろゴールデンウイークの気配が漂うころ、先輩から、こう言われた。

「高橋君、相談なんだが。毎週の週末に帰っているようだけれど、高橋君が連休にすると他の局員が連休にできないんだ。悪いけど、高橋君は優秀だし仕事も覚えたことだし、平日に飛び飛びに休んで、土日に仕事してもらえないかな」

 先輩の口調は穏やかだったが、それは相談ではなくて決定で、局員の総意のようだった。高橋が赴任する前は、そうやって勤務シフトや休日のシフトをやりくりしていたのだろう。ゴールデンウイーク前に高橋に釘を刺しておきたかったと思われる。先輩の言い分はもっともだと思ったが、鬱の地獄にいる高橋には相手が望む答えを即答できなかった。飛び飛びに休む、つまり連休ではなく単休では、朝着いた高橋はその日の夜帰らなければならないし、それを繰り返すと単純に交通費も倍かかる。高橋は曖昧に笑って「週末家族と相談します」というのが精いっぱいだった。

 その週の金曜日、午後の配達が終わって局に帰ると、局長室に呼ばれた。

「高橋君、相談なんだが。実は※※※※局に異動してもらえないかと思って」

 驚いた高橋はうまく口が回らなかったが二つだけ質問した。

「いきなり異動ですか? 私の家から通えますか?」

「いきなりじゃないんだ。実は異動は前から決まっていて。※※※※局のほうの事情で一旦、私の局で君を預かることになっていただけで。それを言ってなかったかなあ。今住んでいる所からなら通える。車で一時間くらいだから。もちろん電車やバスはないけど」

 局長のこの言葉に、さらに高橋は驚いた。「前から決まっていた」ということなど聞いていない。局長は高橋の「私の家」を「今住んでいる所」と誤解している。高橋の「私の家」とは「毎週末帰る部屋」だ。そのうえ局長は高橋が車を持っていないこと、ペーパードライバーであることを知らない。

局長のそれは、先輩のそれと同じく、相談ではなくて決定だった。鬱の地獄にいる高橋には相手が望む答えを即答できなかった。できるはずがない。高橋は「週末家族と相談します」と小さく絞り出して、局長室を出るだけだった。曖昧な笑いすら浮かべられなかった。局員が高橋の顔をこっそりとうかがっていた。どうやら局員にとっては既成事実だったのだろう。この相談という決定は、いきなりではない。前から決められていた異動なのだ。高橋は最初の電話の、あの感じを思い出した。局長はあの電話で、高橋が辞退してくれることを望んでいたのだ。高橋が辞退すると言うのを、じっと息を潜めて待っていたのだ。狡猾な老猿のように。

その週末の金曜の夜、高橋はいつものように夜行に乗って、奥さんの待つ部屋に帰った。奥さんと過ごした土日に何があったのか、どんな会話があったのかわからない。高橋はそのことについて一切触れない。私もそれについて質問しない。ただいつもと違っていたであろうことはわかる。

週末明けの月曜日、高橋はいつものようには郵便局には出勤しなかった。高橋はあの田舎の局を欠勤した。仕事が始まる九時ちょうどに局に電話して、局長を呼び出してもらい、こう告げた。

「妻の具合が悪いので、休ませてください」

 高橋の奥さんの具合は少しも悪くなかった。体(というよりも心)の具合が悪いのは高橋のほうだった。そのあと、高橋はゴールデンウイークを休み、土日を休み、その間にあった平日は有給休暇を消化して、欠勤を続けた。その間、局の先輩からは「奥さんは大丈夫か」「奥さんと奥さんのお母さんと、こっちで一緒に住んだらいいのに」「いつ復帰するのか」「辞めるしかないのか」という電話が携帯にかかってきた。高橋は、妻の具合はよくならないし、一緒にそっちでは住めないし、辞めることになるだろう、と伝えた。局長に伝えると、形ばかりではあるが慰留された。しかし翌日には、早めに辞表を提出するように、と言われた。

六月になるまで局には一度も戻らなかった。六月になって二回だけ戻った。一回目は引っ越しのために、二回目は別れの挨拶のために。二回目のとき、局に顔を出して「短い間でしたが、いろいろありがとうございました」と言った。局員の反応は微かなものだった。この人は誰だっけ、こんな男いたかな、ちょっとだけ一緒に働いたよな、それはまるで旅人の顔を見るようだった。退職のための書類に印鑑を押したり、辞表を提出したり、すべては呆気なく終わった。郵便局から出てしまうと、高橋は旅人ですらなかった。

夕方の特急に乗った。中途半端な時間のせいか列車は空いていた。自分がいるべき場所に帰れると思うとうれしかった。ただただうれしかった。その夜、高橋は奥さんの待つ部屋に戻った。音のしない雨が降っていた。

「温泉街の郵便局だったんだろう? それなら温泉に入れたか?」と尋ねたことがある。

「一度もない。温泉は嫌いだよ。疲れるから」と笑った。

「悪いことばかりでもなかったんじゃないか?」と私は楽しいエピソードを知りたかった。

「不動産屋の息子と母親の人のよさ、春の川辺の桜、歓迎会の飲み食い、配達中に出会った狸や鹿、鳶に燕、『郵便屋さーん』と手を振る子供たち、ご苦労さんという優しい労いの声、昼下がりの小さな港、賑やかな小学校、お寺や神社、沖に小さく見える鳥居、洗濯物が翻る駐在所、古いお屋敷、入り組んだ崖沿いの道、温泉街をそぞろ歩く浴衣の観光客たち」と思い出すように語る。

「悪くなさそうに聞こえる」と言ってみる。

「でもそれは孤独で地獄だ。そこに馴染むことはできない。問題はこっちにあるから。こちらが変わらない限り馴染めない」と思い出にふたをする。地獄もそれ以外も終わったことにする。

「辞退すべきだったか? 単身赴任じゃなければ違う結末になっていたのか?」と最後に尋ねる。

「わからない。そのときは帰ってこられただけでよかった、と思っていた。でも自分は三十九の春に変わったと思う。それは成長ではなくて、うまく言えないけれど、何て言うか、老化だ。強烈な鬱のせいで加速度的に年を取ってしまった。そのせいで何かが損なわれて元には戻らない。細胞がすべてバラバラになったあと、もう一度拾い集めて組み立てると、元に戻ったように見える。でも違うんだ。何が違うのかわからない。でも違うことはわかる。拾い集め損ねた細胞を探そうとするけれど、どこにもない。見つからない。見た目が同じで中身が違う自分として生きている。それはもう以前の自分ではない。幽霊みたいだ」

 高橋は郵便局に二〇〇二年三月から二〇〇二年六月まで在籍していたことになる。実際に働いたのは、研修と有給と土日祝と欠勤を除けば、五十日程度だと思われる。仮に高橋が幽霊だとすれば、五十日は五十年だったかも知れない。三十九がいきなり八十九なら確かに死んでいる。

 

 高橋が幽霊であるかどうかわからないが、高橋は強烈な地獄のような鬱を抱えて仕事を探した。死んだほうが楽だと思いながら仕事を探した。まだ自分に何かできると思っていたのか。それとも死にきれなかったからなのか。前年の今ごろは印刷工を辞めて外務員を目指していたころだと思い出す。たった一年の間に起こったことだとは思えないあれこれが、高橋をさらなる地獄に落としていった。高橋は廃人のように二カ月を無為に過ごした。

 何とか気力のようなものが少し生まれた。外に出てもいいような気分になった。久しぶりに図書館に出かけた。読みたい本はなかったので新聞を読んだ。求人欄の紙面を見た。自分には何ができるだろう。広告文案か倉庫軽作業か。そのとき三行広告に目がとまった。Pだった。高橋が一九九八年三月から一九九八年七月に勤めていた広告プロダクションだった。あのときは会社組織ではなかったはずだが、少なくとも今では会社のようだった。高橋が駄目元で電話をかけると、社長が「久しぶり。明日からできるか」と言った。履歴書も面接も何もなかった。

 翌日から、仕事をした。四年ぶりだったがマンションの狭い部屋は何も変わっていなかった。高橋は埃だらけの薄暗い部屋の隅で仕事をした。不動産広告だったり、インチキ健康食品だったり、どうでもいいようなガラクタ通販商品の文章を書き飛ばした。社長の右腕の、あの女はまだいた。苛めようとする性格の悪さも相変わらずだった。新しい若い社員もいたが相変わらず疲弊していた。やりがい搾取という言葉の実態が目の前にあった。Pでの仕事は高橋にとって少しも楽しくはなかった。ただの地獄だったが温泉街の孤独よりは少しはましな地獄だった。少なくとも奥さんの元に毎日帰れた。

結局、高橋は年末に辞めた。長居をするつもりはもともとなかったから、特に思うこともない。相変わらず不思議な会社だった。実際に会社組織の裏には何かがあったようだ。どこかの資本が入っていた。高橋は、それは特定の個人ではないかと推理した。根拠はないが、そんな気がした。その誰かが社長に圧力をかけたようだ。

辞めることになった直接のきっかけは苛めだった。あの女からの苛めなら慣れているが、それは社長からだった。最初、社長は高橋と飲みながらこんなことを言った。

「三流大学出は、まともな会社に入れない。まともでない会社に入っても、まともな社員教育を受けられない。だから駄目なんだ。この会社はまともな会社を目指している。お前はどう思う?」

高橋には社長が何を言っているのか理解できなかったので「よくわからないですが」と答えた。すると社長はイライラしながら話を続けた。

「あの女は一流大学を出た。俺はあいつよりも下だが二流大学を出た。お前は?」

「三流ですが、それが何か問題になりますか?」

「だから駄目なんだよ。お前は」

 高橋は違和感を覚えた。高橋が三流大学出であることは、四年前から社長も知っているはずだから、今さらそれを理由に「お前は駄目だ」というのは妙な話だ。学歴なんか重視していない、ということは暗黙の了解であり、あの女の組織内での暴走を防ぐ意味でも、重要な了解だったはずだ。それを今になって、なぜだ。まともな会社を目指すなら勝手に目指せばいい。まともな会社には、まともな学歴の社員が必要だから高橋には辞めてもらう、という意味なのだろうが、それならクビにすればいい。遠回しな苛めなど不要だ。

「クビにすればいいじゃないですか? 三流大学出を理由に」

「クビになんかしないよ俺は」と、その夜の会話はそれで終わった。

 年末の少し前に仕事が落ち付いた。忘年会が開かれたようだったが高橋は呼ばれなかった。「どうして高橋さんは来なかったんですか?」という若い社員の言葉で、忘年会があったことを知ったくらいだった。若手社員の情報によると、来年早々にオフィスを移転する、新卒を大量に採用する、中堅社員は高額報酬で同業他社からヘッドハントする、らしい。

 その年の最終日に出勤すると、高橋の机と椅子がなくなっていた。社長も右腕の女もいなかった。忘年会の件を教えてくれた若い社員が「高橋さん辞めるんですってね。短い間でしたが、ありがとうございました」と言った。高橋は「こちらこそ、ありがとう。悪いけど、これ社長に渡しておいてくれないかな」と用意した辞表を若い社員に渡した。

 高橋のPへの出戻りは二〇〇二年八月から二〇〇二年十二月で終わった。酷いことをされたとは高橋は思っていないようだった。「まともじゃないという意味でなら、お互いさまだ。自分を必要とする会社はその程度だ。仕方ない」。すでに高橋は四十歳になっていた。

 

第四章 四十代

 

 私は高橋の大学時代からの友人だが、高橋との思い出は少ない。バイトの帰りに部屋に寄ったり、居酒屋で飲んだり、お互いに読んだ本や聴いた音楽を語り合ったり、そのくらいだった。いつも静かに狭い空間で語り合っていたような印象がある。私には大学時代に高橋のほかにも友人がいたし、そういう友人たちとはバイクで遠出もしたこともあれば、キャンプのような野宿体験もあるし、大勢で映画を観たこともある。しかし高橋と一緒に過ごしたとか、そういうエピソードはほとんどない。高橋には私以外に友人と呼べる存在がいたのだろうか。面と向かって尋ねたことはないが、いたとしても数は少ないだろう。今はどうなのだろうか。さらに私には大学以外の高校時代の友人とも少しは交流があった。地元を離れた高橋はどうだったのだろう。高橋から「地元の友達が遊びに来ている」と言う台詞を聞いたことはなかった。はっきりと聞いたわけではないが、高橋は地元を捨てたのかもしれないし、地元から棄てられたのかもしれない。

今になって思えば高橋は大学の外に友人や同志を求めたのかもしれない。前述のように高橋は大学三年のころはコピーライターを養成する学校に通っていたし、四年のころ(卒業の一年前)から働いていたのも、そこに友人を求めたからかもしれない。しかし転職を繰り返す高橋には継続的な人間関係を築くことは難しかった。そういう意味で結婚できたことは奇跡的だった。

私と高橋は大学を卒業した年の半年間くらいは音信不通だった。お互いに忙しかったからだ。特に私は社会人として会社や社会にアジャストする必要があった。まともな服を着て、まともな髪型にした。私が月に一万円以上も小説を買って読んでいることは、私が勤務する会社の人間に知られてはいけないようにさえ感じた。鬱病になるほどの葛藤はなかったが、自己肯定感が剥奪されるような違和感は確実にあった。私から見れば高橋は大学五年生に見えた。自由な雰囲気の広告会社にバイトから入って正社員になった高橋は、私の目には「楽しそう」であり「楽をしている」ように映った。

半年後に高橋から唐突に電話があった。「久しぶり。暇なら飲もう」という誘いだった。その夜の会話で私は確か、自分が受けた新人研修の合宿について高橋に話したはずだ。

「富士山の裾野で、夜中にジャージ着て、集団で走らされるんだぜ。信じられるか?」という私の話に高橋は大笑いした。私もつられて笑った。笑えている自分に私は安堵した。

「笑いごとじゃなくて、それが研修なんだよ」

「意味あるのか? そんなことして」

「意味なんかないさ。そういうのは、ある種の通過儀礼なんだよ。儀礼は儀礼さ」

「よく走ったね。俺にはできない。尊敬するよ。俺にはとてもできない。体力的にはできるかもしれないけど精神的には絶対にできない」と言う高橋の言葉に皮肉は感じられなかった。もし少しでも感じられていたら、私は高橋を殴り倒して店を出て行っただろう。私は話を続けた。

「だって走らなければクビだぜ」

「クビ? そうなると儀礼を超えて『踏み絵』だね」

「かもしれない。でもな、お前もいつかどこかで踏むことになるよ、きっと」

「どうかなあ」

 そのあと高橋がどう答えたのか。私の記憶は曖昧なままだ。話の流れからすれば高橋は「それでも俺は踏まない」と答えたのだろう。

 私は新卒で入った会社に二十年いた。商売を覚え、人脈を築き、金を貯め、金を借りて、今の店(婦人服のセレクトショップ)を開いた。それから二十年くらいか。結婚もしてマンションも買った。娘もいる。外から見れば幸福に見えるだろう。私が最初に踏み絵を踏んでから、そろそろ四十年。その間にも、何度も踏んだはずだ。その都度、私は違和感に包まれた。そのことが私はうれしい。いつまでも消えない熾火のように、心のどこかにそれがあることが、まだあることが私を幸福な気持ちにさせる。

 高橋はどうだろうか。転々とする高橋は四十年の間に一度も踏み絵を踏まなかったのかもしれない。いや踏めなかったのかもしれない。鬱病(死神)が踏ませないのかもしれない。踏めば死神は消えるのだろうか。わからない。踏まずに踏めずに、転々とする高橋は幸福か。それとも不幸か。決めつけることは誰にもできない。そんなことは本人が決めることだ。本人にもわからないかもしれない。

 

 最初に記したように、この長い話は高橋から聞いた話や高橋が語った言葉を基にして再構成した物語である。われわれは、二十歳過ぎから四十歳手前まで断続的な友人関係にあって、十年程のブランクを経て再会した。そのブランクのころに彼は結婚し、私は店を開いた。高橋から結婚の通知は来なかった。私は高橋に開店の葉書を出した。高橋の新居に転送されたのだろう。その葉書を持って高橋が店に来たのは開店して十年後だった。お互いに十年間の不在を感じることはなかった。高橋は相変わらず大学生のように気楽に見えた。私は高橋の壮絶な鬱を知る由もなかった。それから友人関係が復活して十年以上が経ったころ、また消えた。

 

 高橋の転職史に話を戻そう。高橋と私のブランク時代における、高橋の転職話は、ブランク後の十年分の再会を重ねながら、私が聞き出したものだ。

高橋は四十過ぎたが正月も無職のままだった。あらかじめ言っておけば高橋の四十代は、やはり「地獄」である。酷い地獄と、少しましな地獄。どちらにしても地獄だ。そこに鬱が影のように貼り付く。もちろん職を転々として年ばかり取って止まることはない。先を急ぎ過ぎないように、その転がり具合を一つずつ見ていこう。

 

 その年の2月に高橋は職安でTという会社を見つけてきた。安全靴の製造販売会社の倉庫で、発注伝票に従って安全靴を段ボールに詰めて全国に発送するという簡単な仕事だった。面接のとき三カ月経ったら正社員にするという約束だった。それまでは最低時給だが高橋は我慢して働いた。高橋の奥さんも最低時給に驚いたが正社員になれるという希望があったので喜んでくれたそうだ。

倉庫は支社機能もあったので営業マンが二人いた。営業マンAは姿勢と目つきの悪い男で高橋よりも少し年上だった。倉庫責任者を嫌っていたが理由はわからない。営業マンBは大声の固太りの小柄な男でAよりも少し年上のようだった。お互い別々に倉庫でサボっていた。お互いにお互いを嫌っていた。あいつ馬鹿だぜ。あいつ鬱だぜ。高橋の前で陰口をたたいた。どっちが馬鹿でどっちが鬱だったか覚えていない。ほかには事務員が二人いた。狸と狐みたいな女たちだった。年齢は不詳でいつもテキパキと事務仕事をしていた。特に会話らしい会話をしたことはなかった。お互いに興味がないのだから仕方ない。高橋は昼休みに行くところもないので、晴れた日は近くの川の土手で空を見て過ごした。雨の日は倉庫の中で段ボールに囲まれて、図書館で借りた本を読んだ。他人の人生を生きているような気分だった。ある日、倉庫の壁に安全靴のポスターが貼られていることに気づいた。日焼けした古びたポスターだった。よく見ると、かつて高橋が駆け出しのコピーライターのときにつくったものだった。泣き笑いになった。ずいぶん遠くに来てしまった。

三カ月はあっという間に過ぎて梅雨入りした。いつ社員になれるのかと倉庫の責任者に尋ねると、そんな約束はした覚えがないと言われた。三年の間違いじゃないかと嗤われた。それだって確約じゃないけどなと念押しされた。言いようのない不信感に包まれた。いつもこんな感じだと自嘲して、高橋はすぐに辞めた。二〇〇三年二月から二〇〇三年五月まで働いた。バブルのはじけたあとの微かな温もりも消え、労働者は使い捨てにされようとしていた。そろそろ高橋にも派遣の時代が来る。それは高橋にとって何を意味するのか。そのときはまだわからなかった。

 

高橋は無料の求人誌を見つけた。たまたま通りかかったスーパーの店頭のラックに無料の求人誌があった。高橋が望むような募集があるとも思えなかったが、そこにUという会社を見つけた。派遣会社だった。派遣先の会社は帽子の卸会社の倉庫だった。仕事は薄暗い倉庫の中で、入庫される大量の段ボール(中身はあらゆる種類の帽子)をトラックコンテナから運んだり、伝票通りにピッキングして段ボールに詰めてトラックに乗せたり、帽子にタグを付けたり、である。(応募の時点ではよくわからなかったが)仕事がきつい割に最低時給であること、職場である倉庫が(電車やバスを下車しても徒歩三十分くらいかかる)辺鄙なところにあるため不人気で、人手不足だったから高橋は即決だった。

 高橋は毎日スクーターで通った。雨降りには電車を使ったが、下車後に迷って、徒歩で疲れ果てて、遅刻して以来、雨の日もスクーターに乗った。仕事そのものは楽しくもなんともなかった。きついだけだった。体がボロボロになりそうだった。仕事を教えてくれた年上のベテランは普通の人だったが、ちょっとした誤解がもとで苛められるようになった。真夏の倉庫で熱中症になりかけたことが引き金になって、高橋はUを辞めた。二〇〇三年六月から二〇〇三年八月までの三カ月だった。このころは自分でもあきれるくらいに短期間ばかりだったよ、と高橋は言う。

 

 今度は高橋は職安で職探しをした。職安には毎日スクーターで通った。半袖の腕はバイクの手袋の部分を除いて真っ黒に日焼けした。職安で書くような仕事を見つけても高橋は応募しなかった。どうして?と尋ねると「怖かった」と高橋は言った。「もう何も書けないような気がしたから」。

高橋はVという小さな工場で働くことになった。パッキンをつくる工場だった。まさかそんなところに工場があるとは思わなかった。高橋が独身時代によく通っていた大きな図書館の裏である。すぐ近くに桜のきれいな公園があり、野良猫が平和にうたたねをするような、そんなところである。実際に地下鉄の駅を地上に出て、開館前の図書館の傍を通り、公園を抜けて、その工場で働いた。

職安で見つけたとき、職安の担当者は「応募はやめたほうがいいかもしれませんよ」と顔をしかめた。理由を尋ねると「短期間に何人も採用しているのに、短期間に何人もクビにしているようだから、危ない会社かもしれません」と過去のデーターをパソコンで見ながら答えてくれた。

その忠告を無視して高橋は履歴書を持参して面接を受けて、その場で採用された。あっけなかった。もちろん高橋はパッキンのこともパッキンがどのようにつくられているのかも何も知らなかった。深い皺が目立つ初老の社長から面接のとき「パッキン、知ってるか?」「工場で働いたこと、あるか?」「その腕の日焼け、ゴルフか?」と聞かれた。面倒くさいので答えはすべて「いいえ」で答えた。

 工場で働くようになって機械部門に配属された。機械室で高橋は一カ月間、先輩のうしろから、ただじっと作業を見ていた。機械室には四台のプレス機があった。高橋が何もしなかったのには理由がある。採用が決まったときに社長から「工場長の指示に従うように」と言われた。コロッケでも揚げているほうが似合いそうな女性工場長からは「とりあえず先輩の仕事を見て」と言われた。その先輩作業者(不良上がりの日本料理人みたいな中年男)からは「邪魔するな!」と言われた。だから何もせず見ていたのだそうだ。

高橋は一カ月間に二つのことを理解した。パッキンとは物と物の隙間に入れて緩衝の役目をするものであること。機械にパッキンの型抜きをセットして、その下に材料シートを置いて、何トンもの重りでプレスすると、型抜きされたパッキンができあがること。さすがに一カ月過ぎるころ、見ていてばかりではいられないと思った。

「プレス機の操作を教えてください」と工場長に頼むと、工場長が先輩に何かを囁いた。先輩は首を振った。工場長が「検品に回って」と命令した。私はその日から検品に回った。高橋はプレス機の操作を特に覚えたかったわけではないので、自分の指をプレスする前に、検品部門に送られたことを幸運だと思った(印刷機に指を挟まれた経験があるだけに)。

 検品部門は機械室の隣にあった。検品室には五つの机があり四つの机で女の人たちが、明るすぎるほどの照明の下で、黙々と作業をしていた。パッキンに割れや傷がないかを目視で確認して、問題なければ粘着テープでパッキンの埃やゴミを取り除くのが検品の仕事だった。部屋の隅にある空いた机が高橋の場所だった。高橋の隣で作業する中国人の女性が丁寧に教えてくれた。

 隣同士で仕事をしているうちに中国人の女性と会話をするようになった。彼女は中国で日本人の男性(今の旦那さん)と出会い結婚した。旦那さんは日中合弁企業で働いていたが、日本に帰国することになり、一緒に日本で暮らすようになったという。

「私は中国人。大連で生まれた。大連はアカシアがキレイ。大連の頑丈な建物は日本人が建てた。日本人の旦那さんがいるから今は日本人。私のお父さんは中国人でお母さんは日本人で旦那さんは日本人。今は私のお母さんと旦那さんと3人で日本に住んでいる。一人娘は独立して出てった。お母さんは残留孤児。開拓とかではなくて、もともと中国に住んでいて商売。日本が戦争に負けて日本に逃げるときバラバラになって置いて行かれて。可哀想以上に可哀想。その女の子を匿って育てたのが、お母さんの両親。中国人の養父母。逆だったら日本人のあなたできる? 当時隠していたけど近所にはバレていたみたい。周りに恵まれたって言っていた。助けることもできない代わりに意地悪もしない。告げ口もしない。見て見ぬ振り。食べ物とか、くれたって。そうやって何とか育って大きくなって、お母さんはお父さんに出会って結婚。お父さんはお父さんの両親に反対されたわ。お母さんは日本人だから。私より日本語下手だけど。結婚して私が生まれてお父さんの両親も、孫の私が、可愛いから許してくれて。まだまだ我が家の波乱はある。革命、文化大革命。お父さんは学校の先生だった。無理矢理、先生を辞めさせられて田舎で田んぼと畑をやれ、って。できるわけない。本より重い物、持ったことないのに。大連から地の果てみたいな田舎に送られて。家族みんなで。私もお母さんもお父さんが死ぬと思った。お父さんは痩せっぽちで結核だったから。農民になったら体を壊して死ぬって。もう駄目だなって、お父さんも自分であきらめていた。でも文革のころは、お父さん死ぬどころか元気になって筋肉隆々になって結核も治ったの。それからあとは中国のお母さんの両親が亡くなったり、中日友好のお陰でお母さんが日本人のお父さんと会えたり、でも日本人のお母さんは病気で死んでいた。私の人生がすごい、って? 別に、すごくない。みんな同じ。産まれて、生きて、死んでいくだけ」

 高橋は残留孤児とか文革とかを聞いているうちに、氷工場の老人からシベリア抑留を聞いたときと同じような感慨に包まれた。人は誰もがその人なりの歴史を抱えて、その人なりの歴史の先端を歩いている。

 高橋は中国人の女性と少し仲良くなって、簡単な中国語を教えてもらっているうちに年末になって、いきなりクビになった。「二カ月分の給料を振り込むので文句言わないように」と工場長に言われた。あのときの職安の担当者の顔が浮かんだ。誰にも文句を言うつもりはなかったが高橋はクビの理由を聞きたかった。理由は告げられなかった。二〇〇三年九月から二〇〇三年十二月まで勤めたことになる。私は転職をしたこともないしクビになったこともない。どこから見ても高橋はいきなりクビを宣告されるような人間ではない。それでも高橋はクビになったのだから、私の知らない高橋がいたのだろうし、私の知らない会社は山ほどあるということなのだろう。高橋の話を聞くうちに仕事が安定するということは奇跡に近いと思うようになった。

 

 次の仕事はなかなか見つからなかった。失業保険は出なかったから二カ月分の給料が消える前に見つけなければならない。スクーターで職安に何度も行ったし無料の求人誌もめくったし図書館で新聞の求人欄も読んだ。それでも見つからなかった。やっと春になる前に見つけた。結果的に高橋はきつい仕事しか見つけることができなかった。

 その仕事はWという商社の倉庫での軽作業だ。倉庫は高橋の住む団地から二時間半かかる場所にあった。二時間かけて馴染みのない私鉄の知らない駅を降りると、送迎のマイクロバスが待っているので、それに乗りこむ。煙草とガソリン臭いバスに半時間揺られると倉庫に着く。

倉庫は飛行機の格納庫ほどの大きさがあった。その中に三段の大型な棚がいくつも並んでいた。壁だけの三階建のマンションの部屋が並んでいるような感じだった。毎朝、倉庫にはインドや中国などから布製品(カーペットやシーツやタオルやカーテンの生地など)を詰めこんだ段ボールがコンテナに満載されて運ばれてくる。十六フィートのコンテナの扉を開けると得体の知れない臭い(防虫剤の臭いか)が倉庫に漂う。わけのわからない臭いがする段ボールを荷下ろしして、棚に収め、検品し、注文ごとに商品を探し出し、段ボールに詰めこみ、段ボールを出荷用のトラックのコンテナに入れる、という一連の仕事を倉庫作業員たちは手分けしてこなす。

もちろん倉庫には(倉庫内にある二つのプレハブを除き)冷暖房などはない。格納庫全体を冷暖房できるような設備はなかった。公園のトイレ並みに汚れたトイレがあるだけだった。二つのプレハブの内の一つは六畳ほどの事務所だった。そこにはエアコンとパソコンが完備されていた。事務の女の人と倉庫長の部屋で、ときどき商社の営業マンが出入りした。作業員の出入りは、タイムカードを押すときと発注伝票を取りに行くときぐらいで、日頃用もないのに入るわけにはいかなかった。

作業はきつかったが氷工場時代に市場で物を運んだころに比べれば、少しはマシだったと高橋は言う。ただしフォークリフトの免許も運転経験もない高橋は、常に自分の力で重い荷物を運ぶしかなかった。作業員同士の仲はよくも悪くもなかった。これまでの思い出したくない経験もあったから、昼食は会社から天引きされないように、最初から安い菓子パンを一つ持参した。

高橋はすぐに全体の流れと仕事を覚えた。高橋の仕事ぶりを見ていた人がいた。カーテンの生地をカットする仕事の担当者の坂中さん(仮名)である。元大リーガーの安打製造機の誰かに声がそっくりだった。顔も似ていなくもない。高橋とは同年齢だった。坂中さんは「高橋は仕事ができるからカーテン担当にする」と倉庫長に言ったそうだ。あとで他の作業員に聞くところでは、これは実は大抜擢だった(誰でもやりたがる比較的楽な仕事だったから)。作業員の中で誰よりも仕事のできる坂中さんは、倉庫長からも一目置かれていたから、この決定に対して、ほかの誰からも文句が出なかった。

カーテン担当以外に、カーペットや寝具や衣類やタオルや、さまざまな商品ごとに担当者がいる。カーテン担当になったといっても、午前中はみんなと同じようにコンテナの積み荷を下ろさなければならないので力仕事から逃げることはできない。しかし午後からは力仕事から解放される。倉庫内のカーテン専用のプレハブ倉庫の中で、誰にも邪魔されずに、ひたすら注文通りにカーテンをカットすればいい。ちなみにカーテン専用のプレハブ倉庫にはエアコンがあった。汗でカーテンの生地を汚さないためである。

高橋の話を聞くまで、カーテンをカットするという仕事があることを意識したことがなかった、確かに世の中にはカーテンがあるのだから、誰かが生地をカットしているのだ。その誰かの一人が高橋だったわけだ。

どうやってカットするのか。カーテンの生地の幅は決まっているらしい。あとは長さだ。伝票には生地番号とカットされるべき長さが記入されているので、それに従って棚から生地を選ぶ。大抵カーテンの生地は硬い紙の筒を芯にして巻かれているのだが、そのロールになった生地を機械にセットする。カウンターに長さを入力すると機械が生地を回転させて生地を送り出す。送り出される生地を(手際よく作業者が両手で)別の紙の芯に巻いていく。機械が入力した長さまで生地を送ると機械は自動的に止まる。そこで作業者が人力で(カッターでスパッと)生地をカットする。

「トイレットペーパーのホルダーとペーパーの関係に似ている。ホルダーが機械でペーパーが生地だ。一メートル程度なら人の手でなんとかなりそうだが、十メートルではそうはいかない。機械が送りだしてくれるのは助かるけど、巻き取るにはコツがいる。巻き取る芯を機械にセットして、ちなみにセットされた芯も機械で回転させられているが、その芯に高速で送り出される生地を巻いていく。送り出される生地は左右にぶれがちなので、人の手で真っすぐ巻かれるように補正する必要がある。この補正にはコツがいる」と高橋は説明してくれた。強く押さえると送り出しが遅れるが弱いと生地が左右にぶれて、芯の左右からはみ出てしまう。その力加減を短期間に高橋はマスターした。

もともと高橋の仕事ぶりを高く評価していた坂中さんは、高橋のカーテン生地のカットにも満足した。二人の会話の中心は、最初は仕事ばかりだった。高橋が質問して坂中さんが答える。実際に言葉だけでなく、やって見せてくれた。坂中さんは常にオープンだった。頑固なところも偏狭なところも感情的なところもなかった。「自分のやり方はこうだ。押し付けるわけではないが、最初は完璧に俺の真似をしてくれ。その上で改善すべきことがあったら教えてくれ。それが、より迅速で、より完璧で、より効率的なら、俺がそれを真似させてもらうから」。そういうようなことを本気で口にする先輩であり上司だった。

坂中さんはそのうち個人的なことも話してくれるようになった。もう高橋に教えることがないからだった。坂中さんは偏差値の高い私立大学の法学部を卒業した。専門は刑訴、刑事訴訟法だった。その私大は国文の高橋でも知っているほど、法学部で有名な大学だった。卒業後、裁判官を目指して司法試験合格のために勉強したが、勉強できる時間を確保するために、この仕事を選んだそうだ。複雑な人間関係も時間つぶしの会議もないし、この仕事は頭を休めながらでもできるから都合がいいと言う。坂中さんは倉庫作業者としては頭がよすぎるのだろう、と高橋は思った。それでも現実は厳しい。なかなか合格できないまま四十二歳(当時)になった。

「なぜ弁護士ではなくて裁判官なんですか?」

「まともな裁判官が少ないからだ。一度、裁判所に傍聴に行ったらいい。俺の言う意味がわかるよ」

「失礼ですが、まだ裁判官を目指しているわけですか? 坂中さんの経歴と能力なら、もっといい仕事があると思いますが」

「最初の質問に関しては黙秘する。二番目の質問に関してはイエス。大学時代の友人が塾を経営している。何度も講師として誘われているが断っている。なぜ断るかと質問される前に答えるけど、勉強を教える柄じゃないし、自分の子供、三人の娘に教えるだけで十分だ。そのうえ今ではこの仕事を、経済的にも肉体的にも楽じゃないが、案外、気に入っている。それが最初の質問の答えかもしれないな」

 坂中さんの趣味はゴルフと将棋と数学と哲学だった。高橋はゴルフと将棋はしないが話が合った。馬が合ったのかもしれない。仕事以外で話すのは、そのときどきの世の中の事件についてだった。二人は休憩時間に、坂中さんが法学部出だからということもあり、弁護士と検察の立場で事件を分析した。すでに判決の出た事件についても自分が裁判官だったら、という思考実験を重ねた。機会があったら判例集を読むといいよ面白いから、と勧められたこともあった。

 高橋が坂中さんとの会話で今でも覚えていることがある。

「三つ下の妹が誤診で死んだ。妹が中学のころだ。最初の病院でただの頭痛だと診断された。家族もそうだと思った。それでも治らない。酷くなるばかりだ。大病院に行ったら即手術で入院。でも駄目だった。大病院の先生は、もっと早く連れてくれば…、と言った。最初の病院に、そのことを伝えたが回答はなかった。今みたいに遺族が病院を訴える時代じゃなかった。家族は諦めた」

「最高裁判所の裁判官の国民審査は、国民みんなもっと真剣に取り組むべきだと思うよ。ちゃんと調べれば裁判官の判決がわかる。そういう手間をかけることで今の日本の正義の方向とレベルを知ることができる。確かに×(バツ)をつけることに抵抗があるかもしれないが、だからといって思考停止がいいはずがない。×をつけないなら付けないという決定を、よく考えてからすべきだと思う。そういう些細で大事なことを国民が疎かにすると正義は綻んでいく。為政者はその綻びを広げようとしている」

「死刑制度は個人的には廃止にすべきだと思う。人は変わることがある。生きていれば変わることができる。変わらない奴もいるだろうから、死刑の代わりに本当の無期の懲役があるべきだと思う」

「仕事のできる人間に仕事が集まる。その分、精神的にも肉体的にも大変になる。仕事や責任が増えても給料は上がらない。サボってばかりで手を抜いて人に責任を転嫁するような奴でも、自分と給料は変わらない。それなのに、なぜ頑張るのか? それが俺だから。自分を騙すことはできないから。魂の問題だから。どうせやるなら何事も真剣にやりたい。サボることは得ではない。頑張ることは損ではない。損得じゃないよ。人は損得勘定で生きているわけではないだろ? どうせ人生百年足らず。サボるには長すぎるけど頑張ればあっという間に終わる。俺は死ぬときに後悔したくないんだよ」

 高橋も坂中さんと同じように必死に働いた。別の部門が遅れていたら手伝いに回り、ほかの作業員からも重宝がられていた。高橋は坂中さんに認められていることが単純にうれしかったし、そこからやりがいも生まれた。坂中さん以外のほかの人たちとのつながりは特になかったが苛めもなかった。コンテナから荷物を降ろすときの肉体的な疲労はいつまで経っても慣れることはなかったが、それでも職場の居心地はよかった。

 高橋にとって問題は給料だった。仕事を始めて三カ月間は試用期間で残業はゼロだったが、それ以後、坂中さんと一緒に仕事をして残業も同じようにした。バイトでも残業代は出るはずだった。それなのにいくら残業をしても給料は増えなかった。高橋は倉庫長に直訴しようかと思ったが、揉めごとになって辞めることになったら困るとも考えた。高橋はまず坂中さんに相談した。

「高橋がバイトでも俺と一緒に残業しているのに残業代がつかないのはおかしい。残業代のことだけじゃなくて、ここで一番仕事ができる人間なのに試用期間が終わっても、いつまでもバイトでいるのはおかしいから、社員になれるように俺が頼んでみる。お前のためだけじゃなくて、会社のためにも、そのほうがプラスになるから」と坂中さんは言ってくれた。高橋はその言葉がうれしかったし、その言葉に少しだけ期待した。

 すぐに坂中さんは倉庫長のところに行って、高橋の残業代が支払われていない理由を問いただした。倉庫長も知らなかったようだ。倉庫長が総務や経理に聞いてみるということで、その場は収まった。後日、人事部から回答があった。「サービス残業には残業代は支払われない。そのことを承知したから採用したのだ」という回答だった。その回答に坂中さんは怒った。もちろん高橋にとっては初耳だった。坂中さんが弁護士のように高橋の権利を守ろうとしてくれた。倉庫長を飛び越えて本社の人事や経理とも話し合っていた。しばらくすると、倉庫内で高橋が「残業代の不払いで会社を訴えるらしい」という噂が広がった。噂の出元はわからないまま、ついに高橋が本社に呼ばれた。

高橋は広い会議室の隅に立たされた。人事なのか営業なのか経理なのか、よくわからない男たちに囲まれて告げられた。「サービス残業には本来残業代は支払われないが特別に日ごろの業務を考慮して相当分を支払う」。だから訴えるな、というムードだった。訴えるつもりなど最初からない、と言おうとしたが、高橋の発言を待たずに男たちは会議室を出ていった。最後の男は蛇のような目をしていた。「倉庫番のくせに権利かよ」と言ってドアを閉めた。その声は小さかったが、今まで聞いたことのないくらいに侮蔑がこめられていた。相手を責める気持ちよりも侮蔑される自分を心底情けなく思った。

本社に呼び出された翌日、残業代は振り込まれたが、それが正しくタイムカードを反映しているのかどうか、高橋には判断することはできなかった。それも含めて、本社でのことを高橋は坂中さんに報告した。

「とりあえずやるだけのことはして、残業代を取ることができた。次はお前を社員にする。何度も言うけど、会社のためになるから」

その言葉を聞いて、そんなにうまくいかないだろうと高橋は感じた。蛇男の声を思い出したからだ。坂中さんの奔走も空しく、高橋は社員になれなかった。それどころか、物言うバイトは本社から危険人物とみなされ、原則更新の雇用契約は高橋だけが更新されなかった。実質的なクビであり、ほかの作業員への見せしめだった。

「それはおかしい。戦うべきだ」と言う坂中さんを高橋は宥めた。「いろいろありがとうございました。楽しかったです、勉強にもなりました、一緒に働けて。意味としては間違っているかもしれませんが坂中さんは『掃き溜めに鶴』みたいでした。僕はもう十分です。本当にありがとうございました。これ以上、僕のために声をあげると、坂中さんがクビになるかもしれないですから」

最後の仕事の帰りに坂中さんは焼き肉をご馳走してくれた。「野菜なんか食うなよ。肉だけ食え」と泣き笑いだった。

高橋はここで二〇〇四年二月から二〇〇四年十一月まで働いた。今でも坂中さんとは年始の葉書のやり取りがあるという。昔の縁を切りながら生きている高橋のような人間にとっては、たかが年賀状ではあるが、されど年賀状でもある。

 

年末年始に無職だった高橋は焦っていたのかもしれない。職安で「コイルを移動する仕事」を見つけた。Xという会社だった。ところでコイルって何だろう、と高橋は思った。ああ、あの小さなバネみたいなものか、それなら重くなさそうだ、できそうだ。そう思ったので応募した。すぐに面接になった。履歴書を持って隣の市まで出かけた。知らない私鉄に揺られて知らない駅に降りて知らない町を歩いた。寒風の中を出向いた甲斐があって即決だった。その日の内に、社長の車で工場まで連れて行かれた。車に揺られているうちに工場が見えてきた。大きすぎるように思えた。そこは製鉄所だった。ここでコイルをつくっているのだろうかと不安になった。

製鉄所の所長が社長を出迎えた。馬鹿でかい倉庫内にある煙草臭い狭い事務所で仕事の説明を受けた。この事務所はカーテンのときの倉庫の事務所に似ていた。

この製鉄所では鉄をつくるが、それ以外の仕事は複数の会社が請け負っている。できあがった鉄を一時保管したり、移動したり、(荷台に大型トラックが乗るほどのサイズの)超大型トラックに積みこんだりする仕事をXは担当している。ひと通りの説明のあと「質問は?」と所長に尋ねられたので「コイルはどこにあるんですか?」と高橋は質問した。「そこにある」と言われた。コイルは、そこにあった。倉庫に所狭しと並んでいた。幅一メートルくらいの鉄板がロール状に巻かれていた。直径(高さ)は一メートルだったり二メートルだったりさまざまだった。年輪を横にして立ち並ぶ銀色に輝く鉄製のバームクーヘン、それがコイルだった。一つ百キロはありそうだった。「どうやって運ぶんですか?」と聞くと「クレーン」と所長が工場の天井を指さした。よく見ると天井にレールがあってそこにクレーンがあった。クレーンの小さな窓に運転する作業者のヘルメットが見えた。社長が「高橋君には、コイルの穴にワイヤーを通す仕事と、そのワイヤーをクレーンのフックに引っかける仕事をしてもらう。慣れてきたら出荷の段取りとかもしてもらうつもりだ。とりあえず最初は見習いだ。まず玉掛の資格を取ってもらうことになる」と言った。

研修中に座学が一カ月間あった。所長が製鉄所における事故や安全について教えてくれた。高橋はひそかに鬼軍曹と呼んでいた。軍曹は警察の事情聴取を受けたことがある(と自分で言っていた)。五年ほど前、コイルの下敷きになって作業員が亡くなった。業務上過失致死。安全管理責任者は軍曹だった。軍曹は製鉄所の安全対策の不備を認めるわけでもなく、亡くなった作業者に対して「焦って作業するから死ぬんだ」と言っただけだった。焦らせたのは誰なのか?は、あえて聞かないことにした。

座学中に玉掛という資格を取得した。玉掛という言葉を生まれて初めて知った。取得のための費用は会社持ちだった。仕事を休んで教習所に二日間通った。そんな教習所があることも初めて知った。二日間、高橋と似たような中年の男たちが狭い教室の中で黙って学んだ。物体の比重のこと、重心や重量バランスのこと、荷重やワイヤーの特性と劣化のこと、さまざまなクレーンの特性(安全と危険)など。二日目の簡単な実技が終われば、筆記テストがあり、帰り際に資格証明書をもらった。落ちる人間は一人もいない。資格者証は免許証サイズで、初日に各自が提出した自分の写真が貼られていた。その顔は何だか知らない男の顔だと高橋は思った。

玉掛の資格を取ってから、高橋はコイルにワイヤーを通して(立てたバームクーヘンの年輪の真ん中の空洞に太い紐を通すイメージ)クレーンの運転手に合図を送り、フックを下げてもらい、フックにワイヤーを引っかけて、クレーンに引っ張り上げて移動してもらう(別の場所に保管するために、トラックの荷台に乗せるために)。移動先で先回りして待っていて、運転手に指示を出して、下がってくるコイルを誘導して着地させ、ワイヤーを外す。高橋はそんな仕事をこなした。

製鉄所は常に薄暗くて機械油の臭いがした。空気を吸いこむと肺が油まみれになるような気がした。倉庫内では複数の会社の作業者がそれぞれの仕事を黙々こなしていた。ちなみにXで働く作業者は、高橋を除けば五人だった。定年間近の白髪の老人、自動車工場経験者、大卒出の新卒、いつも不機嫌な顔色の悪い男、それから社長の息子(色白の美男子で外車で通勤していた)。みんな陰で所長の悪口を言った。忌引きを認めなかった、親の死に目に会わせなかった、ストレスで作業員を自死に追いやった、作業者の死には責任がある、何度も労災を隠した、裏で警察にマークされている、などなど。誰もがいいことなど一言も言わなかった。

二カ月目に高橋は足を挫いた。コイルを移動させる際に段差を踏み外して右足の甲を捻ってしまった。激痛が走った。甲の骨が折れたかと思った。すぐに腫れだした。安全靴の紐が結べなくなった。すぐに医者に行きたかったが仕事が忙しくて帰ってから行った。骨は折れていなかったが腫れはなかなか引かない。翌日は休みたかったが忙しくて休めない。労災申請をしようとしたが誰もやり方を教えてくれない。そのうち治ると口々に言う。痛みと腫れが引かないので残業せずに連日医者に通う。残業しない高橋に白い目が向けられるようになる。しばらくすると所長が診断書を持って来いという。やっと労災申請ができると思って、所長に診断書を見せると、一瞥して突き返された。「嘘かと思ったけど、何だ、本当なのか」と言われただけだった。

それから一カ月間は腫れた足を引きずりながら片道二時間かけて製鉄所に通った。そして結局、高橋は辞めた。玉掛資格の取得費用は会社負担だったはずが、最後の給料から一万円が天引きされていた。「そのころ、ただ穏やかに当たり前に働きたかっただけなんだよ。もう、いろいろなことがどうでもよくなってきたから辞めた」と高橋は振り返った。Xには二〇〇五年一月から二〇〇五年三月までいたことになる。季節がまた変わっていた。

 

 高橋の職安通いがまた始まった。高橋の仕事探しの振り子が、また書く仕事に振れていた。高橋はわかっていた。書ける仕事が見つかるとは思えなかったし、何と言っても四十を超えていた。会社に所属していれば管理職になる年ごろだ。高橋はただのライターとして働きたかったから、最初から見つからないものを探していたようなものだ。三カ月後、妥協の産物として文字校正の仕事を見つけた。

Yという派遣会社だった。派遣先の職場は中堅印刷会社の制作部だった。印刷会社で組版されたゲラと元原稿を照らし合せて文字校正をする。高橋も書く仕事をしていたときにライターとして文字校正をしていたが校正のプロではない。とりあえず文字の周辺で仕事ができるなら、ということで決めた。職場での校正担当は四人いた。高橋のほかには、そろそろ定年と思われる正社員の無口な男と、その会社で営業をしていたが定年退職後に再雇用された男が二人いた。

仕事は簡単だった。高橋は自分がプロの校正マンでないことを危惧したが杞憂に終わった。残りの三人のほうが酷かったからだ。正社員は度々ミスをしたし、再雇用組も見落としが多かった。高橋もときどきミスをしたが、高橋が派遣社員であることで、責任は正社員に回され、高橋自身の問題にはならなかった。そのうえ正社員のような煩わしい人間関係もなかった。十人ほどの制作部のオペレーターたちは高橋よりも若かったし、若いわりに礼儀正しく、派遣社員を差別するようなことも苛めることもなかった。のちに彼らから人生相談なども受けるようになるくらいだった。どちらかと言えば校正内の3人の視線のほうが冷たい感じだった。それは高橋が迅速で的確な校正をしたからかもしれない。

 派遣社員なので給料は少なかったし、交通費は足が出たし、職場の印刷会社までは片道一時間半かかっていたが、派遣社員だから残業を断ることもできたし、会議のための意味のない会議も回避できたし、何より忘新年会に誘われないことが助かった。唯一、社員食堂で「派遣のくせに大盛かよ」と印刷機のオペレーターの中年男から嫌味を言われたくらいで、ほかには大して嫌な思いはしなかったもちろんそれ以後、高橋が社員食堂を利用することはなくなったが。

そうやって二〇〇八年の春と夏が過ぎ秋も終わろうとしていた。すでに三年が経過していた。高橋にとっても奥さんにとっても安定した三年間だったから、このまま派遣社員でもいいと思っていた。高橋の転々と続いた転職も、ついにゴール間近と思われた。

あまりにも余裕ができた高橋は、高橋が三十代後半に働いていたLという会社で一緒だったデザイナー(当時はフリー、パン焼き人時代に再会した背の高いデザイナー)に頼まれて、ホームページ制作を勉強した(パソコンとの相性の悪さが原因で、のちに帯状疱疹を発症させることになる)。それからフィンランドについて語学や歴史を学び始めた(のちにテキストや辞書や歴史書は現金を得るために古書店に売ったそうだ)。どちらも独学でどちらもモノにならなかった。なぜホームページやフィンランドなのか理由は不明だ。ちなみにこのころ、高橋の奥さんは中国への(パンダ飼育ボランティア)ツアーに参加していた。高橋夫妻にとって安全地帯のような時期だったのかもしれない。

そのころ派遣法が変わろうとしていた(すでに変わっていたのだろうか)。詳しいことはわからないが派遣社員にとって有利に変わっていた。同じ人間を長期に雇用するなら派遣社員ではなく自社の社員にしなければならない。ダラダラと派遣社員のまま仕事をさせてはいけないということだ。派遣先の会社の選択は二択だった。派遣切り雇止めにするか、正社員にするかだ。

高橋は四十代後半だったからクビになるだろうと覚悟した。しかし事態は違った展開を見せた。派遣先の課長(高橋と同じ年だった)から正社員にするという打診があった。課長によれば、高橋の仕事ぶりは問題なかったし、ほかの社員とも友好な関係を築いていた。一応入社前には重役面接があるが、それは形式的なものだから心配いらない。健康体の高橋なら入社前の健康診断も問題なさそうに思えた。「入社後はとりあえず校正部門のリーダーになって、ほかの年寄り校正マンの面倒を見てもらう。まあ転勤や異動もあるかもしれないが君なら何とかできるだろう」と課長は笑った。

「家族と相談させてください」と高橋は課長に伝えると、即答で快諾されると思いこんでいた課長は不審な顔をして「段取りがあるから返事は早めに。君にとって悪い話ではないと思うけど」と言った。私も課長と同じ意見だ。先のことはわからないが、同じ仕事を続けるなら正社員になったほうが有利に決まっている。私は高橋に「なぜだ?」と尋ねた。

「年寄りの面倒をみたり、サービス残業をしたり、会議のための会議に出たり、そんなことはどうでもよかった」

「転勤か? 単身赴任するかもしれないという恐れか? それとも異動か? 慣れない印刷部署で印刷機に指を挟むとか?」

「正直それもあったけど、それより健康診断が問題だった」

「持病でもあるのか」

「違う。けれど、昔から子供のころから必ず健診で引っかかる『異常』がある。ちなみに婦人物の倉庫作業員のときと郵便局のときの、事前の健診でも引っかかった。そのときはそれが理由でクビにならなかったけど。そのことを別に隠すつもりもないが、自分から公表もしたくない。しかし今度の会社の場合、入社前健診で異常の判定が出たら絶対に入社はできない」

「それは思いこみとかではなくて?」

「思いこみではなくて。必ず健診にはその項目がある。そして必ず異常の判定になる。だから正社員になれない。子供のときからそのことで苛められたことはないが、異常であると烙印を押されると周りから変な目で見られる。見られているのではないかと、周りを変な目で見てしまう。もう自分は子供ではない四十代後半だったけれど、それでもなお、異常であると宣告されるのはいい気分ではない」

 高橋は奥さんと相談してから(奥さんは賛成も反対もしなかったそうだ)社員になるという、ありがたいはずの申し出を断った。高橋の回答を聞くと、同じ年の課長は「訳がわからない」という顔をして、実際に声に出した。正直に言えば私も「訳がわからない」。高橋によれば「そのままの派遣社員のままでよかったのに」と最近まで引きずっていたそうだ。人生はままならないものだ。

 高橋はそれなりに人気があったようで、周りの若手の社員から残念がられた。最後の日には、高橋は周りに誘われるまま、朝まで飲んで歌って騒いだ。それは素敵な思い出になった。そしてもう本当に若くないと身に染みた。印刷会社で校正していたのは二〇〇五年六月から二〇〇九年一月までだった。年が明けたら久しぶりに無職になった。高橋には、そろそろ五十歳が見えてきた。疲れてきた。もう十分だ。生きるのが嫌になっていた。

辞める前の夏に、会社の近くの駅で偶然、カーテンの生地を切る仕事で一緒だった坂中さんを見かけた。懐かしくて声をかけようとしたら、迎えに来たと思われる車に乗って、どこかに行ってしまった。あのころが懐かしい、と思ったが涙は出なかった。

 

 高橋の職安通いが再開した。職業を安定させたいから職安に通うが何度通っても職業は安定しない。今どきは職業安定所ではなくてハローワークだとか。呼び名をカタカナに変えても、そこに通う人間たちの思いは変わらない。高橋の思いは焦りと諦めと鬱だった。もう絶対に誰が見ても若くないことが自分でもわかっていた。

 高橋は職安の職員に対して「職業が安定している人間に職業が不安定な人間の気持ちはわからない」と思っていた。ときどき利用者が職員に対して怒鳴っていた。何を怒っているのかわからない。何となく怒り出す気持ちはわかる。自分の代わりに怒っている、と高橋は思った。職員にも悪気はないのだろう。彼らはある種のプロだ。だから効率を重視するのだろう。でも失業者や求職者はさまざまな事情を抱えた心のある人間だ。効率でさばくことに、さばいていくことには無理がある。そう考えながらも、高橋はあえて職員に対してあらゆる感情を抑えていた。

 それでも高橋も人間だ。ある職員に納得いかないことがあった。就職相談を受けさせられた(特に高橋には相談なんてないが職安のルールとして受けなければならないので受けた)とき、適当に会話を続けながら時間の無駄だなと思っていた。

「福祉はどうですか? ヘルパーとか、どうですか?」

 高橋は改めて相手の顔を見た。六十歳を超えたベテラン職員だった。眼鏡をかけている以外は、ほとんど特徴のない顔だ。八割はパソコンの画面を見ている。残りの二割、忘れたころに高橋の顔を見る。パソコンの画面には高橋の職歴が表示されている。高橋はあきれた。自分の職歴から、どこをどう読み解けば「ヘルパー」に辿り着くのか。

高橋はすべての仕事は等価だと思っている。ヘルパーや福祉の仕事も価値のある仕事だ。資格だけでなく経験も必要で、本当に大変な仕事だ。だからこそ高橋は自分には無理だと思っていた。選択肢には最初からなかった。人にはそれぞれ向き不向きがある。いきなりヘルパーをすすめる相手に質問した。

「なぜヘルパーなんですか?」

「これから福祉は伸びる職業です。人手不足ですから、今のうちにヘルパーの資格を取って経験を積めば、ケアマネや施設長とかスッテプアップもできるし、お金も稼げますよ」

 なるほどそういうことか。求職者の適性以前の問題として、人手不足の職場に人を送りこみたいのだ。そうすれば失業者は減り、失業保険を払わずに済む。求職者に福祉関係の仕事やヘルパーを勧めることは一挙両得なのだ。職安の担当者に「いつまでに何人就職させる」というノルマがあるとは思いたくないが、求職者の個人的な気持ちは無視されているように感じた。職員の発言は求職者のことを考えているようには響かなかった。そもそも「福祉はどうですか?」という言葉は、実際に福祉の現場で働いている人への配慮も欠けている。福祉関係者は生半可な気持ちで仕事をしているわけではない。その気もない人間をその気にさせて、たとえば老人ホームに送りこんだところで誰も幸福になれない。結局ミスマッチのツケは施設を利用する老人たちが払わされることになるだろう(ときどき報道される老人ホームにおける職員からの虐待事件の一因は、そんなところにもあるのではないか)。

「無理ですね。私には向いていません」と高橋は素っ気なく答えた。その答えは職安の職員から反抗的な態度にとられたようで、相手は友好的な表情を隠した。

「そんなことでは仕事はすぐに見つかりませんよ。五十前で大した資格もないんですから」

毎月一回三十分間、その意味のない相談(仕事は決まりましたか? まだです。福祉はどうですか? 向いていません。)を繰り返した。高橋はうんざりしていた。相手もうんざりしていた。

 冬が終わり春になり桜が咲き桜が散った。近くの公園で猫を見つけた。ゴールデンウイークが始まり(高橋とは関係なく)終わった。猫が膝に乗るほど懐いたころ、高橋の仕事が決まった。

仕事が決まったことを職業相談の担当職員に伝えた。すると担当者は「高橋、ああ高橋さん」と思い出してから「よかったですね。ずっと決まらないと思っていましたから。高橋さんは最初から暗くて、やる気が感じられなかったから。でもよかった。職安で見つけたんですよね?」と言ったので「いいえ。新聞の求人広告で」と答えた。皮肉が通じたとは思えなかったが一矢報いた気がした。

 

 新聞で見つけた会社はZという出版会社だった。本好きのわれわれでも全く知らない会社だった。自己啓発や子供教育の本をつくり、大手取り次ぎを通さずに売っていた。ほとんど書店に並ばないので知らなくても当たり前だった。二代目社長は三十代後半の男前で、背の高い営業マンは社長より少し年下で、二人は古くからの先輩後輩の関係らしかった。経理は社長の遠縁の高齢の女性だった(知的でおしゃれで離婚歴あり)。デザイナーはパートの三十代前半で、彼女の父親は以前にZでデザイナーをしていた。一人しかいないライターの老人が引退するので、その補充のための募集だった。ちなみにライターと経理は先代社長からの社員だった。視点を変えると、高橋だけは誰とも接点がなかった。

高橋の仕事は、もちろんライターだった。ある会社の社内報を担当した。老人ライターは親切な人だったし、きちん仕事の引き継ぎもしてくれた。そのほかにも、営業マンの企画に沿って記事を書き、いろいろなところに出向き取材をして原稿をまとめた。スケジュールと予算の都合で、電話越しに取材しながら原稿を書いたこともある。ときにはゴーストライターとして経済学の文章を書いたり、子供向けの童話も書いた。文章を書くという仕事では高橋にいい風が吹いていた。書けずに悩むこともなかったし、クライアントからのチェックを除けば、ほかの社員から原稿の手直しを要求されることもなかった。給料は多くはないが暮らせないほど少なくはないし、徹夜で原稿を書かされることもなかった。しかし、どんな会社にも問題はある。ハッピーでラッキーなだけのパラダイスみたいな会社は、この世の中には存在しない。そんなことは高橋も、これまでの転職経験で学んでいた。この会社の問題(少なくとも高橋が問題だと感じること)を高橋自身が我慢できるかどうか。いわゆる踏み絵を踏めるかどうか、である。

踏み絵の存在には入社の面接のときに気づいていた。この会社はある組織に所属している。社員は入社と同時に組織の会員になる。会費は会社負担となる。その組織は、自己啓発、社員教育、ビジネスの相互関係を高めることを目的としている組織で、各地に支部があり活動している。毎月のようにどこかでセミナーを開催している。社員はセミナーに参加しなければならない。この組織は決して宗教団体ではないと念押しされた。わが社は政権与党を支持しているとも明言していた。社長室には大きな神棚があった。そういうことを受け入れること(思考停止したイエスマンになること)が、踏み絵を踏むということだった。

入社してすぐに高橋は薬を飲み始めた。鬱が酷くなったからだ。鬱の原因は踏み絵を踏んだからだ。それから社長の存在だった。この社長は二代目にありがちな、世間知らずの甘ちゃんではなかった。もともと別の業界(それがなにかはわからない)で働いていたこともあり、ゼロから経営(社長業)と仕事(編集業)を学んだ。その向上心は高橋も認めていた(自分にはできない)。それでもなお高橋はときどき社長が使う「はったり」とか「ファミリー」いう言葉に心がざらついた。近すぎる距離感には薄っすらと恐怖を覚えた。この男が社長であり自分が社員という関係ではなければ、友達にはなれないとしても(たとえば店長と客のようであれば)特に実害はなさそうだった。観察するとわかってきたが、この男はある種のコンプレックスを抱えていたようだ。それは向上心の源泉とも言えるかもしれない。社長でありながら大学院で経営を学んだりするところに現れていた(高橋の偏見かもしれない)。さらにある種のキャラクターを演じていたようなふしもある(若手有望社長というキャラか)。のちに高橋にも「キャラを演じるようにしてください」と言っていたそうだ。それは無茶だと、友人の私は断言できる。高橋が高橋以外のキャラが演じられるほど器用ではない。それほど器用なら、ここまで転がって来ない。

一言でいえば高橋は社長が苦手だった。嫌いというほどではないが、もっと距離を置きたかった。しかし、だからと言って会社を辞めるわけにはいかない。すべてを受け入れて我慢すれば生活は安定する。そのために抗鬱薬を飲んだ。これまでも精神的に追いこまれることはあっても、病院に行って薬を処方してもらうということはなかった。辞めるわけにはいかない、という強い決意が表れていた。それは強迫観念かもしれない。もちろん薬を飲んでいることは奥さんも承知していた。会社の人間は誰も知らない。

入社して最初の夏に一週間泊りがけで組織の本部というところで研修を受けた。鬱蒼とした森の中に、高橋が卒業した大学の十倍はありそうな敷地と建物があり、十倍ぐらいの人間が働いていた。それは、別に世界征服を企む悪の組織でもなければ、白い服を着た髭面の男が踊り狂うような宗教的な組織でもなかった。そこでは、精神的に豊かになること、人に感謝して人に尽くすこと、お互いに助け合うこと、などが、経験豊かな講師たちから語られた。彼らは大学講師にも見えたし、プレゼンが得意な大手広告代理店のクリエイティブディレクターにも見えたし、小奇麗な宣教師に見えなくもなかった。講義を受講生は黙って聞いていた。受講生はさまざまだ。あらゆる属性に位置する善男善女が全国から集まっていた。高橋のように強制的に送りこまれた人間もいたようだが数は少なかった。講義と講義の合間の休憩中にこぼれてくる「久しぶり…」「お元気…」「今回、お父上は…」というような声を聞いていると、彼ら同士で友人関係や横のつながりもあるらしかった。親子や夫婦での参加も珍しくないようだった。高橋は誰とも親しくならなかった。誰かと適当に会話をしただけで中身は覚えていない。研修中(食堂と浴場は共同だったが)寝る部屋が個室だったのは幸いだった。夜には二時間くらい自由時間もあった。こっそり鬱病の薬を飲んだり、奥さんに携帯で電話をかけた。単身赴任のころを思い出していた(あれから七年経っていた)。最終日に組織の代表が講義をした。夏だったこともあり戦争の話もあった。歴史認識には受け入れがたいものがあったが、隣に座る若者の瞳は輝いていた。それについても高橋は深く考えないようにした。考えることは鬱を酷くするだけだった。

研修を終えて帰ってきた高橋はほかの社員から認められた。会話や笑顔が一目盛アップした。高橋は漠然と感じた。研修はイニシエーションのようなものかもしれないが、高橋に言わせれば、それは洗脳だった。それが洗脳だったなら高橋には見事に失敗だった。四十代後半の戦後民主主義教育を受けた(神話も天皇制もよく知らない、学ぶ機会もなかったような)男の瞳を輝かせることはできなかった。脳味噌に溜まった四十七年分の世俗の垢を洗い流すことはできなかった。

高橋はフェアな人間だった。自分の思想信条に合わないからといって、組織全体を否定はしない。あれだけの人間が集い、働き、語り合い、高め合うのだから、(反社会的な勢力でない限り)存在意義はあるのだろう。

研修を体験して高橋が思ったのは、宗教っぽいが宗教ではない、ということだった。組織の代表者がいて集まる場所があって拠り所になる哲学があって参加者がいる(教祖・教会・教義・信者がそろっている)けれど、そこには崇拝や信仰や奇跡はなかった。少なくとも高橋には感じられなかった。仮に高橋が知らない時間と場所で奇跡が起こっていたとしても高橋にはわからない。

たとえばカリスマのワンマン社長によって牽引される大規模な会社を宗教と呼ばないのと同じ意味合いにおいて、この組織が宗教でないとしても、高橋にはどちらでも変わりはなかった。鬱が酷くなる一方だったからだ。

研修から帰って来て薬の種類が変わり量も増えた。入社して半年もしていなかった。薬は合わなかったし、効かなかった。副作用が酷かった。睡眠障害と摂食障害と記憶障害を引き起こした。幻聴が聞こえた。耳元で誰かが何かを喋っている。大抵は何を言っているのかわからないが「死ね!」とはっきり聞こえることもあった。平日深夜、帰宅すると高橋は奥さんに当たり散らした。暴言を吐き続けた。奥さんは高橋の暴言、奇声、怒号が始まると泣きながら窓という窓をすべて閉めた。「ここに住めなくなるから静かにしてください」と懇願した。高橋は怒鳴り疲れて夜眠る。朝もう目が覚めなければいいと思った。朝、目が覚めたら新しい1日が始まる。高橋は毎朝死にたくなった。週末、仕事は休みだったが疲れて寝るだけだった。高橋の奥さんにとっては単身赴任時代の悪夢がよみがえった。

高橋は、晩秋の月夜、近所の公園で奇声を発しながら猫を捕まえようとして、転倒して眼鏡を壊したこともある。ただ猫を膝の上に乗せたかった、ただそれだけだった(ちなみに猫は以前膝に乗るほど仲良しだった野良だ)。

そのころ会社の人間は誰も高橋が鬱であることは知らなかった。それどころか仕事は順調すぎるほど順調だった。同時に数社の仕事をこなして、その中身で相手を唸らせることもあった。それも薬の副作用だったのかもしれない。毎月日帰り出張で社長とともにあの組織まで出向いた。あの組織とつながることで仕事が会社に流れてきた。研修経験者として組織の人間も高橋を仲間として認めたようだ。出張中、社長と一緒にいても二人が心を通わせることはなかった。話すこともないので高橋は聞き手に専念した。それはそれで疲れたが沈黙のほうがつらい。要するに高橋は立派な仮面鬱だった。

次の年も、その次の年も、高橋の人生は、鬱が酷くなることを除けば似たようなものだった。ずっと自殺念慮を抱えながら生きていた。薬は相変わらず効かない。飲めば確かに脳味噌に霧がかかるようになるから考えることができなくなる。考えないことで楽になるかというと、そんなことはなかった。薬が脳に届いている実感はある。このままいくともっと大きな副作用が起こり、狂人とか廃人になるかもしれない。そのことを考えれば飲み続けることも怖かったが、同時に薬を止めることも怖かった。高橋には出口はなかった。

仕事は相変わらず順調で部下もできた。部下は優秀すぎるほど優秀で、すぐにコツをつかみ、うまく書けるようになって、みんな辞めていった。退職の理由は二つあった。働きに比べて給料が少なかったことと得体の知れない組織からの脱出だった。彼らは「研修に行け」と命令される前にじょうずに辞めていった。辞めていく彼らを引き留めることは高橋にはできなかった。羨望の眼差しで、ただ見送るだけだった。

そのころ、さまざまな薬の副作用はそのままに依存症がプラスされた。ネットショッピングとオークションである。当時、鬱が影を潜めて比較的気分のいい深夜に、パソコンでネットショッピングをして、新刊本や翻訳本や音楽のCDや映画のDVDや流行の服などを買い漁った。オークションに参加して人気ミュージシャンのプレミアムチケットなどを手に入れた。普段なら特に欲しくも何ともないようなガラクタばかりだった。クレジットカードの支払いは、月給の半分に近づいてきた。毎月の鬱病の薬代を入れれば半分はすでに超えていた。高橋の奥さんは高橋の鬱病だけでなく家計のやりくりも大変になってきた(よく離婚しなかったものだ)。

高橋は何度か社員旅行に行った。それを聞いた私は自分の耳を疑った。あの高橋が社員旅行? ありえない。旅行嫌いで、その上、団体、それも社員と一緒、上司と一緒に旅行? 戸惑う高橋の顔が目に浮かぶ。

「大変だっただろう?」と後日聞くと、高橋はうなずいて「だから妻を連れて行った」と答えた。社員の誰かと相部屋になるのが嫌だったからだ。意識の中でなるべく自分たち夫婦と、そのほかの大勢がたまたま旅行しているのだと思いこもうとした。その戦略がうまくいったのかどうか私は知らない。

辞める前年の夏に、社長に「辞めます」と伝えた。高橋は、なぜ辞めますと伝えたのか? 理由は二つあった。一つ目の理由は、入社当初から飲み続けている薬に対する恐怖だった。ほとんど効いていない薬を飲み続ける意味があるのか。今現在の睡眠障害や記憶障害はもちろん、将来に起こるかもしれない副作用に対する恐怖があった。そろそろ薬を止めるべきだと思った。今の会社を辞めれば(鬱の原因が消えて)薬も飲む必要がなくなるので、結果的に薬を止めることができる。二つ目の理由は、給料の半分がクレジットカードの支払いに消えるのであれば(今の会社を辞めて鬱を軽減させて)買い物依存も解決できれば、今の給料の半分の稼ぎでいいのではないか(それならすぐに新しい仕事が見つかるかもしれない)。

高橋が「辞めます」と伝えると社長は驚いていた。その驚きぶりが滑稽だった。なぜ辞めるのか?と尋ねられたとき「鬱病ですから」とカミングアウトした。さらに驚いた顔をした社長を見て、高橋は自分の仮面鬱の仮面の完璧さに、ある意味で満足した。社長は鬱病というものを知らない。軽く考えれば季節病や心の風邪みたいなもの、重く考えれば狂人の別名、とでも思っていたのだろう。もちろん狂人にどのように接していいのか、社長にわかるわけがない。それでもいきなり辞められたら会社的には困るようで、引き留め工作をした。「辞める」と言った高橋は強気だった。言いたいことを初めて言った。とりあえず書く仕事以外の、気詰まりで高橋にとって意味のない出張、わざと長くなるような会議のための会議、妙にテンションだけが高すぎる内容が薄い自己啓発セミナー、すべて免除してくれるように要求した。給料は減らされたが要求は通った。高橋は満足だった。薬は止めた。カードの支払いも徐々に減った。そのままもっと負担がなくなれば辞めずに済んだかもしれない。

しかし、そうはならなかった。年末に新しい社内報の仕事が舞いこんできた。各支店を取材して文章をまとめるという仕事だった。得意分野だったが高橋は断った。その仕事は出張が中心だった。支店を転々としながら取材して原稿をメールで送り、次の取材先に行くという、旅から旅のセールスマンみたいに仕事をしなければならなかった。一旦出発すれば一カ月以上は家に戻ることはできない。出張、宿泊、旅、どれも高橋の大嫌いなものだった。奥さんを同伴させることもできないし「嫌です」と断るしかなかった。すでに「辞める」と宣言していたのだから駆け引きをするつもりはなかった。すると「あれも嫌だ、これもできないでは、ほかの社員に対して示しがつかない」と社長がついに決断して、高橋はクビになった。もちろん自己都合だった。

結局のところ、二〇〇九年五月から二〇一四年二月まで勤めたことになる(最後の日は猛吹雪だったそうだ)。「薬を飲んでよく頑張った」と高橋は当時を振り返った。「薬の効果があったのは最初だけであとは常に頭がぼんやりしていた。その感覚が今でも恐ろしい」と高橋は言う。高橋はあれ以来、薬は一錠も飲んでいない。

 

あなたは、こう思うかもしれない。高橋は鬱の手前で明らかな適応障害が発症している。原因は職場でのストレスである。病院の心療内科で診断してもらい、適応障害(または鬱病)の診断書を会社に提出すれば半年間休職することができる。その半年間で心身の健康を取り戻して、職場に復帰するという選択肢もあったのではないか、と。あなたの思うことは正しいが、当時は、そこまで社員は保護されていなかった。保護される社員は大企業で働く人間くらいで、少なくともZでは休職後の復帰などありえなかった。今でも中小零細で働く社員はもちろん、非正規社員など立場の弱い(言い換えれば適応障害から鬱になりそうな)人間は保護されていないだろう。

 

 仕事とは直接関係ないが、この時期の二〇一〇年九月に高橋夫婦は猫を飼い始めた。高橋はZに入社して鬱病の薬を飲み始めてから、ずっと猫を飼いたいと言い続けていた。猫のような、温かくて柔らかくて、そういう生き物が自分にとって必要なのではないかと高橋は思った。なぜ猫なのか。柴犬や文鳥ではなくて、なぜ猫なのか。高橋にもわからなかった。それは直感のようなものかもしれなかった。高橋が猫を飼いたいと言っても、最初、奥さんは取り合わなかった。鬱の高橋の世話で大変だったからだ。しかし一年以上経っても、薬を飲み続けてもよくならない高橋の癒やしになれば、と奥さんも猫を飼うことを賛成した。高橋は野良猫でも保護猫でもどんな猫でも構わなかったが、最終的には奥さんがペットショップで猫を決めた。ペットショップの店長が売上よりも動物ファーストを信条にしていたことが決め手になった。残念ながら、猫を迎えたからといって高橋の鬱病が劇的に快復することはなかった。それでも高橋はその雌猫を溺愛した。翡翠のような瞳の奥に映る自分の顔を見つめながら、高橋は生きる意味を探した。猫が喉を鳴らすその震えが自分の体に響くとき、高橋は生きる勇気をもらえた気がした。毎晩、藁にもすがるような思いで、子猫を抱きしめて眠った。

 

第五章 五十代

 

 高橋がZを辞めたとき、高橋は五十歳を超えていた。髪の毛は白く、薄く、腹も出て、体力も筋力も衰え、目肩腰も痛くて、若くないどころか、初老に近づいていた。

 高橋は二月にZを辞めたが、実は高橋の恩人とも言える星野さん(B時代の上司)が前月の一月に亡くなっていた。そのことは星野さんのブログで知った(最後のブログは星野さんの奥さんが書いていた)。星野さんのブログは辞める前年に、パソコンで「猫 ブログ」を検索したら、偶然、見つけた(自分が猫を飼い始めたので猫のブログが気になっていたこともある)。星野さんが本名で書いていたので、それが星野さんのブログであることが判明した。ブログを見つけたのが、丁度「会社に辞めます」と宣言して気楽になったころなので、星野さんに連絡を取ろうと思えば取れたはずだ。しかしブログをチェックしているだけなのに、意思の疎通ができているような気になってしまっていた。そして星野さんの奥さんが書いた「死亡ブログ」を見てしまった。死ぬ前にリアルで再会することができなかった。些細なことから疎遠になり、何が理由で自分が避けられるようになったのか、その理由を知ることが高橋には永遠にできなくなった。

その後、星野さんの家を訪ね、未亡人と初めて会い、それぞれの思い出話を交換して、久しぶりに集まったB時代の仲間と再会し…。という話はまた別の機会に。高橋の仕事について語ろう。

 

高橋は職安でネットで新聞で、書く仕事や校正の仕事を探した。すべて駄目だった。書類審査で落ちた。面接までもいけなかった。その間に、星野さんの死について、残されたブログを解読しながら、高橋は長編小説を書いたが新人賞を取ることはできなかった。

Zを辞めてから半年過ぎようとしていた。失業保険が残り少なくなって満額に近づいてきても、仕事は決まらなかった。数少ない(これまで知り合って細々と交流が続いていた)先輩たちに手紙を書いた。いろんな答えが寄せられたが、ほとんどは「もう引退していて力になれない。申し訳ない」という電話だった。なかには「安易に頼るな。夜勤やガードマンや肉体労働があるだろう。探したのか」というメールも届いた(この人なら書く仕事を紹介してもらえるかもしれないと期待していたので、高橋の落胆は大きかった。何か嫌われるようなことを知らない間にしたのかと考えるほどだった)。

カーテンの生地を切る仕事で一緒に働いた坂中さんにも手紙を書いた。すぐに坂中さんから封筒が届いた。封筒には紙が一枚入っていた。携帯番号を書いていた。ありがたかった。うれしかった。高橋はすぐに電話した。近況を報告すると、半年間も無職だったことが信じられないようだったが、とりあえず後日会うことになった。二日後、ターミナル駅の喫茶店で十年ぶりの再会を果たした。「倉庫、肉体労働的なものなら紹介できるけど」と言われたが高橋は断った。あのころのように体が動くとは思えなかった。動けないとしたら紹介してくれた坂中さんに迷惑をかけることになる。「またいつか」と二人は別れた。そのあとも年賀状のやり取りは続いているという。

 

高橋は奥さんとの会話で「管理人」という職種を初めて意識した。奥さんの叔父は、昔、生命保険会社の独身寮で管理人をしていたことがあるという。それほど肉体的にも厳しくないらしい。高橋は進路変更を余儀なくされた。職安で管理人を探すとビル管理とマンション管理があった。資格のない高橋はマンションの管理人を選ぶしかなかった。住んでいる団地からバスを乗り継いで一時間くらいかかる(隣の市にある)マンションで管理人を募集していた。マンションを管理する会社はAA(アルファベットが一巡した。一文字対応では足りないので以下は二文字並べる)という小さな管理会社だった。履歴書を送ると、三日後、書類審査に合格したから面接するという。社長(前歯が一本抜けた気のいいおじいさん)とフロント(管理人の直接の上司で強面だが優しそうな元銀行マン)が高橋を面接した。若いのになぜ管理人を?と尋ねられた。この年齢では無資格でできる仕事は限られているから、と正直に答えた。給料は前職Zの3分の2以下、休日は年間で有給を入れても七十日程度だった。給料はともかく休みが少なくて続けられるか不安だったが失業保険がなくなる前に仕事を見つけたかった。採用されたらマンション管理人として働くつもりだった。面接を受けてから二週間後、高橋は採用された。

 高橋は自分が管理するマンションで、前任者から一週間仕事の引継ぎがあった。マンションは七階建で一階あたり十部屋ある。エレベーターは一台。駐車場は二十台分。桜が周辺を取り囲んでいる。オートロックではない。防犯カメラもない。管理人は月曜から土曜日までの九時から十六時まで働く。休みは日曜と大晦日と三が日とお盆のころの二日だけ。午前中に、一階ロビー、エレベーター、階段、廊下、共用トイレ、駐車場、自転車置き場、そして周辺歩道を掃除する。掃除しながら巡回していく。もちろん六畳ほどのスペースの管理人室も掃除する。具体的にはモップや箒で掃除して、窓ガラスを磨く。外周を取り巻く植栽の管理も管理人の仕事だ。散水や草刈りや簡単な剪定、秋には桜の枯葉や春には散った花びらを集めて捨てる。廊下やホールや敷地内の照明器具のチェック、管球が切れていれば脚立に乗って取り換える。午後からは、管理人室に常駐して住民からの苦情やトラブルに対処する。住民の転出転入があれば書類を用意して記入してもらう。引っ越し業者やリフォーム業者が来たら、どこに車を止めさせるかを判断する。でときどき警察巡回が警官がやって来る。ゴミ収集日には収集に立ち会い、ゴミ庫の掃除をしなければならない。予定の時間に収集車が来なければ市役所に電話する。

上司のフロントマン(マンション管理士という資格が必要で法律のことやマンション管理のあらゆることに精通している)によれば、前任者は五年ほど管理人をしていたが、住民とのトラブルが頻発するようになり、そろそろクビになるので高橋が採用されることになった。住民とのトラブルの大半は「仕事をしない」ということだった。気の合う住民としゃべってばかりで仕事をサボりがち。煙草ばかり吸っている。特に掃除をしない男だそうだ。強気の住民にはペコペコするが弱気の住民には横柄な態度らしい。昔は車の営業マンだったらしいが退職して六十で管理人になり六十五でクビだ。

「俺が喫煙者であることを知っていて採用したのに、今さら、『煙草止めないとクビだ』と言うから管理人を辞めてやったんだ。こんな仕事やってられないよ。あとは悠々自適に暮らすさ」とうそぶくくらいだからクビになったという自覚はないようだ。ただの強がりで家計は火の車で管理人の仕事にしがみ付きたいのかもしれない。男の本音はわからない。

 前の管理人が人間的に変だったのか、管理人の仕事が人間を変にするのか高橋には判断がつかなかった。高橋の奥さんの叔父がやっていた「管理人」よりもずいぶん大変そうな仕事だと思った。高橋は、この先何が起こるかわからないので、頭を低くして用心することに決めた。

 高橋が管理人になったのは八月末だった。研修が終わって一人でマンションを任されるようになると、とりあえず一生懸命働いた。半年間仕事をしていなかったこともあって頭と体がよく動いた。よくも悪くも高橋は一生懸命だ。手を抜くということを知らない。特に最初のイメージが大事だから、という信念のもと必死に働いた。住民からの評判も上々だった。前の管理人とは比べ物にならない、と。高橋はますます張り切り、一カ月もしないうちに腰と肩を痛めた。箒やモップを持つ手は腱鞘炎になった。腕はテニス肘になった。右手右腕が痛みで動かせなくなると左手左腕を使い、それでまた頑張った。高橋は観念したのかもしれない。自分にはこの仕事しかないのだ、と。

 そのマンションの住民は転入も転出も所有者の変更もなかったので、書類を用意したり、記入させたり、そういう面倒なことはなかった。せいぜい新しい自転車を登録して駐輪シールを渡すくらいだった。ただし変な住民はいた。五階に住む大企業を引退した高齢者だ。高橋が「おはようございます」「こんにちは」と挨拶しても絶対に挨拶を返さない。お互いに目が合っているのに相手は何も言わない。それどころか舌打ちをする。高橋には理由がよくわからなかった。今でもわからない。ある種の職業差別かもしれない。ほかにも、変な住民はいる。四階に住む夫に先立たれた六十代の主婦は「下の階の住民が私のことを見ている。床下から視線を感じる。管理人さんに何とかしてほしいから苦情を言っているわけではない。ただ変な住民がいるから注意したほうがいいと思って」と注意喚起をしてくれる。下の住民は透視ができる超能力者なのか、それともこの主婦は被害妄想が酷いのか、どちらかだろう。ほかにも、粗大ごみの日に「捨てるのを手伝ってください」と当たり前のように依頼する二十代と思われる女性もいれば、「網戸が外れたから直して」と怒るおばあさんもいる。管理人は住民の部屋に入れないことを伝えると、大抵、不満げに顔をしかめる。ほかにも「鍵を失くしたから部屋を開けてくれ」と駆けこむ住民が多いことに驚いた。「ホテルじゃないのでマスターキーはありません。逆にマスターキーを管理人が持っていたら不用心ですよ」と伝えても理解できない住民が多く「職務怠慢を管理会社に訴えてやる」と息巻く人間もいた。

 秋になると枯葉が大量に落ちた。一日中掃き集めてビニール袋に詰めても、翌日もまた同じことの繰り返しだった。春になると桜が咲き、散った。一日中掃き集めてビニール袋に詰めても、翌日もまた同じことの繰り返しだった。夏になると雑草が生えてきた。一日中鎌で草を刈って掃き集めてビニール袋に詰めても、翌日もまた同じことの繰り返しだった。

 体の痛みはずっと続いた。それでも手は抜けない。サボるわけにはいかない。住民の監視の目がある。ゴミ一つ、枯葉一枚、花びら一枚、雑草一本。それらを指摘する住民がいる。「掃除はまだ?」「終わりました」「終わった? これは何? ゴミよね」「すいません」というような会話が続く。

ときどきフロントがやって来て「どうだ?」と聞いてくれた。最初はいろんなことを相談したり報告したり、高橋はそのときどきで自分の正直な気持ちを伝えていたが、最後には言っても無駄だと思うようになった。フロントは「気にするな」「そんな住民もいる」「そんなことまでしなくてもいい」と言うだけだから。フロントは悪い男ではないし、頼りになる男でもある。しかし、その瞬間に直接、矢面に立つのは高橋だ。住民とのこれ以上のトラブルは御免だった。

高橋は一年経たないうちに精神に異常をきたした。自分が自分ではない感覚に包まれた。誰かが何かを囁き始めた。それでも週に六日、管理人室に出かけた。午前中の掃除は高橋の肉体を痛めつけ、午後からの管理人室での常駐は高橋の心を痛めつけた。管理人室に誰かが来るたびに高橋は叫びたいほどの恐怖に襲われた。「苦情以外に誰も管理人室に来ない。来るということは何かの苦情なのだ」と高橋は当時の心境を語った。そのうちに「誰かが来るかもしれない」と考えるだけで、頭がおかしくなりそうだった。

高橋は仮面鬱として、心身の痛みに耐えたが、破綻するのは時間の問題だった。破綻する前に、何とか辞めなければならい。高橋は辞める理由を探した。「親の介護で離職する」という嘘を高橋は発見した。その嘘を、もっともらしく伝えると、フロントも社長も、そしてマンションの住民さえも、退職を残念がってくれた。それを見ていると高橋自身にも一抹のうしろめたさがわきあがってきた。今度こそ復活できるかもしれないと期待していただけに、嘘をついてまで辞めようとする自分に大きく落胆した。だが高橋には以前のように薬を飲んでまで仕事を続ける選択肢はなかった。そんなことは懲り懲りだった。薬を飲むくらいならマンションの七階の階段から飛び降りたほうがましだった。そう思うほど追い詰められていたのも事実だった。高橋は二〇一四年八月から二〇一五年十二月まで、そのマンションを管理した。年越しまで管理人を続けることができなかった。高橋にとっては新しい地獄を見つけたような経験だった。

「まさか自分が五十そこそこで管理人をするとは。クリエイティブから遠く離れた場所で、住民に舌打ちされながら思ったことは、結局、それだよ。結局のところ自己変革できなかった。意識を変えることができなかった。踏み絵を踏むことができなかった。夢を、すでに消えた、すでに覚めた、遠い夢をまだ見ていた。踏み絵を踏むには年を取りすぎた。俺は五十で死んだよ。死体が動いていたのかもしれない。それとも五十からは余生なのかもしれない。余生だとしたら、ずいぶん過酷な余生だ。それから、それから…。あえて認めたくはないが、それでも告白すれば、どこかに自分自身のどこか深いところに、ある種の職業差別があったのかもしれない」と高橋はかつて私に告白した。私は友人として高橋を弁護したい。高橋は誰かを、何かを、差別するような人間ではない。

 

 さてまた仕事探しが始まるわけだが、高橋は管理人を辞める前、一カ月ほど前から、休憩中、近所のコンビニで無料の求人情報誌を立ち読みしていた。ある日、その誌面に、少なくとも管理人よりは地獄ではなさそうな仕事を見つけた。ABというホテルチェーンの遺失物係である。ホテルにそんな仕事があるとは思わなかったが管理人よりも楽そうだった。簡単に言えば系列の十棟のホテルから本部に集められる遺失物をチェックして、一定期間保管したあと、持ち主が判明したら遺失物を返すというものだ。早番(七時から十四時)と遅番(十四時から二十一時)のシフト制で休憩は一時間。早番は本部に集められた遺失物を荷受けする。遅番は持ち主が判明した遺失物をホテルごとに仕分けして発送する。四週間勤務で八日間休日がもらえる。年末年始やゴールデンウイークや盆休みはない。求人募集の理由は欠員補充ということだった。

高橋は落とし物も忘れ物もほとんどしたことがない。そのうえ高橋は外泊が嫌いで旅行も嫌いで出張も嫌いだから、ホテルや旅館に泊まることはない。それでも高橋は不思議に思った。ホテルでの遺失物は宿泊客の落とし物や忘れ物が多いのだろうから、宿泊客が特定できれば、遺失物を持ち主に返すことは難しいとは思えなかった。わざわざ(最低時給であっても)バイトを雇う必要はあるのだろうか。面接まで行くことができれば、その疑問をぶつけようと思った。

すぐに高橋は履歴書を書いて送った。三日後、連絡があった。そのときは、まだ管理人をしていたので、仕事終わりに面接時間を設定してもらった。

遺失物係のあるホテル本部は大きな公園の隣にある高層ビルだった。面接は見晴らしのよい最上階で行われた。元ホテルマンで再雇用され、今では遺失物係の責任者、七十歳くらいの(ホテルマンとは思えないほど)目つきの悪い男だった。面接の間ずっと左手首を気にしていた。それはまるで自分の高級腕時計を自慢したくて仕方ないが何とかその欲望を抑えているように見えた。

面接では特に何も聞かれなかった。高橋は疑問をぶつけてみた。「客室以外でも、廊下やエントランスホールや周辺歩道や敷地庭園や駐車場や催事場などでも、忘れ物や落とし物は多い。これまでは各ホテルで管理保管していたが現場の負担が大きいという声が高まり、数年前から遺失物係を本部につくった。わが社では落とし物を持ち主に返すことも、お客様サービスの一環として考えている。お客様からは、お陰様でお褒めの言葉をいただいている。ちなみにバイトでも社員割引でホテルが利用できる」という答えが返ってきた。わかったような、わからないような回答だったが、仕事をしてみればわかるだろうと高橋は思った。社員割引云々は高橋には無意味だった。面接が終わると地下二階にある遺失物係が仕事をする部屋に案内された。部屋というよりも廊下を仕切ったような空間だった。それは地下駐車場の隣にあって、核シェルターのようにも思えた。

面接から一週間後にABから採用するという連絡が入った。高橋は年明けの連休後に仕事を始めることになった。新しい年が明けていた。職安に行かずに次の仕事が決まったことは単純にうれしかったが、それとは別に、漠然と来年の今ごろ、高橋は自分が何をしているのか、自分が生きているのかどうか、不安になった。高橋には何もわからなかった。

初日は仕事の流れを覚えるだけで終わった。朝が早いのは各ホテルから大量に持ちこまれる遺失物の選別分類、記録保管に手間がかかるからだ。貴重品(財布、携帯、貴金属、宝石、腕時計など)、普通品(衣類、書籍、雑誌、雑貨、書類、傘など)、食品、瓶缶飲料品、そのほか(ガラクタやゴミとしか思えないような物など)。本人が特定できる物は本部に送られる前に各ホテルで持ち主に連絡しているので、ここに集められる物は持ち主不明の物たちだ。どう見てもゴミやガラクタもあるが、それらも一定期間は保管され、そのあと廃棄処分される。食品や飲料品に関しても廃棄処分される。保管期間内に持ち主が判明すれば、ホテルに送り返して持ち主の元に戻ることもある。ホテルに送り返さずに直接着払いで持ち主に送ることもある。レアなケースだが直接地下二階に取りに来る持ち主もいる。どのケースでも当たり前のことだが、返還のためには免許証などによる本人確認が必要であり、いつどこで落としたのか(忘れたのか)という状況説明(記憶に基づく証言)が欠かせない。ときどき持ち主になりすまし遺失物を盗もうとする人間もいる。疑わしい人間には遺失物は引き渡さずに警察に任せるというのが原則だった。

本部に届けられた貴重品だけは頑丈な金庫に保管され、その鍵は再雇用男だけが持っていた。貴重品も一定期間が過ぎると金庫から所轄の警察署に移送される。その後のことは再雇用男以外に誰も知らない。

飲食品のほとんど(日持ちのする加工品、高級酒、缶詰など)は再雇用男が堂々と持ち帰った。持ち帰るほどの価値がないものは「おこぼれ」として、古株のバイトたちが持ち帰っていることが、徐々に高橋にもわかってきた。それらの行為は「もったいないから」という暗黙の了解によって正当化されていた。普通品ですらもバイトたちの取り合いがあり、入手困難な贈答品やお土産は、持ち主が現れるかもしれないのに、現れなければ自分がもらうからと事前予約されるほどだった。

どうしてこんなにも働く人間にモラルがないかと言えば、管理する立場の再雇用男にモラルがないからだった。それから最低時給で雇っている、雇われているという関係性が倫理観を歪めていた。どうせ忘れたり、どうせ落としたり、そんな遺失物を、自分たちが貰ったって問題ないさ。捨てるのはもったいないよ。自分たちは安い時給で仕事をしているのだから、このくらいは許されてもいいんじゃないか。そういう理屈だった。

高橋からこの話を聞いたときに「お前も同罪だろ?」と私は言った。職業倫理のかけらもない職場で、それについて異を唱えなかったし、間違っていると感じながら、周りと戦わなかったのだから、高橋も偉そうなことは言えない。「それは認める。俺は誰も断罪しない。そんな立場でもない。ただそういう場所が、本当に、この世の中にあることを初めて知って驚いた。できれば知りたくもなかったし、そういう人間と出会いたくもなかったし、正義を成し得なかった自分にも出会いたくなかった」と高橋は答えた。

高橋に仕事を教えたのは「元大手建設会社の部長だ」と自分から名乗った体育会系の男だった。「自分は当時の部下を自殺に追いこんだ」ということも誰も聞いていないのに語った。老けていたが高橋と同じ年だった。どういう人生を歩めば、こういう何とも言えない高圧的な態度が身に付くのか、高橋にはわからなかった。その態度は誰かに命令するのに慣れている人間の振る舞いだった。自分は能力がある。自分は上に立つ人間だ。だから従え。

「馬鹿かお前は。そんなこともできないのか」と初日に怒鳴られたとき、高橋は驚きで声も出なかった。新人だからできないのが当たり前だという発想はないようだった。認めたくないが、心なしか自分が卑屈になっていくような気がした。愛想笑い、薄ら笑い、そんな顔をしたかもしれない。高橋は自分が少年時代に教師に怒鳴られ、クラスで苛められたことを思い出した。そのころの閉塞感と、親や先生に訴えても無意味だったということまでよみがえってきて、心底うんざりした。

モラハラとパワハラの職場にはすぐに慣れた。周りも自分も、こんな掃き溜めみたいな場所にいるんだから大差ない。自分がモラルを振りかざしても何も変わらない。変えられない。同じ穴のムジナなのだ。そう思って自分を騙した。

指導する男からのパワハラも仕事を覚えれば消えるだろうと思ったが最後まで消えなかった。仕事そのものは簡単だから覚えてしまえば、ミスも減りスピードもアップする。実際にそうなったがパワハラは続いた。教えることがなくなっても、その関係は(パワハラこみで)固定されたままだった。なるほど苛めようとすれば何でもネタになる。当時から髪の毛が薄くなっていた高橋はハゲだとバカにされる。もともと高橋は字が汚いが、そのことも他人が読めるように書けとバカにされる。高橋は食欲がなかったので昼食は抜いていた(そんな職場で食欲があるほうがおかしい)。そのことすらも苛めのネタになる。なぜ食べない? 金がないのか? コンビニのゴミ箱を探したか? 高橋には適当な答えが見つからない。見つかるわけがない。毎日これをやられると、さすがに心身に変調をきたすようになった。

高橋のことを指導する男が苛めているのを見て、周りも徐々に苛めに加わるようになっていった。職場では先輩だが二十代のホストのような茶髪男がわざとぶつかって「謝れ」と怒鳴る。高橋が正しく保管したはずの遺失物が見当たらない。それなりの騒動になる。周りの誰かが「誰が保管したのか?」と言う。保管書類から高橋だということが判明する。ほかの誰かが「高橋だ」と言う。ほかの誰かが「いつまで経ってもミスばっかだな」と言うと「ばっか、ばっか、バカヤロー」とほかの誰かがはやし立てる。爆笑になる。後日、別の場所から探していた遺失物が見つかる。誰の仕業かわからない。

ある日、いつものように、いつものごとく、高橋は周りから苛められていた。たとえば姿勢が悪いとか、どうでもいい理由で。苛めている人間の中に三十代の気弱そうな男を見つけた。同じ時期に仕事を始めて、違う男の下で仕事を覚えていた男だった。ときどき帰りが一緒になることもあった。「とりあえずお互い大変だけど頑張ろう」と言っていた男だった。その男は卑屈に笑っていた。一瞬、高橋は裏切り者と思った。殺意にも似た憎悪を感じた。次の瞬間、男のことを哀れに思った。ここで生きていくためには苛める側になるしかない。それがここでの処世術なのだろう。

そのことがあって再雇用男に「辞める」と伝えた。男は特に引き止める素振りもなかった。それどころか「高橋、お前さ、帰るとき、ロッカーで着替えて、すぐ帰るだろ? あんなことしていたら、苛められるに決まってる。みんなと仲良く、会話しなきゃ。コミュニケーション能力がないと、生きていけないよ。どこだって無理だよ、そんなお前じゃ」と忠告めいたことを口にした。それを聞いて私は高橋に「お前も同罪だろ?」と言ったことを後悔した。そんな職場にいて同化しなかったことに感動したくらいだった。

高橋が再雇用男に「辞める」と伝えてから辞めるまでの一カ月、もっと虐めが酷くなるかと高橋は覚悟していたが「そうでもなかった」と言う。高橋に耐性ができたのか、ゴールが見えていたから耐えることができたのか。実際はどうだったのかわからない。指導する男は高橋をかつての部下のように自殺に追いこもうしていたのかもしれない。私は今でも本気で考えている。

高橋は二〇一六年一月から二〇一六年四月までABで仕事をした。まだまだいろんな地獄があると高橋は思った。周りの人間と同罪だとしても、同化せずに辞めたことを誇りに思った。辞めずにいたら(いることができるということは)唾棄すべき人間に自分がなってしまった、ということになる。そのうち唾棄すべき人間であるということさえも忘れる。そうなったら誇りを持って自殺もできない。

高橋は辞めるまでの一カ月間に、次の仕事を決めた。それを見つけたのも、またコンビニで立ち読みした無料の求人情報誌だった。今度も職安のお世話にはならなかった。それは高橋の進歩なのかどうか。私にはわからない。

 

高橋の次の仕事はビル管理だった。以前に管理人の仕事を探したときにも、ビル管理は知っていたが、いろいろと資格が必要だということで選択しなかった。しかし今回のACというビル管理会社の応募条件を見ると「資格年齢経験不問」とあった。とりあえず応募しようと思った。履歴書を持参して、即決だった。ゴールデンウイーク明けから働くことになった。

即決後もしばらくはABで勤めた。休憩中に再雇用男は周りに聞こえるように「辞めたら次はないぞ。お前の年と経歴じゃあ、どこでも無理だよ」と大きな声で話しかけてきた。高橋は無視した。余計なお世話だった。次はもう決まっている。心の中で嘲笑った。

高橋はなぜ自分がACに採用されたのか理解しているつもりだった。会社は高橋の住む団地から三十分もすれば行ける距離にあったが、高橋が配属される(管理すべきビル)は隣の県にあった。私鉄(特急)で一時間半ほどだから通えない距離ではないが、たとえば私鉄が何かの事情で運行不可能になったら、徒歩やスクーターで通うことは難しい距離だった。そのうえ休みは少ないし、給料も少ない。だから応募が少ない。または人がすぐに辞めるのだろう。高橋が即決された理由も、高橋が必要だったのではなくて、まともそうな人間であれば誰でもよかった、というところだろう。

それでも高橋にしてみれば、マンションの管理人に比べれば日曜も祝日も休めたし、年末年始も盆休みもあった(ビル管理は年中無休なのでほかの社員が代理で勤務する)。長く勤めればボーナスも昇給も期待できそうだった。ビル全体の掃除は契約している掃除会社の女性たちがするし、ビル周辺の植栽管理は契約している造園会社がやるので、管理人はする必要がない。

管理人の仕事は早番(八時から十七時)と遅番(十一時から二十時)のシフト制で休憩は一時間。早番は、まず管理人室の夜間セキュリティを解除して、管理人室に入り、ビルの玄関を開ける。午前十時にビル全体の水道メーターをチェックして記録する(メーターボックスは自転車置き場の奥)。異常に水量が多い場合、どこかで水漏れしている可能性があるので、本部に連絡して指示を仰ぐ。それから自転車置き場を整理する。地下の駐車場にテナント以外の車が駐車していないかチェックする。屋上から順に各階の廊下や非常階段を巡回する。管球が切れていれば脚立に上がって取り換える。トイレ内も巡回して不審者がいないか確認する。警備会社と契約しているが警備員は常駐していないので、何か事件や事故があったら警察や警備員が駆け付けるまで管理人が対応しなければならない。早番は十三時にも巡回する。遅番の仕事も水道メーターのチェック以外は十五時と十八時に巡回して、早番と同じような仕事をする。遅番は水道の代わりに電気関係(電灯・電力)のメーターをチェックする仕事がある(メーターボックスは屋上の隅)。ときどき空き室を見に不動産屋とその客がやって来ることもあるので、部屋の鍵を開けて、部屋を見せるような仕事もある。ほかにも各部屋の入居者の都合で、引っ越し、改装、清掃などの業者が来るので、業者の対応をしたり、入居者に連絡することもある。遅番は最後にビルの玄関を閉めて、管理人室の夜間セキュリティを設定して帰る。

日々の仕事は背の高い年下の三十代前半の元野球少年が丁寧に教えてくれた。リトルリーグでピッチャーだったが肘を壊して野球をやめたそうだ。「肘を手術したんです。小五のときに。でもそれ以来コントロールがバラバラになって。ずっと肘の違和感に悩まされて」と肘の傷を見せてくれた。笑うと大リーグに行った何とかと言う投手に顔が似ていた。年上だが後輩の高橋に対しても、きちんとした敬語で接してくれる好青年だった。高橋が仕事に慣れるまで、高橋が早番なら遅番として、高橋が遅番なら早番として、三カ月間はコンビを組んで仕事をしてくれるということだった。高橋はほっとしたし、うれしかった。

ビルの各部屋の入居者たちは(マンションの住民より)まともな人が多かった。もともと保険代理店の所有するビルなので、八階建の半分は保険代理店の支社が占めていた。ほかには、弁護士事務所や出版会社や県観光事務所などが入居していた。そもそも管理人室に苦情を言ってくるような人間はいなかったし、仮に来たとしても、わからないことや難しそうなことは本部に連絡して指示を仰ぐのがルールだった。

高橋にとって今度こそうまくいきそうな気がした。

六月に大雨が降った。深夜に地下の駐車場が浸水した。翌日の早番は高橋だった。何も知らずに高橋が出勤すると、顔は知っているが話したことのない入居者が管理人室の前に立っていた。怒りを抑えながら自分の高級車が水没したことを訴えてきた。その怒りがどこに向けられているのか高橋にはわからなかったが、管理会社や管理人に責任があるとは思えなかった。だから高橋は相手に対して「上司に聞いてみます」と普通の対応をして本部に連絡を取った(今振り返っても対応に問題はなかったと思う、と高橋は言う)。本部から上役がようすを見に来るということになったので、それをまた相手に伝えた。結局、車の水没については、深夜のことで誰も責任は問われなかった。高級車については保険で対応できたようだった。

七月の初めに台風と地震があった。どちらも高橋が早番で帰ったあとだった。遅番の好青年は台風のときも地震のときも管理事務所の床に段ボールを敷いて寝泊まりした。本部から管理室で待機するように言われたらしい。高橋は自分の勤務時間内でなくてよかったと思った。それから以後、高橋は相棒の好青年が来るまでの時間(八時から十一時)と、帰ってからの時間(十七時から二十時)、三時間の独りの勤務時間が怖くなった。

七月の終わり、高橋が早番勤務の朝、何の前触れもなくビルの警報器が作動した。ビル全体に警報を知らせるサイレンが鳴った。高橋が何もできずに呆然としているとデスクの電話が鳴った。それから誰かが管理人室に駆けこんで来た。その誰かが「サイレン止めろ!」と怒鳴って出ていった。高橋はその誰かに慌てて頭を下げた。電話は鳴り続けていた。受話器を取ってみると「サイレン止めろ!」と受話器からも怒鳴られた。高橋は切れた電話に向かって、ただ頭を下げるだけだった。受話器を置いて警備パネルの前に立っていると頭が真っ白になった。操作は教えてもらったような気がするが全然何も思い出せない。適当にやれば音は止まるかもしれないが、それ以上の不具合が起こったらどうしたらいいのか。今度こそ管理人の責任が問われるだろう。それを考えると何もできない。パネルの前で呆然としていると、遅番の好青年が隣にいた。いつの間にやって来たのか。手早く幾つかのボタンを押して警備会社に連絡した。気がつくと音は消えていた。好青年が魔法のように処理してくれたのである。それでも、あの轟音は、少なくとも一時間はビル全体に鳴りっ放しだったことになる。「大丈夫ですか? 高橋さん。音は止まりましたよ。単なる誤作動です。特に何も問題はありませんよ。僕が操作を教えていなかったかもしれませんね。まあ簡単ですから、またすぐに覚えられます。大丈夫ですよ、大したことありませんから」。好青年は高橋を責めなかった。それどころか気遣って「教えていなかった」とまで言ってくれた。その言葉を聞いて彼が教えてくれたことを高橋は思い出した。自分は教えてもらったはずの操作を忘れていたのだ。高橋は自分が急に老人になったような気がした。「いざというときに慌てないように」とメモまでしていたのに(メモはどこに消えたのだろう)。

 八月になった。高橋は好青年に「いろいろお世話になりましたが、この仕事を辞めることに決めました。私には向いていないと思うので」と伝えた。「残念ですね。でも向いていない仕事を続けるよりも、次を見つけたほうがいいと僕も思います」と言ってくれた。彼は最後まで丁寧だった。あえて引き止める素振りさえ見せなかったのも、彼の礼儀正しさだと高橋は理解した。

二〇一六年五月から二〇一六年八月まで高橋はビルの管理人だった。「大きなトラブルが起こる前に辞めたのは正解だったと思う。自分が思う以上に老人になったと認めるのは辛かったけれど」と高橋は当時を振り返った。

 

高橋はまた職安で仕事を探し始めた。そのとき、職安で高橋は久しぶりにいいニュースを聞いた。短期間で退職したのに、もらえないとあきらめていた失業保険の金が、実はもらえるらしいのである。高橋はマンション管理人から遺失物係からビル管理人と流れてきたが、結果的に、雇用保険のある会社を転々としながらも、うまい具合に間を置かずに転職をしてきたことが、ここで功を奏した。最後のビル管理の仕事は自己都合による退職のため待機期間はあったが、それでも金の面ではささやかながら希望が持てたし、奥さんを少し安心させることもできた。

高橋の仕事はすぐには見つからなかった。ライター、文字校正、倉庫作業を探したが空振りだった。管理人ならすぐに見つかったかもしれないが、もうビルでもマンションでも管理の仕事は懲り懲りだった。八月、九月は履歴書を送るだけで過ぎた。

十月になるとすぐにADというデザイン事務所から面接したいと連絡が来た。ADにはずいぶん前に履歴書を送っていたはずで、正直なところ忘れかけていた。社員は社長を含めて五人くらいで、印刷会社の下請けの仕事が中心だった。高橋の履歴書に書いてあった印刷会社での校正経験が社長の目に止まったようだ。会社には私鉄を乗り継いで一時間くらいで通えそうだった。

面接は履歴書に書かれていたことの確認だった。出版社を辞めてからは(管理人や遺失物係のことは省いて)ずっとフリーライターをしていた、ということにしていた。校正経験以外は特に相手の興味を引かないようだった。

面接のあとは校正校閲のテストがあった。誤字脱字を見つける。文意や文脈、さらに一般常識から矛盾を推理して指摘する。ことわざや慣用句の誤用を見つけて正しく訂正する。約三十分のテストで高橋は半分くらいしか正解できなかった。高橋は自分のできの悪さにうんざりした。それでも採用すると社長が言ったので、高橋はうれしかったが、半分しかできない人間を採用するならテストに意味があるのだろうかとも思った。

テストが終わって、何か質問は?と聞かれたので、高橋は残業時間や休日や給料のことを確認した。募集条件に不満はなかったので確認のつもりで質問しただけだったが、意外な答えが返ってきた。「時給八百五十円でどうだ」と言われた。いきなりなので少し驚いたが、そういうことか高橋はと納得した。職安に提出した条件は嘘なのだ。月給制ではなくて時給制で、社員ではなくてバイトなのだ。それにしても安すぎると高橋は思った(私の記憶でも、その当時最低時給は九百円以上だったと思う)。高橋が返事に詰まっていると「うちは小さい会社でまともな給料は払えない。今いる校正係が時給八百五十円だから、それでよければ」と社長は続けた。高橋は迷った。職探しに疲れていたので、それでもいいかなと思ったが、それでも安い。「家族と相談して一週間以内に回答するということでいいですか」と高橋は答えを保留した。「それでいい」と社長は言った。

帰って奥さんに相談すると「辞退したほうがいい」と言った。一週間を待たずに、翌日社長に辞退する旨を伝えると「条件面で交渉したい」という答えが返ってきたので、その次の日にまた出かけた。結論から言えば、時給千円で決着した。一日八時間、一カ月二十日間、月給十六万円ということになった。待遇は社員だが昇給も賞与もない。交通費は全額支給する。高橋は働くことに決めた。

そのあとに判明するが、交通費は全額支給されなかった。残業はすべてサービス残業だった。土日祝の休みは日曜だけになった。休みたいなら有給休暇を消化しなければならなかった。経理は社長の古い友人が担当していたが、給料の振込額を間違うことが多かったし、月末に入金されるはずの給料が遅れることも度々だった。

社長は高橋より年下で、もとはフリーのデザイナーだった。若いころから印刷会社の下請けをしていた。バブルのころに仕事量が増えすぎて個人では回らなくなった。会社組織にして社員を増やした。最多で十人の社員がいたそうだ。バブルがはじけて仕事が減ると社員が勝手に辞めた、と社長は言ったが、高橋は社長がクビにしたか、働きに見合う給料を支払はなかったか、どちらかだと思った。

社員はすべて男で五人いた。そのうちの二人は十年前からいるデザイナーで、どちらもほぼ毎日のようにサービス残業を続け、週に二日は徹夜して、連休や有給も取れていなかった。どちらも酷い臭いがしていた。一人は痩せていたが一人は病的に太っていた。どちらも四十代後半の男で(余計なお世話だが)未婚だった。残りは、数年前に入社した三十代前半の男、四十代前半の男、五十代後半の男で、全員がデザイナーだ。高橋はこれまでいろいろなデザイナーと仕事をしてきたが、その経験に照らしても、五十代後半の男以外はすべて未熟だった。そのレベルはデザイン以前の問題だった。彼らは制作のために印刷会社から支給されたデーターを適当にレイアウトをするだけの単なるオペレーターだった。三十代前半の男は意味のない自信を振りかざす凶暴な性格だった。以前、社内で同僚のスマホを怒りに任せて破壊して、警察沙汰になったそうだ。すでに被害者の同僚は辞めていたが、辞めるときに弁護士を連れて来て、これまでのサービス残業分の金を持って帰ったそうだ。四十代前半の男は精神的に不安定だった(適応障害か鬱病か)。ため息ばかり吐いていた。突然(社長に向かってさえも)怒鳴ったり泣き出したりした。三十代前半の男と頻繁に喧嘩していた。五十代後半の男だけがまともだった。高橋よりも三歳ほど年上でデザイナーとしてのレベルも高かった。高橋の前歴のコピーライターという肩書に反応して、尊重してくれるだけの広告の知識と経験があった。なぜそんな男がここにいるのか不思議だった。高橋は会社に馴染んだころ、遠回しに聞いてみたことがあった。「この年ではまともな会社では雇ってくれない。フリーでやるほど人脈がない」と自嘲気味に笑った。小柄なおじいさんの顔だった。要するにここに集まった男たちは、年齢的にはバラバラだったが、高橋も含めて安い給料で働いていたのだから、みんなそれなりの事情を抱えていたということになる。

仕事の九割は印刷会社の下請けだった。校正担当を置くほどの余裕はなかったから、デザイナーたちが校正も担当した。しかし多忙な上に徹夜も続けば校正している暇がなくなる。その結果、ミスが多発したため、専任者を置くように印刷会社から命令された。そうでなければ仕事を出さない、と。高橋は朝から晩まで元原稿と刷り上がり原稿を突き合わせて校正した。原稿がごっそり抜けているような信じられないミスもあれば、もともとの原稿が意味不明の文章もあった。高橋が入社したあともミスはなくならなかったが、印刷会社での校正経験が役立ってミスは激減した。残りの仕事の一割は直接社長が営業して取ってきた仕事だった。カタログやDMなど半端仕事が多かったが、その文章を書くことも高橋の仕事だった。大した文章ではないが何かを書けることは楽しかったし、ときどき取材に出かけることもあった。そういう仕事のデザインは五十代後半の男が担当していたから「いいコピーだ」とほめられると、高橋は自分が二十代の駆け出しに時代に戻ったような気分になれた。

会社の雰囲気は大抵いつも暗かった。凶暴な男は社長以外のすべての社員から嫌われていた。高橋は社長に「なぜあんな凶暴で未熟な男を雇っているのか」と聞いたことがある。答えは「安いから。とりあえず人手は必要だ」だった。デザイナーたちは徹夜続きで殺伐としていた。高橋でさえ、きついスケジュールのせいで、徹夜で校正しなければならない日もあった。

月に一回会議があった。毎回の会議は「デザイン能力を向上するためにはどうするか」で始まり「ミス撲滅のためにどうするか」につながり「下請け仕事が中国にどんどん取られていくので、このままでは会社が潰れる」という話で終わる。だからどうする、だからこうする、という話にはならない。営業力がないのは社長自身がよくわかっていた。「お前らも営業に行けよ」と社長は言うが、それができるなら、今いる社員はこの会社にはいない。資金繰りと営業活動は社長の仕事だろう。社員に押し付けるな。こっちは安い金で徹夜続きで仕事しているんだから。それが社員の言い分だった。

社長の趣味が旅行というのも社員から見ると納得できないところだった。年末年始、ゴールデンウイーク、盆休みになると、社員が休めなくても、社長は海外旅行に出かけた。個人商店のような会社だから社長が好き勝手するのは仕方ないと高橋は思っていた。でも、だからこそ「お前らも営業に行けよ」という発言は不適当だった。

五十代後半の男は年齢も社長よりも上でデザインの能力も社長よりも上だったから、社長も頼りにしていたし、その立場を尊重していた。その関係を踏まえたうえで、ついに五十代後半の男は会議で発言した。「ずっと徹夜が続いている。時給計算すると八百円ぐらいかもしれない。私はこの会社で一番年寄りだ。体が持たない。何らかの改善がなければ辞めさせてもらう」。その声は冷静になろうとしていたが怒気を含んでいた。社長の回答は「もう少し待ってください」と先延ばしだった。

何も改善もされず、季節が変わっていった。ある日、いつものように凶暴な男が怒鳴り散らしていた。それを五十代後半の男が怒鳴り返した。社内は騒然とした。ちょうどそのとき会社に帰ってきた社長が「お前はクビだ」と凶暴な男に怒鳴った。これで今後の騒動の種は一つ消えた。めでたしめでたし、でもないと高橋は思った。安い人手を確保するために雇っていた凶暴な男をクビにしたということは、人手が不要になったからだ。つまりその分の仕事がなくなったということだ。

しばらくすると五十代後半の男は六十歳になった。すでにADを辞めていたが、フリーのデザイナーとして今まで通りに出勤して、今までと同じように仕事を続けた。この変化が六十歳の男が望んだ改善だったのかどうか知る由もないが、その顔は何だか少し悔しそうに見えた。それと前後する時期だと思う。四十代前半の精神的に不安定な男は出勤しなくなっていた。それが問題にならないということは、その分また仕事が減ったということなのだろう。高橋も仕事が減っていくことに気がついていた。自分がすべき校正の仕事が早く終わる日が増えた。校正が速くなったのではなく、明らかに仕事が減ったからだ。

社長が月一回の会議で高橋に「新しい事業をやろうと思う。協力してくれ」と打診してきた。新しい事業とは申請代行業というものだ。どこかの誰かが、どこかの会社が、何かの申請をするとき、煩雑な書類を代わりにつくるというものだ。面倒くさくて煩雑で大変だが誰でもできる。やれば慣れる。慣れれば簡単だ。今は自分(社長)だけが担当している。申請が通ったらという成功報酬なので量をこなして実績をつくらないと信用されない。そのために協力してくれというのだ。「家族に相談します」と高橋は回答を保留した。

社長の言うように、申請書類の作成は煩雑だができなくはないし、実際に社長がつくれるレベルなら自分にもできると高橋は思った。問題はそこではない。自分がそんな仕事をしたいのかどうかということだった。その夜、奥さんに相談すると「それって詐欺なんじゃないの?」と質問された。高橋は答えられなかった。確かに奥さんの言う通りかもしれなかった。そのことをあらためて社長に確認すると一笑に付された。数日後、再度打診されたので、高橋は断った。「自分にはできないと思う」とだけ伝えた。したくないとか、詐欺かもしれない、ということは言葉にしなかった。社長は「仕方ないな」と引き下がった。

それからすぐに社長から新しい提案があった。今度は四十代後半の男(太ったほう)のデザイナーのアシスタントをしてくれというものだった。高橋には意味がよくわからなかったから社長に説明を求めた。

「つまり面倒を見るということだよ。あいつは遅刻ばかりで午前中は仕事にならない。仕事先から問い合わせがあっても『まだ来ていません』では会社の信用にかかわる。だから定時に出社してなかったら、あいつに電話して起こす。仕事の締め切りに遅れそうになったら、スケジュール通りに仕事をさせる。そういうアシスタントだ」

 高橋はあきれた。あいつが遅刻するのは徹夜続きだからだ。徹夜をさせているのは社長だ。今までずっと遅刻をしていたのは、社長が黙認していたからだ。黙認していたのは、連日徹夜で仕事をさせていた社長に負い目があったからではないのか。それを高橋に丸投げして、あいつのアシスタントになれと命令しているのだ。そもそも、あいつはそれでいいのかどうか。あいつはこのことを何も知らないだろう。

「あいつはデザインしかできないオタクだ。徹夜はするが朝は起きられない。社会人としては失格だが会社には必要だ。朝起こしてくれたりスケジュールを管理してくれたり、そういう人間がいてくれたら、あいつは助かる。あいつが助かれば会社も助かる。あいつがどう思うかは関係ない」

「それは、私の仕事ではありません。そういうことを今まで野放しにしてきた社長の責任です。社長自身がすべきだと思いますが」

「それは、社長の仕事でもないよ」と言う社長の言葉を聞いたとき、もう高橋の言うべき言葉はなかった。高橋は自分のほうがおかしいのかもしれない、そんなふうにさえ思ってしまった。

 翌日、社長から「社長命令を聞けないならクビだよ」と宣告された。「家族に相談します」と回答を保留した。「そんな仕事は仕事ではないわ。少なくともあなたの仕事ではないわ。朝起きられない社員をクビにするのもしないのも社長の好きにすればいいけど、朝起きられない社員を採用したのは社長だから、社長が原因。仕事がないのも社長が原因。あなたが、その男のアシスタントになったところで、次の社長命令は『営業に行ってこい!』に決まっている。辞めどきよ。よく続いたと思う」と奥さんは捲し立てた。

 次の週、社長に辞めると伝えた。一カ月後、何事もなく辞めた。辞めるまでの一カ月、高橋は社長の代わりに、社員のタイムカードで勤務時間を計算したり、銀行に行ったり、印刷会社に集金に行ったりした。文字を書くことも、文字を校正することも、本来高橋のすべき仕事は一切なかった。ADには二〇一六年十月から二〇二〇年三月まで勤めたことになる。高橋にしては長い期間だったが、特に感慨はなかった。

そのとき会社には(社長以外には)十年以上前からいる二人のデザイナーだけが残っていた。太ったほうの男は、高橋の最後の日も夕方ごろに出勤してきた。目ヤニ、口臭、肩にフケ。いつものあいつだった。「おはようございます」も「遅刻してすいません」も一言もなかった。そのまま椅子に座って仕事を始めた。痩せたほうは高橋に「今までいろいろありがとうございました。ここだけの話、僕も、もうすぐ辞めます。いや辞めるつもりです」と別れの挨拶をした。その姿は幽霊みたいに見えた。

 

高橋は次の仕事をまた探し始めた。高橋の仕事探しは終わらない。やりたい仕事もできる仕事も、高橋にはもう何もわからなかった。ただ穏やかに日々を過ごしたかった。一日の内の半分から三分の一を仕事が占めるなら、穏やかにこなせる仕事がしたかった。苛めや悪口や重労働や最低時給やサービス残業やパワハラやワーキングプアや、神経を痛めつけ擦り減らし立ち直れない鬱に落ちていくような仕事はしたくない。

高橋にはわかっていた。もう自分は仕事を選べる立場でもない。年齢も経験も資格もノウハウもスキルも、どれもすべて劣っている。人間失格。生きていたいとも思わなかった。地獄のような環境で仕事をして、鬱を抱えて妻を罵倒して、それでも生きていくことに意味があるとは、どうしても思えなかった。朝起きて絶望するような人生に意味などない。死んだほうがましだった。このままでは妻の人生まで無駄にしてしまう。自分が自分の人生を擦り減らすのは自業自得で自己責任だが、妻には妻の人生がある。それがわかっていても高橋は離婚や自殺に踏み切れなかった。高橋は結局、人生と奥さんに甘えていただけなのかもしれない。

当時私は高橋に「奥さんがもし離婚してくれと言ったら?」と尋ねたことがある。「離婚する。部屋を出ていく。スクーターを処分して妻に現金を渡す。愛猫の面倒を託す」と高橋は答えた。そのあとのことは、そのあと考えると言った。本音だったし、そのあとは、きっとどこかから飛び降りるか飛びこむか、きっかけがあれば高橋はピョンと飛んだはずだ。

何も死ななくてもよかったのに、死ぬ気で頑張れば何でもできたのに。そんなふうに、あなたは心のどこかで思うかもしれない。少なくとも私も高橋に出会う前は単純にそう思っていた。しかし「死ぬ気で頑張れば何でもできたのに」という理論は高橋には通用しない。高橋に出会ってから、そういう理論が通用しない人間が存在することを実感として理解した。目の前にいるのだ、友人として。その存在に対して見て見ぬ振りはできない。

しかし存在を理解したからと言って「じゃあ、死んだらいいだろう。お前が楽になるなら。それも、ありだな。お前の人生だから」とは友人としても(仮に知らない他人だったとしても)言えない。その存在を理解してもなお「死ななくてもよかったのに」という気持ちは今でもずっとある。

もちろん「死ぬ気で頑張れば何でもできる」という言葉を、私は昔も今も信じていないし、これからも未来永劫信じない。死ぬ気で頑張ってもできないことはできないし、そもそも死ぬ気で頑張る必要はどこにもない。死ぬ気で頑張らなくては生きていけない、そうしなければ、求める穏やかさを手にできないような世の中なら、そっちのほうが間違っている。そもそも間違っている世の中で、もがき苦しみながら、高橋は自殺を希求し続けた。結局、闇を抱えながら高橋は死と同じくらい幸福を探したのだ。間違っている世の中で、これでもかと転々と転々と転々と転々と、もがき続けた高橋のほうが間違っていなかったのかもしれない。

高橋はもともと弱い人間なのだ、その上、努力を怠り、逃げてばかりいて、自分の人生を浪費したのだから、高橋が鬱になるのは必然で、結果的に、精神的にも経済的にも不幸になるのは自業自得で自己責任だろう。そんなふうに、あなたは心のどこかで思うかもしれない。でも、それは今うまくいっている人間の一方的で無責任で想像力の欠如したコメントに過ぎない。無責任であることは仕方ないが、テレビの評論家の言葉みたいだ。私の心には響かない

高橋だって、別の視点から好意的に見れば、その瞬間瞬間には生きるために「死ぬ気」で頑張っていたはずだ。死ぬ気で頑張った結果が死を求めるほどの鬱であったことは、悲劇のような喜劇のような…人生は複雑だ。

 

 ADを辞めてちょうど半年後に、職安で見つけたAEという建物管理会社に入った。高橋はまたマンションの管理人になった。失業保険が切れる前に仕事を決めるためには、もう一度地獄の門をたたくしかなかった。その業界では、健康な男で、まともな会話ができれば高い確率で採用される。六十歳より若ければ、なおさらである。

 高橋が配属されたマンションは高橋が住む団地から歩いて三十分くらいの距離にあった。勤務時間は十時から十七時(休憩一時間)。最低時給で休みも少ない。そこら辺は前回のときと似ていた。しかし築五十年の約五百世帯が暮らす大規模なマンションを一人で管理しなければならない。ちなみにオートロックではないので誰でも自由に出入りできる(『住民以外立入禁止』という貼り紙は無意味だ)。もともと募集では二人体制の交代制ということだったが、面接の段階では一人でやってもらう、と告げられた。今も一人でやっているから大丈夫だ、ということだった。清掃担当者や植栽担当者は別にいるし、まだ若いから大丈夫だと強調された。大丈夫だとはとても楽観できなかったが高橋には選択肢がなかった。のちに判明するが、ここはあらゆる意味で、前回よりも地獄だった。

 前任者は七十五歳のがっちりした男だった。運動部の監督のような口調で態度も横柄だった(高橋の推理は当たった。建設関係の会社を退社後は管理人をしながら少年野球の監督をしているという)。男の仕事の引継ぎは適当で、きちんと教える気は微塵もないようだった。「俺だって前任者から何も教わっていないんだからな。適当に覚えろよ」ということだった。高橋は十日間、金魚のフンのように男のうしろを付いて回って、必死に仕事を覚えた。仕事を見て質問してメモを取り、仕事を見て質問してメモを取り、その繰り返しだった。前にやった管理人の経験が少しは役に立った。

「俺は辞めたくなんかなかった。俺は十年この仕事をしてきた。あと十年はやれる。やるつもりだった。年だからって、会社が俺をクビにした。このマンションのことを何もわかっていないくせに」

 高橋は引継ぎ期間中に仕事を覚えながら前任者を観察した。かなり高圧的に住民を支配してきたことがわかってきた。管理人室に相談や苦情に来る住民に対して、偉そうな態度を取っていた。「知らん、わからん、忙しいから、帰って」と口調もきつかった。それができるのは、このマンションに体と気の弱そうな独居老人が多かったからだ。結果的には、前任者の対応が前任者自身のクビを切ることになった。高圧的な態度を取られ続けた弱い住民たちが管理会社に直接苦情を伝えたのだ。怒鳴る管理人の音声を録音して管理会社に証拠として突き付けた住民もいた。そういう裏事情を知らされていない男は年のせいだけでクビになると信じていた。裏を知ったら独居老人たちの鼓膜が破れるくらい怒鳴り散らしたかもしれない。

もちろん男が住民すべてに高圧的だったわけではない。仲のいい住民(それは大抵、男と同世代の似たような頑強な爺さんが多かった)が来ると、人が変わったように会話が弾んだ。共通の話題はゴルフか株のことだった。ほかにも、それだけではないような話も聞かれたが高橋には意味がわからなかった。何かの利益供与や忖度や手続き上の優遇などが盛りこまれていたとしても不思議ではない雰囲気だった。

「理事会の理事長はじめ役員たちの顔と名前と部屋番号は覚えておいたほうがいい」と男は高橋に忠告した。「あいつらを抑えておけば、あいつらに気に入られれば、こんな楽な仕事はない」と付け加えた。その信念に従って男は、役員が管理人室に来ると、進んで招き入れて、椅子に座らせ、中身のない会話、お追従やお世辞で時間を潰し、笑顔で見送った。男のくだらない人間性がうかがえた。この男が少年に野球を教えているのかと思うと、野球の価値が下がるような思いがした。

十日後、高橋は一人でこのマンションを管理することになった。そして新しい地獄が始まる。

勤務は十時からで、すぐに巡回をする。十階建が三棟並ぶ。エレベーターで最上階へ。廊下をチェックして、階段で降りていく。ゴミが落ちていないか、管球が切れていないか、破損している設備はないか。あれば清掃担当や管理会社に報告する。廊下はゴミだらけで、犬のフンも落ちている。もちろんペット不許可だが誰も守らない。フンを持ち帰るようなマナーもない。管球はLEDだから滅多に切れない。手すりが外れかけています、廊下の天井の非常口誘導灯が落ちそうです、と管理会社に連絡しても「知っているから大丈夫」と言うだけで、担当のフロントは何もしない。一階まで降りると集合ポストや自転車置き場や駐車場をチェックする。集合ポストが壊されていないか、チラシや郵便物があふれていないか、自転車が倒れていないか、不法駐車している車はないか。当然のごとくチラシや郵便物は大量にあふれているが管理人は手が出せない(出さない)。住んでいるのかいないのか、よくわからない住民が多い。何度整列させても自転車は乱雑に駐輪されている。マナーを無視して無茶苦茶だ。整理整頓は管理人の仕事だと思っているのだろう。不法駐車もないわけがないので、警察に連絡するが警察はマンション敷地内のことに乗り気ではない。

そういう巡回を三棟分、つまり三回繰り返す。午前中はそれで終わる。一万歩は軽く超える。午後からも、巡回をするのでまた一万歩を歩く。毎日二万歩を歩くことになる。午後の残りの時間は管理人室で待機して、苦情が寄せられるのを待つ。

よく前任者の七十五歳の男が毎日二万歩も歩いたな、と思ってピンときた。歩いていない。適当にサボっていたのだ。その証拠に男は「仕事に慣れれば週に文庫本を三冊は読めるぞ」と言っていた。

巡回の仕事だけなら、まだマシだがもちろんほかの仕事もある。そこに、転入転出、いわゆる引っ越しがあるときは、引っ越し業者の対応に追われる。事前に引っ越しトラックの駐車場所を仲介不動産屋や新しい住民に伝える。指定場所以外に駐車すると苦情がきますからね、と念押しするが、大抵指定場所以外に駐車するので、トラブルが発生する。引っ越し業者に駐車場所を伝えていないからだ。わざと管理人の指示を無視して勝手に止める業者もいる。引っ越しゴミも勝手にゴミ庫に捨てていく(ゴミ庫の鍵は壊れている)。そもそも管理人が来る十時前、帰った十七時後であれば、やりたい放題だ。引っ越しに関する書類(転入転出届)を記入させることも、面倒くさいが重要な仕事だ。特に緊急連絡先を記入しない、記入できない住民が多い。身寄りがないか、それとも縁を切っているか。仮に適当に記入したところで、いざというときにならなければバレる恐れはない。いざというときとは、たとえば孤独死。記入した本人は死んでいるから気楽なものだ。

そのうえ工事業者もやって来ると大変だ。古いマンションだからリフォームする住民もいる。フルリフォームなら三カ月間業者が出入りすることもある。工事は管理人の勤務時間内と決められているが守るわけがない。夜間早朝日祝でも、お構いなしで平気で工事する。工事車両が通行を妨害する、工事のせいで大きな音が出る、廊下や階段やエレベーターを汚す、ゴミ庫の中に明らかにリフォーム工事のゴミを平気で捨てる。当然、住民からクレームが寄せられる。管理人室の電話が狂ったように鳴る。直接管理人室に怒鳴りこむ住民もいる。高橋は管理人として毅然とした態度で業者に、住民からクレームが多数届いているということと、「ルールを守ってもらわないと困ることになりますよ」と伝える。すると逆ギレして「お前の上司を知っているから、お前をクビにしてやるぞ」と恫喝される始末だ。相手は反社会的勢力の人かもしれないが。

日常的にも変な住民が苦情を寄せてくる。

「自転車置き場が乱雑だぞ、マナーを守らせろ、管理人なら、住民を管理しろ」というあなた、あなたがチワワを飼っていることはバレています、それって規約違反で即退去で、マナー以前の問題ですけど、そもそも管理人はマンションを管理するんですが、という心の声を抑えて高橋は「駐輪マナーを守りましょう」という紙を貼るだけだ。

「鍵を失くした、落とした、部屋に入れない、開けてくれ」というあなた、ここはマンションですよ、ホテルではありませんからマスターキーなんてありませんよ、私は管理人ですよ、管理人がマスターキーを持っているほうが危険だとは思いませんか、という心の声を抑えて高橋は「合鍵を持っているご親族やお友達に連絡をするか、鍵を開けてくれる業者にご相談してはいかがですか」と笑顔で対応する。ほとんどの住民は納得できない。なかには「それでも管理人か」と捨て台詞で去っていく人間もいる。鍵問題は前回の管理人時代にもよくあった案件ではある。私もマンションに住んでいるが、管理人に開けてもらうという発想はない。

「お友達がここに住んでいるの、お友達の名前は**さんっていうの、部屋番号を教えてくれる?」というあなた、個人情報を教える管理人なんて今どきいませんよ、あなたが**さんと友達であるという証拠はありませんよね(あなたの証言以外には)、そもそもお友達なら部屋番号を知っているでしょうし、忘れても、お友達に電話やメールで教えてもらったほうが確実ですけど、という心の声を抑えて高橋は「個人情報に関することはお教えすることができません」と申し訳なさそうに告げるだけだ。それでほとんどの人間は引き下がるが「ヒントをちょうだいよ」と言って粘る人間もいる。高橋はクイズ番組のMCではない。

ここは古いマンションなので、大雨が降れば最上階の部屋や廊下が雨漏りする、天候に限らずどの階のどの部屋でも雑排水管が詰まったり破損したりすれば漏水が起こる、すると「雨漏りした、漏水した、管理会社の責任だ、管理人の責任だ、何とかしろ、早く直せ」と大声を出すあなた、あなたは今トラブルを抱えて困っている、何とかしてほしいとここにいる、それを助けるのは管理人だ、あなたの味方だ、味方を怒鳴っても問題は解決しませんよ、古いマンションだから雨漏りや漏水は仕方ないし、工事をするのは工事業者ですよ、という心の声を抑えて高橋は「工事業者に連絡します」とあえて事務的に対応する。すると「いつ来る? いつ直る?」と詰め寄るあなた、それを今から業者に聞くんですから、大人しく黙っていてくださいね、という心の声を抑えて高橋は「わかり次第お伝えします」と静かに答える。それでも怒り続ける相手には、相手の目の前で業者に電話して、直接業者と打ち合わせをしてもらう。この渡瀨さん(仮名)という業者にはずいぶんお世話になった、と高橋は言う。孤軍奮闘する高橋の数少ない味方だった。「自分の子供に説明できないような不明瞭な仕事はしない」と言うのが渡瀨さんの哲学だった。個人的にも高橋は自分の住む団地の温水洗浄便座を取り換えてもらうほど、渡瀨さんの技術と人柄を信用していた。

さまざまな苦情が持ちこまれるが管理人が相手にできない(相手にしない)ものもある。騒音問題である。いわゆる「上の部屋がうるさいから何とかしてほしい」という苦情だ。被害者は自分の部屋の天井から音がするので真上が加害者だと断定している。しかし集合住宅における音の伝わり方はそれほど単純ではない。加害者が全然違う部屋だったケースもある。仮に加害者が特定できても、そもそも加害者は騒音を出しているつもりはない。騒音ではなくて生活音であるという主張だ。さらに騒音だろうが生活音だろうが、聴力はもちろん音に対する忍耐力は個人差が大きい。同じ音がしても聞こえない、聞こえても気にしない、気にはなるけど苦情を言うほどでもない、苦情を言いたいけれどもお互いさまだから。人間の感覚はさまざまだ。許容するのか、排斥するのか。大げさに言えば、加害者と被害者の双方の生き方や暮らし方までが露見されるのだ。加害と被害の関係が明らかになっても、住み続けるという今後の問題もある。セクハラやパワハラのように、相手がそう思えばアウトになる案件とは、違う意味で複雑だ。だから管理会社は、この問題には関与しない(もちろん管理人も)。それはマンションの役員たちも知っているし、住民たちも知っている。にもかかわらず住民が「上の部屋がうるさいから何とかしてほしい」という苦情を持ちこんでくる。そんなときは役員トップの理事長の出番である。そういう意味合いにおいて前任者のアドバイスは正しかったかもしれない。

前回の別のマンションで管理人をしていたときは、ほとんど役員との接点はなかった。確か理事長は高橋より若い弁護士だった。住民の少ないマンションはトラブルも少ない。築二十年程度だったから設備の問題もほとんどなかった。

しかし今回のマンションは違う。設備は古くてトラブルは頻繁に起こる。住民が多いからクレームも多い。このマンションの理事長は中道さん(仮名)という高橋よりも七つ上の女性だった。白髪で小柄できれいな人だった。「私は、ただのおばさんで、お勤めの経験もないし、自治会とか婦人会とかは苦手だけど、旦那の具合がよくないから私がやるしかないのよ」と言っていた。

Aさん(仮名)から騒音の苦情が持ちこまれたのは、その年の十二月の初めだった。雨漏りと引っ越しが一段落したころで、高橋は余裕を持って相手の話を聞くことができた。

「夜中にチャイムが連打されて目が覚めたんです。ドアを開けると女の人が立っていて『隣に住んでいる。音がうるさくて眠れない』と怒鳴られました。私たち家族は、チャイムで起こされて、さっきまで寝ていたのだから『うちではないですよ』と言ったけれど『この部屋に決まっている』と言い張るので、怖くなってドアを閉めて、すぐに警察に電話しました。お巡りさんが来てくれたので、詳しく事情を話しました。お巡りさんが隣の人と話してくれましたが、結局、隣の人は、お巡りさんにも『隣の部屋がうるさいから苦情を言った』と言い張るだけで。お巡りさんは私に『今度また、そういうことがあれば、電話してください』と言って帰りました。何も解決していません。私は、うるさくなんてしていません。シングルマザーで子供は小さいし、私は昼間は仕事があるし、夜中は寝ているんです。小学生の子供はまだ二年生で、夜中のピンポンの連打に泣き出して大変だったんです」というような話だった。Aさんは地味で暗い女の人だった。たとえば教室の隅にいるかどうかわからないくらいの女子が、そのまま三十代になった感じだった。こんなところで、こんなことを言っても、仕方ないけれど、どうしたらわからない、と顔に書いてあった。日々の暮らしや子育て、どんな仕事か知らないが食べていくための仕事、それらすべてに疲れ果てているようだった。とりあえず、そこら辺にある服を着こんできたという姿を見れば想像できた。

「申し訳ありませんが管理人は住民間のトラブルに介入できません。理事長に事情を説明して、ご相談されてはいかがですか?」と言った高橋は「今、お時間よろしいなら、理事長に電話してみましょうか?」と、つい余計な一言を付け加えた。Aさんはお願いしますと頭を下げた。

 理事長に電話で事情を説明すると「今から管理人室に行くから、Aさんに『待ってて』と伝えて」と言ってくれた。理事長は管理人室に来ると、管理人室を出ようとする高橋に同席を求めた。Aさんは高橋にした話を繰り返した。途中で少し泣いた。子供は女の子で体が少し不自由だということが高橋の耳に入ってきた。

「なかなか難しい問題ですね。とりあえず隣に住むBさん(仮名)にも事情を聞いてみますね」と理事長はAさんに言った。Aさんはお願いしますと頭を下げて出ていった。

Aさんが出ていくと理事長は高橋に聞いてきた。

「あなたはどう思う?」

「率直に言って、Aさんが嘘をついているとは思えません。実際に、警察にも通報していますから」

「そうよね。警察を呼んで娘を守りたかった、という気持ちはよくわかるわ。でもAさんがうるさくないなら、なぜ隣がピンポンを押すのかしら。Bさんが嘘をついている?」

「わかりません。嘘をついたかもしれないけど、Bさんが嘘をつく理由がわかりません。嘘をついていないなら、実際にどこかで音がしていたのを、隣だと決めつけたのかもしれません」

「その場合、騒音源を突き止めることは可能かしら?」

「この規模では無理でしょうね。仮に突き止めても、その部屋の住民が『音なんか出していない』ととぼけたら、それで終わりです」

「じゃあ、あなたらどうする?」

「理事長と同じことをします。とりあえず、Bさんの話を聞きます」

「それしかないわよね。Bさんの連絡先教えて」(ちなみに住民の個人情報を理事長に教えることは管理会社から許されていたので、高橋はBさんの携帯番号をメモして渡した。)

「気をつけたほうがいいかもしれないですよ」

「どうして?」

「夜中に隣がうるさいとき、理事長ならどうします? 隣にどんな人間が住んでいるのかわからないから、私なら怖くてピンポン連打なんてできません。Bさんは女性なのに、それができるんですよ」

「そうか、なるほどね。気をつけるわ」

 翌日、理事長から連絡があって、理事長によるBさんへの事情聴取は週末土曜の午後三時と決まった。「同席してね」と念押しされた。

 管理人室にやって来たBさんの印象は悪くなかった。若く見えたがAさんと同世代だろう。長い髪をきれいにまとめてキャリアウーマン風のスーツ姿を見る限り、上昇志向が強くて、何か高いものを売りつけることに慣れている感じがした。高橋にはそれが何かはわからなかったが、(買える金があっても)特に欲しいとも思わないだろうということはわかった。いや違うな、高橋は振り返る。「管理人室にやって来たBさんの印象は悪くなかった」と思わせるように計算された姿だったのかもしれない。なぜ理事長に呼び出されたのかをBさんは知っていたはずだ(理事長が仮にAさんのことを伝えていなかったとしても)。自分がここに呼ばれて何を聞かれるかもわかっている。想定問答を繰り返す時間はあったはずだ。その服装は、自分がまともであること、長い話は無理、今は仕事の途中、または話が終わったら仕事に行くから、そういうことをアピールしている。

同じクラスにいたらAさんとBさんの2人は友達になれたか、という私の問いに高橋はこんなふうに答えた。「BさんはAさんの存在に気づかないだろう。それはAさんの身のためだ。気づいたときには高い確率で苛められるだろうから」。

高橋はBさんの目が怖かった、という。その目は空っぽなのだ。何も考えていないからではない。頭はフル回転している。何か目標があれば、その目が輝くのだ。たとえば、金のない貧乏人に価値のない高いものを売りつけるとき、真夜中に隣の部屋のチャイムを何度も押すとき。

Bさんのような人種に、高橋はこれまでの職場で何度か出会ってきた。彼らはわれわれとは違う世界で、違うルールで生きている。ルールが違うから善悪の判断も微妙に違う。頭は悪くないが使い方を間違っている、と高橋は思うが、相手は死ぬまでわからない。

管理人室に遅れてやって来た理事長に対して、Bさんは挨拶もそこそこにして切りだした。自分が呼び出された理由がわからない、これから仕事があるので話は短めにしてほしい、と。理事長は笑顔でわかりました、と答えた。高橋はBさんの普通でない感じを伝えたかったが、伝える機会もないまま、事情聴取が始まった。

 すぐに理事長はAさんから聞いた話を、Bさんにぶつけた(そうすることは事前にAさんから了解を取っていた)。Bさんはチャイムを連打したことは否定した。「一回だけです。連打なんて非常識なことしていません。娘が泣いていた? そんなこと私は知りません。『うるさくしていない』なんて嘘ですよ。うるさかったから夜中にわざわざ私は隣に行ったんですよ。それを、よりによって居直って、警察まで呼んで。どういう神経してるんですかね、隣は」と捲し立てた。それすらも高橋には演技に見えた。三十分してBさんが腕時計を見た。それが合図だったかのように理事長が言った。

「貴重なお時間をありがとうございました。Bさんのお気持ちはよくわかりました。しかし、先ほども説明した通り、騒音源をお隣のAさんだとは断定できません。知っての通りの古いマンションですから生活音でも何でも響きやすいのかもしれません。もしも、また同じようなことがありましたら、Bさんも警察に通報してください。騒音問題は管理会社や管理人さんは対応できませんから、住民同士で解決する必要があります。といっても最近では、エスカレートすると事件になることもあるので、わざわざ夜中に隣へ行くような危険なことはせずに、警察に通報してください」

 Bさんは理事長の言葉が終わると、挨拶もせずに管理人室を出ていった。

「どう思う? あれでよかった?」

「と思います。それからBさんの発言には嘘があると思います。連打しているし、泣き声も聞いているはずです」

「証拠はないけど、私もそう思う。何だか自分が一番正しい、それ以外は認めない感じね」

「Bさんの表情を見ていて、あれっ?て思ったんです。理事長が『わざわざ夜中に隣へ行くような危険なことはせずに』って言ったときに、微かに笑った感じがしたんです」

「私も気づいたわ。何がおかしいのかな、と」

「Bさんは理事長の言った『危険』という言葉に笑ったんです」

「なぜ笑うのかしら?」

「危険じゃないことを知っていたから。つまり隣に誰が住んでいるか知っていたから。母と娘だけで住んでいて、わざわざ夜中に隣へ行くようなことをしても、安全だと知っていたから。隣同士だから部屋の出入りを見たり聞いたりすれば、家族構成は把握できる」

「そうかもしれないけど断定はできないわ。加害者が無罪だという確かな証拠はどこにもないから」

「でも騒音がなければ、そもそも被害者すらいないんですよ。これがBさんの狂言だとすれば単なる愉快犯で、被害者と加害者が逆転します。狂言だからBさんは警察に通報せずに、わざわざ夜中に隣へ行ったのかもしれません」

「かもしれないけど、どちらにしても何も断定できないから、これからのようすを見るしかないわ」

「まあそうですね」

「何だか嫌な時代になったなあ」

「時代ですか?」

「そう、時代が変わって、人が変わって。私が住み始めたころは、見た目は高層のマンションだったけど、まだまだ住民同士のつながりとか、お醤油を借りたり、子供をあずかってもらったり、そういう長屋的なよさがまだまだ残っていたのよ、それが騒音くらいで、この騒ぎよ。こんな古いマンションに住んでるんだからお互いさまでしょうに。お互いの許容範囲が狭くなって、みんな権利や主義や主張ばっかりで、お互いにぶつかって当たり前の時代。そのうえ謝ったら損みたいな感じよね」

 理事長は「それじゃまたね。Bさんについて評判を集めてみるから、何かわかったら教えるわ」と帰って行った。「騒音で苦情が来たら、また理事長に伝えます」と高橋はお願いした。

 そのあとAさんとBさんの騒音問題は沈静化したようだった。といっても、ほかの苦情は続く。テレビが映らない、ネットがつながらない、煙草の煙が臭い、干していた洗濯物がない、網戸が外れた、バイクの音がうるさい(昼寝ができない)、ゴミの不法投棄がある、駐禁とられた、来客用の駐車場がない。そして犬のフンは転がり続けて、集合ポストはあふれ続け、ゴミの不法投棄は止まらない。

 あっという間に半年が過ぎ、有給休暇を消化して土曜日が休めるようになった。その少し前から、高橋の鬱が酷くなった。中道さんや渡瀨さんと喋れるときは気分が晴れたが、大抵のときは気持ちが底なし沼に落ちるように這い上がれなくなった。高層階を巡回中には、ここで飛び降りたら楽になれると考えた。郵便配達が集合ポストに郵便物を投函しているところを見れば、あのとき通えるところに配属されていればと、二十年前の無念がこみあげてきた。管理人室で待機しているときも気持ちは落ち着かない。ドアがノックされるかもしれない。電話が鳴るかもしれない。それはすべて苦情であり、罵倒であり、怒号であり、恫喝であり、なぜ自分が責められるのか理解できないまま、言い訳や説明もできないまま、ただサンドバックになるだけ。「お前の給料は俺が払っているんだ。お前なんかいつでもクビにできる。どうせ俺たち住民が見てないところでは適当にサボっているんだろう? わかってるんだからな」という声が耳元で聞こえてくるようになった。

五百部屋に対して、たった独りで対処しなければならない。管理会社の上司(課長やフロントという名の担当者)に「一人では無理です」と訴えても「以前の二人体制のときも週の前半と後半で、勤務するときは一人だったから同じだから大丈夫」という答えだった。この回答の裏には、仮に二人体制に戻すことができても今よりも給料が半分になるぞ、という意味が隠されていた。金のことを考えると辞められなかったが体は限界だった。夜眠れなくなった。朝起きられなくなった。髪の毛が抜けた。下痢が続き体重が落ちた。毎朝、仕事に行く前に全身が震えるようになった。震えながら高橋は奥さんに向かって怒鳴り散らした。「地獄に行きたくない!」。そのころの気分を高橋はこんなふうに表現した。

「毎朝、毎朝、召集令状が届く。もちろん徴兵拒否はできない」

 高橋は自分の死体を引きずるようにして自分が管理するマンションに通った。1日六時間労働、週六日間、土祝勤務、夏季休暇二日間、冬季休暇四日間(大晦日と三が日)。

 頼りになる業者の渡瀨さんとは、プライベートなことまで話すようになっていた。「高橋さん、この規模のマンションなら管理人は三人はいないと。一人なんてあり得ない。そりゃね、前の管理人みたいに何もしないなら一人で十分だけど。私が言うのもなんだけれど、適当にサボらないと体が持たないですよ」。まさかすでに体が持たなくなっていることは言えなかった。

理事長の中道さんも同じようなことを言っていた。「このマンションで、一人で大丈夫? あなた、日曜だけが休みなの? 土曜とか祝日とか休みを増やすように理事長として言ってあげようか?」

「休みや人が増えると、私の給料は減るんですよ。人を増やしてもらって、今のままの給料を私がもらうためには、マンションの管理費を上げてもらわないと無理なんです」

「そうなのね。私は管理費を上げてもいいと思うけど、他の住民は抵抗するでしょうね」

 高橋がギブアップする前に、高橋の奥さんがギブアップした。毎朝の怒鳴り声に、もう耐えられなかった。勤め始めて高橋の体重が六キロ減ったことも奥さんとしては気になることだった。夫婦の意見は一致した。とりあえず辞める。そう決めたが、意思表示は三カ月前にしなければならない、という規定があった。そのとき六月だったから辞められるのは九月ということになる。高橋は前年の九月から管理人をしていたから勤務が一年を超えることになる。自己都合で辞めても、すぐにではないが失業保険をもらうことはできる。

 高橋が、もう駄目だ、もう無理だ、と思って辞めることを決意したのには、理事長が代わったこともあった。五月に役員が代わって、理事長も代わった。新しい理事長は高橋よりも二十歳くらい若い男でサラリーマンだった。やる気はあるが平日は仕事があるため、前理事長の中道さんのようには動けない。簡単にいえば、新理事長は高橋にとっては頼りにならない存在だった。

新しいい役員の中には管理会社を日ごろから嫌っている年寄りも選ばれていた。大企業に勤めたあと、引退して暇を持て余しているので、マンションのいろいろなことが気になる。中道さんによれば「(この年寄りは)住民として管理会社にクレームを訴えても改善されないので、役員に手を挙げて役員となって、自分が何とか管理会社を動かしてみせる」と息巻いていたそうだ。さらに、その役員は「管理人なんか、どうせいつもサボっている。サボることしか考えていないんだよ。そういう人種なんだ。だから管理人なんかしているんだよ」と断定する人間だから気をつけて、と言われた。

六月の終わりに、このマンションの担当フロントに辞めることを告げた。理由を聞かれたので体調不良と答えた。人手不足なので辞められては困ると言われた。辞めるまでの三カ月勤務の規定は守るので辞めさせてくれと言った。課長に相談するので少し待ってくれ、ということになった。

 次の週に課長が管理人室にやって来た。課長に会うのは面接以来だった。ずいぶん若いのに相変わらず疲れ切った印象だった。課長は単刀直入だった。

「高橋さん、どうしたら辞めずに続けることができますか?」

「体が持たないんです。この規模のマンションを一人で管理するのは私には無理です」

「人を増やして欲しい、休みが欲しい、ということですか?」

「いいえ。そういうことではありません。給料が少ないこと、一人勤務であること、それらは最初からわかっていて仕事をやっていたわけですから、今さらそれらについてクレームを言うのはフェアじゃないので。ただ、やってみたら体が持たなかったので辞めさせてください、ということです」

「高橋さんの休みを増やすには、高橋さんが休んだ日に勤務する人を増やすしかありません。しかし、そうすると高橋さんの給料は減ります。高橋さんの給料を減らさずに人を増やすためには管理費を上げなければなりません。それについてはマンションの理事会と管理会社で締結している管理契約を変更する必要があります。契約更新は年一回の五月で、そのときが変更のチャンスです。来年の五月まで待ってもらえませんか?」

「待つとか、待たないということではなくて、辞めるということです。三カ月ルールに従って辞めますので」

 高橋は課長を振り切った。話は一時間ぐらい続いたが、ずっと平行線だった。来年の五月まで待てるわけもなかったが、仮に待っても結果は何も変わらない。それは目に見えている。

課長も担当フロントも、ただ先送りしたいだけだ。問題を先送りさせ、過ぎていく時間の中で問題を曖昧にして、最終的にあきらめさせて、問題なんか最初からなかったことにする。「高橋さんのことを第一に考えて、われわれは努力しましたが駄目でした。また来年の五月に。そのまた来年の五月に、頑張りますので。もう少し待ってください」。そこまで高橋は馬鹿ではないし馬鹿にもなれなかった。

馬鹿にするなよ、俺は奴隷じゃないんだよ。毎朝、下痢したあと、妻に暴言を吐き散らして、体を引きずって出勤して、飛び降りたいのを我慢しながら巡回する人間の気持ちがわかるわけがない。今さら、まともな給料と、まともな休みが戻って来ても、ここを辞めない限り、高橋は自分の下痢が止まり、震えが止まり、暴言が止まるとは思えなかった。

 管理会社側からの意味のない時間稼ぎがあったため、辞めるのは十一月末になった。高橋にとって辞めるというゴールが見えたことは気持ちを少しだけ軽くした。そのせいか奥さんへの暴言もなくなった。それでも下痢は止まらなかった。

 辞めることが決まっても、お構いなしに苦情が持ちこまれたし、奴隷扱いや理不尽なことも多かった。高橋はいちいち腹を立てるよりも、あきれてしまった。我慢することがあっても、もう少しで辞められると思えば、少しは元気が出た。

夏の終わりから警官が頻繁にマンションに立ち寄るようになった。それまでも、独居老人が多いので住民を個別に調査する警官を見かけることもあった。「交番だより」を掲示板に貼り出して欲しいと持参する警官もいた。周辺道路で駐禁を取り締まる警官も見たことがある。年に一回は駐輪場を整理して持ち主不明の自転車を処分するが、事前に交番に連絡して盗難自転車かどうか確認してもらうために、警官に来てもらっていた。しかしそれとは明らかに違っていた。

ある十月の午後、管理人室にやってきた警官は二人組の刑事だった。刑事たちが若くて清潔で、今どきのドラマに出てくるような雰囲気だったので高橋は驚いた。彼らは、不動産の敏腕営業マンにも見えたし、IT企業の役員にも見えたが、刑事には見えなかった。彼らは警察手帳を見せて所属と氏名を伝えたあと「防犯カメラを閲覧したいのですが」と言った。このマンションは誰でもいつでも通り抜けできるので、防犯対策のために出入口、エントランス、階段、廊下、エレベーター、駐車場、駐輪場、ゴミ庫前に防犯カメラが取り付けてあった。それは録画されハードディスクに一定期間保存された。モニターは管理人室にあるので、公的な閲覧申請書類を提出すれば、管理人立ち合いのもとで閲覧することもできるし、必要な画像や映像があればダウンロードもできる。

「今われわれが捜査している事件の容疑者が、このマンションの周辺で目撃されたという情報があり、その容疑者が逃げこんだのか、通り抜けたのか、それともこのマンションのどこかに住んでいるのかわかりませんが、確認するために閲覧を申請します。この書類でよろしいですか?」

 この手のことに刑事たちは高橋よりも慣れていて書類に不備はなかった。事前に理事長と担当フロントに連絡する必要があるので、その連絡を手早く済ませた。刑事たちに閲覧のための操作を教えると、彼らはすぐに覚えた。そういうことにも慣れているのだろう。

 その日の午後の管理人の仕事は閲覧の立ち合いで終わった。立ち合いといっても、高橋は刑事たちの邪魔をしないように管理人室の隅で書類やファイルを読む振りをしていただけだ。彼らはときどきモニターを見ながら小さな声で囁き合った。ときどき微かに笑うような声が聞こえたが、ほとんど無言で真剣にモニターをチェックしていた。彼らが求める映像があったのかなかったのか高橋にはわからなかった。刑事たちは高橋の退勤時間よりも少し前に帰った。帰り際に「ご協力ありがとうございました。明日も伺いますがよろしいですか? 事前に連絡させていただきます」と一礼した。

 それから一週間、午後になると刑事が管理人室にやって来て閲覧を続けた。二回目からは一人だけが来た。必要な映像を見つけると小まめにUSBにダウンロードしていた。高橋と刑事はお互いに少しずつ当たり障りのない会話をするようになった。

 高橋は警官になったきっかけを尋ねた。こんな答えが返ってきた。

「私は施設で育ったんです。親が育児拒否で消えてしまって、それで施設に預けられて、周りの人のお陰で、道を踏み外すこともなくグレることもなく、十八まで生きることができました。小さいときは親を恨んだり、会いたがったり、気持ちが混乱していましたが、今は特に会いたいとも思いませんし、恨んでもいません。親にも親なりの事情があったのでしょうし。親に殺されなくてよかった、と今では思っています。施設を出てから、大学に行けるとも思ってなかったし、早く仕事をして稼ぎたかったから、最初は自衛隊に入ったんです。人のためになる仕事をしたくて、これまでのいろいろな恩を返していきたかったんです。入隊後は災害復旧派遣で被災地に行って、重機を運転して瓦礫を撤去することが多かったです。三年ぐらいして、ある現場で所轄の警官の人と話す機会が、たまたまあって、警官のほうが身近な人の力になれると思って、こういう警察官になれたらいいだろうな、と転職しました。私にとっては警察の仕事はそんなに大変じゃありません。自衛隊のほうがいろいろな意味できつかったです。でも警察のほうが書類仕事が多くて、それはそれで疲れます。結婚? もうすぐ結婚するんです。周りの先輩たちは早過ぎるって言うんですが、早く家族が持ちたかったから。この仕事で怖いこと? 怖いことですか、特にないですね。危険は確かにありますけれど怖がっていたら、容疑者を逮捕できないですから。あえて遭遇したくないことといえば、仕事中に、自分を捨てた親と出会うことですかね。刑事と容疑者として出会いたくないですから」

 高橋は自分がもうすぐ仕事を辞めることを思わず告げてしまった。どうしてそんなことを言ってしまったのかわからなかった。

「そうですか、お疲れ様でした。管理人という仕事も、いろいろ大変なことがあるでしょうから。辞めるのは、結局、今が辞めるときだったんですよ。理由を聞いてもいいですか? 『人が怖くなったから』ですか。なるほど。わかります、その気持ち。よく事情もわからないのに、若い自分がこんなことを言うのは生意気かもしれませんが、人ほど怖いものはありません。自衛隊のときは思わなかったですが、今警官やってて、そう思います。でも私は慣れました。本当は慣れてはいけないんですけどね。慣れなきゃ、やっていけないというか…。うまくいえませんが、辞めても、もっといい仕事が見つかりますよ。きっと」

 高橋が辞めるまでに容疑者逮捕の連絡はなかった。そもそもそんな連絡をする必要はないのかもしれない。「逮捕にご協力ありがとうございました」とあの若い刑事から電話があるかもしれないと、どこかで期待していたのかもしれない。

高橋は辞めるまでの三カ月をかけて、一年分の仕事で覚えたことを、引き継ぎ資料としてつくった。これまでに仕事中に小まめに書いていたメモを一枚一枚読み返して、誰にでもわかるようにあらためて書き直してみた。そんなことは誰に頼まれたわけでもないし、そういう資料は管理会社がつくるべきだとも思ったし、前任者のように「俺も何も教えられていないのだから見て覚えろ」と突っぱねることもできたけれど、自分のような思いを他人にさせたくない。そう高橋は思った。乱筆乱文の手書き資料ではあったが、それはある意味で一つの立派な達成だった。

辞める三カ月前に管理会社に告げていたにもかかわらず、管理人募集に対する応募は一人もなかった。きっとマンションの規模の大きさ、給料の安さ、休みの少なさのせいで、誰もが敬遠したと思われる。それでも高橋が辞めることには変わりない。十一月の半ば、二人の代務員がやって来た。代務員はもともと、管理人が有休や急用や急病で休むときに勤務する人間である。彼らに十日間、このマンションのルールを教えた。彼らは管理人として素人ではないから覚えは早かった。

「この規模で一人勤務体制はあり得ない」と彼らは驚いていた。どちらかといえば怒っているニュアンスに近かった。「高橋さん、あんた何も知らない素人だったから、会社に騙されたんだよ。一年間、よく一人で頑張ったね」。

高橋は二〇二〇年九月から二〇二一年十一月まで地獄で生きた。味方は業者の渡瀨さんと前理事長の中道さんだけだった。勤務が最後の日、マンションからの帰り道、高橋のスマホに中道さんからメールが届いた。こんなメールだった。

「本当にお世話になりました。高橋さんには感謝しかありません。いい仕事がみつかりますように祈っています。どうかお元気で。有難うございました。高橋さんと知り合えた事を忘れません。」

 

私が最後に高橋に会ったのは二〇二一年十二月の初めのころだった。いつものようにふらりと私の店に現れた。雪でも降りそうな夕方の四時くらいだった。いつもより姿が小さく見えた。疲れているようだった。

「最後の最後に『あんた騙されたんだ』と言われたら、さすがに全身から力が抜けたよ。目まいがした。そうか、俺は騙されていたのか。そうかもしれないと、うすうす感じていたが、やっぱり俺は騙されていたのか。騙されたところから始まってボロボロになって辞めるのか。体のどこかが壊れた気がした。生きるためには仕事をしなければならない。それはよくわかっている。わかっているからこそ、いろいろな仕事をしながら、これまで数えられないくらいの、嫌なことを浴びてきて、頑張って、それでも適応できなくて、鬱になって、逃げ出して、振出しに戻って、また仕事を覚えて、新しい人間関係をつくり上げて、また潰れて、潰されて、その繰り返し…。そうまでして生きることにどんな意味があるのかなあ。年だけ取って、もう若くない。若くないんだよ、俺は。無職と鬱病が、それが俺の人生のすべてなのか。そうなのか? 妻の人生を潰して、妻を不幸にしただけの人生なのか。それが俺の人生だったのかな。誰か教えてくれないかなあ。頼むからさ…」

高橋は独り言みたいに話したあと「また次を探す」と言って帰った。それ以後、会ったことがない。

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