未来のミッションのための休息。I'm resting now for a future mission.
もう6月も1週間が過ぎました。世の中の人たちは新型コロナウイルスの第二波を気にしながら、日常を取り戻そうとしています。その日常は、いわゆる「新しい」日常かもしれませんが。我が家では愛猫は相変わらず空咳をしています。妻は暑い中ですが仕事にでかけて家計を支えてくれます。私は無職(もうすぐ3カ月)で仕事はありませんが時間はあるので(お金にはならないけれど)心身の健康のためにnoteを書いています。そして最近こんなことを思っています。世の中(誰か)のために自分に何ができるのだろうかと。世の中(他の誰か)は私に対して何を求めているのだろうかと。それとも何も求めていない? 求めていないのかもしれないな…。仮に書類審査や面接で落ちても「私の人生や人格が否定されたわけではない」ということは頭ではわかっていても「このまま仕事がなければどうなる?」と思うと苦しくなります。なぜなら少なくとも、その職場では「不」採用(不な人)ですから(やっぱり否定されたと思ってしまいます。被害妄想かもしれませんが)。と同時に私は「まだまだ恵まれている」とも思います。こうやってnoteを書く環境の中にいるのですから。妻がいて。愛猫がいて。屋根があって。自由があって。健康だから。妻に感謝。愛猫に感謝。あなたに感謝。そしてnoteの神様?に感謝。この(無職)時間は、きっと今の私に与えられたギフトなのでしょう。これから先に私が何かのミッションを遂行するための、必要な心身の準備のための、休暇の先取りなのです。きっとたぶん。だからnoteと出会い、noteに書いているのです(「お前、それは単なる現実逃避だよ」と罵倒しないでください)。これからも、皆さん、よろしくお願いします。
追伸
私はスピリチュアルが好きとか不思議が好きという人間ではありませんが、何となく「noteの神様」は存在するように思います。これといった根拠はありませんが。ちなみに「神様」といえば「小説の神様」といわれた志賀直哉の短編小説『小僧の神様』があります。「小僧さんが見知らぬ男に鮨を奢られる」という話です。とても不思議な短編です。最初の読後感は誰でも小僧さん寄りになります。小僧さんが感じる、驚き、嬉しさ、期待などが、自分のことのように迫ってきます。さらに志賀は、小僧さんに鮨を奢った男の、その気持ちの起伏も書いています。何度か読むと私にも奢った男の気持ちが理解できるようになります。それでも何度読んでも不思議さは残ります。この短編には最後の最後に作者(志賀)が登場します。それが私の感じる不思議さのポイントかもしれません。この短編は「小僧と『小僧の神様』」の小説です。そして、それより大きな枠組みとして「短編小説(を読む読者)と『小説の神様』」という構造があります。それを丸ごと読者に読ませるのが『小僧の神様』という短編小説なのです。
蛇足ですが『小僧の神様』で小僧さんの抱く感情は、noteでの私の感情に似ています。私のnoteの記事に、会ったこともない知らない誰かから、スキしてもらったり、コメントもらったり、フォローしてもらったり、というときに私が感じる、驚きや嬉しさであり、これからどうなるのかという期待でもあるからです。そこら辺に、私は何となくnoteの神様の存在を感じます。