Twitter文学といふもの

Twitter文学が好きだ。

―――Xだろって?うるさい。僕の中ではTwitterだ。青い鳥はまだそこにいるんだ。

話を戻そう。
「Twitter文学」というものがある。分からない人はGoogleで検索してほしい。お前の目の前のそれがあれば事足りる。
手軽に読める小説だと思ってくれればいい。140字という制限の中で、ツリーを重ねて文字を綴るのだ。
もはや現代の俳句や短歌に近い。

 「文字さえ書ければ誰でも出来るんでしょう?」と思ったそこのお前。
ハゲの髭面=正岡子規ではないのだ。小峠英二と正岡子規くらい違う、いや待て。それは似ている。

やり直そう。同じハゲの髭でも正岡子規とクロちゃんくらい違う。これくらい違う。声の質からサイズ感とかも違う。
会ったこともなければ正岡子規の声を聞いたこともないけれど。

ともかく、ただ文字を書けるからと言ってTwitter文学は成立しない。

そもそもTwitterというSNSは、文字を主戦場にしたプラットフォームではあるが文学とは縁遠い存在である。
日常の何気ない呟きを皆が投稿する。ただそれだけのSNS。

 しかし、日本と「文字を投稿する」というプラットフォームは、あまりにも相性が良かった。良すぎた。
日本語という豊富な語彙を源泉に持ちながら、古くは前述の短歌や俳句などに端を発する「字数制限の中での表現」
掲示板などのインターネットカルチャーで培われた「創作文を投稿する」ということへの慣れなど
枚挙に暇がないほどに日本人と日本語、そして日本のインターネットカルチャーとTwitterは相性が良かった。
そのなかでポツポツと生まれ始めたのが「Twitter文学」である。

「おはよう」、「仕事に行きたくない。」、「恋人とデートに行ってきました。」などの雑多な活字の森に突如として現れた造成地。


「むかしむかし、あるところに情報商材売りの男性がいました。」


 あまりにも面白すぎる。なんだこれ。


ライトなTwitter文学の手に取りやすさは、僕のような活字中毒者にはおやつのようなもので。スナック感覚で読み進められて楽しい。
書いている人間の文学性が高ければそれはそれで良い。
硬すぎて普段なら敬遠してしまっている文学がスラスラと頭に流れてくる。

1セット140字以内という手軽さと、ハードカバーではなくスマホでスイッと読める安直さは、文字を読む敷居をぐっと下げてくれる。

やめられない、止まらない。

30代も半ばになると、どこかのえびせんよりもこちらの方がずっとそうなる。あちらは胃に重い。
読後感も良い。題材が妙に現代の生々しさを感じるというか、己の人生を省みさせてくれたりもする。
ほどよく笑えて、ほどよく沁みる。そんなTwitter文学を今日も今日とて僕は漁っている。

お金もかからないし、時間も10分あれば読み終える。貧乏暇無し、限界社会人男性には最高だ。

ほら、また気が付いたら1時間の休みが消えている。
昼を食べ損ねたが、ダイエットにちょうどいい。

「武士は食わねど高楊枝」

ってね。

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