2.中学・高校②
母が家出したことがある。父はかなり参っていた。それまで二人でやっていた仕事を一人でするようになり、任せっきりだった私の学校周りのこともやらなくてはいけなくなった。私は学校に事情を話してバイトをして家計を助けると手紙を書いた。父はひどく感動して涙し、そんなことはしなくていいと言った。このことは後々も語られるほど父にとっては感動的な出来事として残ったようだった。しかし父は自殺も仄めかすようになった。
母は上の姉の家などにいたようだったが、そんなに図太い人でもないので、子供に迷惑をかけて自分の都合を優先させ続けることはできず、帰ってきた。
父はたいそう喜んだ。母は、子供に対してお金を人質に脅すようなことを言わないでくれと父に頼んだ。毎朝ハグをするようになったほどの仲睦まじさは、長く続かなかった。
母の家出の一件もあり、私は追い詰められ、授業をサボって保健室に行った。そこで人生で初めて、家庭でのことを洗いざらい保健医にぶちまけた。先生は困った顔をして、こういうのもあるから、と命の電話的なところの電話番号をくれた。人に話してもどうにもならなかった。
保健室といえば、母が家出中、私は便秘で激しい腹痛に見舞われ早退することになった。迎えにきた父は何事かと焦っていたようだが、先生に理由を聞くと、帰りの車中、そんなことで呼び出すなと悪態をついた。父にとっても大変な時期だったのはわかるが、苦しくてうずくまるしかできなかった私は、こんな時に心配もしてもらえないのかとまた傷ついた。
しかし辛いのは自分だけではないと、上っ面の言葉だけではなく実感することがあった。学校の友達の家庭の話を聞いたのだ。周りの家庭はみんな裕福で、こんな虐待も険悪な夫婦仲もないのだと羨んでいたのだが、あることがきっかけで何人かの事情を知り、涙ながらに打ち明ける友人らを見て私は助けられた。過去に、姉たちにうちは本当に最悪な家庭だと泣きながら話したとき、「もっとひどい家庭なんて山ほどあるよ。恵まれてる方だよ」と言われてしまい、きっと賛同を得られると思ったのに拍子抜けしたことがある。しかしこのことで、みんな涼しい顔をしていても、辛さを抱えているものなのだと知ったのだ。それ以来、私は自分を悲劇のヒロインのように考えるのをやめた。辛いことは辛い、それは一つの事実として自分の感情として受け止めるが、誰よりも私が辛いなんていう考えはあまりに世間を知らなさすぎると恥じるようになった出来事だった。
母は自宅で父の仕事を手伝っていたが、その仕事部屋に父が入ってくると、怖くて苦しくなると話してくれたことがあった。ああでも話されたのは大学の時だ・・まあいいや。首を絞められたこともあり、死を覚悟したともいう。そして、私が父のおかしい点を話すと、あなたの方がお父さんより何倍も大人だよと諌めた。やはり母には敵わない。
食事、洗い物の仕方、容姿、身内、話す内容、ありとあらゆるものに対して常に、事細かに馬鹿にされ、貶され、そんな日々で自分を失わずにいられるだろうか。私はあまりにも弱い、考えるだけで呼吸が浅くなるくらい怖い、私は親元を離れのうのうと暮らしている、ごめんなさい。
いつのことか忘れたけど髪を持って引き摺り回されたこともあったなあ。
風呂に入るなと命じられたり。もちろんどちらも父にね。
受験も父には泣かされた。大学を受験しに行く際、父が付き添いだった。しかし初日、第一志望の試験で全く手応えがなく、私はそのことを父に話した。その場ではそうかと聞いていたのに、翌日別の大学の受験日になると、人が変わったように突然怒り出した。発端はぬいぐるみで、お気に入りをお守りとして持ってきていたのだが、「これ置いていくからな」と唐突に言われたのだ。カバンに入らないと言われたのだが、持ってこられている以上入らないはずはない。というか、入らなかったとて、置いていくという選択肢は普通ではない。受験当日のただでさえ緊張している朝。わけもわからず混乱し、持っていってくれるよう頼むが、無理だ、お前が会場まで連れて行けと怒鳴られる始末。どうせ落ちるとかそういうことも言われた気がする。ここで記憶が抜け落ちているがなんとかぬいぐるみは持っていってもらい、私は泣きながらボロボロの状態で受験に向かった。
本当に訳が分からず怖かったのだが、今では「第一志望に受かりそうにもないこと」に腹を立てたのではないかと分析している。父は(自分は一浪だが)有名大を出ており、子供の学歴にも自信を持っている。子供全員を大学まで出すというのも父の方針(見栄や意地もあるだろう)であり、絵を描くのが得意な姉がイラスト関連の専門を希望した時は頭ごなしに否定し大学進学のみしか許さなかったのもそのせいだ。
そのため私の兄弟は皆それなりの大学を出ている。私にも当然第一志望の一流大学に行って欲しかったのだ。それが思い通りにならなさそうだということでイライラが爆発したのではないか・・。結果、第一志望ほどではなくとも私もそれなりの大学に合格でき、父はそれを自慢げによその人に話すようになるのだが、今でもこの一件はトラウマである。
さて、私は「自分のこと」の記事内で、自分をモラハラと記した。
ここまで散々書いてきたが、実は私は父の生き写しかというほど性格が似ているのだ。
超短気で地雷がどこかも分からないほどの瞬間湯沸かし器。相手を徹底的に貶め、自分をこれでもかと正当化し、舌戦ならお手のもの。いやいや手も出る足も出る。怒り狂ったかと思えば、時間が経てばケロッとして元通り。そして外面からはとてもそんな人間には見えない。0か100か、敵か味方か、白か黒かの極端思考。
こういう最低最悪な性質を受け継いでいた私は、父に対して嫌悪を抱き、母を守りたいと思う傍ら、そんな受け答えしたら怒られるに決まってるじゃん!というふうに母にイライラすることも多かった。しかし当時は自分が父と同じことをしているなどとは思わず、、ある時私が「なんで産んだんだ」と罵ると、母は運転中の車を急停車させ、「そんなこと言わないで」と泣き出してしまった。ひどいことをいくら言ってもどれだけ迷惑をかけても涙を見せない母を泣かせてしまったのだ。最低以外の何者でもない。
この自身のとんでもない悪辣さに苦しめられながら、大学、社会人と歩んでいくことになる。
暗い話が続いたが、学校生活そのものはほんと楽しくて、部活帰りなんて毎回爆笑しながら帰ってたし、生徒会やったり委員長やったり学年1位になったりいい記憶が沢山ある。ただ、今思えば言葉がきつかったなとか、自分勝手だったなというところは多々ある。もちろん若い頃の未熟さの範囲のものもあるが、長年かけて作られた凝り固まった価値観、狭まった視野、ものの見方は父の影響を色濃く受けていた。これも後々時間をかけて軌道修正していくのだが、、
また、仲良い子にも突然冷める??という謎の性質が芽生えたのもこの頃だった。仲が良くて大好きでいつも一緒に行動する友達を、ある時急に気持ち悪く?受け付けなく?なってしまうのだ、見るのも無理なくらいに。それで一方的に距離を取り、その得体の知れない嫌悪感がなくなるとまた元通り仲良く過ごせるようになるという…この性質は実はまだ私を苦しめているので後述する。
最後に一応フォローしておくと、父の職業は特殊で、
その仕事をしている人に出会ったことがない人が大半、
ましてやその仕事でコネもなく子供5人全員大学卒業させているというのは
信じてもらえないくらいのことである。家と車まで買ってる。普通ならローン組めない。めちゃめちゃすごいこと。
当然とんでもないプレッシャー、苦労の連続だったことは想像に難くない。
ただ、それとこれとは話が別なんだけどね〜っていう
一人の人間として、尊重して扱われたことがないんだよね。所有物なのよ。
いや〜字数が増えまくってしまった、、
次は大学編です!
cham