1.幼少期〜小学校
※家族については「自分のこと」記事を参照。
幼少期
一番古い記憶は多分4歳頃。
使わなくなった古い炊飯器でおままごとをしていた。
近所に歳の近い子供が住んでいたが、遊んだ記憶はなく、
歳の離れた兄弟たちに遊んでもらっていた。
ファミコンや散歩、庭を掘り返したり。よく絵も描いた。
その頃父母に対して何を感じていたかは覚えていない。
ここら辺は記憶が曖昧だ。
ただ多分、怒られたくないと思っていた気がする。
幼稚園
小学校に上がる1年前、幼稚園に通った。
ほぼ初めて同年代の子供とふれあって毎日楽しく…ということもなく、
まずまず平和に過ごした。多分だけど、周りの子の育ちが良かったからいじめはなかったんだと思う。。
延長保育?の時、おもちゃを取られて、泣いたなあって記憶がぼんやりとある。
あとは男の子に突然抱きしめられたり。びっくりしたなあ。
はた織りや藍染や芋掘りや劇や、そういうのは楽しかった。
ほぼ記憶がない。
ただ、家庭ではこの頃、少し残酷な絵を描いたら父から無言でゲンコツを食らって何が悪かったのかわからず怖くて泣いてしまった記憶がある。
あとワイングラスを割った時も怒鳴られた気がする。
怖かった。
あ、あと、兄のエロ本を隠れて読んでいたら父にばれ、兄が家族の前で怒られていた。男親のすることか。
明晰夢もこの頃から見ていた気がする。
小学校
小学校受験をして受かってたっぽいけど、父がその学校の雰囲気を気に入らず地元の公立小へ進学。
ここからが悪夢のスタートだった。
まず、皆地元の保育園からの知り合いだらけ、よそ者の私はそれだけで浮いた。
そして親による車での送迎。これでも浮いた。(これは多分学校からの要請?で小2には終わった)
覚えていることをどんどん書いていこう。
小学校2年の頃、上の姉が大学進学のタイミングで、長男・次男とともに家を出た。その日の夜、一緒にお風呂に入った母が、行ってしまったと泣いていたのが印象に残っている。母はどんな目に遭っても滅多に泣かない人だった。
学校で販売している絵の具のセットを買ってもらえず、市販の絵の具とバケツを組み合わせたものを使って、恥ずかしくて泣いてしまった。
みかねた先生が「まだ締め切りに間に合うから」と親に注文を勧めてくれて、それ以降書道セットや裁縫セットはみんなと同じセットを買ってもらえた。
他に買って貰えなかったものは、水泳の時に使う、ゴムが入った巻き巻きタオル。中学年までは男女同室での着替えだからただのバスタオルで隠しながら着替えるのは大変だったし、それを抜きにしても皆持っているものを持っていないのは辛かった。途中からせがんでやっと買ってもらえた、よかったね。
同級生が道路に向かって石を投げる遊びをしており、うちの親の車に当たってしまった。激怒した父は母に学校へ電話させ、犯人を炙り出した。
後日同級生とその親が一緒に家へ謝罪に来て終息したが、きっとこの出来事でも私(の家の)悪評が立っただろう。
石投げ自体は悪いことだが、娘の学校での立場など考えなかったのだなと今なら思う。
ちなみに親は仕事を理由に一切PTAにも関わらなかったので、相当悪目立ちしてただろうなと思う。(父の意向)
何かの理由で父に恐ろしく怒られ、算数の教科書を真っ二つに破られた。
母がセロテープで直してくれたものを使っていた。
同じく何かで怒られ、伸ばしていた髪をバッサリ切らされた。小3くらい。
美容院で切ってもらえたのは不幸中の幸い。
ファミレスで食事中、父が店員に激怒。店長を呼び出したり店員に謝罪させたりの大騒ぎに。店内の空気は最悪、あまりにも居た堪れず、地獄のような時間だった。
外食が多い家庭だったのだが、ある時回転寿司屋で怒られ、駐車場に置き去りにされた。家から車で15分ほどはかかる場所で、子供の足で歩いて帰ることもできず、道もわからない。大泣きしていたら流石に後で迎えに来てくれた。
カレー屋に行く道中で怒られ、自分だけ店の中に連れて行ってもらえないこともあった。
DS、たまごっちは父に壊された。DSに関しては兄に買ってもらったものだったから兄に申し訳なかった。「お前が買ったゲーム機、あれ壊したから」と目の前で兄に電話されて傷ついた。親を介さずに兄に高価なものを買ってもらったことへのつまらなさもあったのかもしれない。常にお金がお金がと言ってなければ私も素直に親にねだったと思うが…。この頃から親に何か買って欲しいということはほとんどなくなっていたように思う。
DSはしばらくしてある日突然父が新しく買ってくれた。
小3で初めての携帯を持たされた。下校時のお迎えのための連絡用だったが、学校側も許可しておらずこっそり持っていた。同級生にバレていけないんだと指摘され、どうしようもなかった。
そして携帯に浮かれて、当時パケ放(!)に入っていなかったにも関わらず、チャットやアダルトサイト(おや?)を見まくり、なんと請求額20万越えに。
もちろんこれは私も悪いのだが、ある日学校を早退させられ家に着くと死ぬほど怒られ、正座させられ続けた。
家族の共有PCに触るようになると心理テストにハマった。ある恋愛心理テストがやりたくて、でもそれが結婚相談所の会員登録をしないとできないものだった。子供ながらに知恵を働かせ、親が仕事で使っているメールアドレスを使って登録してしまい、発覚した時父に鳩尾を思い切り殴られ呼吸できなくなった。母が電話してくれて会員登録は解除できた。
これは中学かも?いや小学生かな。おじさんとメル友になった。掲示板か何かで見つけたのだろうと思う。ロリコン親父が、、、。と思うが、当時性的なことは求められず、ただ日常のことを話しているだけだった。
親にバレて当然怒られた。
多分小学生の時な気がするけど、何かで怒られて、地面に横たわる私を父が蹴り続けた。抵抗も何もできなかった。当時父はまあまあおじさんだったとはいえ、大学までサッカーをやっていたのでそこら辺のおじさんよりは力が強かったはず。兄が「それ以上やったら死んじゃうから」と止めに入ってくれた。
よく外に出された。兄は冬に全裸で外に出されて同級生女子に見られたとかいう話を聞いたのでそれよりはマシなんだけど、マシとかそういう話ではない。
しょっちゅう怒鳴り声が響く家だったので、近所の同じ小学校の子に、「いっつも怒鳴り声すごいよね」とからかわれ辛かった。
父母は幼い子供から見れば祖父母にも見えるような年齢だったので、そのこともからかわれた。家族を馬鹿にされる辛さもあったが、父母の年齢はコンプレックスになっていった。
上の兄が結婚する時、親(主に父)と兄がとても揉めていた。結婚相手が気に入らなかったらしい。私は蚊帳の外だったが、兄は相当大変だっただろうなと思う。
2番目の兄は大学進学で一旦実家を出ていたが、確か私が小学高学年くらいの時は一緒に暮らしていた。あれ?違うかな中学かな。。持病があり色々と苦労があるようだった。とても穏やかでお茶目で、当時の私はわからなかったが、父からものすごいストレスを受けていたと今ならわかる。
持病でうまく眠れないことも、その体質そのものも、仕事を頑張ってクタクタになれば眠れるとか、感謝すれば良くなるとか言われ続けていた。
仮にそれが正しかったとしても、寄り添おうとしない、わかろうとしない、押し付ける父に、兄はかなりすり減っていたようだった。
姉が二人とも通った私立校に進学することになっていたが、お金の不安がある父は、事あるごとに中学に行かせないと怒った。お前なんか学校に行かなければお金もなくてレイプされて終わりだ、というようなことを言われた記憶がある。私はいつもギャーギャーと泣いていた。父に全てを握られており、全ては父次第、という恐怖政治はこの後ずっと続く。
一番歳の近い姉とはしょっちゅう喧嘩していた。しかし私の方がすぐ泣いてうるさいので、父は頭ごなしに私を叱った。いかに自分が悪くないか、正当であるか、訴えるようになった(意味はなかったけど)。
これは小学生の頃に限らない話だが、母は完全にモラハラ父の被害者だった。お前は馬鹿で何もわからない、お前の家族もおかしい、と毎日のようになじられ、親戚や友達との連絡も絶たれていた。三つ指ついての挨拶は当たり前、先に寝ることも許されない。居眠りも怒られ、一晩中寝るなと言われていた時もあった。そしてお金がないのもお前のせいだと。夜中に金を作ってこいと家を追い出すことも何回もあった。反論すればよりひどくなる。身体的な暴力も日常茶飯事だった。私は怖くて他の部屋へ逃げていたが、助けてという叫び声がした時もあった。私が助けられなくても、それを責められたこともない。いつでも子供を第一に考えてくれていた。
しかし、母は子供の前で、少なくとも私の前では父の愚痴を言わなかった。
のちに私は父のモラハラを完全に受け継いでしまうのだが・・。私が病気のように怒り散らかした後でも、それが収まり母の元へ行くと、母はいつでも普段通りに優しく接してくれた。私ならとても同じようにはできないだろう。
私はいつか父に母が殺されてしまうのではないかといつも怖かった。警察に逮捕してほしい、私が殺せばいいのかと何度も考えてはできなかった。家族のために犠牲になる母を助けられない意気地無しだった。
あろうことか、ある日父は私と姉の前で、お前はマグロだしまんこも臭いし最悪だと罵ったことがあった。さすがの母も、「子供の前で信じられない」と怒りをあらわにした。その後どうなったかは覚えていない。ただ、姉とともに何の反応もせず黙っていた。激しい嫌悪感があった。
学校では男子からいじめられた。社交性もなく、親も変で悪目立ちし、毛深い。格好のイジメの的だった。女子に友達はいたがいじめっ子の男子の影響力はとても強かった。肌を見せなくてはいけない水泳の授業はもちろん、夏場も恐怖だった。毛深いことは根深いコンプレックスになり、男子への嫌悪も植え付けられた。
父が、公立校へ通うと馬鹿になる、周りが低俗で品がなくなるといった趣旨の発言を繰り返していたので、自分もそれに乗っかり周りを見下すことでプライドを保っていた部分もあるかもしれない。
とにかく学校は苦痛で大嫌いだった。
ひとまずこんなところか、また思い出したら加筆修正しよう。
思い出すままに書いたからぐちゃぐちゃで読みづらいねえ。
このくらいから心がどんどん鈍っていったんじゃないかな。
鈍くして、感じないようにしないと、辛すぎるから。
それでも辛かったけどね、あんまり覚えていないのは鈍化して記憶に残さないようにしてたからなんじゃないかな。きっと。
cham