黒猫中隊~冷戦&米中関係に翻弄された台湾空軍のアンサング・スコードロン②
こんにちは、黒熊です。
前回に引き続き、台湾空軍に存在した極秘の偵察飛行部隊「黒猫中隊」について解説します。
龍を駆る高空の“黒猫” ~220回のミッション
米国より供与された「U-2 ”ドラゴン・レディ”」高高度偵察機は、第8航空大隊 第35中隊・通称「黒猫中隊」に編入。台湾空軍総司令部参謀副長官室(A2)直轄下、米国内で訓練を受けた台湾空軍パイロットが「青天白日」マークを付けた機体に搭乗し、中国本土へのスパイ活動が始まりました。
黒猫中隊による全作戦は「剃刀(かみそり)」の秘匿名で呼称・記録され、作戦の実行は米国大統領と蔣介石総統による承認が必要だったことからも、任務の高度な機密性と重要性が伺えます。
作戦任務では、黒猫中隊の根拠地である桃園空軍基地(※桃園国際空港の南東部に位置。 2007年海軍に移管、2013年閉鎖)から出撃していましたが、韓国・フィリピンの米軍基地から出撃する場合もありました。その偵察対象は、中国内陸奥深くに位置する核実験場や研究施設、ロケット・弾道ミサイル発射場をはじめ、沿岸部の港湾地区や工業地帯のなど多岐にわたりました。任務の中には蒋介石総統直々に、大陸に残された実母の墓所の状態を知るための撮影を命じたこともあり、撮影した写真を見て墓所が荒らされていないことを知り安堵した、という逸話も残されています。
黒猫中隊の搭乗するU-2機は、1度の偵察飛行任務で奥行約3200km・幅約160kmの範囲を偵察し数千枚の写真撮影が可能でした。撮影した写真は任務帰投後米本国に直ちに輸送され、CIAの写真解析部門で分析されました。
米台共同で実行された「剃刀」ミッションは、1962年から1974年までの12年間で延べ220回を数え、中国本土30以上の省で約1000万㎢以上の範囲の偵察を達成したとされています。
(以下、USA Military Channel 2、U-2ミッションフライト映像 -Youtube)
撃墜
黒猫中隊の任務開始当初は人民解放軍(PLA)の防空能力は低く、地対空ミサイル部隊は北京・南京の2軍区にしか配備されていない状況でした。そのため高高度を飛行するU-2は容易に中国本土に侵入・偵察可能であり、その慢心が仇となりました。偵察機の飛行経路に一定のパターンがあることに気付いたPLAは、希少な地対空ミサイルを、偵察機の通過地点へ秘密裏に配置し待ち伏せる作戦に出ました。
そして1962年9月、江西省南昌市上空でソ連から導入したS-75(SA-2ガイドライン)地対空ミサイルによって初めてU-2機が撃墜され、パイロットが戦死する事態となりました。(※この時搭乗していた台湾空軍の陳少校(少佐)は、黒猫中隊の部隊マークをデザインした人物)
以後、PLAの地対空ミサイル保有数が増加し、防空警戒能力が飛躍的に増大するにつれ、相次いで偵察機が撃墜されるようになります。台湾国防部の発表では少なくとも5機のU-2が撃墜され、4名戦死、2名が捕虜として中国当局に拘束された(※後述)としています。
(以下、台湾空軍公式WEB コラム「黒猫中隊」参照)
米中関係改善~黒猫中隊の解散
1960年代後半に差し掛かるにつれ、それまでの米国・ソ連の対立軸に、核兵器開発を成功させた中華人民共和国が台頭し、国際情勢が大きく変化します。1964年軍事介入以後、米ソ代理戦争の場として長期化したベトナム戦争問題を解決したい米国。キューバ危機以後表面化した中ソ対立、および1966年からの文化大革命で混乱し発展が停滞する中国。両国が抱える状況が相互接近の動機となりました。そして、中華民国~台湾の置かれた国際関係も相対的に大きな転機を迎えます。
1971年、国連総会でアルバニアが提議した「国際連合総会決議2758」が賛成多数で可決されたことにより、それまで中華民国が保持してきた国連「中国代表権」が中華人民共和国に移行し、中華民国は国連を脱退。更に1972年ニクソン大統領が電撃訪中し毛沢東主席と会談を行う、所謂「ニクソン・ショック」が起こります。日本も米国に追随するかのように「日中共同声明」にて中華人民共和国と国交回復し台湾と断交します。
こうした大きな国際情勢の変化に加え、任務中の度重なる撃墜によるパイロット・機体の喪失(墜落した残骸の多くは中国側に回収・解析された)および、開発が続けられてきた偵察衛星の能力向上で、高リスクな偵察飛行の重要性が相対的に低下したこと、また米国内の諜報部門・活動の整理(CIAの活動分野縮小)などの複合的要素が、黒猫中隊と「剃刀」作戦運用に影響を与え、次第に活動が縮小されました。
そして、ニクソン会談以後米中国交正常化に向けた交渉が活発化する中、中国国内への偵察活動は交渉に悪影響を及ぼしかねないとの判断により、CIAは1974年台湾での作戦中止を決定。駐留していたU-2 6機はハワイの基地に移送され、以後の偵察任務運用は空軍へ移管されます。こうして12年間にわたる「黒猫中隊」の活動は終焉を迎えることになりました。
なお、中国上空で撃墜され捕虜となったパイロット2名のその後の運命ですが、台湾・米国両国が積極的な捕虜返還要求を行うことなく沈黙した結果、長期にわたり労働改造所に収容されました。ようやく1982年になって香港で解放さるものの、国民党政権から台湾帰国が許可されず、CIA保護下で米国へ移送されます。CIAは二人のこれまでの献身と犠牲に恩義を感じたのか、1990年に台湾への帰還が許されるまでの間、米国内で生活できるよう様々な便宜を図ったとされています。
それじゃ、今日はこの辺で。RTB. (③へつづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?