威勢のいい独語、あるいはため息

「進撃の巨人The Final Season」がサスペンドしてる間に、奇しくもカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」を読んだ。

こっちはじっさいに巨人が出てくるわけじゃないが、テーマは通底する。

それぞれの作者が互いの作品を認識していたかどうかは不明だが、いずれにしてもこうした民族間の遺恨とそれを前提とした共存の模索みたいなテーマは今後たくさん扱われることになるんだろう。

霧に包まれたように茫漠とした世界にあって、個人がそれぞれの動機と流儀で守るべきものを見出し行動する先に、すべての読者が共有可能な「正しさ」など存在しない。

霧が晴れたはずの世界には、なんとも救いがたい結末が待っている。

現実の世界がまさにそうしたやりきれなさと曖昧さに満ちていることを、ありのままに語ることさえ、もはや創作の中にしか許されなくなりつつあるのを思い、表現の自由だけはなにがなんでも手放してはいけないものなのだと改めて強く感じた。

人は人を傷つける。
それを知っているからこそ、優しくもなれる。

だれもがだれか(知らない人であっても)を傷つけない(傷つけられない)ためだけに息を潜めて暮らす世界は清廉なディストピアでしかない。

だけど、ここではこれ以上語るまい。

私は私の現実の人間関係のなかでのみ本当の表現の自由を行使していく。

だからここで書いていることは、ただの独語(ドイツ語ではない)かため息か、せいぜい気持ちの整理のようなものだ。

無関係の他人が誰かさんに及ぼした「不快感」に対し、縁もゆかりもない人間が安全な匿名ネットの中で下す無自覚な「ジャッジ」と、安っぽい共感だらけの世界に嫌気がさしているというのは正直な気持ちである。

そんな心持ちに対して、少なくとも世の中の不確かさやりきれなさの在り処とその正体をおぼろげながら浮き彫りにしてくれるこの小説は私には良書と思えた。

世の中の救いがたさから目をそらさず、心地よいウソや分かりやすい正論といったきれいなオブラートで包み隠すことなく、人間の心の有り様と行動を愚直に描くことを表現者がやらなくて誰がやるというのか。

生活者である我々はそれをしっかりと見守り受け止めなくてはならない。
現実の苦痛を束の間忘れさせてくれるスッキリ爽やかもいいが、心に爪痕を残し、夜眠れなくなるような作品を体に取り込み、日々の糧とし、この救いなき世界を明日に向かって進むのだ。

正義の騎士たちが焚書しだしてからでは遅いのである。


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