「ドリフみたか?」はパワハラだったのか!?(笑)

ーー「鬼滅の刃」ブームの裏で「まだ見てないの」と押し付け
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6375767

まぁ、パワハラかどうかとか、はっきりいってどうでもいいんですが。

この手の押し付けがましいファンて、どっちかというと、日頃その分野にあまり触れていなくて、たまたま出会ったり人に勧められたりしたことで、スポンジ状態からハマる人が多いんでしょうね。

春樹以外の小説は読まないハルキストみたいな。

社会心理学的な分析はいろいろできると思うけど、こういう同調圧力って「ドリフみたか?」の時代に比べたら、比較にならないほど少なくなってるでしょう。

むしろ、今の人たちの嗜好が多様になったんで、みんなでいっしょになって盛り上がれるようなネタが激減して、自分の趣味を自力で確立できない層の人々がなんとなく身の置き場がなかったところへ、ひさしぶりにわかりやすいのが出てきて嬉々としてるだけって気もする。

こうした「恋愛初心者」的なファン層は、当然のことながら好きな作品への批評には我慢ならないし、自分と同様に礼賛しない者に敵愾心を抱くような子供じみたところがある。

そういえば、「リアル鬼ごっこ」(これも鬼がらみ)なんてのが流行ったときにも似たような状況があって、当時この小説と作者に心酔する人たちとそれを上から目線で諭そうとする人たちとの間に不毛な論争(罵り合い?)があった。

なにを好きになるのも自由だし、だれかが好きなものを批判する自由も当然ある。
エンタメ作品の優秀さをはかる絶対的な基準はおそらく存在しないし(なのでどんだけ売れたかが次善的に目安とされる)、なにが刺さるかは、受け手の過去の経験、現在の境遇などに大きく左右される。
とはいえ、作品の評価というものを個々の好き嫌いだけで完結していたら、より優れたものを生み出す土壌も育たない。

自分が観たり読んだりして面白かった作品に対する批判的レビューを読みまくって、批判的な人は作品のなにが気に入らなかったのかを探る作業は楽しいし、逆に自分がまったくおもしろくなかった作品を褒めている人のレビューに触れて、自分には気づかなかった良いところを見つけていたりすることを知るのもいい学びになる。
どれだけ多くの自分と違った意見に触れたとしても、その作品になにかを感じ、フックした自分の感覚自体が否定されるものでもないし、むしろそれこそがもっとも大切であることに変わりはない。
ただそれとは違った感じ方をする無数の他者の存在も同時に否定されるべきではない。

「他人がどう思うか」というのは、他人が自分と同質であるかどうかをはかるためにではなく、自分と異なった視点を知るためにこそ意識されるべきである。

それが大人になるということであり、社会全体の文化的成熟には個々のそうした成長が不可欠なのだろうが、どうも世間には情緒に基づく党派性に依存した価値観ばかりが目立ち、中庸的なスタンスが「相対主義」などと安易に叩かれたりするのをみていると、どちらかというと社会は幼児退行していっているような不安を覚える。

「鬼滅〜」を面白いと思う人と思わない人が戦っても無意味だが、面白かった人がもっと他の面白いものを知るきっかけに触れることや、いま興味がない人(みたけど面白くなかった人)が、なぜそれをおもしろいと感じる人が少なからず存在するのかについて考察することは無駄ではないだろう。

じっさい私自身、30年前にはじめて出会い、それから何度か触れてもやはりつまらなかったのに、最近になって驚くほど好きになってしまった映画や小説はけっこうある。

なぜつまらなかったものを何度も観てしまうのかといえば、きっと当時それを絶賛し勧めてくれた信頼に足る友人がいたからだ。
その時はちょっとめんどくさいなと思いつつ、「こいつはおれにはみえないなにをみているのだろう?」というのが、ずっと心のどこかにひっかかっていたわけだ。

だから興味のない作品を勧めてくる友人がいたら、それをハラスメントだとつっぱねるよりも、作品のなにが良くて、その人がなぜそうした部分に心を動かされるのかといった視点で話を聞いてあげればいいのではないか。
べつに話を聞いたからといって同好の士にならなければいけないわけでもない。

逆に自分の好きなものをだれかに勧めたい人は、ただ「面白い」とか「すばらしい」ではなくて、自分がなにに心を持って行かれたのか、どういうところを観てほしいのかについて相手が興味をもてるような話し方をすればいい。
それで相手が無関心だったり、期待した反応が得られなかったとしても気にすることはない。

ひょっとしたら、30年後に突然作品の良さに気づくかもしれないのだから。

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