見出し画像

うつ病で閉鎖病棟に61日間、一般病棟に44日間、入院した記録


はじめに、閉鎖病棟に入院するまで

 この話は、私が2023年11月6日から2024年2月28日までの105日間、うつ病が悪化して、高崎市にある精神病院に入院した話です。初めの61日間は、閉鎖病棟というところに入っていました。その後は、一般病棟に移り44日間過ごし、退院を迎えました。
皆さんが、おそらく、あまり知らない、精神病院の閉鎖病棟というところが、どのようなところなのか、入院患者は、どのように過ごしているかを主に書いていこうと思っています。文中に出てくる、人の名前は、全て仮名です。

 私は、今64歳になりますが、50歳の時に、リーマンショック後の不況で、簡単に言うとリストラされ、その後、再就職先が決まらず、将来の経済な不安から、うつ病になりました。うつ病になって14年間、7回、今回入院した精神病院に入院しています。そのうちの4回は、閉鎖病棟に入院しています。
今回の入院の前の入院は、2016年、56歳の時に2か月間入院しているので、前回の入院から7年経っての入院となります。

 今回、精神が不安定になり悪化したのは、うつ病になってから14年間ほど、ほぼ無職でした。将来受給される年金の額も年金事務所にいけば、見込み額がわかるようになりました。それと、今ある貯蓄を合わせてると、暮らしていけないとわかり、精神が崩れ、落ち着かず、じっとしていられない状態になってしまいました。
 2023年11月6日に、主治医の院長の診察がある月曜日に診察に行くと、私が椅子に座って、じっとして対応できず、足踏みを続けているのを院長は見て、「それは、辛かろう。任意入院しよう。今までと薬を変える」と言い、直ちに、任意入院の書類を作成し、書類に私と父の署名を求めました。
その時に、入院先として「3階西病棟」と書かれていたので、私は、「ああ閉鎖病棟に入院か」と、半ば諦め、観念した気持ちになりました。
即時入院となったので、入院のためのコロナ検査をすることになりました。その結果が出るまで、父と病院の駐車場に止めてある自分の車のなかで、待機することになりました。
 父は、私に、病院の売店で、ジャガイモのスナック菓子と、缶コーヒーを買ってきてくれました。私は、少しやけになって、スナック菓子をバリバリと食べました。病院から渡された書類に車の中で、記入しました。「趣味はなにか」などの質問があり、過去6回の入院の時には、「こんな事、以前訊かれたかな?」と思いました。しかし電子工作は、好きだったので「電子工作、アマチュア無線」(アマチュア無線は2級の免許を持っていましたが、実際に、無線機で空に出たことはありません)と書きました。宙に紙を持って書いていたので、字が汚くなった。父から「もっときちんとした字で書け」と叱られました。
 コロナウイルスの陰性の結果が出たので、再び、病院内に移り、看護師さんから主に私に対して、入院の説明がありました。その後、病院の入院事務の受付で、必要な書類の作成、保証金の支払いなどを行いました。入院の時のお小遣い管理費も払いました。お小遣いなんて使わないとも思ったのですが。
 その後、父と別れて、私は看護師さんとともに、3階西病棟(閉鎖病棟)に移ることになりました。私は、背負っていたザックに、腕に着けていた腕時計を入れ父に渡しました。父は、家との連絡で公衆電話を使って話すことになるため、自分の財布の奥にあったテレホンカードを1枚、私に手渡してくれました。私は、病室に移るだけだったのですが、父は、看護師さんから、さらに入院に関して用意するものなどの説明を受けました。父も私も、即時入院とは思っていなかったので、かなり慌てました。特に93歳の父と88歳の母が私(63歳)のために急いで、入院用の靴、タオル、電気髭剃り、歯磨きブラシ、歯磨き粉、着替え、シャンプー、リンス、ボディソープ、靴下、下着などの買い物をし、一つ一つに私の名前を書き、父は、市役所に行き、国民健康保険・限度額適用・標準負担額減額認定書の手続きまでしてくれたことには、いまでも感謝の気持ちで一杯です。

 3階西病棟に移った私は、着ている服の全部を脱いで、下着から靴下、スリッパまで病衣に着替えさせられました。後で知ったのですが、この病衣類は、全部レンタルで、入院費とは別に、レンタル請求書が郵送で家に届き、父がコンビニに行って支払い清算したとの事でした。事前に何も言ってくません。後は、4人部屋に連れていかれ、入り口に近いベッド1つが私の暮らすところとなりました。入院の事務手続きをしていた時、書類に「予想される入院期間は、およそ1か月」と書かれ、過去6回の入院も1か月から2か月の入院で済んでいたので、今回105日間するとは予想しませんでした。こうして、閉鎖病棟での7回目の入院生活が始まりました。

閉鎖病棟とは、どういうところなのか?

 主に入院している患者側から見て、閉鎖病棟とは、どういうところなのかを書いてみたいと思います。
一言でいうと「自殺しないようにして、外界から患者を遮断し、精神の回復を図るところ」と私は思っています。
外界から患者を遮断するため、一般病棟のように自由に患者が病棟外を行き来することができません。病棟の出入り口には、鍵がかけられています(実際には、アクセス権限がある人が持っているカードで開け閉めするのですが)。しかし、この時は、コロナが流行っていたので、一般病棟でも病棟の外への出入りの禁止と、外の人との面会謝絶が履行されていました。そのため、今回の入院でも私は、第1回目の外泊許可がでる、令和6年2月2日まで、父母と会うことができませんでした。
実際、患者は何をしているのか、というと私の場合は、ひたすらベットに横になって、抑うつ感、自殺念慮を我慢していました。

 自殺しないようにしているには、まず、窓が開きません。なので、飛び降り自殺ができません。また、首を吊らないように、紐の類を持ち込むのが禁止です。例えば、ズボンのベルト、スエットのウエストを絞る紐を持ち込むことができません。ゴムで腰の部分を固定するスエットをはいていることになります。また、靴は、紐で縛りあげるものは、持ち込めません。紐がついていない靴を履くことになる。先のとがった物は持ち込めません。例えば、シャープペンシル、ボールペンのようなものは、持ち込めません。2010年、50歳の時に閉鎖病棟(第1回目)に入った時は、看護師長さんに、家族との面会の後、母から渡してもらった紙袋の中を、紐や、とがったものがないかを、中身を見せて確認をもらっていました。
 しかし、今回の2023年の時は、ノート、本、筆記用具は、看護師さんにあずけて、所定のロッカーにしまい。必要な時は、取り出して、使って良いことになっているようでした。規則が緩んだのでしょうか? 本についても、2010年の時は、本に記述している内容に問題がないか、主治医が直接確認してから、患者に渡すという。実質、主治医は忙しいので本の内容を確認する時間がなく、本の持ち込みは禁止となっていたが、13年経って規則も変わったのでしょう。

 結局、閉鎖病棟に入院している患者が、身近においてよい、物は、プラスチックのコップ、歯ブラシ、歯磨きチューブ、下着3着、スエットなど上着上下3着、靴下3足、タオル3枚、バスタオル3枚、眼鏡と、ティッシュ1箱とマスクとなります。スマホは、持ち込めません。これら全てに自分の名前を書きます。コップ、歯ブラシ、歯磨きチューブには、病院の方でテプラで名前が書かれたシールが作成され、しっかりとそれぞれの物に貼られます。これは、認知症気味の人もいるので人の物を取っていっても分かるようにするためと思われます。眼鏡にもテプラで名前のシールが用意され、それをツルのところに貼って、誰のものなのか分かるようにしていました。
これを1人1人用意されるキャビネットに納めるようにして、病院生活を送っていました。
 ティッシュの箱は、キャビネットの上に置いていたのですが、他人のティッシュを食べてしまうという患者さんがいたため、キャビネットの引き出しの内に仕舞うようにとのお達しが出た時もありました。

閉鎖病棟の1日

 起床時間は、6時です。部屋の照明が点きます。夜、寝られなかった時など、「あ~、朝が来てしまった」と思います。
 私は、入院時の血圧が高かったので、朝、起きると看護師さんが血圧を測りに来ていました。しかし、入院も最後になると、正常血圧になり、最初担当していた内科の先生も見ていないようになったので、朝、起きた時の血圧測定はなくなりました。
 ラジオ体操の放送が7時10分ごろかかりますが、体操をしている人は余りいません。
 朝食は、7時30分です。起きてからの、この1時間半を待っているのが長いです。
検温が9時15分から各部屋に担当看護師さんが行います。指先に酸素飽和計をつけて飽和酸素の量と、昨日、お通じとお小水が何回あったかを看護師さんが訊いて回わります。
その他、午前中に髭剃りの時間があり、ヘルパーさんが、患者さんたちがナースステーションに預けている電気髭剃りを、部屋ごとに回って、各人に渡し、髭を剃って電機髭剃りを返すという時間があります。どうも髭を伸ばしっぱなしにしていてはいけないようです。
昼食は12時です。
午後3時ごろ、お茶の時間があり、看護師さんがタンクに入ったお茶を各自のコップに注いで回ります。
夕食は、午後5時30分です。
寝る前の投薬の時間は、午後7時30分です。
消灯時間は、21時です。部屋、廊下の灯りが消され、食堂の扉の鍵が閉められます。
 服薬は、食後、看護師さんが各部屋を回って、各自の名前を呼んで、直接、口の中に入れていきます。なので、薬を飲む水をあらかじめ、各自用意しておく必要があります。
食事は、各人の食事をトレイに用意したものを、ラックに乗せて、看護師さんが持ってきます。名前を呼ばれるので、自分で取りに行きます。それをキャビネットのトレイ受けに乗せ、食べます。私は、米飯200g。麺類禁止と食事に付く紙に書いてあり、なぜ麺類禁止なのかわからないのですが、12月31日の大みそか、皆が、年越しそばを食べている時に、米飯を食べていました。
 なお、患者さんが全員、きちんと食事を食べる訳ではありません、通常、食事の配布、片付けは看護師さん一人で行うので、看護師さんは、「早く食べて」「きちんと食べて」「なぜ残すの?」と忙しく回っていました。

閉鎖病棟の1週間

 入浴は、火曜日、金曜日の9時15分ごろの検温後にあります。ベッドの上から動けなくて、入浴に介助が必要な人が、先に入るので、「bbopa627さん、午後にしてくれる」とヘルパーさんに言われると午後に、回る事になります。入浴には、下着、スエット上下、タオル、バスタオルを持っていきます。洗い場が3人分あるので、3人ずつ入ることになります。それまで、外の椅子で座って待っています。待っているところにあるトレイに、各自が入院の時に預けた、電気髭剃りが並べてあるので、それで、髭を剃って待ちます。爪切りも待つ場所においてあります。この爪切りは、とても切れませんでした。
風呂に入る順番がくると、私は、病衣のレンタルでなく。自宅での洗濯だったので、自分の名前が書かれているビニール袋を渡され、その中に下着から上着のスエット、使ったタオル、バスタオルまでを入れます。その袋は、家の者が取りにきて、代わりに、家で洗濯した下着、上着、タオル、バスタオルを、家の者が病院スタッフに渡すと、私に届けられるというシステムになっています。
 風呂場の洗い場に入り、バスチェアに座ると、まず、入院患者、全員分のシャンプー、リンス、ボディソープが、多数ズラーッと並んでいます。そのうちから、テプラで自分の名前の付いたシャンプーなどを探して(これが大変)、使い髪、体を洗います。
最後に、湯船に入って、終わり。ヘルパーさんに「温まった」と、声をかけられましたが、「うーっ」としか答えられませんでした。ここで、素直に「温まった」と言えて、コミュニケーションが取れる人間だったら、妻とも離婚しなかったのかもしれないと思いました。
入院中、2週間ほど風呂が無い時期がありました。検温後、患者同士で、「コロナ患者が出たので、入浴が当面なくなるらしい。」という噂が広がりました。病院側からの説明は、一切なし。そのうち、入院患者、全員にPCR検査がなされ、問題が無かったのか、入浴は再開されました。
その時までの股間の陰嚢と太ももの付け根のベタベタ感が、どうにも嫌でした。

作業療法の時間があります。
 夜、眠れないので、昼間は、ベッドに横になって、ずーっと寝ていたかったのですが、寝ていると、作業療法士の青木さんが、「bbopa627さん、作業療法をしましょう。院長からもずっーと寝ていないで、体を動かすようにしなさいと言われています。」と言われ、しぶしぶベッドを出て作業療法とは、どんなものなのかと青木さんの後を追いました。10年前に閉鎖病棟に入院した時は、映画を見る時間と卓球をする時間があったと思い出しました。
 作業療法は、主に4つありました。
1つ目は、月曜日に3階の閉鎖病棟を出て、1階にある作業療法室に行き、女性の患者さんと一緒に作業療法活動を1時間ほど行って、また3階に帰ってくる作業療法。
2つ目は、水曜日に、3階の食堂で、映画を1時間ほど観る作業療法。
3つ目は、木曜日に、3階の食堂で、月曜日と、ほぼ同じ内容の作業を行う作業療法。
4つ目は、隔週、土曜日の午後に行うカラオケ。
入院中もじっとはさせてくれません。
入院最初のころは、作業療法が辛かったです。
特に、入院最初の作業療法では、1階の作業療法室で椅子に座って、全員が揃うのを待っていた時、「父が死んだら、今の自分の経済的状況だったら、破滅する」との恐怖が沸き上がって、椅子に座っておれず、青木さんに「自分の病棟に帰って、横になりたい」と言った時、「それはできません。話を聞きましょう」と、一番、後ろの椅子から離れたところに椅子を用意してくれて、作業療法の時間、ずっと、私の話を聞き、落ち着かせてくれました。でも、青木さんが言った。「病院を退院すればアルバイトはいくらでもありますよ。」は、今でも信じられません。
1階で行う、作業療法は以下です。
6人ほどいる作業療法士の方々のうち司会役の人が40人ほどいる患者を前に、ホワイトボードに向かって問います。
「今日は、何月何日何曜日?」
この質問は、入院して、今が何時なっているか、分からなくなっている自分に取って、知っておきたい質問と答えでした。普通ならば、気にもしない質問ですが。
「天気は?」
これも、窓から外を見ることもなくなっている自分にとって、確認したいものでした。要するに、ベッドに寝ていて、不安に押しつぶされそうになっているだけの自分にとって、意識を外へ向かわせてくれるものでした。
その後、簡単なクイズ、「林檎の出荷が一番多い県は、次の3つの県のうちどこ」で、3択で、皆、手をあげていく。そんなクイズを5問ほど行って後、椅子に座ったままできる体操をして。最後は、ディスプレーに投影された、NHK紅白の映像、パンダの映像などを15分ほど見て、終了。皆、自分の病棟に帰っていきます。私は、帰ったらゴロンとベッドに横になって休んでいました。

2つ目の水曜日に1時間ほど、映画を見る作業療法は、3階の食堂に、映画のDVDを壁にかけてあるテレビに投影して、皆で観るというものでした。2時間ほどある映画を、2週に分けて、観ます。観る前に、青木さんが、どのような映画なのか、後半の上映なら、前回までのあらすじをホワイトボードに書いて説明してくれます。私は入院して4日間ほど夜、寝られなかったので、頭がキンキンになっていました。そんな時、上映していた「パイレーツ・オブ・カリビアン、呪われた海賊たち」を無理やり見るのは、拷問のようでした。
その後、いくつかの映画を見て、年末には、青木さんが「来年は、どんな映画を見たいですか?」のアンケートを取っていた。私は、「蝉しぐれ」と「ジョゼと虎と魚たち」をリクエストしました。皆、寅さんが見たいという意見が多かったです。寅さんが上映する頃は、私は、閉鎖病棟から一般病棟に転棟することになったので、観ることができませんでした。

3つ目の木曜日に行う閉鎖病棟食堂で行う作業療法は、青木さんが司会者になって、ホワイトボードに「今日は何月何日何曜日」と問います。答えを聞くたびに、「もう、そんなに長い間、閉鎖病棟にいるのか?」と思ってしまいました。「天気は?」、食堂から外を見る窓はないのですが、患者さんの誰かが、答えます。「今日の気温は何度?」、これには、食堂のテーブルの上においてある上毛新聞の天気の欄の予想温度の温度を答えます。「寒くなりましたね」などと会話が続きます。その後は「今日は、何の日?」の質問が来ます。11月22日が「良い夫婦の日」ぐらいしか私は知らないのですが、青木さんが自分で調べてきた、答えを2つ、3つ教えてくれました。
次は、「今日は『さ』で、始まる、言葉はありませんか?」と患者さんに聞いて、出てきた単語をホワイトボードに書いていきます。言葉が尽きたところで、ひとつひとつ確かめて、感想をいって、このコーナーは終わります。
続けて、色々な運動用具を使って、座りながら、元気な人は立って体操をします。別の日は大きなサイコロを転がして、出た目の組み合わせを競うゲームなどを行いました。
最後の20分ほどは、自由時間で、青木さんたちが持ってきた雑誌を選んで、読んだり、塗り絵をしたり、将棋、オセロをしたり、それぞれ自由に過ごして終了の時間が来て終ります。
作業療法には、閉鎖病棟の全員が参加している訳ではなく、車椅子の人が参加したり、自立して歩ける人でも参加していない人がいます。治療方針上、作業療法が必要、不必要の判断がされているのでしょう。
 私が感心したのは、青木さんが、ご高齢の足腰が弱っている人も参加している時、そのような人にも絶えず目を配っていて、ふらっと倒れそうになった時に、すばやく支えに飛んでいくのを何回か見たことです。

4つ目の作業療法の隔週の土曜日午後のカラオケです。
青木さんが、カラオケの機械を押して食堂まで持って入ってきます。この機械に入っている曲が最新とまではいっていないので、型は、一つ古いものなのでしょう。機械からの画像を食堂のテレビに移すためにHDMIケーブルをテレビに繋ぎます。食堂に参加している患者さんたちから紙の表で、リクエストを受け付けます。一人2曲まで、あまり皆、積極的に書き込んでいくという感じではありません。書込みが終わったら、歌う順番を青木さんが決めていきます。
機械を操作して、カラオケスタート。この時、自分でマイクを握って歌っても良いし、機械が歌っているのを聞いているだけでもよいし、機械と一緒に歌っても良いということになっています。病床同室の安西さんは、毎回、森山直太朗の「桜(独唱)」をリクエストして、自分は、歌わずに聞いていました。私もチューリップの「サボテンの花」や、モモクロの「走れ」をリクエストして歌っていました。カラオケの出す、画像を曲を眺めているのが、割と好きでした。

シーツ交換が木曜日にある。
一般病棟だとシーツ交換は、看護師さん、ヘルパーさんが行ってくれるですが、閉鎖病棟では患者一人一人が自分で行うことになっています。木曜日になると、枕カバー、上掛けのカバー、マットのシーツの交換するものをヘルパーさんが患者のベッドの縁に、置いていきます。それを患者各人が、取り替えて、使用したものを廊下に出すという作業をします。
体調悪くて、寝ていたい時は、辛い作業となります。特に上掛けのカバーの交換が面倒でした。

売店での買い物
閉鎖病棟に入院すると、自由に1階にある売店に行けないので、火曜日の午後に注文を取りに来て、翌週に渡すというシステムになっていた。清算は預けているお小遣いから差し引かれます。ポテトチップスなどを注文する人がいました。

外部との連絡の取り方。
 コロナの発生予防のため、面会は謝絶です(これは、一般病棟でも同じ)。直接家族と会うことはできません。家族の方から病院に電話して、入院患者に取り次ぐ事も原則しません。
こうなると、入院患者の方から、外部に連絡をするしか方法がありません。公衆電話がナースステーションの隣にあります。きちんと電話室になっています。但し、テレホンカードしか使えません。
テレホンカードは、患者がナースステーションに預けることになっています。すなわち電話したい時は、ナースステーションに行って、看護師さんに、電話したい旨を告げ、自分のテレホンカードを受け取り、電話室(8時から20時までが使用できる時間)で、公衆電話をかけるということになります。私は、テレホンカード1000円分を、事務員さんに頼んで、1階売店で買ってきてもらいました。自宅の電話番号を頭が混乱の末、忘れてしまったので看護師さんに調べてもらい、それを付箋紙に書いて、テレホンカードに張り付けて使っていました。
ちなみに、この公衆電話は、音が悪くて、「乾電池単三2本持ってきて」を伝えるのに、一つ一つ、単語を区切って、「乾電池もってきて」「単三」「2本」と情報を伝えるしかありませんでした。込み入った難しい話ができる環境ではありませんでした。
この電話室には、「入院生活で人権侵害があった場合は、ここに電話しなさい」という電話番号を書いた紙(ポスター?)が張ってありました。また、入院時に説明される「入院生活のご案内」には「家族の希望や主治医の指示により、電話の回数や時間の制限をさせて頂く場合があります。」と書かれています。

外部からの情報
 基本的には、「閉鎖病棟は、世間から隔離して、十分に静養して、精神の回復を図るところ」と、私は理解しているので、外部からの情報が最小限になるのは仕方がない事なのでしょう。スマホは持ち込み禁止なので、個人的な繋がりから情報を得ることはできません(普段から、それほどスマホ使っていませんでしたが)。あるのは、食堂にある壁掛けテレビ(チャンネル、音量はテレビ側面のボタンで変えることができます)、食堂に置かれる上毛新聞の2つです。
テレビのチャンネル権を誰が持っているかというと、誰も持っている訳ではないのですが、NHKは、めったに見られず(日曜日の、のど自慢は、なぜか、みんな楽しく見ていました)、バラエティ番組、歌番組、クイズ番組が見られていました。皆、世間のニュースに関心がないのだろうか?と思いました。
上毛新聞の方は、内容があまりにもローカルなので、関心が湧きませんでしたが、宇宙飛行士の向井千秋さんの自叙伝が連載されて、それを読むのが楽しみでした。なんか立派な人すぎて、それに比べて、自分は、うつ病になった50歳からの13年間なにをやっていたのだろうと思いました。

部屋に洗面所がない。トイレがウオシュレットではない。
 部屋に洗面所がないので、トイレの内側にある、水道で歯磨きをしなければなりませんでした。また、この水道は、蛇口を捻って、水を出すタイプではなく。水道についている大きな栓を押すと、一定量、水が出てくるというものでした。また、贅沢を言っているのかもしれませんが、トイレがウオシュレットではありませんでした。毎日、風呂に入れない身には、少し辛いものがありました。

入院と治療

2023年11月6日、入院して。治療が始まりました。
 院長が薬を変えると言っていたので、今、身体に入っている薬を抜く処置を行いました。実際には1日1リットルの点滴(何の点滴なのかは、知りません)を2日間行いました。1リットルを体に入れるのに5時間から6時間かかりました。その間、ぼーっと不安を抱えながらベッドに横になっていました。
 点滴が終わった後、新しい薬を飲み始めました。主治医の院長が回診に来ないので、どんな薬に変えたのかわりません。とにかく、自分の体に新しい薬が入って、抑うつ気分が楽になればよいなと思いました。
 入院以前からですが、入院してからも、夜、眠れませんでした。19時30分の就寝前薬に睡眠導入剤が入っているのかわかりません。看護師さんに、「睡眠導入剤が入っているか?」と聞いても「わからない」と言われるだけでした。
夜、落ち着かず、じっとしていられない状態が続きました。一晩中、廊下を歩きまわります。夜勤の看護師さんに「体力が持たないから、とにかく横になっていなさい」と注意されました。それと「幻聴が聞こえないか?」と何度も聞かれました。いや、幻聴は、聞こえない。ただ、じっとしていられないだけ。自分でも、とにかく、ベッドに横になっていようと、横になっていたら、朝の起床の時間になり、照明がつきました。なにか、「自分は、もう直らないのではないか」と思いつめてしまいます。夜、寝られない分、昼間、色々な物音、作業療法などがあるなか、布団をかぶって目をつむり、じっとしていました。

私の隣の患者さんは、半身不随の足の動かない人でした。私が夜、寝られず、ウロウロしていると、私の名前を呼んで、「看護師さんを呼んできてほしい」と頼まれました。夜中、ナースステーションに看護師さんを呼びに行きました。看護師さんにした、依頼の内容は、自分では動かせない足の位置を変えてほしいとのことでした。看護師さんが足の位置を変えます。看護師さんに「あの人のいう事は相手にしなくて良いですよ。」と言われました。その後、夜、寝られずにウロウロしている時、直接私の名前を呼んで、足の位置を変えてくれと頼まれました。私は、足の位置、腰の位置などを変えることをしてあげました。
その後、私は、看護師さんに言われて、別の4人部屋の部屋に移動になりました。引っ越しは、キャビネット一つと布団を移動させるだけなので、2分ほどで終わりです。引っ越し後、すぐ、ベッドに横になっていました。

新しい人が、私の部屋に入って来ました。歳の頃なら、私と同じぐらいの60歳代でしょうか。夜になると分かったのですが、いびきが、とても酷かった。寝られません。うるさいと感じるのは、私だけでなく。斜め横にベッドがある平井さんも、同じく、眠れないようでした。平井さんは、起きて、その人の枕元に立って、じっと、いびきをかく人を見入っていました。いびきは、時々「うっ」と止まります。うるさくて迷惑だけど、息が止まっているのではないかと心配になりました。
平井さんは、布団の上掛けを丁寧にいびきをする人にかけ直していました。翌朝、朝食の後、歯を磨いているときに、私が、平井さんに「あれ、いびきというより、睡眠時無呼吸症候群ですよね」というと、「そうだな、ただのいびきじゃないな。」と答えてくれました。ちなみに「他人のいびきがうるさくて寝られない」と看護師さんに相談すると「お互い様ですから」と取り合ってもらえませんでした。そんないびきをかく人も、起床時間の朝6時になると、さっと起きて、食堂に行き、テレビを見ていました。そして、一日中、食堂にいてテレビを見ていました。
私は、「あなたのせいで寝られないんだ」と少し腹立たしくもなりながら、「よく、一日中、テレビを見ていられるものだ」と思いました。

主治医の院長がなかなか回診に来ません。睡眠導入剤を出してもらいたい。周りにいる人に、「院長来ませんね」というと「院長回診に来てもなにもしないよ」と言われました。

点滴をしてから5日後ほどに、看護師さんを一人連れて医院長が来ました。「どうだ?」と訊かれ、不眠を訴えました。睡眠導入剤を出してもらうことになりました。
それから、時々、廊下や、ナースステーションで院長に会う時があったのですが、院長は、私が入院を決めた診察の時にやっていた、落ち着かないでピョンピョン跳ねるのを気にしているのか、「もう、ピョンピョン跳ねることはないのか?」と気にしてくれました。そこまで、落ち着いていないということは、入院してからはありませんでした。

導入剤を19時30分に飲むと、なんとか12時ぐらいまで寝られるようになりました。部屋に時計がないので、夜、起きたら、ナースステーションの突き当りの壁に掛けてある時計を見に行くようになりました。夜の9時に寝て、起きて時計を見に行って、夜12時、1時の時刻を確認すると、睡眠時間の短さに気が重くなりました。もう、うつ病になって14年間、睡眠導入剤を飲んでいるのですが、それでも、昔のように、一旦寝たら、6時間、7時間寝れるという睡眠が取れない身になってしまったのかと悲しくなりました。いつ退院できるのだろうか?と思いました。

食堂で、本を読んだり、書きものをしたりしている落ち着いて、大きな立派な体をしている、吉井さんと話をしました。もうじき退院するということでした。仕事のしすぎで、不眠となり強制入院となったということでした。
退院まで、6週間かかったそうです。年齢は、30歳代くらいでしょうか、学生の時にサッカー(ゴールキーパー)、ラグビーをしていたとのことでした。私も高校生の頃、ラグビーをしていたので、出身の高校の名前を出すと、「名門高校じゃないですかと」言ってくれました。名門高校を出ても、閉鎖病棟で、私は、このざまです。最後のカラオケで、長渕剛の「乾杯」と河島英五の「酒と泪と男と女」を「酒の歌ばっかりだ」と言って、歌っていました。

昼間、廊下を30分ぐらい、歩いて往復運動をします。気休めです。

夕方、4人部屋に新しく入ってきた人が、夜、怒鳴り始めます。とてもうるさく、寝ているどころではありません。看護師さんに言うと、さすがにこれはまずいと思ったのか、隣の部屋に、その人を寝させたまま、ベッドを移動させました。どうも耳が聞こえないから怒鳴るらしいと、翌朝、噂が立っていました。「その後、眠れましたか?」と、ベッドを動かした看護師さんに訊かれたのですが、私は、別の理由で「眠れませんでした」と答えました。

別の部屋に、20歳代に見える、ハリーポッターが、大好きな人が入ってきました。まず、誰とでも、挨拶をします。「私の名前は、藤井です。ハリーポッターが大好きです。」と、私は、ハリーポッターが詳しくなかったから、「そうですか」ぐらいの返事ができず。話が続かなかったのですが、返事で、ハリーポッターの話を返すと、延々とハリーポッターの話をしていました。食事を食べるのが下手なのか、食べるのに時間がかかっていました。看護師さんに、「まだ、食べてないの。早く食べて」せっかれていました。便所にいくと、広い車いす用のトイレの個室で、ドアを開けて、大きい方の用をたしていました。ドアをなぜ閉めないのでしょうか?

藤井さんが、挨拶をしています「私の名前は、藤井です。ハリーポーターが大好きです。」「私は、臨床心理士の酒匂です。」という声が聞こえました。2016年、私が56歳の時に、精神が不安定になり、1週間に一度の頻度で、カンセリングをしてくれていた酒匂先生が閉鎖病棟に来ていました。出て行って挨拶をしようと思いましたが、あれから7年後、また、閉鎖病棟に入っているのを知られるのも辛く、挨拶しませんでした。その後、直接会う機会があったので、その時、挨拶をしました。また、うつ病を再発している事をどう思われただろうか? と気になりました。

平井さんが、閉鎖病棟を退院することになりました。私としては、普通に話せる人がいなくなるという事になりました。平井さんは、「精神の病気なんて、骨が折れて、繋がると違って、入院時と何も変わってないですよ。」と言って部屋を出ていきました。

着替えを病室の受付に持ってきた父と、廊下を散歩していた時に会いました。距離10mくらい離れています。言葉は交わせなかったのですが、お互い手をあげて挨拶をしました。私は、親不孝者です。

入院していた部屋がまた、変わりました。今度は、ナースステーションから一番遠い4人部屋の一番奥になりました。

高校生が入院してきました。主治医は、同じ院長でした。「早く出たい」と看護師さんに色々アピールしていました。例えば、「入院する前、僕の気持ちは、10点満点で2ぐらいでした。今は、気持ちも落ち着いて、10点満点で8ぐらいです。」などと看護師さんに言っていました。私の枕元にも、何か言いたげに立っていたので、「看護師さんに言っても判断してもらえないから、主治医に相談してごらん。主治医は誰?」「院長」「院長って誰だか知っている。今日来た先生だよ。」と言ったら「あのおじさんが院長先生なんですか」と言っていました。高校生は、作業療法に出る事もせず。靴が学校の下履きだったので、歩く時、ペタンペタンと音を鳴らしながら、作業療法が行われている食堂の周りを歩いていました。結局、症状も軽かったのでしょう、「ここ出てー、ここ出てー」と言いながら、一週間ほどで退院していきました。ある意味、うらやましかったです。

右手、斜め前のベッドの患者さんは、幻聴が聞こえる藤井さんでした。マリー・キュリーとピエール・キュリーの話を管理人という人と永遠と話しています。あまりにもうるさいので、私が切れて、「藤井さん、うるさい」というと、「管理する人に返事をしないと、殺される。」と言いました。私が、「ここに人が来るはずもなく。殺される訳ないでしょう。」というと、それでも「殺される」といって、ベッドから、廊下に出て、管理人と話をしているようでした。
藤井さんは、今後、今より作業療法が沢山ある病室に移るらしく、自分の幻聴が生活に影響を及ぼさないか、作業療養師の青木さんと心配そうに相談していました。

食事の食べ方を夕方から延々と話す安西さんが横のベッドにいました。例えば、「ご飯は、残さないように、ゆっくりとたべましょう。味噌汁は、こぼさないように。トレイは、おかずをこぼさないように運びましょう」などと、夕方から説明し始めます。トイレの個室の中でも説明しています。高校生が「何言ってるんですか?」と質問していたが、答えられませんでした。ベッドの頭の部分に、「入院日、主治医」が書いてある紙が貼っているのですが、入院日が平成30年、2018年からでした。昼間は、ノートを出してもらって、何か書いています。少し覗いたのですが文字を書いているように見えませんでした。良く廊下を歩いて運動しているので私も一緒の時間に歩きました。

院長に、睡眠導入剤を飲んでも、3時間ほどで、すぐ起きてしまう事を訴えると、薬の半減期の話をされ、薬の服用が、通常の7時半から夜9時の服用となりました。皆が7時半の服用で寝ているのを、9時の消灯直前まで待つのが辛かった。安西さんが9時近くまで、食堂のテレビで、テレビ東京の番組を観ている事が多かったので、一緒に9時まで食堂でテレビを見ていました。

生活保護だと入院費は、只になるということを聞きました。「最悪、今後の人生、閉鎖病棟にいればいいや」と思いましたが、親に洗濯のお世話になっているし、ここにいるべきではないと、思い返しました。退院して調べると、入院費と食事代は、只になるが、介護用品代(おむつなど)は、支払わなければならないとのことが分かりました。

12月22日と31日に酷い便秘になりました。原因は不明です。便意はあるのですが出てきません。肛門のところまで、硬い棒が、刺し落ちている感じです。トイレで、全身の筋肉を使ってうなっても、便が出そうで出てきません。便が降りてきているのを我慢して歩いてみる。冷たい水を飲んでみる。それでもだめでした。出てこない。下剤、座薬を看護師さんに出してくれないか頼んでみました。主治医の判断が必要と言われました。一晩かかけて、個室に入って呻っていました。明け方、ボロボロと出てきて、その後、どどっつと出てきてくれました。その30分後ほど、最後の便が出た感じがしました。一晩かけて出して疲れました。看護師さんがお腹の腸のところに聴診器を当てて腸が動いているか確認してくれました。漢方の麻子仁丸(ましにんがん)を飲みました。12月31日の時は、元日の朝に便を出して疲れはてて、窓から初日の出を見る余裕がありませんでした。以前から思っていたのですが、病院の窓から見える日の出は綺麗でした。テレビアニメ「テラへ」の主題歌、ダ・カーポが歌う「愛の惑星」を思い出しました。
ほっとして、食べた元旦の朝食は、お赤飯でした。「明けましておめでとうございます」のメッセージカードが付いていました。

一般病棟への転棟

 何時までつづくかと思っていた閉鎖病棟の生活でしたが、終わりを迎えました。1月5日午後2時30分 2階東病棟(一般病棟)への転棟通知書を受け取りました。閉鎖病棟から一般病棟へ移ることとなりました。61日間の閉鎖病棟の入院が終了しました。転棟の理由は、症状が安定しているからとのことでした。
なぜか、看護師さん、事務の人が急いで転棟のために段ボールに、シャンプー、電気髭剃り、テレホンカード、服、タオルなどをパッキングしてくれました。ナースステーションの方々に挨拶する暇がありませんでした。家には、2階東病棟に移ることを公衆電話で急いで伝えました。

2階東病棟204号室に行ったら、閉鎖病棟で同じ部屋にいた平井さんがいました。トイレがウオシュレット、風呂がシャワーだが、朝、時間取りをすれば、毎日でも入れることを聞きました。これは6回目の入院の10年前と同じだと思いました。平井さんは、すぐ一般病棟を退院していきました。

2階東病棟は、整形外科で手術等処置をする人が、手術の準備をする病室や、リハビリをする病棟でした。10年前は内科の人もいたのですが、変わったようでした。
朝6時に起床の時間の後、顔拭きの蒸しタオルを渡されます。食事は、自分のところまで運んでくれます。
テレビがテレビカードを購入すれば、個人で見れます。スマホ、ラジオの使用が可能です。スマホとラジオを父に運んできてもらいました。本も読めます。ノートに書きものもできます。作業療法が無いので、1日ほぼ病院内ですが、自由に時間が使えます。
しかし、コロナなので、面会謝絶なのは、閉鎖病棟と同じです。なにが違うかというと、平井さんが言っていたように、トイレがウオシュレットなのと、シャワーが時間取りすれば、いつでも入れるというところが大きく違うところでした。

閉鎖病棟を出ましたが、寝られないのは同じでした。睡眠導入剤を、夜、飲んでも3時間睡眠ほどで目が覚めてしまいます。
院長の回診は減り、担当医の藤江純子先生が、2日間ほど間を開けて、来てくれるようになりました。
睡眠導入剤を色々変えてみます。ベルソムラ、ゾビクロン、フルニトラゼバム、どれも3~4時間で起きてしまいます。起きると将来の不安が出て、部屋にある洗面台で顔を何回も洗うなどしてしまいました。

病棟にFreeWiFiがあるわけではなく、スマホの通信データ量を増やすのがいやで、主にラジオを聞いていた。また、食堂に本が置いてあったので借りて読みました。くらもちふさこの漫画を読んだのなんて何十年振りだろう。本を読んでいると気がまぎれました。

外泊

 そんな日を繰り返していたら、院長が回診に来て、「そろそろ外に出る調子出て来たか?」と尋ねられました。答えられないでいると、「暖かくなるまで待つか?」と言われました。
それを聞いて、十分に寝られないけれど、外泊をする決心をしました。
ナースステーションに外泊許可書を取りに行きました。
1回目の外泊は、令和6年2月2日から令和6年2月6日まで4泊としました。持って帰る睡眠導入剤は、ゾビクロン錠7.5mgとフルニトラゼパム錠2mg。以下、外泊時の行動記録です。
2月2日(金)
  午後2時に父に迎えられ車で帰宅する。途中スーパーに寄り夕食のカレーライスの食材を買う。入院中、約3か月間食べられなかった、チョコレート、あんこの入った、お饅頭を買う。家に帰って自分の部屋に入る。約3か月ぶりに入ることになる。父が、部屋の中を整理してくれたのはありがたかったが、必要なものの位置が変わっていたので、探すのに時間がかかる。テレビが付かない。なんでだろうと思ったら、アンテナ線が外れていた。夜10時就寝。
2月3日(土)
  朝7時半に起き上がる。寝られなかった。午後、車で床屋に行き散髪、4か月振りに散髪をする。母が股関節の痛みで歩けなくなっているので、母を家において、父と買い物をする。夜、日本代表のサッカーイラン戦を見る。寝る前、エアコンの暖房を入れる。掛ける布団を軽くするなど、寝られるように工夫して、夜11時就寝。
2月4日(日)
  夜、1回起きただけで良く眠れた。7時間睡眠。午後1時半から3時まで、散歩と買い物。夜11時に寝る。
2月5日(月)
  夜、2回、目が覚める。4時以降眠れず横になっている。5時間睡眠。この日は夜9時50分に寝る
2月6日(火)
  夜、1回起きただけで良く寝れた。7.5時間睡眠。

1回外泊をして、精神が暴れることもなかったので、早めの2回目の外泊をすることとしました。
2回目の外泊は、令和6年2月10日から令和6年2月14日までの4泊です。
自宅で、地方税を納めるための確定申告の書類と資料を集めて、投函しました。2023年も市民税を取られるまでの収入がなかったため、来年も市民税非課税世帯となります。少し情けなく思いました。病院に戻って、読む本を選びました。7年前、同じ大学の山岳部の後輩で、北海道旭岳で冬個人山行を行い、遭難死した者の遺稿集。1986年チベットの7000m級の未踏峰を登った時の記録などを、病院に運ぶ紙袋の中に入れました。

2月14日、病院に戻りました。自分の居たベッドを入れた空間がえらく狭く感じました。
実は、2月26日に母が股関節の手術を、私が入院している病院の整形外科で行うことになっていました。2月24日に私のいる2階東病棟に入院する日程です、私は、病院で母を迎え入れる役目をすることになりました。そして、手術が終わる24日の2日後、28日に退院したいことを担当医に申し出ました。申し出は、主治医の院長に許可されました。

母は、車いすに乗って、2月24日に入院してきました。右足が不自由なため、手術前の日のシャワーを浴びるときの入り口の段差を超えるときの介添えを、私がやるということを看護師さんと話し合って決めました。なんでも良いから仕事があると気持ちに張りがでます。

退院

2月26日、母の右股関節の手術は、無事に終わりました。思った以上に骨が丈夫だったそうです。父から電話で連絡を受けたました。看護師さんが私を呼んで、まだ全身麻酔から覚めない母に個室で会わせてくれました。なにか、ホッとしました。

27日、麻酔の冷めた母と会いました。食は細いのですが食事もできて一安心です。

2月28日、自分の退院日となりました。父が用意してくれた、外出着に着替え、靴を履き替えました。沢山ある荷物は、看護師さんがワゴンを用意してくれました。母の病室に行って、退院することを報告しました。ナースステーションに行き、スタッフさんに挨拶をしました。約4か月前、入院した時と、私の経済状態は、何も変わっていません。でも、どうにかするしかありません。

閉鎖病棟61日間。一般病棟44日間、合計105日間の7回目のうつ病の入院は、終わりました。



よろしければサポートお願いします。頂いたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。