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王様を辱めない臣下の心得

チェスのモチーフを借りて、ようやく"Content is King."の話に触れるのに、そこはやっぱり素直じゃないから、今回もかなり変な展開に。無理にチェスを盛り込まなくてもと思いつつ、役に立つお話だとも思うので、よろしければぜひご一読ください。

これまで、"Context is Queen.”をチェスの駒に置き換えて、その影響力の強さを語ったり、

ユーザビリティがゲーム全体を支配しかねないというニュアンスから、"Usability is Pawn.”と語ってきました。

今回も、チェスのモチーフを借りて語ってみるシリーズ第三弾。ようやく肝心の王様、"Content is King.”にまつわるお話かと思いきや、Contents(中身)のお話ではなく容れ物(Container)に関するお話を。

コンテンツは確かに王様かも知れません。しかし、その威光が輝くのはチェス盤の上、ゲームの中だけに限られます。もし、チェス盤やゲームデザイン、ルールや審判といった「容れ物」の外へ出てしまったらどうなるでしょう?

あなたにとっては最高の権威で魅力あふれる王様であっても、裸のままで送り出したり、礼儀作法が身についていなければ、かえって恥を晒してしまうかも知れません。

あなたの大事な王様、コンテンツを辱めないためにも、「容れ物」の力や外部からの影響力について、しっかりと確認していきましょう。


われわれが建物の形を決める。
しかるのちに建物がわれわれを形づくる

サンフランシスコにある会員制社交クラブ、ザ・バッテリー

の正面入口脇にある、大理石の板に刻まれている言葉だそうです。

私は、ハヤカワ・ノンフィクション文庫の『ネット階級社会:GAFAが牛耳る新世界のルール』(アンドリュー キーン著 / 中島 由華 訳)

の第一章の冒頭で遭遇した訳文ですが、原文は恐らく

We shape our buildings; thereafter they shape us.

でしょう。元はウィンストン・チャーチルの言葉だとか。

「急に何の話?」と思われそうですが、容れ物と中身の関係を端的に表した表現じゃないでしょうか。建物という容れ物が先にあり、中に入る人物は、建物(や環境)によって規定される。だからこそ、最初の形、設計がより重要である、と。

中身が水のように不定形な流体であれば、容器と中身の関係は良く分かるでしょう。容器がなくても自立可能な固体であっても、周囲の気温や湿度、重力や周囲の環境によって、状態が変化します。

あなたの大事な王様、コンテンツは「物体じゃないから、関係ない」と言われそうですが、コンテンツとして近そうな書籍や映画に置き換えるとどうでしょう?
表紙や売り場、棚の場所や陳列のされ方、お店の場所や劇場の作り、一緒に鑑賞している別のお客さんの影響を、全く受けないと言い切れますか?

カバーのデザインや帯の惹句、背表紙の色で覚えていることもありますし、目につきやすい棚で平置きされているのか、書店の片隅の棚に収められているかでも、印象は大きく変わります。

つまり、いくら中身(=Contents)が重要で、"Content is King.”であっても、コンテンツが置かれる環境や容れ物の影響は必ず受ける上に、コンテンツへ引き込まれるまでは容れ物(=Container)の影響力の方が大きいとも言えます。

そもそも、メディア(=媒体)ありきのコンテンツ

あなたのコンテンツは「物体じゃない」かも知れませんが、その「物体じゃない」ものを誰かへ届けるためには、必ず何らかの媒体(メディア)を必要とします。紙やフィルム、CDやDVDといった物理的なものから、デジタルデータとしての文字や音声、光や映像まで、その形は様々です。

モニターに表示されているものに、「物」の印象は薄いかもしれませんが、文字はフォントとして形を与えられ、そのデザインを表現するためにピクセルや画素があり、色としての変化を与えながら光らせるには、「物」が介在しています。

音楽だって元を辿れば、ただの物理的な波にしか過ぎません。楽譜や音階に形を与え、耳へ届けるためには、空気や振動といった物理的な媒介が必要不可欠です。

一見、物体や物質が関係していないように思えるコンテンツもあるかもしれません。しかし、何かを伝えようとするコンテンツで、メディアが介在しないものはほぼゼロに近いと言えるでしょう。物理的な肉体と五感を持つ他者へ届けるためには、コンテンツとメディア、物体を切り離すことはできません。

コンテンツを載せるメディアと切り離せない以上、中身はメディアの影響も回避できません。だからこそ、モニターの白と黒の表現力が問われたり、高音や低音の音質が問題になったり、映像や写真ではホワイトバランスの調整が重要になったり、印刷物では紙質や印刷方法がクオリティを左右します。

例えば、被写体や一枚のアートとしての魅力を伝えたいときに、感熱紙にモノクロで印刷したり、新聞や漫画雑誌のような少しザラついた色付きの「印刷せんか紙」に画素が荒いまま二色刷するより、上質な紙にグラビア印刷で仕上げる方が適切でしょう。

つまり、中身(=Contents)は確かに王様ですが、統治する国の土地柄や気象の影響は必ず受けてしまいます。どれほど優れた中身であっても、避けられない影響と言えるでしょう。

メディアのブランドイメージや力にも影響を受ける

「メディア」と言われて、単純に媒介するものの方ではなく、パブリッシャーや出版物、放送局や番組、SNSなどのプラットフォームを思い浮かべる方も多いでしょう。

非常に卑近な例ですが、集英社の『週刊少年ジャンプ』に掲載されたコンテンツと、秋田書店の『週刊少年チャンピオン』に掲載されたコンテンツとで、何となく「らしさ」や「イメージ」が変わりません? 同じ小学館でも、『月刊コロコロコミック』はややジャンプっぽい印象ですし、『週刊少年サンデー』と『ビッグコミックスピリッツ』だと、後者は青年向けで微妙にチャンピオンに近い気もします。

また、「テレビに出た」でも、外で収録しているお天気コーナーで見切れたり、ローカル局の深夜番組に出演するのと、全国ネットのゴールデン番組やNHKの紅白に出演するのとでは、「同じ」とは言えません。

映画なら、東宝系か松竹系か、角川や日活系か、東映系かで上映される劇場も変わりますし、配給力にも大きな差が出ます。書籍でも、新潮社や講談社といった良く見かける文庫に入るのと、大型書店でないと見かけない出版社や隅っこに配置されるレーベルから刊行されるのとでは、「同じ」になりません。

供給力や戦略という点で言えば、今後は徐々に取り扱いが減るかもしれませんが、コンビニの棚に陳列されることを狙って書籍を出したり、玩具やイラストであればラムネをつけて食品としたり、カードやガチャガチャのプライズとして販路を広げるという手もあります。

メディアという話からは離れますが、コンテンツや作者に箔をつける賞レースも何となくの格付けがあり、芥川賞や本屋大賞、ノーベル文学賞と地元自治体の文学賞とでは、注目度に差が出ますし、所属する団体によっては、ルールやお作法が全く異なるというのもよくある話です。

チェスの話に戻ってみても、時計の有無や持ち時間によって、ゲームの性質が大きく変わってきます。早指しが要求されるゲームと、長考が許されるルールとでは別物と言えるレベルです。

対象となる相手も変われば、勘所やウケ具合も変化します。
「コンテンツは物体じゃない」と送り手が周囲の影響を無視したところで、コンテンツに対する印象や受け手は必ずしもそうではない、というのが事実でしょう。

Kingの威光は盤上限定

"Content is King."は揺るがないとしましょう。
中身が良質なら、コンテンツの中に引き込みさえすれば、その影響力はまさに王様と言えるかもしれません。しかし、ここまで述べてきたように、コンテンツの外やコンテンツが置かれる環境、注がれる器の影響も必ず受けます。

広義で言えば、"Context is Queen.”のクイーンと同等にコンテキストに含まれますが、「誰に」「何を」「どう伝えるか」を一所懸命考えてコンテンツを作ったところで、その外側にある要素、それを考え始める際の前提に、多大な影響を受けることになります。

つまり、チェス盤の上、ゲームの枠組みの中ではKingであっても、ゲームの外へ一歩出てしまうとそれより影響力が強い存在、Kingを超える要素も必ずあるとも言えます。

だからこそ、「建物の形を決める」の影響力は大きくて、単なるあしらいという意味でのデザインではなく、設計という意味合いでのデザインが重要になってきます。チェスやゲームにおけるデザインであれば、「何をどうするか」といったルールやボード、駒の動きや役割設定、審判も含まれます。

ゲームとしては「配られたもので、どうにかする」しかなく、後から「ああしたい、こうしたい」は難しいでしょう。事前に何を配るか、どういう形に設計するかの重要性が、多少は伝わったんじゃないでしょうか。

プロデュースを超えたディレクションはできない

コンテンツを作る上で、完全に自己完結する場合であっても、ディレクションやプロデュースは発生するでしょう。その際、プロデューサーの思惑や、プロデュースの際に与えられる材料や方針が「設計」となり、ディレクションはその範疇で行うしかありません。

そのディレクションの先に、Kingたるコンテンツが生まれるのであれば、コンテンツを生み出すはるか手前の段階で、どんなKingになるかが概ね決まってしまう、とも言えます。

あなたの送り出す王様が、余所へ出ていっても立派な王様であると認められるか否かは、着手する前、スタートする前から決まっているとなると、王様が恥ずかしい思いをするのかどうかも、送り出すあなた自身の手腕、考え方に全てが掛かっていると言えませんか?

「誰に」「何を」「どう伝えるか」が大事だからとそこだけに力を注ぎ、周りを良く見ずにのぼせ上がった頭で「良いコンテンツができた」と送り出したところで、王様が裸のまま恥をかく『裸の王様』を再現してしまうかもしれません。

"Content is King."であっても、Kingを取り囲む容れ物(=Container) は"Container is rule.”や"Container is judge.”、もしくは"Container is emperor.”であり、Kingでも抗えない存在、より強い相手として君臨します。それを理解した上で、"Content is King."に向き合いたいものですね。

今後も、独自目線の発想をお届けします

BBNは、王様である中身(=Contents)だけでなく、周りを取り巻く要素や、前提となる戦略や設計、伝える相手や期待される効果を考え抜き、王様が王様として君臨できるよう、忠実な臣下として全力で取り組んでいます。

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