2.「親になる/ならない」選択について
前回の記事から引き続いて、なんとなくこのnoteの雰囲気、毛色を認識していただければという思いの本記事である。
日本の少子化が叫ばれ始めて50年が経つ。ヒトという動物は、身体構造が女性のみ子を産む。
そのため、いつだって少子化の原因のフォーカス先は女性だ。そして、「女性の未婚化、晩婚化」がこの話題の初めには取り立たされる。日本において、女性の法的な結婚相手は男性に限定されるのに、だ。しかも日本社会では、婚前に子が出来ることを一種のタブーとして捉えているために、生殖の話の前提に「結婚制度の利用」の話が出てきてしまうのだ。
参考までに内閣府のとあるページを置いておく。
ヒト含め動物たちは、大なり小なり社会を築きその中で生きていく。動物の中でも特異的な社会を用いて生活する人間だが、子を育てる環境を整える責任があるのは、婚姻した出産適齢期の女性、または予期せぬ妊娠をした女性だけではないと筆者は思うのだ。
全ての性、年齢の人が、社会の一員として子が育つ環境整備に参加すべきと筆者は思っている。
その参加に、子の有無は関係しない。
さて、前置きが長くなってしまったが、この世には「親になる」という選択をした人と、「親にならない」と選択した人がいる。
日本では、幸福追求権と自己決定権、個人の尊厳に重きをおくこと、それらは日本国憲法にて国民に認められている。これらの権利は、誰にも侵害されることは許されない。
※蛇足※同性婚が法の下に認められないことを違憲とする判決が各地の裁判所で出されている。その違憲の根拠にもこれら権利が登場する。
先述の権利等から、「親になる」ことは何人(なんぴと)に於いても認められていると解釈ができる。そして「親にならない」ことも権利の下に認められていると解釈できるのだ。
「親になる」という選択については、「親」の定義とは何かという形で次回の記事以降述べていく。
「親にならない」という選択については「子を望むが、(様々な理由で)持てない」故からの選択と、「自発的に子を望まない、持たない」という選択は別物であると筆者は考えていることをここにまず述べる。
前回記事にも記載したが、一部の年齢層や性に限らず、全ての年齢層かつ全ての性の人々の中で、自発的に子を持たないと選択した人が後者であると考えている。そして、その自発的に子を持たない選択をした人々への風当たりが強いと筆者は感じているのだ。
この「風当たりの強さ」とは何なのか。一旦、語弊を恐れず筆者なりに言葉にすると、日本に存在する価値観としての【血縁のある子を持ち、その親となる努力義務】なのではないかと思っている。
とんでもないワードが出てきたと思われた読者の方がいるだろう。批判があるのは覚悟の上でひねり出した言葉である。この言葉が再度出てくるのは少し先の記事だと思う。
先述の通り次回からの記事は、「親」とは何かという内容が続く。
お読みいただきありがとうございました。
凡七