坂元裕二が紡ぐ物語「花束みたいな恋をした」

久しぶりに映画館に行って映画を観た。劇場で観たのは、去年のテネット以来。普段から足繫く映画館に通うほどの映画フリークではないが、それでも学生時代は毎月1~2本映画館で映画を観ていた気がする。そう思うと、社会人になってから全然映画館に行かなくなってしまったなと思ったり思わなかったり。もちろん、コロナの影響やネットフリックス・アマゾンプライムなどのコンテンツの拡充の影響もあるのだけど。それでも、やっぱり映画館で観る映画っていうのはいいもんだなと思った。なんとなく非日常感があるし、スマホを観ながらとかではなく真剣に作品を観る環境にあるし、音も大きいし映像も綺麗。月並みだけど。どうでもいいけど、本編が始まる前のいろんな映画の予告編の時間がすごく好き。あの高揚感を味わえるのは、映画の前の予告か、飛行機が離陸するときに一気にスピードを上げるときぐらい。ちなみに、予告編で流れていた作品のほとんどが日本の映画。実際、自分は自宅近くのTOHOシネマに行ったのだけれど、劇場で公開されていたのもすべて日本の映画。パンデミックをきっかけに海外映画の構造は大きく変わりつつあるんだなと思いました。そう考えると、日本は新作映画が公開されて、いろいろ制約はあるけれど劇場に観に行けるっていうのは割と奇跡的なんだなと感じます。

前置きが長くなりましたが、今回私が観に行ったのは、「花束みたいな恋をした」。菅田将暉・有村架純という、今もっとも客を呼べるだろう2人が主演を務め、日本を代表する脚本家・坂元裕二が完全オリジナル脚本を書きおろし。監督は、坂元とドラマ「カルテット」などでタッグを組み、過去作に「ビリギャル」などがある土井裕泰。こうやって見ると、主演の二人と脚本家・監督の関係性はこれまでに構築されてきたものがある。菅田将暉は坂元脚本のドラマ「問題のあるレストラン」に出演していたし、有村架純は同じく坂元脚本の「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」で主演、土井監督作の「ビリギャル」でも主演だ。そういった過去の作品から関係性を見ることもできるこの作品を私がなぜ観に行ったかというと、坂元裕二の作品が好きだからだ。それ以外に理由はない。私は坂元作品のすべてを観ているわけではないが、大体の作品は観ているはず。なので、今回は坂元作品でも、特に「Mother」以降のテレビドラマを引き合いに出しながら、すでに話題沸騰で興行でも鬼滅の刃の牙城を崩した話題作について書いていこうと思う。

まず、坂元作品のテレビドラマと比較して、この作品が大きく違うのは、主人公たちはいたって平凡な大学生で、それでいてドラマティックな展開や大きな事件は全く起きないこと。これまでの坂元作品のテレビドラマでは、育児放棄や少年犯罪、セクハラパワハラ、地方格差などの社会問題を背景に問題を抱えたキャラクターたちが中心となってきた。だが、今回の作品はいたって普通の大学生の二人で、就活を行っていく過程にあるポイントで若干のフックはあるが、本当にどこにでもいる人たち。坂元裕二はインタビューなどでも「少数派のために書きたい」的なニュアンスの発言をしていて、その発想だとそもそも今の日本に住む若者は弱く苦しい立場にあるなんていう捉え方もできるのかもしれないけど、今回に限って言えばかなりシンプルに恋愛の本質に迫る話を書きたかったんだと思う。そのために、できうる限りのバックボーンや劇的な事件などの展開、ノイズになる登場人物などを排している。2015~2020って、かなり社会問題への意識が高まって、そういった問題意識を押し出した作品なんかもたくさん発表されたと思うのだけれど、その時代設定で話を進めながら、全くそういった社会問題が前面に出てこないのがうまいなあと思う。主人公の二人の日常を描く中で、何となく就職活動の歪な形とか、資本主義社会のひずみとか、広告やIT業界のビジネス構造とか、自然災害とか、もちろんコロナも含め、さらっと入っている。けど、それが主のメッセージになっていないから押しつけにならない。現代を生きる若者を描く上で避けては通れない問題があるから、シンプルにそういった問題が物語の「パーツ」として入っているだけで、だから見ている人たちはのめりこみやすくなっていくのだと思う。そういう意味では、これまでのテレビドラマの作品は、そういった社会問題がメインテーマにはなっていないまでも、この映画よりは前景化していた。そういう作品を観てきた坂元作品ファンにとっては、今回の作品はかなり今までとは違うテイストにあると感じられただろう。ドラマや映画は登場人物が動いていく物語だから、作家の問題意識を前景化させすぎるともはやそれはドラマではなくて、NHKのドキュメンタリーみたいになっちゃうし、役者の演技も巧妙な演出も何もなくなってしまう。今年の正月にやっていた「逃げ恥」のスペシャルがその最たる例かもしれない。「逃げ恥」が連ドラでやっていた時より明らかな形で社会問題を前面に押し出し、もはやドラマではなく小学校の道徳の教材に使うような作風になっていったのも、この5年間での社会問題に対する世の中の意識が変化し、そういった主張を押し出しても受け入れられる、むしろその方が評価されるような風潮になっていったことも起因しているんだろう。前述したが、そういった変化があった2010年代後半を舞台にして、全くそういった問題を押し出さず、ただ物語を駆動させていく装置として社会の話を描いているのは脱帽です。

もう1つ、この作品の特徴になっているのが、溢れるほど出てくる固有名詞。身に覚えがある単語ばかりで、顔から火が出るような思いになりました。この作品って基本的に、主人公2人に自分を重ね合わせて観る人が多いと思うんです。そして、主人公の二人が好む音楽や書籍、美術などって多分観る人の大半が知らないものが多いんじゃないかなとも思うんですが、多分知らなくても感情移入して観れてしまう。で、主人公たちと似たような趣味を持っている人たちは、また別の感情が刺激されて妙な気恥しさを抱かされる。これめちゃくちゃブーメランですが、この作品に出てくるようないわゆる「サブカル」と呼ばれるカルチャーが好きな人って基本タチが悪いじゃないですか。自戒も込めてですが。みんなが好きなものには乗れず、アンダーグラウンドにあるものを愛でて、自分の支えにしている人たちってけっこういますよね。で、それがいつの間にかサブカルなんて言葉で括られるようになって。優れたポップカルチャーを一定のコミュニティーのものに貶めてしまった的な悪い部分があるとは思うんです、はい。それを坂元作品で、かなり意地悪な形で提示されてしまっているような気持ちになるんです。憎らしい演出。「この二人、めちゃくちゃ俺に似てるな、あ、でもめちゃくちゃ恥ずかしいなこの二人、こんな感じなのか俺って。でもいつのまにかこの二人の物語にめちゃくちゃ夢中になっているな、俺。」みたいな。言葉にしてみるとこういう感情のうねりを生み出されてしまってるんです。正直、僕も知らない作家とか本とかもあって、本当は内容を知っているとより物語とリンクしてくるんだと思います。

固有名詞の羅列によっては、普遍性も生まれます。とにかくリアルだし、時代を反映させるのにこれ以上ないツールになるからです。グーグルからも許可を取っていたのは驚きました。以前、テレビドラマでは「インターネット」みたいな感じで、ぼやかされていたので。日本の作品は、映画ドラマだけではなく、音楽でも極端に固有名詞を入れることを嫌いますよね。一方、海外の作品は、ラッパーなんかは車の名前とか、過去のミュージシャンの名前とか、バンバン出てきます。あまり産業のことは詳しくないですが、日本はタイアップや企業の広告などがカルチャー作品と強いコネクションが今でもあります。これでは、当然特定の固有名詞を入れるのに抵抗はあるでしょう。J-POPの曲を聴くと、なんとなーく抽象的な言葉を並べて、なんだか国語の教科書に出てきた谷川俊太郎の詩みたいだなって思ってしまいます。この過剰なまでの固有名詞の羅列は、きっとそういった日本の作品全般に対するアンチテーゼ的な意味合いもあるのでしょう。ま、これだけの固有名詞を登場させるのは、テレビドラマではできないでしょうから、テレビでできないことを映画でよりこだわってやられたのだろうと解釈しています。これが実現できるに至ったのは、もちろん過去の坂元作品の評価と無関係ではないと思うし、実現させる交渉を行ったであろうスタッフ含め、改めて、これまでいくつも傑作を生み出してきた故に勝ち取った作家としての自由性のようなものが一つ実を結んだ形なのでしょう。

最後に、身を切られるような思いになった終盤のファミレスのシーンについて。ここからはネタバレありますよ。ファミレスは坂元裕二の代名詞と言ってもいいですね。別れる話をし始める二人の前に、一回り若いカップルが現れます。その様子が、まるで昔の自分たちを思い起こさせ、二人は涙します。作品の流れの中で、有村架純演じる絹ちゃんは、出会った頃のように、好きな作品などの価値観で結ばれ、その部分をいつまでも大事にしようとした。一方、菅田将暉演じる麦くんは、大好きな絹ちゃんとの関係性を守るために、自らを生活のための労働の環境に身を置いた。目指すゴールは同じなのに対照的な場所に身を置いたために、二人には距離ができてしまう。昔の自分たちにようなカップルを目にして、絹ちゃんはおそらく「どうしてあんな風になれないんだろう」というような感情で涙し、麦くんは「あんな風にはもうなれないんだ」というような気持で涙しているでしょう。二人が理解しあえないながらも、同じ方向に進んでいくというのは、これまでの坂元作品にもありました。「それでも、生きていく」で瑛太は満島ひかりに「道は違っても、目指している場所は同じ」だと言った。「最高の離婚」では、瑛太と尾野真千子は、電車の対岸に座りながら、同じ方向に進んだ(役名ではなく、役者名ですいません)。それでいくと、今回はまっすぐの線が一瞬だけ、交わったのではないかなと思いました。一瞬だけ交わり、ただそれは時の経過とともに交わる点を通過し、どんどん別の方向へと延びていく。そんな構図に、私には見えてしまった。そして、最後、若いカップルの足元にカメラが行ったときに「うわあ」と思ってしまった。その二人は、麦くんと絹ちゃんと同じスニーカーを履いていたのだ。ここまで、本当に美しく運命的な物語のように二人の恋を描いてきたのに、最後の最後に、2人の関係も市場原理の中で、けっして偶発的ではなく選ばされてきた可能性があることをさりげなく示唆している。この展開の仕方はズルい。ズルくて残酷すぎる。この映画の感想をよく見てみると、麦くんが社会人になって、だんだん絹ちゃんとの間に距離が出てきてしまうっていうのがよくあって、それは本当にその通りではあるのだが、僕は別に麦くんの変化は仕方がないことだと思っています。新しい環境に適応していくっていうのは非常に重要なことだし、作品でもそこまで麦くんを悪い形では書いていない(女性から見たら、「麦くん最悪」って感じに見えるのかもしれませんが、、)。二人が離れていく直接的な理由はそこにあったかもしれないけど、最後のスニーカーに降りていくカットで、「ああ、この2人の関係自体が資本主義社会によって作られているものかもしれないんだ」というそこまで描いてきた美しい二人の話を180度ひっくり返すような演出のように私には思われました。本当のところはわからないけれど。

全体的に、不思議な映画だったけど、よくぞここまで残酷な資本主義社会を描き切ったなあと思いました。私は、同じ寮に住んでいる友達2人と観に行ったんですけど、劇場に見に来ている人たちはほとんどカップルで。これ見て、どんな会話をカップルがするんだろうと思うと、なんとも興味と怖さが入り混じる気持ちでした。これが今年、おそらくたくさんの若者たちに観られるだろうと思うと、少しゾクゾクしてきますね。これは、皆さん、是非劇場で観る価値のある魅力的で刺激的で、残酷だが美しい作品だと思いますヨ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?