映画『TITANE/チタン』に救われた話
この記事には映画『TITANE/チタン』のネタバレが含まれます
ねえ、チタン観た?
俺は二回観た。本当はもっと観たかったけど金がない。これからする話はしがないトランス男性がパルムドールを受賞したフランス映画『TITANE/チタン』を観て、めちゃくちゃ元気になったっていうもの。
この話をするうえで留意しておかないといけない(留意してほしい)ことがある。
まず、これはトランスジェンダーの総意ではないということ。俺はフェミニズムの勉強をしていないし、LGBTに関する勉強もしていない。これからする話は、俺個人の話でほかのトランスジェンダーを指すことは絶対にない。
そしてこれは映画評論ではないということ。映画が伝えようとしていたことをちょっとだけ映画研究の勉強をしている自分が読み解いた事とは別の解釈も含まれるので、そんなことが言いたいんじゃない!みたいなことは言わないでほしい。
俺の話を少しします。
俺の性自認は完全に男性である。しかし僕は女性として生まれた。女性の肉体を持っている。具体的には胸が膨らんでいることを指す。ペニスの有無はあまり気にしていない。胸が膨らんでいることが俺を苦しめた。だから俺は、俺が女の身体を持っているという意識が強い。
何度も言うようだが、これは他のトランスジェンダーには当てはまらない。俺は他のトランス男性が胸オペをしていないからといって女性だと思わないし、逆にトランス女性の胸が膨らんでいないからといって男性だと思わない。これは俺の話です。
男なのに服を脱いだら胸が膨らんでいる。服を着ている時も忘れらない。俺は胸が膨らんでいるんだ。
胸オペがまだできない理由は金銭問題でしかないのだが、この話は今はしない。俺は胸をとりたくてしかたない。
そんな俺が出会ったのが『TITANE/チタン』である。
ジェンダーが重要であるというのが俺の持論だし、たぶん世の中もそういうう考えが強いと思う。そんな世の中を反映させたような、置いてけぼりの身体性、だけど縋り付いてくるカラダ……文字通りボディホラー。身体が縋り付いてくるからパス度なんて言葉が生まれるのだろうし、俺はそれに固執している。
映画の中で主人公アレクシアは、失踪したアドリアンという男性になりすますために男性のふりをする。
髪の毛を無造作に切り、眉毛をそり、胸と少し出た腹(車との子を妊娠中)をテーピングでぐるぐる巻きにして、鼻を折る。
いくつかは殺人による指名手配の似顔絵が自分だとバレないため、いくつかは男性になるためにやっている。
見覚えのある事やってんなあと思った。アレクシア役のアガト・ルセルは完パスしているだろう。シス男性に見える。面白いのがアドリアンの父ヴァンサンの部下の消防士たちは彼をゲイだと思っているところなんだけど今は関係ない。
アレクシア本人のジェンダーは明確に記述がない。女性かもしれないし男性かもしれないし不定性かもしれない。ノンバイナリーかもしれない。
映画序盤、いやらしいほどにアレクシアの「女らしさ」(これは身体的にもジェンダー的にも)を見せつけてくるが、女であると決めつけて良い理由にはならない。身体が女性であるということが重要なのだと思った。つまり胸が膨らんでいるということ。(妊娠する可能性があるということ)こういうと生理のない女性は…とか言われそうだけどそんな話はしていない。
ジェンダーが曖昧な人物はもうひとりいる。アレクシアがなりかわるヴァンサンの息子、アドリアンだ。妊娠して大きくなった腹を楽にするためか、アレクシアはアドリアンのクローゼットにある黄色いワンピースを着る。そこに入ってきたヴァンサンは微笑みながら、少年のアドリアンが同じワンピースを着ている写真を見せる。「やっぱりお前は俺の息子だ」
異性装を好むからといってジェンダーが決まるわけではないが。これはマッチョな自分に固執するヴァンサンがそれを息子に強要しない印象的なシーンであり、アレクシアとアドリアンが近づいたシーンでもある。アレクシアは自分のジェンダーと関係なく、男性の格好をしているのだから。
これは親子愛の話であり、俺が救われたのはこの部分である。愛は必ずしも、というかたいていの場合美しくない。この映画にも前作『RAW~少女のめざめ~』にもその思想を感じるので、ジュリア・デルクノー(監督)も同じように考えているのかもしれない。だから俺はこの愛を全肯定しているわけではない。そこにはアレクシアとヴァンサンの弱さがかなり作用している。ヴァンサンは息子に、アレクシアは愛にすがっている。
いくつか風呂場でのシーンがあり、徐々に二人の間の距離が縮まるのが分かるのでどれもお気に入りだ。
特にバスタオルを体に巻いた(いつものさらしを巻いた姿ではないので、胸のふくらみも腹のふくらみもわかる)アレクシアをヴァンサンが抱きしめるシーンが好きで、ヴァンサンがかける言葉に思わず涙してしまった。
「お前が誰だろうと気にしない。お前は俺の息子だ。誰であろうと」
この言葉で、アレクシアはアドリアンになった。アドリアンになることで、アレクシアは愛を獲得した。
俺は息子になれたような気がした。
自分は男だと思っているのに、両親にとって娘であり、妹にとって姉だった俺が、息子に、兄になれた。そう思った。俺はこう言ってほしかった。誰かから、お前は息子だよと言ってほしかったのだと気づいた。
ヴァンサンは最終的にアドリアンとしてのアレクシアのみならず、アレクシアそのものまで受け入れている。アレクシアは出産間近に自分の本当の名を伝える。アレクシアとして愛を獲得しようとしたのか。母になる前に、アドリアンであることをやめた。キリストがマリアになった。
これは女から男に、男から女になる話ではない。アレクシアは息子でありながら、アレクシアであろうとしたのだ。性を超越しているのだ。(ジェンダーという意味でもセックスという意味でも)そんな作品で、俺が男であること、女の身体を持っていること、他者から男であると認めてほしいことを再認識するなんてちょっと変な話かもしれない。
これは余談なのだが、アレクシアがブラジャーをつけている様子は一度も出てこない気がする。素肌にタンクトップを着ている。めちゃくちゃイカしてるなと思った。だから胸オペをしないとはならないのだが、身体女性という呪いの鎖をなんとなく緩めてくれた。
アガト・ルセル自身も(ルセルのプロナウンはshe/her)たまにやっているスタイルだ。男は乳首を見せてもいいのに女は駄目なのかというフェミニズム運動があるという話を聞いたことがある。ルセルもフェミニストなのでそういうことなのかもしれない。めっちゃかっこいいじゃん。
俺が胸を隠す理由と彼女らが胸を隠さない理由は全然関係のないものだが、なんかすっとした。
消防士たちの前で女性的なダンスを踊っているアレクシアを目撃した後、ヴァンサンは思い悩んているような顔で腹に火をつけようとする。(アレクシアは腹を痛めるこの対比面白い)
アレクシアの胸を見ても息子だと言うヴァンサンだったが、これはどういう気持ちの流れなのかまだよくわかっていないので、あらためて考えたい。
まだまだ『TITANE/チタン』について語りたいことはあるが、またの機会に。興奮の中かいたので、駄文失礼いたしました。