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個人的な読書の起源と習慣について(1)
幼馴染みから「なぜ本を読めるのか」とひどく曖昧な、回答に困る質問を投げかけられた。
回答に困った私は、“本”なら誰だって読めると思う。もちろん、アナタも漫画を読む。それは立派な本であり、作品ではないかと答えた。しかし彼はそれに納得しなかった。
彼が求めていたのは“小説や文学”に対して、何故そこまで情熱的になれるのかという問いに対する答えであった。それならそう言ってくれれば良いのに。
私は答えた。
「本を読む習慣がない人間は、読む側は好きなだけ長い時間をかけて作品を読み続けていると思ってる」と。
彼は不思議そうに首を傾げながら手元に用意していたレモンサワーを喉に流し込んでいく。
アルコールで少し酔った彼の顔は、まるで真皮の内側から暖光ライトで照らされているように、熟した桃色を呈していた。
それは私も同じで梅酒ばかり仰いでいたせいもあり、体全体の血管に熱を感じる。それは足の小指から顔面まで全身を熱くさせ、しかしそれはアルコールのせいなのか、不意に生まれた本に対する議論の始まりの鐘に対してなのか、まだわからなかった。
彼は言う、
「でも、本って一気に読まなきゃわからなくならない?」
もちろん、読書という趣味に触れてこなかったからこそ、登場人物がごちゃ混ぜになってしまったり、物語が途切れ途切れになってしまい、本題すらも忘れてしまうなんてことはザラにあるだろう。
彼の言い分も理解できるし、実際慣れていなければそうなる。現実的な論だ。
私は言う、
「一気に読めたとして、ある程度作品理解にまで思考が回らないとその本がつまらないと感じてしまう。自分が面白いと思って買った本がつまらないなと思った時、人は2回目の挑戦をしなくなる。だから、少し合わないなと思った作品は日を改めて、敢えて期間を空けて読むのもやり方としてはある。」
「わかる、積み本?読みたいのに手が出せないんだよね、苦手とかじゃないんだけど」
「一気に読もうとするから。読書に慣れてる人でも最初から全部読み切れるほどの集中力を持ってたわけでは無い。読書は積み重ねでしかないから、1日5分でも10分でも1行でも良い。その本を触って、開く瞬間が楽しいと思えるまでは長く読む必要はない」
私がそう言い終えると彼は納得したように話を別の話題に切り替えた。
懐古
“読書が苦手”だと言う人は一定数いる。
かく言う私も、幼少期から高校生にかけては本に触れてきた方ではない。ただ、母が読書家で家には常に分厚い小説があった。
幼い頃、母はよく私に読み聞かせをしたいたし、学校に訪問して読み聞かせ会を企画運営していた。
母の読み聞かせに周りの子が喜び、最後までいい子で聞けたら手渡されるご褒美の手作り栞が嬉しかった。
学校の子たちに囲まれて嬉しそうな母の姿を見るのは嬉しかったけど、私の母なのにという嫉妬の感情を覚えた記憶がある。
ただ、家に帰れば母は私だけのもので、読み聞かせだって、みんなにではなく私にだけ、私の好きなものを好きなだけ読み聞かせてくれる。それが最高の優越感だった。
ここまでが絵本に触れた原体験。
記憶
読み聞かせで私が寝た後、母は読書をしていた。
当時は到底理解できない推理小説。
実家には東野圭吾先生の作品が山積みになっていた。
ある日、体調を崩した私は仏間で暇を持て余していた。家にある漫画は読んでしまったし、借りてきたDVDも見終えてしまった。当時はサブスク配信なんてものはないし、YouTubeは上の兄弟がいる友達の家でしか触れてこなかった。熱にうなされる訳でもなく、私はひどく暇に心労していた。
そんな時、母の本棚から出てきたのが東野圭吾先生のリバーサイド。
ちょっと難しそうだけど、読んでみようと思った。これを読み終えたら母ときっと楽しい話ができるだろう、私はそれだけを望んで小学生ながらに推理小説を読了した。
帰宅した母にそのことを伝えると頭を撫で、褒めてくれた「こんなに難しいの読めると思ってなかったよ、わからない言葉もあったでしょう?」
私は言った「わからない単語は辞書で調べながら読んだよ、全部ノートに写したから今度からはこれが私の辞書になるよ」母は驚嘆していた。
その嬉しそうな顔が今でも忘れられない。
ここから学生時代の出会いを経て私は文学に熱中していく訳であるが、今日はここでおしまい。