大森元貴「Midnight」がSAN値ゴリ削り曲すぎてしんどみ余韻から起き上がれない。
Mrs. GREEN APPLEさんを筆者が初めて知ったきっかけは、云年前のオフの日にぽちっとつけたテレビのBS放送で流れていたMV「Love me,Love you」。
声量おばけでメロディーと歌唱力の組み合わせが気持ちよくて、こういったポップで明るい曲は普段そんなに聞かないのに気付けば最後まで聴いてた。
聞き惚れた余韻が強すぎて最後にちらっと出てきたグループ名をちゃんと覚えられないままMVが終わってしまい、「青りんご夫人……和訳したら確かそんな感じの……」と朧気な記憶からYouTubeを検索。GREEN APPLE だけですぐに出てきてくれたのでとても有難かった。
そのままWanteD! WanteD! を聴いてファルセットのエグさにまたテンション上げて鬼リピ。しかしまだ他の推しに傾倒しまくっていたのといろいろ多忙でテレビそんなに観てなくて「こんなに上手い人もっと音楽番組で爆発的ヒットしてくれぇ」とフェードアウト。
その後弟の薦めにより炎炎ノ消防隊をYouTubeで観てインフェルノにハマったり年明けに子供向けのNHK特番でグリーングリーンをとんでも転調で歌ってんの見て再び圧倒されるも他の推し活で忙しかったためまたフェードアウト。
そして先月。音楽番組か何かでMrs. GREEN APPLEさんを母とたまたま観て、母が歌うっま……!と圧倒されている姿に「だべ?? 知るの遅いんよ」と内心ほくそ笑み、何歌っても上手い人よと薦める。……いや私誰目線だよ。にわかファンでしかないのに。
そして後日。仕事休みの日にWOWOWでMrs. GREEN APPLEのライブを放送していると母が教えてくれて、部屋の片付けを中断しテレビにかじりついて視聴。最初から最後まで衰えない歌唱力と音楽性の多彩さに圧倒される。3人しかいない衝撃を嘆くもすぐに払拭された。
そしてその余韻引かぬ間に、仕事場にようやくラジカセが届く。仕事場のラジオで最初に聴いた曲がMagic。
そして帰宅後、見てた音楽番組にMrs. GREEN APPLEさん登場。魔法にかかった。
そして仕事休みの一昨日、YouTubeで本格的にMrs. GREEN APPLEさんを追いかけ始める。最初に知ってから何年越しだよ。遅いよ筆者。あの時から追いかけとけよ。
そして一昨日の夜中。大森元貴さんソロプロジェクトの方の「Midnight」に、筆者は遂に出会ってしまった。
https://youtu.be/kfCXen5RqTU?si=3H_kY3CtRJY3Lbvh
ソロとグループの棲み分けの本質はこれか!
MV映像のあまりの衝撃に戸惑い、夏バテでしんどすぎて寝るも朝方早すぎる時間に目覚めてしまいまたMidnightを見返しまくる。コメント欄の歌詞を頭の中で何となく訳し、訳詞をググり答え合わせしながら何度もMVと一緒に見返す。
何度もリピートしてわかった。確かにこの曲はMrs. GREEN APPLE名義でリリースできないわ。こんなにも内省に振り切った作品となれば、老若男女問わないメジャー売れが最優先のグループ活動のうちの一曲にできないのは当たり前だ。刺さる人を選ぶにも程がある。個人名義のリリースにするしかないだろう。
バンド・アイドルなどジャンル関わらず、多人数単位から抜けてソロプロジェクトをするアーティストに対していつも思っていた
「なんでそれ元のグループでやれないの? 一人でやってるってだけでそんなにやってること変わらなくない? 何故にわざわざ一人になってまで……?」
への最適解が、筆者にとっては大森元貴氏だった。
バンドは社会に求められるグループ像のエンターテインメント表現、ソロは社会の需要という制限から解き放たれ個人そのものの感性を自己責任により具現化。そしてその両方がお互いの方向性の違いをより引き立て合う。ソロとバンドの目的をしっかり分けるって、こういうことなのね。
歌詞の主人公「僕」の無窮の孤独よ
この歌詞の主人公が大森元貴氏の投影なのかどうかは筆者にはわからない。が、どっちにせよ歌詞とMVどちらの内容に対してもとにかく不安と心配が募るばかりだ。
まず、耳を澄ませてわかる音の圧倒的少なさよ。この曲のメイン楽器は、言わずもがな大森氏の歌声。大森氏の声が楽器の大部分どころか八割。淡々と打ち続けるビートやベースに乗って大森氏の歌声の旋律が美しく情感とともに流れ、彼自身の表情の切り替わりすら楽器の一部となっている。
少なくとも、この曲において彼の笑顔は心からの喜びの象徴ではない。関節だけでなく眉の可動域も広い人だなあ。
もし歌詞の主人公イコール大森元貴氏なのだとしたら、大森氏はこの曲を作った当時、無窮の孤独にあり精神の限界に疲弊しきっていたのではなかろうか。
寂しさと切なさとやるせなさ、思いつく限りの孤独の類語を煮詰めてできた色とりどりの飴が蓋の縁までぎっしり詰まったキャンディーポッドのような作品だ。こんなにも華やかで色鮮やかなる孤独の映像表現に、涙が止まらない。
ダンサーがこんなにいるのに、この曲の主軸は「孤独」から一切ブレることがない。
誰も乗らないメリーゴーランド
たくさんの電飾が輝き、回転とともに主軸の鏡がキラキラと光を反射し、メリーゴーランドはただただ華やかに回り続ける。そう、淡々とぐるぐる回り続けるだけ。ゆるやかな時間の経過そのものを穏やかに楽しむためだけの大掛かりな遊具。
楽園には雨が降っていて、大人数のダンサーも大森元貴氏もメリーゴーランドの外で止まない雨に打たれながらただ踊っている。
このメリーゴーランドは歌詞の主人公「僕」の心の世界、真夜中にだけ運営している貸し切り遊園地のアトラクションであり、瞑想そのものの象徴だ。だからこのネバーランドにはアトラクションが他にない。そして僕の僕による僕のためだけの世界だから、チケットも乗車料もいらない。整列スタッフもいなければチケット売り場も必要ない。歌詞の通り「僕のネバーランドに遊びに来ない? 遠慮はいらないよ」と誘っている僕は、誘っている相手に金銭など一切求めていない。何かして欲しいと執着している訳でも束縛している訳でもない。孤独という病のワクチンとして、他の誰でもなくただ「君」に朝まで傍にいてほしいだけだ。
なのに誰もメリーゴーランドに乗らない。誰一人としてそこに興味を持っている描写もなければ、誰も僕と一緒に乗ってくれない。メリーゴーランドのすぐ外側で僕を囲んで一緒に踊るだけ踊ったあとは、夜明けを待たず僕たった一人をそこに残して全員が目も合わさないままあっさりと画面の外へ去っていく。
その結果に対して僕は癇癪を起こすことも失望もしない。待ってよせっかく来てくれたんだからもう少しここにいてもいいじゃないかと縋ることもない。ただただ背中を向けて去るもの追わず立ち尽くし、何の暗喩なのか無限の可能性を秘めた憂いの横顔を画面へ向けるのみ。
デジタルCDのジャケットでは大森氏たった一人がメリーゴーランドに乗り、虚ろな目でぼんやりと空を仰いでいる。誰も夜明けまで付き合ってくれない現状を嘆きもせず、このネバーランドに結局は自分しか残らないという結果を最初からわかっていたのだろう。心の孤独はただ自分一人で折り合いをつけていかなければならないものだと、本当は誰よりも理解している。
それでも、分かっていても寂しいものは寂しい。人は一人では生きていけない。
魅力に導かれただ一人惹かれている君がもし一緒にこのメリーゴーランドに乗ってくれる日がきたら、それは確かに何よりも幸せな瞬間だけれど。同時にそれほど大切な存在である君をこの無窮の孤独という重荷に束縛することになる。
そこまで大切な君だからこそ本当は、どこより深くて暗い奥底で理想の電飾に照らされるネバーランドに迎え入れてはいけない。だけどその君と番いたい僕の心は悲鳴を上げている。誘っておきながら、ワクチン代わりに傍にいてくれたらなどと身勝手に望んでおきながら、本当は最初から断られることだけを願っているのではないか。
誘っていいんだよ。断らずに乗ってくれたとして、一緒にいてくれることに罪悪感を抱く必要なんてないんだよ。後悔するとしてまずは思いっきり夜明けまで楽しんだ後で考えればいいじゃないか。かけがえ無い大切な君と僕の二人で真夜中のネバーランドも夜明けから次の夜までの現実世界も行き来して一生精神の旅を楽しめばいいんだ。ネバーランドで自問自答と瞑想に落ち込む僕のことを、どうか僕自身だけは否定しないであげてくれよ。
……そんな勝手極まりない憶測の風呂敷を筆者は脳裏に広げ、自分でもびっくりするくらい救いが無さすぎる解釈のあまり自分で自分のSAN値をゴリゴリに削って落ち込んでいる。
何やってんだ筆者。この記事が大森氏の目に留まらないことを祈るばかり。エゴサなどする暇もないくらいこのまま順調に売れまくって頂きたい。くれぐれも大森氏に読まれないでくれ頼む。こんなん読まれたら恥ずか死ぬ。
踊る背景のカラフルな空
MVの集合ダンスシーン2つ目、空の下シチュエーション。撮影裏動画ではグリーンバックになっていたスタジオ。背景の空が何種類かある。
ネオン街の上の空かなといったカラフルさから徐々に色の数が減り、黒い本当の真夜中になり、やがて朝を迎えようとしている明るい青へと曲が終わりに向かうにつれて少しずつ空模様が変わっていく。
主人公にとって、きっとこれから迎える光射す夜明けは真の救いではない。日中は「気が滅入るとわかっていてもやめられない瞑想のネバーランドから日常に逃げて紛れていられるつかの間」なだけで、日が暮れればまたすぐにネバーランドからの誘いがきてしまう。
誰にも干渉されず傷つけられることのない自由で気ままな主人公一人だけのネバーランドと、社会の歯車として携わり続けなければならない日常生活。どちらも削れない。この世は生きにくい。
棒ライトから先は、君でさえ誘えない深み
棒ライトが両側から大森氏を挟み、半端な奥行でライトが途切れている例のパート。あくまで筆者の個人的な解釈でしかないのだが、あれはネバーランドと現実世界の狭間なのかなと。
画面の外に向かって広がる棒ライトはきっとメリーゴーランドまで続いている。だが棒ライトが途切れているその奥、本当の闇には恐らく僕が君を誘うことはない。だってダンサーさんがこの場にいないどころか、僕すら棒ライトの奥に行ってない。
恐らく棒ライトが途切れた最奥の闇は、MV映像の前後、君の干渉すら許されない僕だけが入れる場所。
時々数名のダンサーさんが一緒に踊ったり踊らなかったり時に大森氏一人のみのカラフルな背景は、僕自身の感情や親交関係の象徴なのかな。僕には親友やソウルメイトと呼べる親密さの仲間は少ないのかもしれない。狭く深い対人関係の構築が性に合っているタイプなのかも。限られた数名しかあの背景で一緒に踊ってないもんな。歌詞の内容に合わせて朝日であろうライトから顔を背けるところから、何となくの解釈でしかないのだけれど。
カラフルお空背景→現実世界
カラフル造形物背景→親交関係と感情
メリーゴーランド→ネバーランド(瞑想)
棒ライト背景→僕の深層心理最下層手前
って感じの流れかな。正解ではないとは思うが。
以上。
こんな感じでYouTubeと音楽番組でしか追ってないしファンクラブ会員でもないバチクソにわかファンによる考察もどきの勝手解釈でした。ガチファンの皆様にとっちゃ間違いだらけであろうことは重々承知している。
わかっていても、解釈を進めるほかないほど余りにも衝撃が強すぎた。
去年の筆者へ。こんなネ申曲リリースされてるから観ろ。再生回数アホほど回せ。来年知って遅すぎたと後悔に泣く前に今すぐ観ろ。