【東日本大震災から13年】あの時、関西に居たからこそ。【ベガルタ仙台】
みなさまこんにちは。
今日は3.11。あの日から13年が経ちました。
早いですね。
私はその頃からすでに大阪在住でしたが、「関西に居たからこそ」の思いや行動を当時のツイートを起こしながらこのタイミングでまとめてみることにしました。
多分長文必死です。ご了承ください。
あの日。それから2、3日。
2011年3月11日。
私はこの年の1月から携帯業界に入り、イベントブースで携帯を売る日々でした。
3月は今も昔も携帯業界の最繁忙期。ほとんど休みない日々でした。
そして当日14時46分。
真上の照明灯がゆらゆら揺れること2、3分。今でも鮮明に覚えている。
震源どこだろ、と携帯を手に取って調べると
「三陸沖、M9.0」
この瞬間から仕事にならなくなった東北人は大阪でもそうだった。
一緒に勤務してた派遣スタッフにその場をお願いしてすぐさまワンセグをつける。
間も無くから映し出される幼い頃から知ってる光景が津波に飲まれる映像に言葉を失う。
居ても立っても居られず大阪に住んでる東北出身の知人に電話。
誰かと喋ってないと気がおかしくなりそうだった。
今でも本当に感謝している。
ワンセグの電池がなくなり、一旦身体は現場に戻る。
栃木に住んでる姉から両親の無事がメールで届いたのは帰宅して携帯を充電器に繋げた瞬間だった。
その日の夜の事は殆ど覚えてないけど、最後のツイートは地震から12時間後、午前2時49分。
そのわずか5時間後にはツイートしてるので多分殆ど寝てないということになる。
その後翌日には姉の家から電気復旧の連絡が。
とりあえずまだテレビの映像は見てないと言ってたので見て卒倒しないようには伝えたことを覚えている。
実家の両親と連絡取れたのはその2日後。
この親にして、この子あり。
何が出来るか。〜Jの絆〜
遠隔地にいる人間が必ずと言っていい程思うこと。
「被災地の為に何が出来るか」
特に被災地出身として色々思うところはあった。
実際関西宮城県人会の方ともやりとりし始めたのも振り返ればこの頃。
しかし物理的に簡単な状況ではないことは明白。
そんななかmixi(懐かしい)からこんなメッセージが。
なんと中国での試合を2日後に控えたセレッソサポーターの方からこんなオファーが。
ありがたい。
翌日朝にさっそくユニを手渡し。
中国の試合で掲げてくれました。
そしてそのタイミングで発売されたエルゴラッソ。
この前後からこの動画に全世界から激励のコメントが寄せられるようになった。
この「twisted」が震災からの復興の中で一つのシンボリックソングになって行ったのはベガルタ、Jリーグサポーターであればご存知かと。
3.29 ACTION for JAPAN
そんな折、29日に長居で行われる予定だった日本対ニュージーランドの試合が中止となり、代替試合として日本代表対Jリーグ選抜のチャリティマッチが行われることに。
ま、このツイートに賛同した人は見つからなかったのですが、同志をmixiで見つけてメッセージを送ったら返ってきました。
ということで協力することに。
その時の活動記録が記されたサイトがまだ残っていましたので詳細はこちらをご覧ください。
この記事の中にベガルタユニを着たスーツ姿のおっさんの後ろ姿が写ってます。それが私です。
この日は11時から14時までお手伝い→一旦仕事へ→キックオフギリギリに長居、という超ハードスケジュール。
この日は試合中、試合後関係なくベガルタユニを着てるだけで色んな人に激励の言葉を頂いた。
地元に住んでるわけではないのに。
Jリーグの、
サッカーの、
スポーツの力が繋ぐ絆の力を実感した日。3.29。
そして今、思う事。
あれから13年。
もちろん故郷への想いが変わる事はなく、気づけば関西宮城県人会の役員まで務めることとなった。(ボランティアですが)
故郷に大阪の人を連れていく時は必ず震災遺構に連れて行くようにしてる。
私も震災の翌月に実家に帰って被災地の惨状を目の当たりに見てきたが、実際のところ被災者ではない。
しかし被災地出身者として故郷に寄り添い続ける事は出来る。
13年前は変わり果てた故郷の姿がテレビに流れる中、仕事をしていた。
今は頑張っている故郷の姿に勇気をもらって仕事をしている。
622キロ遠く離れた場所から。
あの時も、今も、関西に居るからこそ。
GO 行くぞ仙台
俺たちと共に
Ready Go!
最後までお読みいただきありがとうございました。
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