「臨床とことば」を読み解く~「見る」以外の感覚を
子どもの頃、父(医師)が酒を飲むとよく「医者は科学者なんだ!俺は高尚な人間なんだ!」とクダを巻いていた。こんな時は、あまり楽しいお酒ではなかったようだ。
これを聞いても私には、医者イコール科学者というイメージが湧かなかった。同じ白衣をきていたとしても、子どもにとって科学者とは何か実験している人であって、聴診器をつけてポンポンと身体を触る程度のことしかしない父のような医者は到底科学者とみなすことはできなかった。今改めて考えてみると、これが医者でなく医学ならイコール科学と言えそうだ。
鷲田:(略)医学の場合でしたら、病気というのを「これは何病」とか、その人をトータルに見ないで、人間のシステムの故障と、ある一般性の中で見ればよいですね。
そう、医学とは人間について正常とその逸脱としての病気を研究する学問で、物質と物質の関係、現象と現象との関係を物質レベルで明らかにする学問だ。その医学を使って、目の前の患者さんを診て診断し治療するのが医者だ。
鷲田:先生の書かれたものを読ませていただいていつも感じるのは、いわゆる診るというのはたしかにある距離を置いた関係ですけど、先生のお話の中には音の話や匂いの話や、触れる話とか、聴くとか、単に距離を置いて見るのではなく、触覚性みたいなことがあるんですよね。
河合:本当にその通りですね。特に医学的な人は客観的なほうに力がかかっていますが、僕らはどんどん近づいていかないとだめだから、匂いや音、触感、そういうのはものすごく大事なんじゃないでしょうか。
ここでは、あえて「見る」ではなく「診る」と書かれている。そして診るというのは距離を置いた関係だという。相手の人間と距離を置く。人間関係を入れないで距離を置くことで、初めて相手を客観的に診ることができる。
でも、そうではなくてカウンセリングでは、どんどん近づいて見る、触れることが大切だという。そうはいっても視覚と触覚、全く違う感覚だ。相手に近づき触れることが見ることになるとは一体どういうことなんだろう。
そこのところを桑原知子さんはその著書で、カウンセリングだけでなく日本人においても、見ることは触れることに近いと述べている。
橋本はまた以下のように言う。「わたしたちは聞香とか聞酒とか、数量化(科学化)しがたい認識手段をだいじがる、ながい伝統をもっている。そのために、わたしたちの実験的な『見る』はおそくまで客観化、社会化せず、私的な経験である『さわる』を根本にしてきたといえるーーー『あひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり』」
「煮物の味をみる」「湯加減をみる」「エンジンの調子をみる」など、私たちは目で見るだけではなく、五感をつかって「見る」。(略)日本人にとっての、そして、カウンセラーにとっての「見る」ことは、むしろ「触れる」ことに近く、まるで「なぞる」ように見るとも言えそうである。
桑原知子「カウンセリングで何がおこっているのか 動詞でひもとく心理臨床」日本評論社
相手のこと、時にはその気配までもを全身で感じ取りながらトータルで見ることを、カウンセリングでは大切にしないといけないという。しかし、そこで見たものは数値化できない。なぜならそれは、テクノロジーではなくアートだからだ。そこから何が見えるのだろう。
鷲田:先生がアートとおっしゃってる個別的なものですが、ジャコメッティという彫刻家が、すごく面白いこと言ってるんです。(略)ジャコメッティが言ってるのは、一人の人を描き切って、描き切ったら、なぜかその顔は、誰の顔でもあるように見える。普遍的なところになる、と書いてらして。
個別を極めると普遍になる。もしそうなら、どんどん個別の沼にはまっていけばいい。でも本当にそうなのだろうか。これを実感できるのはいつのことなんだろう、と思っていた時、意外なところでジャコメッティの作品と同じようなものと出会った。それは能である。
夢野久作がその著書「能と何か」で、能とは「減って行く進化の形式」であると語っている。能では何かを表現するために、舞台装置やメイクや衣装で直接訴えかけるのではなく、今あるものを削ぎ落していくことで表現する。だから装束や仮面は、演目が違えど大体同じようデザインである。舞、謡、囃子も定型が多い。
だから能を好まない人は、能は何遍見ても聞いても同じことばかりやっているように見える訳である。ところが、能を見慣れて来ると、この何等の変化もない定型的な演出の一ツ一ツ、一刹那一刹那に云い知れぬ表現の変化が重畳していることが理屈なしに首肯されて来る。
夢野久作「能とは何か」青空文庫
例えばシカケという直立不動の姿勢から二三歩進み出て立ち止りつつ右手をすこし前に出すという極めてシンプルな動作と、次に足と手をうしろへ引いてもとの直立不動の姿勢に還るヒラキという動作、これだけでありとあらゆる表現が可能だという。それは、「自分がこうこうな性格のものである」であったり、「これから舞いはじめる」であったり、「悲しみである」「喜びである」「ここが大切な処である」であったり、と実に様々だ。
心を如実に見せ、又は山川草木、日月星辰、四時花鳥の環境や、その変化推移をさながらに抽象して観客の主観と共鳴されるなぞ、その変化応用は到底筆舌の及ぶ範囲ではない。
夢野久作「能とは何か」青空文庫
個別を極めて普遍に至った二つの芸術のように、臨床的な科学にも普遍に至る道筋がきっとあるのだと信じたい。