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「45歳独身狂う説」についての私見
ポンデベッキオ氏の「趣味は”45歳独身狂う説”を倒せるのか?」この記事を読みました。一晩(実際には読んだ後の1時間と、翌日の会社の行き帰り)で考え、人生にいきづまった独身中年の立場で思ったことを書いてみました。
ベッキオ氏の論じる内容から、私が重要だと思った所を3行にまとめると、こうです。
① 非婚者への風当たりは強い(だから結婚すべき)
② 人生の足りない部分を趣味で埋め合わせるのは危険
③ 結婚しても心から好きな趣味なら続けられる。むしろそのくらいのほうがちょうどいい。
中年独身者に必要なソリューション
まず、①については散々言い尽くされた話です。私からすれば、そんな事は百も承知です。ですが、その上でどう生きるか、ということが私のような、欠陥を抱えて、独身のままここまで来てしまった人間には必要なことです。だから結婚しろ、というのは何の解決にもなりません。では、ベッキオ氏の言うような結婚バフ、独身デバフ、とでもいうものがどれほどあるのか、といえば、私の経験からすれば、それほどのものか?というのが実感です。そもそも、顔を見ただけであいつは独身、などと分かるものではありません。また、職場においてもその人が独身か既婚かということを気にされるのはせいぜいそれこそ45歳くらいまでです。それ以降はそんな事を誰も気にしません。それよりは、それまでの仕事ぶり、職場における立ち振る舞いのほうがよほど重要です。既婚者でも、評判の悪い人間はいますし、その逆もあります。で、現実には評判の悪い人間は徐々に隅に追いやられるか、便利に使いまわし出来るヤツと思われて頻繁に異動を食らうのがオチです。とはいえ、現実にはそんな人間でも使わねば回らないのが実情で、クビにはなりませんし、周りもそれなりに空気を読むものです。まして、天下の往来でいちいち独身かそうでないかを見分けて差別的扱いを受けるというものでもないでしょう。確かに、親子づれやカップルがいい思いをする、というのは確かにそうですが、それは別に独身を差別しているのではなく、その人の善意や人情からやっている行動であって、こちらからコントロールできるものではありません。自分にコントロールできない事を他人に望むものではありませんし、それが無ければ生きていけない、というものでもないでしょう。あたかも、既婚にあらずば人にあらず、といわんばかりに不安をあおる事にどんな意味があるのでしょうか。もちろん、したい人は結婚すればいいですし、独身の若い人に結婚を勧めるのは合理性からいって納得できますが、非婚のデメリットをことさら強調して、不安をあおることはよいやり方とは思えません。独身者への無用な差別を助長するだけでしょう。
人はなぜ生きるのか 目的のために生きるのでは無い
②について
この記事でベッキオ氏の言いたいことの本旨はこちらだと思います。この指摘は非常に重要で、私もハッとさせられました。確かに、自分の人生に足りない何かを、何か別のモノで埋めよう、取り返そう、という発想は危険だと思います。なぜかというと、人生において、理想とする到達点があって、そこに至る為に生きる、という発想が根底にあるからです。ですが、そのような生き方はそれ自体が苦しいのです。一見、そのような生き方は人生の目的がはっきりしているように見えますが、実はここまでいったら満足、という限度が無いのです。たとえば、甲子園に出場して優勝するのが人生の目的、だとしましょう。じゃあ、甲子園で優勝したら目的はかなったからもう人生を終わっていいのか、といったら、そうではないでしょう。人生はその先も続くのです。しかし、そうやって夢をかなえた後、燃え尽きてしまって残りの人生どうしていいか分からず悩む、という話はよく聞く話です。東大受験でも、医者になりたいでも、プロスポーツ選手になりたいでも、一緒です。一度到達したら、その度に新たな目的を設定してさらにその上、ほかの人と比べて少しでも上に行こうとする、そのような事をいくら繰り返しても、決して満たされず、空虚を感じつづけるのです。人間の欲望には際限がありません。結婚しようが、子供がいようが、同じです。まして、その代わりに別のもの、趣味でそれを埋めようというのは、土台無理な話です。ベッキオ氏の言うとおり、趣味でそれを埋め合わせるのは無理、ということは同感です。
しかし、私のような独身者にとっての趣味が毒になるか薬になるか、ということについては再考の余地があります。私が、満たされない自分の心を救うために思い至った哲学、それが「人生に意味は無い」というものです。意味など無いのだから、思うままにやりたい事を自分で決め、そのために生きよ、という人生観です。その考えに立脚したとき、趣味は救いの手段となります。あくまで手段です。趣味にのめりこむのではなく、勤しむ、楽しむ、そのように付き合えば、趣味は意味の無い人生に意味を見出し、よき友となります。そうやって、ささやかな楽しみを得る事が、生きる気力をもたらしてくれるのです。「オタク」と呼ばれる人には、そうやって一日一日を生きている人も多いのではないかと思います。私もその一人です。もちろん、ついついただの暇つぶしにのめりこんだり、人と比べて競ってしまったり、強迫的になったり、迷う事はあります。簡単な事ではありません。しかし、その度に初心に帰り、自分を見つめなおす、その営みが人生です。そうやって、人は生きるものだと思います。
結婚も、趣味にすぎない
③について
②のように考えたとき、③のことについては特に私の考えとは矛盾しないと感じました。しかし、決定的に異なるのは、結婚とそれに付随する物事と、趣味を異なるものとして二元論で考えていることです。②に書いた私の考えに立てば、結婚とて趣味、好きでやることに過ぎない、と考えます。結婚も、子育ても、やりたくてやる趣味なのです。結婚も子育ても趣味も、人生の中のウェイトを決めてバランスをとって、両立するだけのことです。ただ、そのとき子育て、や婚生活が優先になるのは当然です。子育てが趣味と同じとはなにごとか、と思うかもしれません。私は結婚や子育てが遊びだ、といっているのではありません。結婚も子育ても、やり始めたら自分の都合で止める事はできないことであって、したくも無いことをうっかりやってしまうようでは困ります。それは理解しています。しかし、やるかどうかは自分で決める事です。その点は趣味と変わりません。そこに優劣はありません。
別の論点として、結婚したからといって、人生におけるあらゆる問題が解決するというものではない、ということは言っておきたいと思います。したければしたらいいと思いますが、その結果どのような事を責任として負うのか、本当にそれを自分が望むのか、自分とよく向かい合わなくてはいけないことでしょう。望まない結婚、出産をした結果、悲劇をに至った例は枚挙に暇がありません。結婚は何もかも解決してくれる魔法ではありません。
最後に
私がここに書いたことはいささか極端な意見である、ということは承知のつもりである。しかし、私は自分自身、まともな人間では無い自覚がある。狂人ぶるわけではないが、幼少のころから人前で話すことができなくになり、周囲とまともなコミュニケーションを取れないまま10代20代をすごした人間が、もはやそんな言い訳は通用しないと一念発起して就職し、ようやくつかんだ平穏、かろうじて人並みといえる境遇が今である。であるが、独身男性への世間の目はいまだ厳しい。だから、私は自分で私を救わなくてはいけない。考え抜いて、そうして至った哲学にもとづいた意見である。世の、私と似たような境遇、人生思うように行かずに問題を抱えたまま大人になってしまった人々に、自分を責めず、他人を責めず、堂々と生きて欲しい、というのが私の願いである。