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オリンピックと平和式典と戦没者追悼式

閉会を迎えたパリオリンピックでは、東京オリンピックと同様に、ロシアとベラルーシの参加が認められず、これらの国の選手達は、中立個人選手(AIN:Athlètes Individuels Neutres)として、国旗や国歌を掲げることなく大会に出場した。また、イスラエルに対する参加制限がなかったことについて、賛否が分かれているようだ。

これと同じような話が、広島と長崎で行われた平和式典でも問題となった。広島市ではオリンピックの判断と同様にロシアとベラルーシを除外しイスラエルを招待する判断をした。一方で長崎ではイスラエルも除外する判断をとった。それにより、ロシアとイスラエルを同等に扱うことに反発をし、全てのG7の大使(日本を除く)が式典を欠席する事態となった。

いろいろと立場があるのは理解できるが、平和の祭典や平和式典の参加国に制限をかけることを滑稽に思う。これを世界中の子供たちが見聞きすると思うと、みっともなくて恥ずかしい。

さて、平和式典では小学生が読み上げる「平和への誓い」を含め、様々な方がスピーチする映像をみた。声高らかに 平和を願うことは結構なことなのだが、私はそこに小さな暴力性が含まれているような気がして、なんだか少し心がざらつく思いがした。穿った見方をしてしまうのは、私の心の問題なんだと思う。そして終戦記念日である本日も、戦没者追悼式が行われ、その様子がネットで配信されていた。とくに注視をするわけでもなく、昼食をとりながら、繰り返される同じようなスピーチをなんとなく視聴していたのだが、長くはない天皇陛下のスピーチに心が洗われる思いをした。不正確かもしれないが、以下はその抜粋である。

過去を顧みて、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い戦場に散り戦火に倒れた人に対し、全国民と共に心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

教訓という表現はあっても、「反省」という言葉を使ったスピーチは他にはなかったと思う。反省することができるのは、当事者の意識を持ったものだけだ。その意識が欠如しているスピーチに、私の心がざらついていたのだとわかった。「全国民と共に」という言葉もとても力強いし、未来に対しても「願う」ではなく「祈る」という表現を利用するのも美しいと思った。

まさか、戦没者追悼式の配信を見てこんな晴れやかな気持ちになれるとは思わなかった。自分の心が平和になることが、世界平和のための小さな一歩につながると信じている。

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