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運命は止まらないのか?
夜十一時を回った自室は静謐を湛えていた。月明かりが理想的な角度で優しく入ってくるが、空気は少し淀んでいる。人工的な白のLED灯に照らされた机には綺麗に物が並べられているようだが、選別と分類が疎かになっており実用的とは言い難かった。その中でわたしは、沈黙を壊すまいと静かに椅子に座り、机の棚の上に置かれた、埃を被ったデジカメのレンズの辺りをじっと見つめながら考え込んでいた。
「しかし、こうもずっと目の前で深刻な顔をされるとこっちの方まで気が滅入るな」
「……」
「もう適当に埋めればいいだろ。そんな紙切れ、長い目で見れば何の拘束力もない」
「五月蝿い」
わたしの目下の問題は、今まさに目線を下げればそこにある、進路希望調査のプリントだった。期日は明日まで。そこには自分の名前だけが記されていた。十七年。何かを為すには十分な時間を生きてきた。しかしわたしは何も為さなかった。流されて生きてきた。今更急に"何者かになりなさい"と言われても、どうしたらよいのかさっぱりわからない。
「再来年に働き始める気があるか?ないなら"1.進学"に丸を付ける。俺はここ三日間ずっとそう言ってるぞ」
「……志望校はどうするの」
「パジャミコット大学とでも」
「そんな学校はないよ……」
「書いとけ書いとけ。そんくらいでいいんだよ。もう一度言うが、その紙切れにはなんの拘束力もない」
「そんな他人事のように」
「とんでもない。おれほど君と密接な者は他にいないだろう」
「なら少し黙ってて」
わたしの話し相手はデジカメだった。わたしが物心付いたときには既に机の上の棚にある彼と話す習慣ができていた。彼は常に気取ったような口調で気取ったようなことを語った。シルバーの光沢を発する(当然もはや発していないが)四面体のままでは無機質すぎる姿なので、彼と話すときにはスーツを着た青い瞳の少年を頭の中で棚に座らせている。彼は常に気取ったような顔で気取ったようにわたしを見下ろしていた。そうした方が似合うからだ。
括りとしては一応イマジナリーフレンドというのものが相応しいのだが、自分がなぜその手の想像をしなければならないのかについて、わたしには全く心当たりがなかった。空想に逃げたくなるほどの受難に遭った記憶もなく、粛々と何の変哲もない日常をこなして生きてきただけだ。ただ時折発生するこの会話だけが、クラスメイトとは少し違うところである。
「なら君は夜通しずーっとその辛気くさい雰囲気でこの部屋を満たしながら銅像のようにじーっと過ごすわけか?それは同居人として御免だな」
「あなたには分からないだろうけどね、あなたが紙切れと言うこれは今のわたしにはとても大きく見えているの。自分の数年後も全然イメージできないままここに何か書いてしまったら、それがこの先の人生を決定してしまうような気がしてしまう」
「フフッ、思春期の不安というのは逞しいな。ところで、君は自由意思は存在すると思うか?」
「……は?話題が唐突すぎない?」
「そんなこともない。先刻君が言ったのはまさに未来の自分の自由意思を否定するものだから、少し驚いたんだよ。君は決定論者だったのか、とね。確かに人間の脳ってのも物質の集合に過ぎないのだから、一体それのどこに意思が宿っているのかと聞かれると、返答に窮してしまう」
「そんな哲学めいた話知らないよ」
「ふむ、では字数もだいぶ使ってしまったことだし、少し問いを限定しよう。ずばり、『うわがき/いよわ』のMVの歌詞はどうして手書きではなく、打ち込みの活字なんだと思う?」
※これはいよわ曲考察記事です。誠に勝手ながら筆者の書きやすさを優先した結果、ダイアログ形式になりました。たぶんめちゃくちゃ分かりにくいので、質問・文句など受け付けます。
※全て私の独自解釈です、と言いたいところですが、今回は多くの方の多くの考察に影響を受けています。皆さんに感謝。
※長いよ。
活字の歌詞の前例
「……分かったよ。今日は随分突飛な話をする日みたいだね。でも言われてみれば確かに、いよわのMVは大抵手書きだし、不思議かも」
「やはり乗ってきたな。そう、活字の歌詞なんて今までにも数えるほどしかない。全部挙げてみるが、『週末のお天気』『昨非今是のイノセンス』『乙女を踊れ』『マーシーキリング』『水死体にもどらないで』『無辜のあなた』『AKUMA!』『大女優さん』『電脳学級会で会いましょう』『クリエイトがある』そして『上書き』『うわがき』だ」
「結構あるじゃん」
「しかしまあ、今回の議題でこれら全てについて熟考する必要はない。『水死体にもどらないで』までは単に初期だから、手書きのノウハウが確立していなかったからと考えて割愛する。無色透明祭参加曲二つも取り敢えずは考慮の外に置いていいだろう」
「じゃあ、『無辜のあなた』以降は『うわがき』に繋がるようなはっきりとした意図があって活字にしたってこと?」
「そう。試しに『無辜のあなた』で活字歌詞の該当箇所を一つ見てみよう」
![](https://assets.st-note.com/img/1726376361-guThnYpdeB5sPWQNbify4FX2.jpg?width=1200)
「『台詞をなぞった』か。この曲にはドラマを連想する歌詞が多い気がする。まるで無辜ちゃんとの関係はフィクションのことだって自分に訴えることで罪から目を背けようとしているみたいだよね」
「なるほどな、歌詞はドラマの中の出来事に見立てられている、と。じゃあ、その歌詞が書かれているものとは何だろうな」
「……台本とか?」
「そう、プロットだ」
「言い直された」
「筋書き通りに、ストーリイが動く。これをテーマにした曲が『大女優さん』だったな」
大女優も 愛の渦も
完璧なプロットで動く ああ
「そこに繋げたかったのね。あの曲でもラストで自分の人生が映画の中のものだったことが仄めかされてる」
あまりにも都合の良い筋書き、あふれ出る妄想、理想的に創られた自分。
言葉遊びの端まで吊り下げられた自尊心の塊。
「よくもこんな面白いものを作ってくれたな。」
思わず笑い声を出してしまった瞬間に、それが画面の向こう側から聞こえていることに気が付いた。
「『大女優さん』の妙味は、その『ラスト数秒のどんでん返し』すら自分の書いた筋書きに沿っているものになっているってことだと思うんだよ。理想の人生を書いた筋書きに従って生きてきたが、しかしその予測不能かつドラマチックなプロットは自分で書いたものに他ならない。それを見ている自分も、撮っている自分も、自分の掌の上で転がされているんだ。このパラドックス、まさしく『イカれた一人芝居』だと思わないか?」
「……なるほど?要するに理想の自分を脚本に描いたけど、同時にそこから逃れられなくもなっているってこと?」
「まあ、そのくらいでいい」
「理想の人生か……でも『無辜のあなた』の主人公『俺』は理想の人生を送っているようには見えないけど。改めて活字歌詞の部分は……」
「ねぇ、私達ずっとこのまま何処だって行ける気がするの。」
台詞をなぞった
嗚呼、俺はただその無垢な目をフレームで囲むことしか出来なかったんだ
「ああ、全く誰も幸せにならない歌だ、これは」
嗚呼、君の背に、指に、瞼に、針を突き立てられること
許せはしないが
もう既に俺は自分を殺すこともできない屑だった。
「二ヶ所とも、『俺』の無力さが際立っている印象だね。本当に屑な……」
「そう、そう、そこなんだよ。ここでは『俺』には事態をどうすることもできないかのような物言いがされてるんだ。まるでプロットに従う役者のように」
「いや、どう考えても『俺』の自業自得だと思うんだけど。『フレームで囲むことしかできなかった』って、常に浮気の罪悪感に付け回されながらでしか無辜ちゃんと一緒にはいられないってことじゃないの?それに『自分を殺すこともできない』だって、全く理性的じゃない自分の行動への言及でしょ」
「はは、確かに。しかし、あの男はそんな生易しい屑じゃ済まないかもしれないぞ」
ばれる
「どういうこと?」
「2番最初の歌詞を見て欲しい」
四季めぐれど 血はめぐらず 空の心臓が跳ねまわった
あと一回 あと二回 いや あと三回出会ったら終わりにしよう
「この後結局会ってるんだけどね」
「そして、この直前にMVに書かれた文章もセットで見てほしいんだよ」
大丈夫。単にあいつは俺に愛してもらえなくなることを怖がってるだけであの子との関係に気付きゃしないさ。前から鈍いやつだし。俺はちゃんと賢くやってるんだ。今日はあの子はどんな表情を見せてくれるのだろう。そう考えると自分がさっきまで抱えていた憂いがふきとんでいくような気分になった。しかしあの子にはまだ今の俺の状況について話していない。罪を二等分してせおわせるのは気がひけるが、どちらにしろもう戻れはしないのだろう。
「気持ちいいぐらいに開き直ってる……あれ?でも2番最初には一応無辜ちゃんと関係を断つことを考えてたよね?」
「お、分かってんじゃん」
「ウザい」
「『俺』の気が一瞬で変わったとは考えにくい。つまりこの間には何かしらの事件が挟まっていると推測できる。一体何だろうな」
「いやー……マキリちゃんに浮気がばれたぐらいしか……」
「じゃあそれでいこう」
「え?」
「この男はばれた上で再び無辜ちゃんに会いに行こうとしているわけだ。なるほど、血の通っていない程残酷な奴だ。しかもいざ無辜ちゃんに合えば、チャンネルが切り替わる、マキリちゃんのことなどすっかり忘れてしまうというな」
「いやいやいやいや、でもまだ無辜ちゃん生きてるし」
「浮気がばれたからといってすぐに殺しに行く方が常軌を逸しているだろ」
「……つまり、マキリちゃんは一度浮気を赦したってこと?」
「そうだ。しかもそこで、"もしまた無辜ちゃんと会ったら『針千本飲ます』"旨を宣告したんじゃないかと思うんだよ」
「え、予め言ってたの?」
「ほら、『針を突き立てられること』っていう言い回しとか、よく考えたら不自然じゃないか?まるで近く無辜ちゃんに針が突き立てられることが分かっているようだ」
「えぇ……じゃあそんな超過激宣言を受けて尚『俺』は浮気をやめられなかったってこと?」
「ああ」
「と、とんでもないね……」
「ここで、もし『俺』を弁護しろと言われたら、二通りの方法がある。一つ目は"無辜ちゃんがあまりにも魅力的で、どうしようもなかった"というもの。しかしこれは常識的に考えて無様な言い訳としてしか通らない」
「急に何の話を?」
「二つ目は、"これはプロットが決めたことなので、『俺』にはどうしようもなかった"というものだ。こっちはなかなか難しい話だ」
「プロットが決めた?ドラマはあくまで喩えでしょ」
「おれが言っているのは、ドラマの喩えというより、ドラマが人生で人生がドラマ、という感覚のことだ。この曲はそういうものとして捉えられる。とすると『大女優さん』と同じように、プロットからは決して逃れられないということも十分にあり得る」
「うーん、分かるような分からないような……というか、そもそも『俺』は『フレームで囲む』のだからカメラマンじゃないの?」
「『全員が演者で全員が観客』。大女優さんで如実に表れていたが、この手の曲には演者と観客、そして裏方までもが一体化しているような嫌いがある」
「あー、それはそうか」
お待たせしました、うわがきの話です
「さて、そろそろ最初の問いの答えが出たんじゃないか?いよわが活字歌詞を使うのはどういうときかっていう」
「そうだな、『プロット』についてまだ完全には理解してないんだけど、兎に角キャラクターがそれに従って動いているとき、改変不可能性を演出するために活字歌詞を使っているんじゃないかな。『上書き』でも『過去は、絶対に変えられないの』と言ってるし、『うわがき』の『油性ペンで書かれた筋書きよ』とも繋がる」
「ああ、おれもそんなところだと思うぞ」
「まああなたに誘導されたんだから当然なんだけど……」
「変えられない過去っていうのは、つまり筋書きなんだ。神のような何かが書いた、その通りに歴史が動くもの。人は役者なんだから、勝手にプロットを変えるのは、当然、許されない」
「救いがない……」
「『うわがき』はそういう話。ただ歌詞表記一つ取っただけでも、微塵の希望も見出だせないような曲なんだよな」
「……でも、この歌詞は過去の上書きに失敗した後の『私』の視点から語られてるよね。そこまで『プロット』に織込み済みってこと?」
「そう。『上書き』の字幕も活字であることを考えると、もしかしたら『わたし』が上書き技術で過去の改変を試みることすら、予め決まっていたことなのかもしれない。いずれにせよ、この絶望の叫びは『プロット』にとっては全然想定内のことだったんだ」
「じゃあ、歌詞を塗り潰しているのは?」
「無論『わたし』ということになるな」
「……確かに、納得だよ。初見のときから、あの塗り潰し方、なんというか、悲痛さが伝わってきたんだよね。どうしようもないプロットを、どうにか"なし"にしようとしていると考えると……なお辛い」
「そもそもそのプロットをどうにかするために上書き技術を使ったのに、『時間切れになってしまった』。その上自分はまだプロットの上にいるわけだからな。絶望しかない」
「ただ、それって『私』が自分で『私』の感情を掻き消してることになるんだよね?」
「ああ」
「とすると、あの歌詞は『私』の本心ではないということ?」
「……ふふふ、ではいよいよ本題に入ろう。ようやっとここまで来た。上書き技術とその下での世界の仕組みについてはもういろいろと考察され尽くされているようなんでな、ここではもっと明快でありながら複雑なことを俎上に載せたいんだ」
「い、今から本題ですか」
「問.『わたし』の心情を述べよ」
さようなら、したい?
「……歌詞に書いてある通りでは?」
「いやいや、君がさっき言ってたじゃないか。『私』は自ら自分の心情を否定しているわけだ。とすれば、そんなに単純な問題ではないぞ、これは」
「うぅ、じゃああの歌詞は本心ではないってことじゃん」
「いや、そうとも限らない。プロットに書いてあるということは、本来はそういう心情になるはずだったということだからな」
「てことは、自分の思いそうなこと
を意図的に打ち消してるとも言えるのかな。本心を認めていない、とも」
「本心、か……まあ取り敢えず歌詞を見ていこうじゃないか」
うわがき
「歌詞を見ていくのでは?」
「まあ待て。タイトルなんだが、最初に殴り書きのような感じで、ここだけ手書きされるだろ?」
「そうだね。とすると、『うわがき』というタイトル自体はプロットではないのか」
「つまりタイトルは『私』が意図的に設定したものなんだ。ひょっとすると、上書きに関する一連の物語は元来『上書き』という題を与えられていたが、この時点で『私』が改題を図ったのかもしれない」
「なんでそんなことを?」
「『うわがき』という語が指すのは、これから『私』が行う、プロットを塗り潰す行為のことなんだ。『上書き』技術で改変できるのは所詮『両手で掬えるくらいの質量ぶんのもの』だけだから、自らの『うわがき』によって改変してやるという意気込み、と言ったら変だろうか」
「……?」
「要するに、諦めたくないってことだ。だから自ら新しい『うわがき』を始めようとした。まあ今からこの話を延々としていくことになる」
さようなら
私に
「え、ここで区切るの?」
「そりゃあ、この最初の『さようなら』だけ特別だからな。ラスサビに入るまで、塗り潰されていないわけだから。見逃しがちだが、『私に』も残っているから気を付けろ」
「まあ確かに気になるけど……でもそうすると、ここは『私』自身認めてるってことでいいのかな」
「しかし、『さようなら』の対象は『私』に変更されていると読める。『無辜のあなた』でも同じような仕掛けがあったな」
「……ん?」
「これの解釈は、かなり後の方まで置いておくしかないな」
「えぇ……」
居残った愛しき青春よ
さようなら、さようなら
時間切れになってしまった
さようなら
あなたと色褪せた日暮れの停留所
さようなら、さようなら
私を憶えていますか
「まず一つ、留意してもらいたいことがある。一人称を見てほしい」
「『私』だけど、それがどうかしたの?」
「では、『上書き』での一人称は?」
「……あ、『わたし』だ。表記が変わってるじゃん」
「そう。同様のことが二人称にも言えて、『上書き』では『きみ』だったのが『うわがき』では『あなた』になっている」
「うーん、言われてみれば、なんで態々変えたんだろう?」
「俺が思うに、『プロット』はそんな細かいことまで考慮していなかったんだろうな。あれはあくまで客観的な記述だからな、人称ぐらいはアドリブが利いたということだろう」
「『上書き』の台詞もプロットだとすると、その些細な変更すらお見通しだったってことになって、だいぶ怖い話になるけど」
「あー、まあ『上書き』に関しては普通に読みやすさの事情で活字にしたっていう可能性も高いんだけどな。さて、改めて最初から見ていこう。まず、『青春』が否定されている」
「これは『あなた』に一人残されてもその世界を『青春』とは呼べない、みたいな感じかな。『時間切れになってしまった』は『上書き』でも口にしてるけど……」
「いや、そもそも『きみ』を引き留めようとしてる時点で『時間切れ』を認めたくないというのは見え見えだろう。同じことが『さようなら』にも言えるんだかな」
「あ、別れを認めたくないのか。『さようなら』と言ってしまったら、もう『きみ』に会えないと認めることになる」
「そう。おれはそれがこの曲の本質だと思っている。『さようなら』を連呼する歌詞とは裏腹に、『きみ』を喪う/喪ったことをどうしても認めたくない気持ちが『私』を支配しているように思える」
「はえー。じゃあ、『停留所』は、停留所の否定……?」
「それも後々考えた方がいいな。バス停まで掻き消される場面があるだろ?」
「……なるほど。じゃあ最後『私を覚えていますか』を考えると……"私を覚えていなくてもいい"かな。一応『きみ』を第一に思う言葉に読めるけど、なんだか『三十九糎』の『記憶も忘却もあなたの特権だから』に通ずるところがあるね」
「あー、確かにな……」
「反応悪いね」
「いや、あの曲はどうも苦手でね。まるで記録媒体たる俺の存在意義を問いかけてるみたいじゃないか」
君の願うストーリイはもうここには生まれない
うわがき
「ええと……?」
「再びタイトルだ。このタイミングで二度書きされてるだろ?」
「本当だ。さっきの解釈を踏まえると、『私』は『上書き』では『きみ』を救えないと悟り、それでも『きみ』を喪ったと認めたくないために『うわがき』を行ってプロットを否定しようとした、という話だったよね。となると二度書きの意味は、その新しい『うわがき』をより確固たるものにしようとしている、ということかな」
「まあそんなところだろう。『きみ』を救えない筋書きなんて望んでいない、だから別の物語を始めようとしたのかもしれない。二度書きはその物語への願望の表れ、訴えと言ってもいいな」
鳴いても戻らない蝉
張り付く髪 波際の香り
まだ揺れる
晴れても止まない雨に
潤う闇 強すぎる痛み
まだ揺れる
「蝉は戻る。髪が張り付くのが涙によるものだとしたら、涙を流す必要もない。『波際』が『水死体にもどらないで』繋がりだとしたら、自分のせいで死ぬ人が出ることもない。全部否定するとそんな感じかな。『揺れる』は……これそもそも何が揺れてるんだろう」
「いろいろあるだろうな。バスが揺れるのかもしれないし、時空の揺らぎかもしれない。あ、今思い付いたんだが大地ってどうだ?『きみ』の死因としては割とありそうじゃないか?」
「不謹慎だなあ。でもいずれにせよ、『きみ』の死に繋がるものを否定しているんだろうね」
「後ろ三つの名詞の否定だが、絶望することはない、ぐらいの解釈で全部通る」
脳をうわがきして
記憶をうわがきして
愛をうわがきして
後悔をうわがきして
今日をうわがきして
昨日をうわがきして
差異をうわがきして
かなしさをうわがきした
「これも全部上書き技術のことでいいのかな?だとしたら……過去を改変できない上書き技術に対する否定的な感情、癇癪かな」
「まあそれでもいいんだが、ここの『うわがき』の表記が平仮名であることにも注意すると別のものが見えてくる。これは『私』が始めた物語なわけだが、早速行き詰まりを感じたのかもしれない」
「このまま無闇にプロットを塗り潰し続けても希望は見えてこないって気づいた、と?」
「そう。更に言えば、そもそもプロットも『うわがき』表記を把握しているわけだからな。その圧倒的な決定力への絶望もあるかもな」
さようなら
あの日に投げつけた戻らぬ一言よ
さようなら、さようなら
蜃気楼になってしまった
さようなら
あなたの温もりと暫しの幻よ
さようなら、さようなら
私を裁いていますか
「『あの日に投げつけた戻らぬ一言』はケンカ別れの説が有力だけど、これが引き金で『きみ』がバスに乗ったとしたら、本当になかったことにしたい後悔だろうね。あと、ここの『さようなら』はたぶん過ぎ去った時間に対するものだろうから、それも今一度否定してる」
「蜃気楼や幻なんかではなく、現実に『きみ』を取り戻したい。しかし、『温もり』がなかなか曲者だな。これは実体がある証だから、現実と幻に同時に言及していることになる。プロットでは実体を諦めて、幻想としての生き続ける『きみ』にも別れを告げているが、否定すると幻想は実現するはずだ、といったところか」
「……同時言及は、単に自信が揺らいでいるんじゃない?『きみ』が本当に戻ってくるのかどうか」
「ははっ、そうか、なるほど、アリだ」
「なんで今笑った?」
「"私を裁かなくてもよい"となるわけだが、『裁かれる罪ならまだマシ』、逆に罪が重すぎると裁けないので、やはり自分の罪はとんでもなく重いと認識しているようだ。この辺りから絶望に傾き始める」
「好きだねえ……」
運ぶには重すぎたね
火傷の後の水膨れのように
ふくらんだ記憶
針を刺して
開くには厚すぎた
理科の教科書の裏表紙のように
ちぎれた自我が加水分解した
「運ぶにも重いなら当然『両手で掬えるくらいの質量ぶんのもの』にはカウントされないわけだが、それも否定。案外ここの重さは"罪の重さ"だったりしてな」
「『水膨れ』というワードが『灰色の靴』から持ってきたものだとすると、前に『嫌な時間に目が覚めた』とあるから『火傷の後の水膨れのようにふくらんだ記憶』は悪夢のことだと推定できるかな。トラウマを否定している。『針』は……」
「針を差すという行為は、記憶を固定する、焼き付けると読み替えることができる。なぜなら、あはっ、『嘘ついたら針千本飲ます』が意味するところだからだ」
「もう深夜テンションじゃん」
「深夜だしな。否定すると、悪夢の記憶から逃れたい、となる。次だ。手始めに『理科』からセレナーデを連想するわけだが、そういえば恋愛感情はあるだろうな。今まで触れてこなかったが」
「『アプリコット』内ではおそらく同級生の恋愛についていけない故の『セレナーデ』っていう表現になってるんだけど、この二人も結婚っていう歳では……あ」
「『私』は適齢期ぐらいじゃないか?『教科書』を『招待状』の意でとっても"人生の模範"みたいな意でとってもなかなか面白い。また『開く』の主語は結婚式にもなる。だか『私』は開けないみたいだ。十六年間、ずっと『きみ』のことを忘れられなかったのかもな」
「それを否定ってことは、まだ『きみ』との未来を諦めてないのかな」
「ロマンチックだが悲痛な話だ。問題は『ちぎれた自我』だが……」
「うーん……ん?もしかしてこれじゃない?」
![](https://assets.st-note.com/img/1734256874-zg8Xeaudft6ToIERJyFr7Q9m.jpg?width=1200)
「……つまり字面通り捉えると?」
「ほら、教科書の裏表紙って名前書くでしょ。だから『ちぎれた自我』は名前が離れたってこと。その下からは真っ白な下地が出てくる。どういうこと?」
「おい、丸投げするな。ただ、名前というのはプロットに通ずるかもな。一度決められてしまったら変えることはできない、それこそ結婚が例外かもしれないが。それを剥がすのは……いや、むしろこれは上書きするのとは逆なのか……あるいは、改変に成功した……?フフフ……」
「なんか急に別の話になってるね。ところで加水分解って何?」
「君は文系だろう。君の分身であるおれがどうして分かるんだ」
「それはもう死に設定では……」
結局プロットって何やねん
「さて、先程おれの口から興味深い呟きが出たわけだが、実は今まで散々最強最恐言ってきたプロット、改変できる可能性がある。そしてその例はもう出ている」
「えぇ……今までの話は一体……」
「まあ、改変というより加筆だな。もとの歌詞に新たな文言を加えることで新たな歌詞が成立する曲が、あるだろ?」
「……あ」
大女優もどきと言われたくないの
うずもれたまま、いつ
完璧なプロットで動くのですか
認められぬ再証言 覗き込んだ扉
鴻鵠飛び立つ窓辺に
私がいなくなってる 手紙箱の中
「1番サビとは逆だ。自分の書いたプロットは所詮大女優もどきになるものでしかなく、完璧には程遠い。今までの演技・嘘は修正が利かず、過去に逢うこともできず……鴻鵠飛び立つ」
「どんでん返しだね」
「いやあ、どうだろうな。結局『私がいなくなってる』のは変わらない。虚構を暴くだけ暴いた後、まあその虚構に私も呑まれてるんですがね、と自嘲しているようにも聞こえる」
「でも、よく考えたら『大女優さん』のプロットは『私』が書いているものなんだから、『私』が改変できるのも当然じゃない?」
「まあそう思えるんだが、この曲は『私』の定義・領域が厄介なんだよな。ちょくちょく言及してきたが、『私』は役者・観客・カメラマン・脚本家を一手に担っている。分裂していると言ってもいいかもしれない。だから『私』がプロットを書いているからといって『私』がプロットを改変できるとは限らない。今言った『私』は違う存在かもしれないからだ。実際『私』はプロットに振り回されているわけだしな」
「はあ」
「そういう反応になるんじゃないかとは思ってた。というわけで、もっと分かりやすい例を示したい。『クリエイトがある』だ」
「そういえば最初に出たっきりだったね」
「あの曲は、紛うことなくプロットを書く側の曲だ。『弱虫な私の最強の分身』を創作していく過程が歌われている。一つ注意したいのは、脳天のぞみの作者がいよわとは限らないということだ。今回はあくまで架空の創作者が脳天のぞみのプロットを書いたと見る」
「創作者がキャラクターの言動・心情の一切を決定しているという意味では、キャラクターがプロットに従っていると言えるよね」
「ああ。そして今回は、プロットが作られていく過程で作者による修正が度々行われる。MVを見てもらえれば、所々で文字が打ち直されている。それがつまり、作者によるプロットの改変に当たる」
「まあ作者なら普通に改変できそうだよね」
「翻って、作者でなくてもプロットが改変できる可能性が示されたのが『大女優さん』であるとも言える。やはり新しい歌詞の挿入という非常に回りくどい方法を採っているからには、直接back spaceを打てるような立場にはなかったということだろう」
「じゃあ、あの方法がプロットの抜け道みたいなものなのかな」
「そう。つまりプロットといえど、完全無欠ではない。さらに話を戻して、『加水分解』もその抜け道の類である可能性、ゼロではないと思わないか?」
抜け穴
「え、救いがあるの?」
「そもそもワードが具体的すぎる。どう考えても原義通りの使われ方ではないし、何か特別な含みがあると考えてもいいだろう。しかも、ラスサビの歌詞を見てくれ」
さようなら
わたしに遺された愛しき青春よ
さようなら、さようなら
時間切れになってしまった
さようなら
あなたと油性ペンで書かれた筋書きよ
頭の中
終わる歌が
ただ繰り返していました
「『さようなら あなたと油性ペンで書かれた筋書きよ』……プロットにさようならしてる!」
「そう。『終わる歌』の解釈も諸説あるが、もし『熱異常』のことだとすると、『終わる歌』が繰り返すというのは『熱異常』が流れ続ける、つまり『きみ』と別れることなくずっとバス停に居続けられるということかもしれない」
「うぅ、希望があったんだ」
「……言いにくいが、希望は塗り潰されたぞ」
「……あ」
「完璧な絶望が存在しないと言ったのは誰だったかな。なるほど、希望が一切ない世界というのはあり得ないかもしれないが、それはあくまで俯瞰したときの話だ。当事者の主観にしてみれば、一切の希望が見当たらないことだってあるんだよな。『私』は自ら救済かもしれない『加水分解』をも否定することで、本当の絶望の底に沈んでいった。いや、これは鶏が先か卵が先かみたいな話だ。本当の絶望を知ってしまったからこそ、救いを否定するだけの負の力が働いたのかもしれない」
「……いやでも、プロットに書かれたことは絶対だから、『加水分解』が取り消されることもないはず」
「あー、ややこしくかつ乱暴な話になるんだが、プロットは自分が『加水分解』されることまで予測済みだったわけだ。つまり自分が消去されることも織り込んでいる。ラスサビの『時間切れになってしまった』までと『油性ペン』の直前の『あなた』は予め消去される前提で書かれた繰り返しであると捉えると、歌詞の整合性がとれる。『あなた』と『筋書き』に同時に『さようなら』するのは普通に成り立たないからな、その矛盾も消去前提で考えると解消される」
「……あの、だとしてもそれも『加水分解した』というプロットに反しませんか……」
「まあ、結局そこに行き着くんだよな。まるでマトリョーシカだ。『大女優さん』の構造的矛盾にも繋がる面白い話だが、今回それは考える必要がないかもしれない。つまり、ラスサビに入る前にストーリイは終わっている」
世界を否定する
「終わっている?」
「ラスサビに入ると同時に、『私』はMV画面を全て塗り潰し始める。この行為の意味をよく考えたいんだ。ただ歌詞を塗り潰すだけではない、今までとは明らかにワケが違う。自分のいる場所ごと否定しているわけで、もっと言えば世界を否定していることになる」
「分かりやすく言ってよ」
「では結論から言おう。『私』は熱異常を起こしたんだ」
「何て?」
「いま、『私』が世界に終末をもたらした。そういうことだ。」
「……いやいやいやいや、なんで急にそんな話になってるの」
「背景色を見てみろよ」
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![](https://assets.st-note.com/img/1734675902-xAT4b3YOpeQ1uvC2BWfaMwZS.jpg?width=1200)
「うん、似てるけどさあ、あり得ないでしょ」
「あり得ないわけではない。『私』というのは世界にとって異質な存在なんだ。上書き技術を使うに飽きたらず、『うわがき』によって必死に過去を改変しようとしている。そしてそれと関係あるかは分からないが、プロットによって加水分解することも約束されている。なおかつ、その約束を破ったかもしれない。『神が成した歴史』に何らかのバグを起こすには十分にイレギュラーだと思うぞ。熱異常のファクターが分かっていない、そもそも熱異常自体どういう現象なのかも判然としないんだから、可能性はある話だ」
「いや、えー、納得できないよ。急にそんな壮大な話。第一、いくらなんでも展開に無理がありすぎる。それに一人の絶望が世界を巻き込んでしまうなんて、悲しすぎるよ」
「そうか、納得してもらえないか……まあ、MV画面全塗りには他の解釈も無いことはない。しかし……」
「しかし?」
「単刀直入に言って、考察としては倫理的に問題がある」
「これ以上に?」
うわがきの特異性
※ここから先は何でも許せる奴になった方だけお進みください。え、もうそういう人類しか残ってないって?
「まず前提を確認するためにも、この記事を援用して話すことになる」
「……」
「そんな微妙な顔をするな。生命時制表の概念がかなり有用なんだよ。『上書き』→『うわがき』の流れはこれに当て嵌めることができる」
![](https://assets.st-note.com/img/1734843559-ns9YH4PtlbeWFup6gTCLRxvK.png?width=1200)
「えーっと……bereavement(Getting Over)、になるの?」
「歌詞だけ見るならそうとも言えるかもしれない。絶望の中に『きみ』の死を受け入れているからな。しかし、プロットの否定解釈を採用すると、これは《bNGO》になる」
「ああ、『きみ』の死を超克するどころか、受け入れることすらできていないからか」
「一方件の記事では、《bNGO》として定義されている作品は数少なく、『赤色が怖い』『アダラナ』だけだ。尤も執筆者の主観が入っていることは確かだが、それにしても少ない。というわけで、二つとも歌詞を……見るのは長くなるから、結末だけ確認してみるか」
今日も、今日も問題は無いな いつも通りに、さあここで
Not at all Not at all 今はまだロンリー
いつか、いつか救いの日まで繋ぐルーティンワーク
だから は、は、は、は、は、は、息を乱すな、問題は無い
「『問題はない』って言ってるけど、取り繕ってる感、目を背けてる感がすごいよね」
「そうだな。『救いの日』を待っているし、完全に腐り切ってるわけでもなさそうだが」
大好きなあなたの幸福のため働きましょう
Ah!笑顔は不自然じゃないかしら?
約束された日々から逃げて 暗闇を選んだのね
大好きなあなたの幸福のため働きましょう
Ah!笑顔は私のもの
誰も気づきやしないままで しおらしくふざけるわ
何故か涙がでるけどさ
「『私』と『あなた』が同一人物の他人格だとすると少し複雑だね」
「『あなた』は『暗闇を選んだ』、そして『笑顔は私のもの』と言っているから、ラストで『私』が完全に体を乗っ取ってしまったんだろう。しかしそれはその幸福のために働くべき、仕えるべき人が"死んだ"ということだ。だから『涙がでる』んだろう」
「でもそのことには正面から向き合っているわけではなさそう。『赤色が怖い』といい、死を乗り越えられないというより、乗り越えようとしていないという印象かな」
「そこ、そこが『うわがき』とは根本的に違うところだ。『わたし』は絶望を眼前にしながら、『きみ』の死を乗り越えられない。これは最早新傾向といっても差し支えない。よってここではひとまず『上書き』『うわがき』を《bCnGO》bereavement(Can't Getting Over)と定義する」
「はあ。ところで、『1000年生きてる』以降の作品のことは考えなくていいの?」
「原則、考えなくていい。『1000年生きてる』の投稿と同じタイミングでいよわが出した文章、通称"光のオタクnote"を知っていれば話が早いんだが」
俺、光のオタクになったかもしれん|いよわ @igusuri_please #note https://t.co/aVK3BDtw9R
— いよわ (@igusuri_please) December 25, 2020
「……見れません」
「残念だ。俺も見ていない。伝え聞くところによると、"自作品の死ネタからの脱却"が趣旨だったようだ」
「あー確かに、21年以降キャラクターの死亡率は減ってるかも。いやでも普通に死の気配が全面に押し出された作品はあるよ。それこそ『熱異常』とか」
「そうなんだが、そうじゃない。決定的に違うところがある。つまり、消えたのは特定人物の死亡だ。近年死ぬのは専ら人類、破滅する世界に無力な人類、たった12年のうちにどんどん朽ちていく人類だ。或いは、語り手または相手の生死がはっきりしない場合も多いが、そもそも相手が誰なのかも分からない作品が増えている。想定していないのか、普遍的な"相手"ということか、はたまた画面の前の視聴者なのか。あと多いパターンは……思い出とその忘却、とかか?兎に角、『1000年生きてる』以降で特定人物の死亡が格段に減った」
「なるほど、それが死ネタからの脱却か」
「例外は、『上書き』『うわがき』の『きみ』『あなた』と『三十九糎』の『私』。おっと、どうしても繋がってしまうようだな。まあこの二つの物語の関係は検索すれば結構出てくるから、ここでは割愛だ。一つ言っておくと、『三十九糎』は《FD》に当たるな」
「あ、死ネタって、『きゅうくらりん』は?」
「……後程」
「それ回収されたことあったっけ?」
脚本家の椅子取りゲーム
「次に、再び『無辜あなた』の話に戻る。検討したいのはラスサビの演出だ」
「もう話したいこと話してるだけじゃん」
「前回のあらすじ。マキリちゃんに浮気がばれて最後通牒の指切りをした『俺』は、しかし自分の意思ではどうすることもできずに無辜ちゃんに会いに行った。そこでついに思い切った行動に出る」
「私、一番が良かった。」
涙と血がともに流れたような夜にかすかなささやき声が
俺の理性をけとばした ロマンの欠片もなくなったのに
君の顔は なんで 満ち足りてるんだろう
「無辜ちゃんに彼女がいることを伝えた場面か。無辜ちゃんも相当な人たらしだよね」
心臓にまた血がめぐった
2つ目は俺のすぐそばにあったよ 願う 騙す心で真に
今こそ最終回にしたい もうどこにも行けないから
「『心臓にまた血がめぐった』は『四季めぐれど血はめぐらず』と呼応しているわけだが、そうすると『俺』は人の情を取り戻したということになるな。無辜ちゃんに本当の愛情を感じた、ぐらいにしておこう」
「それだと、いやそうじゃなくても、『俺』の性格からして『最終回にしたい』はもう無辜ちゃんに会うのをやめるって意味だとは考えにくいよね。とすると……もしかして、マキリちゃんに別れを告げにいく、とか?」
「なるほど。だが穏当に行きそうにはないな。マキリちゃんと既に指切りをしていることから考えても、『俺』がそんな愚行に出るとも思えない」
「えー……じゃあ何だろう……」
「……恋愛ドラマの最終回っていうのは、基本的には恋が成就して円満に収まるか、失恋して未来へと進むか、どちらかだろうな。ところが今回は『どこにも行けない』。ハッピーエンドどころかビターエンドも望めそうにない。ならどういう結末が残るんだろうな。それは最悪のバッドエンドだろう」
「……し、心中?」
「さあ?MVではフレームが崩壊していくな。余りにも生々しい"最終回"だ」
鏡に写った自分と目が合った
なぁ俺達さ こんな顔で笑ってたっけ
鏡に写った自分と目が合った
嗚呼、地獄がそこに待っていたんだよ
「地獄って原義通り、あの死後の世界のことなのかな……」
「ところで、もし心中説を採用するとなると、それはマキリちゃんの計画には反する。ある意味では約束された針千本から逃げ切ることができるわけだ。決定権は、最後まで無辜ちゃんが保持したままになる」
「決定権?」
「ここまで『俺』の行動を規定してきたのは、少なくとも『俺』から見れば無辜ちゃんに他ならない。つまり無辜ちゃんは擬似的にプロットを書く立場にあったとも言えるんだ。その立場を、最後まで手放したくないのかもな」
「無辜ちゃんが心中まで導いたみたいな言い方だね……」
「そう聞こえたか?」
簡単に追い抜かれてった
私達が大丈夫なら良いじゃない
想う 騙す心で真に
君に願う幸せならもう ここには生まれない
そんな事 知ってたけど 嗚呼 止まれやしないよ。
「ここは巧妙なギミックだよね。歌詞を隠すことで、新たな歌詞が浮かび上がってくる」
「誰が隠したのか、誰がこれを言ってるのかを考えたい」
「主語が『私』になってるから、マキリちゃんか無辜ちゃんまでは絞れるけど……」
「どちらでもとれるな。マキリちゃんが言ったとすると、『俺』との歪すぎる関係を認めつつも、『俺』の幸せに関わらずそこから逃がすまいという強い意思を感じる。無辜ちゃんの台詞だとすると……心中説の方が解釈できるかもしれん。だが最終的にはプロットを書く権利はマキリちゃんに渡ったようだな。マーシーキリング成功だ」
![](https://assets.st-note.com/img/1735551199-387XleTbCywkg4VJhHtFuoDx.jpg?width=1200)
「そうか、ここも活字なのか。『無辜』が強調されるように打ち消されているのは、『俺』からの弔いのようにも感じる」
「ところで、ここでは心中説を採用してしまうと些か齟齬が生じる。一度死のうとした流れから考えて、『俺』がマキリちゃんの牢獄の中で生き続ける理由がない」
「……思ったんだけど、『マーシーキリング』の歌い出し『ねえ おはよう 外は雨』ってやつ、これって多分『俺』と無辜ちゃんが二人で寝てたところにマキリちゃんが上がり込んだ感じだよね」
「ああ、確かに?」
「二人が倒れているところに入ってきて、心中を直前で阻止したって説はないかな?」
「続けてくれ」
「だとしたら、マキリちゃんが『俺』と無辜ちゃんの罪を防いだってことにはならないかな?ほら、マキリちゃんはキリスト教徒だから、自殺は禁忌でしょ」
「なるほど……そうか、自殺されてしまったら、復讐を果たせない以前に無辜ちゃんが無辜ではなくなってしまう。それは何としてでも阻止したいことだ。なぜならそれは最後のプロットに反する。無辜ちゃんを無辜のまま殺すことで初めて計画が成功するわけだ」
「そ、そうだね。わたしが言いたいのは、『俺』が生き続けるのは、死んでも無辜ちゃんと一緒になれないからじゃないか、ってこと。無辜ちゃんが無辜なら天国に行くけど、『俺』は自殺したら地獄行き、そもそも"裏切り"をしているから天国に行きようがないんじゃないかって」
「うん?……ああ、最後の審判の話か。まあ『俺』がクリスチャンである証拠は無さそうだが、あり得ない話じゃないな」
「……なんでわたしこんなに心中説の立証に躍起になってるんだろう。自己嫌悪」
「いやあ、魅力的な案だと思うぞ。死というのは逃避の究極の形だからな。これ覚えておいてくれ」
「覚えることじゃないでしょ」
本当に否定したのは……
「『うわがき』の話に舞い戻ろう。この画像はラスサビに入る直前のものだ。読んでくれ」
![](https://assets.st-note.com/img/1735554646-PZI4avxtdQRbHgi1N7rpV2JG.jpg?width=1200)
「よ、読む?ええと……」
さようなら
私に
さ
ち
「最終的に残ったものが、新しい意味を示しているな。つまりこれが『私』の望みだ」
「意味ですか……さち……幸?」
「自らの幸せを願うぐらいの精神は残っているらしい」
「幸せってどこで出てきたっけ……『先立つ幸せをお許しください』……『幸福を祈ります』……」
「……」
「前者は置いていく側の幸せ、後者は置いていく側から見た残される側の幸せ。『私』の幸せって何なんだろう」
共に灰になる曲を書きます
まっすぐ伸びる高い声を辿って
会いに来ます
三十九糎四方の小窓に
きっと長い髪が垂れてきてくすぐったいんです
「最後の部分か。しかし創作論・ボカロ論が過ぎている。参考になるか?」
「ここ、置いていく側と残される側で視点が混濁してない?『会いに来ます』ってなかなかしない言い回しで視点が断定できない。でも主語は残される側って考えた方が自然じゃない?」
「『まっすぐ伸びる高い声』は『一千光年』のことじゃないのか?」
「『一千光年』の対は『三十九糎』でもあるけど、『熱異常』でもある。『上書き』では最後に『熱異常』が流れた。これは『わたし』が"進めない"象徴だと考えることもできると思う。『きみ』はバスに乗ってしまった……『私』から見たら、"抜け出した"んじゃないかな。そもそも『三十九糎』って置いていく側と残される側がありありと想定できて、二項対立が分かりやすい。『熱異常』と『一千光年』を統合したような側面もあるかも」
「よく分からんが調子いいな」
「『私』が熱異常側、『あなた』が一千光年側だとすると……『共に灰になる曲』、曲はプロット?プロットから真の意味、すなわち共に灰になる、を浮かび上がらせる……ねえ」
「どうされました?」
「このために散々心中説について考えさせたわけ?」
「いやー……そういえばあれですね、『上書き』『うわがき』の生命時制表による定義ですが、『加水分解』の否定を以て『私』が完全に絶望したとなると、別の表し方も考えられるのでございます。件の記事では"精神的な死(不可逆的な諦め)"という要素もありまして、これを適用すると《b_ldalo》bereavement(living dead after a loved one)とでも表すべき状態になるのですよ」
![](https://assets.st-note.com/img/1735788534-lNRKbU0SQmC41BkXgAaTE9JY.png?width=1200)
「あのさあ、それが新定義足り得るのは、《b_dalo》の楽曲が全部、精神的な死の後に肉体的な死が待ち受ける構成になってるからだよね」
「『うわがき』は違うんだよ。だって、作中で『私』が死んだと取れる描写があったか?」
「……確かに、作中にはそんな描写はない。でもわたしの中で、愛する人を喪い、どうしてもプロットから逃れることができず、絶望的な絶望の底に突き落とされて立ち直ることも目を背けることもできない『私』は、いま停留所に、世界にさようならを告げて、自殺しました」
「……君は初めて聴いたときから、心の奥深くではそれを感じ取っていた。今日、ほんの少しだけピースが揃っただけだ。端から見たら余程覚束ない、完成には程遠いピースかもしれないが、既に感じていたものを取り出すには十分な説得材料だった。何せ疚しい妄想だ。作中で暗示すらされない死の匂いを嗅ぎ取り、作中よりも悲劇的な結末を新しく付け足してしまった」
「……」
「しかし、もう一度言うが、死というのは逃避の究極の形だ。プロットから逃れることができるし、生きる意味を喪った世界から抜け出すことができる。最強の抜け穴だ」
「……メリーバッドエンドぐらいにはもっていけるのかな」
「ただなあ、その逃げ方は通用しないかもしれない」
「通用しない?」
「『きゅうくらりん』はくらりちゃんが上書き技術を使った後の話で、ラストにちゅうぶらりんしたのに起床シーンが挟まるのは正史……プロットの修正を食らったからだという説が既に提唱されている。つまりあの世界では、自殺が無効化される可能性がある」
「え、じゃあその時は絶望を抱えたまま少なくとも十六年間、生き続けなければならないの?」
「そうなってしまう。『うわがき』は突然の暗転に終わっているが、翌朝自宅のベットで目が覚めるなんてことになったら、余りに惨い、終わらないバッドエンドだ」
「……わたしは、そんな解釈は採用したくない。それならば死んでくれていた方がいいと願ってしまう。でもそんな願いは……もちろん、倫理的に問題がある。そもそも十六年あるのならまだ希望は……望めるのかな……」
「一度考え付いたら、自殺説からは退却できなくなってしまったか。さあ、ここに来て初めの問いがよりセンセーショナルになって返ってくる。過去は変えられなかった。希望は砕け散った。そのときに君は、『わたし』のまさしく決死の意思を汲むのか、それとも運命の歯車を回し続けるのか。これは最後には君が決めることだ。こんなプロットは君/おれが書いたんだからな」
まとめ
少し視界が眩んだかと思うと、彼の姿がデジカメに戻っていた。言いたいことが終わったようだ。こうなるともう話してくることはない。
気分は最悪だった。椅子から立ち上がり、部屋を一周してまたすぐに座った。彼はなぜわたしに、考えが独りよがりすぎるとずばり言ってはくれなかったのだろうか。
ボールペンを手に取ってカチっと音を鳴らし、徐に先端を自分の首に当てた。金属のひやりとした感触が伝わってきたが、間もなく体温と同化した。わたしは用紙に視線を落とし、ボールペンを走らせた。