「ひつじがいっぴき/Peg」とキリスト教と砂の惑星
私の筆が間に合えば、この記事の投稿日は7/21のはずです。全然8月とかだったら笑ってくれ。
今日7/21といえば、7年前の同じ日、かの有名な「砂の惑星/ハチ」が投稿された日です。
こんな言い方はあまり好きではないのですが、もはやボカロを聴いている人で知らない人はいないと言ってもいいでしょう。当時砂漠のように廃れていたニコニコボカロ界に、全盛期のヒーローが舞い戻って一石をぶん投げた作品。ミリオン達成最速記録は未だに破られておらず、まさに記録にも記憶にも残っている楽曲です。
そう、記憶にも。
この曲は余りにも後世のボカロ界への影響が絶大です。数々のアンサーソングが数々のクリエイターによって作られ、「砂の惑星」に対してどう向き合うか、また向き合わないかが、今なお多くの立場から表明され続けています。
(ニコニコがんばれ……)
砂漠に植えた林檎の木が実った、とも言えるでしょうが、むしろボカロを語るときに林檎を持ち出さずしては難しくなってしまうぐらいには、「砂の惑星」は作品というより一つの概念として、ボカロ界に深い深い爪痕を残していったように、私は感じています。
前置きが長くなりました。その強大な概念は、たとえばこんなふうに、不意に登場します。
「いつかやってくるのはSun goes down」
「Sun goes down」
「ひつじがいっぴき/Peg」は、見るからに創作の苦しみを描いた曲です。勿論作者の肩書きはボカロPですから、VOCALOIDとその文化に対する感情が入ってくるのは自然なことです。
また、Peg氏の過去作品の中にはもっと分かりやすく「砂の惑星」に噛み付いたものがあります。
「砂上の歩き方」、そして他の方々の砂アンサー作品に比べたら「ひつじがいっぴき」の砂要素なんて弱いものです。というか寧ろ、この曲には他に目立った砂要素がありません。
しかし私は、そのただ一つの砂要素の「使われ方」に対して激しい違和感を覚えてしまったのです。
それは、「サンゴーズダウン」を「いつかやって来る」ものとしている点です。
ここ最近の砂曲といえば、平たく言うと「無事林檎が実ったねー」というメッセージを付しがちなんですよね。
事実、ボカロ界隈を7年前と昨今とで比較したときに、「今の方が盛り上がってる」というのは統計で見れば間違いない事実ですし、反論を仕掛ける人もそう多くはないと思います。
しかし「ひつじがいっぴき」では、まるでまたすぐに砂漠の時代が到来するかのような事を言っているのです。
こいつは不可解だということで、詳しく考えてみることにしました。
※全て私の独自解釈です
※先に言っておくと、楽曲提供先であるプロジェクトセカイに関する話はしません。理由は私がやってないからです。
※記事のタイトルに「キリスト教」とありますが、私はその方面に関して全くの素人です。たまたま知ってた僅かな知識をもとにこじつけているようなものです。甘々な記述があってもご容赦ください。識者の方がいましたら、コメントでの指摘なども是非。
羊とキリスト教
もう一回該当歌詞を載せましょう。
ここにはひつじが百匹いるみたいですね。ここで、皆さんに知って欲しい話があります。
「見失った羊のたとえ」をご存知でしょうか。
聖書に登場する寓話です。内容はwiki先生を見てください。私にもそれ以上の知識はありません。
ここでは歌詞がこの話をなぞらえていると仮定して、何がどう対応しているのか考えることにします。
まずタイトルになっている一匹の羊ですが、これが逃げ出した一匹の羊=罪人とみて間違いないでしょう。
しかし歌詞を見ると、抜けているのはどうやら一匹だけではないようです。
……なるほど確かに、ニコニコボカロ界から抜けていったアーティストたちはここ七年でもそれ以前でも多く存在します。勿論それが罪になるわけがありませんが。
罪人と似た表現は、少し前の歌詞に登場します。
上のように、デスペラードは(特に西部開拓時代の)無法者、ならず者、アウトローという意味らしいです。
ところで、Peg氏はミュージシャンとしてもう一つ別の名義を持っています。それがヤマモトガクというシンガーソングライターなのですが、
前掲の歌詞と照らし合わせると、自分はまだボカロの世界から抜け出していない、抜け出せていないと考えているのかもしれません。
に対して、
「お前」に対する言及です。
「まだお前は徒党の一匹さ」に注目すると、「お前」は今は孤高の一匹ではない。
やはりこの曲は未来の話をしています。
「俺」は「お前」に声を聞かせて欲しいと思ってるんですね。
この部分は砂の惑星の「君が今も生きてるなら 応えてくれ僕に」という歌詞に対応したものと考えることもできます。
すると「お前」はボカロ界から出ていくわけではないのかもしれません。あと、もしもそのことを表現するのであれば、「通り越す」ではなく「出ていく」「抜ける」「逃げ出す」などといった表現を使う気がするんですよね。
これは一見「孤高の一匹」と矛盾しているように感じられますが、一旦置いといて、話題を変えます。
結局「お前」って誰なん?
ここで再びキリスト教が登場します。
イエス・キリストを表現する言葉の一つに、「神の子羊」というものがあるそうです。
長いね。私も正直全然読めてないですけど、どうやら人間の罪を背負ったイエスを、生け贄としての子羊になぞらえた表現みたいです。
生け贄も作中のどっかに出てきたと思いません?
スケープゴート。生け贄の意です。
しかしそれを直後に「知ったこっちゃない一人相撲」と、否定しているように見えます。
ここの歌詞は「俺」の心情パートで間違いなさそうなので、「お前」を子羊=イエスとする考察と辻褄は合います。
整理しましょう。
「お前」は逃げ出すという「罪」を犯した羊たちの「罪」を背負った生け贄である。つまりボカロ界に呪いのように残り続ける。
孤高の一匹とは即ちスケープゴートのことなのでしょうか。
たった一匹で、泥舟から抜けていった数多のクリエイターたちの穴を埋めるべく、彼らへの赦しを以て惑星の生命を維持し続けるスケープゴート。
……ここまで言ったらもうお分かりかと思います。
普通に考えて、「お前」とはVOCALOID(合成音声)のこと、一匹に絞るのであればやはり常に流れの中心にある初音ミクのことでしょう。
そりゃ孤高の一匹ですよ、クリエイターとはどう足掻いても「次元」が違うんですから。
これを歌っているのが、またPeg氏が歌わせているのが鏡音リンというところも、この解釈に深みを与えてくれるんですよね。
まとめ?
いや~、いいVOCALOIDイメージソングだ……
たとえいつかまた砂漠の時代が到来したとしても、そこには必ずVOCALOIDが残っている。あらゆる時間軸におけるあらゆるクリエイターの感情を包み込んで。
おそらくだいたいの歌詞はこの考え方をもとに解釈できると思います。もちろん全て推測の域を出ませんし、皆さんに考えを強制するわけではありませんが、この記事が解釈の助けになったら嬉しいです。
え、MVですか?
正直に言いますと、考察したくありません。
理由は単純です。展開が早すぎて追い付けないんです。何枚描いてんのあれ。全部拾えるわけないやんなんか一瞬だけ入ってる絵とか普通にあるし(早口)。
あと、どうも歴史に名を残している絵画の引用・オマージュがかなり多そうなんですよね。ところが僕は無知なので半分以上わからん。
さらに、Peg氏自身の過去作品のリファレンスもかなり多い。その全ての楽曲の意味を拾いきるのは流石に無理です。
しかし、世の中にはすごい人たちがいるものです。youtubeのコメント欄の上の方に出てくると思いますが、それらの既存の絵画・Peg氏の作品をまとめてくれているコメントがあります。
スクショ載せるのは避けますが、勝手ながらがっつり参考資料にさせていただきました。
ここから何をしようかというと、その中からキリスト教の宗教画をピックアップしていって、何か考察の足しになるものを探していこうというわけです。
……ない。
いや、宗教画、一枚も無いんですよ。
よくわかんないけどさ、歌詞に関して2000字以上キリスト教的解釈を書けたんだから、一枚ぐらいさ、なんか「最後の審判」とか「最後の晩餐」とかあってもよくない?というかあって欲しくない?
でも実際、MVの中には無いんだよ。こればっかりはしょうがない。素直に私の考察が頓珍漢だったということを認めて……
ん?
林檎がありますね
食われてますね。ワインも進んだようです。
林檎……禁断の果実……ワインはイエスの血……
「砂漠に林檎の木を植えよう」……
もうちょっと粘らせてくれないか
まずはMVの登場人物を整理してみましょうか。
「俺」
Peg氏本人の投影だと思われます。
ちなみにこの人ですが、
2番サビ前(「あっそ」と繰り返す部分)で、「俺」と代わる代わる写し出されるシーンがありますが、ここから色を変えると非常に似通った見た目であることが分かります(ただし目だけは明らかに違う)。
今回は「俺」と同一人物として考えます。作品から飛び出てくる描写もあるので、自身の作品の中で描いてきた「俺」の姿なのかもしれません。兄弟説?
羊
林檎を食べた直後に「俺」のもとにやって来ます。画材をもっているので、クリエイターでしょう。パーソナリティーな話かもしれないのであんま突っ込まないでおきます。
鏡音リン
カフェの店員でしょうか。そもそもMVの舞台がよくわからないんですよね。ところであのうさぎみたいな頭飾りは何。いやかわいいけど。
……こじつけるなら、羊の角をイメージしているのかもしれません。
林檎について
あくまでよく言われる言説というだけですし私の偏見も入っているかもしれませんが、次のように語られることがあります。
ハチによって植えられた「砂の惑星」という林檎の木は、時を経てボカロ界に豊かな実りをもたらした。それぞれ特有の魅力をもった数々の作品が生まれ、活発に評価されるようになった。こうしてボカロ再盛期が、愛の惑星が、楽園が訪れた。
ここでの林檎は作品の象徴です。それを「食べる」とはどういうことか。
「ひつじがいっぴき」のMV中では、Peg氏の過去作品からの引用が多くなされていると書きました。
林檎がPeg氏の過去作品を表しているとしたら、それを食べる描写と作品の引用がマッチすると思いませんか?
さらにキリスト教的解釈を踏まえてみましょうか。
聖書における林檎は、知恵の実、禁断の果実など多くの意味を持っています。
林檎を食べてしまうと、必ず死が訪れるようになる。善悪の知恵を得る。裸体を恥ずかしいと思うようになる。楽園を追放される。
自身の過去作品を総括することでボカロPとしての活動に区切りをつけようとしている、楽園を離れようとしているとも捉えることもできるのではないでしょうか。
見てくださいよこの清々しいお顔。
ワインについて
一方、前述したようにワインにも「イエスの血」という重要な宗教的意味があります。しかし、こうした意味でのワインは別のものとセットで語られることが多いのです。それが、「イエスの肉」たるパンです。
いずれも聖餐で弟子たちに与えられるものです。「でもMV中にパンなんて出てこなかったじゃん」と思った方が多いでしょうが、実は出てきているんです。もっとも、私たちのイメージするパンとはだいぶ形状が異なります。
こちらのシーン、
分かりますかね?トレーの上に何か平べったくて丸いものが積まれているんですよ。これが無発酵パンと呼ばれるものです。
実は、最後の晩餐で食べられたパンは無発酵であるマッツァーというパンだという説があるようです。
それを運んでいるんです。どこにかというと、「夜のカフェテラス」にです。
この場面でオマージュされています。
上のWikipediaを読んでみると、これもまた一説に過ぎないのですが、この絵はダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をオマージュしているのではないか、という話があるようです。ありましたね宗教要素。
もしそうだとしたら、「俺」はイエス役に扮して自分の肉を与えているということになります。
イエスの役をやる、VOCALOIDの役をやるというのは、どういうことか。
自分で歌う、ということではないでしょうか。つまり、シンガーソングライター・ヤマモトガクのことです。
パンは給仕し、ワインは自分で飲むという2つの場面を、それぞれ1番と2番の対応箇所で離して描いているというのも、身勝手な妄想ですが、示唆的に思えてしまいます。
すなわち、キリスト教的要素を敢えて避けているように思えるんですよね。
なぜ宗教画が一枚もないのか?
なぜ神のことを「お前」と呼ぶのか?
そのあたりの疑問も解決します。
仮にそうだとして、それが何を意味するか?正直よく分かりませんが、強いて言うなら、この文化は他のどの宗教とも相異なるものである、というかとを強調したいのかもしれません。
MV中には、羊の絵が2枚出てきています。
これらがまさしく「宗教画」なんじゃないですかね。
例えば、1枚目が「砂の惑星/ハチ」、2枚目が「ひつじがいっぴき/Peg」だとしたらどうでしょう。
「美しい夜」が何を指すのかは諸説あります。楽園と呼ばれるボカロ界をかもしれませんし、サンゴーズダウンした後のボカロ界かもしれません。自分で「神」をやってみたことで見えた新しい世界のことかもしれませんし、その経験を以てしてより一層特異に見えてきたボカロ界かもしれません。いずれにしても、明かしたいものなのです。他のクリエイターたちに目を向けてみても、果たして羊を数えて眠るように明かせるのやら。
まとめ(本当)
うまいこと全て拾いきることはできませんでしたが、ここから先は各々の解釈にまかせた方が粋でしょう。あと日付も変わってしまったので
結局、これからサンゴーズダウンが来る理由についてもよく分かりませんでしたが、その思考に至ってもおかしくないような、綺麗じゃない創作の呪いが垣間見えた気がします。創作者に非ざる私には、こうして示された苦しみの一片からその呪いがいかなるものなのか、妄想するしかないのですが。