「ころしちゃった!/夏山よつぎ」を推理する
この曲最高ですよね。めっちゃノれる。
でも歌詞見てるとノってる場合じゃん。いやタイトルから。
というかさ、
こんなかわいい子が人殺してるわけなくない?
ということでね、この子の無実を証明していこうと思います。
※この記事は全て僕の独自解釈です
なぞのうさぎ
こいつ。2回のみの登場です。
しかし他のうさぎはもふもふお口なのにこいつだけやけに口がはっきりしてます。
歯並びうさぎとでも名付けましょう。
さて、私はこいつが殺人事件の真犯人だと考えます。
いや、だって、怪しすぎない?
ここぞというタイミングで出てきてニヤニヤ笑ってるだけって。
黒幕に決まってます。
あと過去曲にも出てきてますし。(アリスのマジカルハッピーワールドでは多分売人やってました。他の曲にもいるかも。)
……え?歯並びうさぎが犯人である証拠?
あ、ありますよ。
逆にチャッタちゃんがやったっていう証拠がない
何を言ってんねん。最初の歌詞見てみいや。
なんちゅう分かりやすい歌い出しか。ころしちゃったって言ってるし。
皆さんそうお思いでしょう。でも、ここのMVの演出を見て欲しいんです。
ここ、チャッタちゃんの一人称視点と考えると、目を開けるときの演出なんですね。
つまり、「意識が戻ると目の前にはマミったうさぎがいた」という状況なんです。
よって、
歯並びうさぎが殺人
↓
チャッタちゃんを眠らせて死体の前に寝かせておく
↓
チャッタちゃんがころしちゃったと勘違いするように仕向ける
という時系列が成り立ちます。
いやさすがに目の前に死体が転がってても「自分が殺した!」とはならなくない?皆さんそうお思いでしょう(二回目)。
しかしあながち無理な話でもなさそうなんです。
チャッタちゃんの二重人格について
注目して欲しいのは彼女の目の色です。
最初の場面では黒かったのですが、次の間奏の場面では青く光っています。
その後も
Aメロ歌い出しで黒目に戻る
↓
一番サビで青に変わる
↓
二番に入ると黒に戻る
↓
「ああ、ごめんなさい」以降から青
↓
2番Bメロは黒
↓
「早く罰を下してくれ」の直後クラップが始まると同時に青に変わる
といったように、二転三転しています。
わざわざ描き分けているということは、何か意味がありそうです。そこで、青目の時の歌詞だけ抜き出してみましょう。
どう?
なんか幼くない?
少なくとも僕はインサイトとかルサンチマンとか歌ってる時とは違った印象を受けました。
「ころしちゃった」が平仮名なのも、単に観衆との対比というだけではなく、幼さの象徴かもしれません。
つまり、黒チャッタちゃんは自分の意識が無い時に青チャッタちゃんが殺人を犯したと思い込んでいるという説明ができます。
青チャッタちゃんの場面も説明できます。
1番サビは「ころしちゃった!」「嫌ァァァァ…」という感情でいっぱいになって夢の中でもフラッシュバックする場面です。ここで問題になるのは強い感情で、それは黒チャッタちゃんから青チャッタちゃんに引き継がれています。
逆に、死体にモザイクがかかっているのは、観衆を意識した演出、という解釈でもいいのですが、「黒チャッタちゃんの時の記憶が曖昧だから」とも考えられます。
2番Bメロは、押し掛けてきた記者(無数の正義)に詰められている場面です。「ああ、ごめんなさい」から青い目になっています。
これ、「なんかよく分かんないけど謝ったら許されるでしょ」っていう子どもらしい発想から出た発言に聞こえるんですよね。
こう見ていくと、感情が追い込まれているときに幼い人格の青チャッタちゃんに変わっているように思えます。
もしかしたらイマジナリーフレンドの類かもしれません。
最後の手拍子の場面についても、罰が下される直前ということで現実逃避しているわけです。
そういうわけで、二重人格のチャッタちゃんに歯並びうさぎが罪をなすりつけたというストーリーが成立します。
次は与太話です。
歌詞の小ネタ
冒頭の歌詞です。
最初は単に季節を暗示しているのかなーと思ってました。
でもよく考えると、蝉が鳴くにしては世界観が西洋すぎるんですよね。
よって、ここには別の意匠が施されていると考えるべきです。
殺人事件、ひぐらし。もうお分かりの方も多いでしょう。
登場人物が互いを疑いまくって罪をなすりつける話ですね!(無理やり)
観客の二重構造について
最後の部分です。ここは真犯人視点の歌詞だと思われます。チャッタちゃんを陥れる計画が成功してしめしめといった感じでしょうか。ムカつきます。
ここで、「烏合の衆」とは誰かを考えてみましょう。
MVを見ると、同じタイミングで「テレビに映された劇を見ているうさぎ達」が映し出されます。彼らを「烏合の衆」と呼んでいるのでしょう。
いや待て待て、烏合の衆って劇の中に出てきた無慈悲な大衆を皮肉った言葉だろ。皆さんそうお思いでしょう()。僕も最初はそう思ってました。
そもそもですが、劇中のうさぎと最後に登場するうさぎが違うものとして描かれているということを意識しましょう。わざわざ最後にこれまでと違う切り取り方で大衆を描いているということは、それ相応の意味がありそうです。
ここからは話が飛躍しがちになるので、「脚そ考」のマインドで読み進めてください。もうとっくにそう読んでるって?
最後に出てきたテレビの前のうさぎ達は、チャッタちゃんを主人公とする演劇を画面越しに見ています。作品を画面越しに見ている。つまり動画の視聴者である我々を表していると思われます。
じゃあ劇中に出てきた大衆は何なのか。簡単です。劇の登場人物です。
とは言っても、この演劇が大衆を風刺したものであることは明らかです。つまり、大衆役には大衆としての説得力が必要なのです。
さらに、わざわざ演劇がテレビで流されている様子がフューチャーされていることを考えると、この作品はステージの上だけで完結するものとは考えにくい。
ここから導き出される結論は、大衆の演者が実際の大衆である、すなわち劇を鑑賞している観客自身が劇の中での大衆の役にもなっているということです。
この演劇は、世にも珍しい観客巻き込み型の演劇なのです。ちょうど「ひぐらしのなく頃に」のように、第四の壁を破ることが一つの大きなテーマである作品なのです。
こうやって観客を巻き込むことによる効果は風刺としては絶大です。作者は観客自身を風刺の対象とし、彼らを嘲笑う。観客は気付かないうちに目の前の作品に嘲笑われる。
まあさすがにこんな演劇は現実的には無理でしょうけど。
話が飛びました。まとめると、演劇内に登場する観客は一般の大衆を表していて、かつ劇場にいる観客に一致する。最後に映し出されるテレビの視聴者は我々一人一人、画面の前のあなた自身を表しているという理解でいいと思います。
ここで重要なことは、歯並びうさぎの存在を認知しているのは我々だけだということです。
彼(彼女)が登場するのは先述した2つの場面ですが、どちらも観客には目撃されていません。
1番サビ前では彼はテレビに映されています。つまりテレビの前の我々しか知り得ないわけです。
アウトロ場面にも大衆=観客の姿は都合よく一人もありません。
視聴者たる我々と違って、明らかに怪しい役が、現場で見ている観客たちには見えていないのです。
かなり示唆に富んだ状況です。
現場のリアルを見ている観客たちは、「視野が狭い」のです。盲目なのです。
真犯人ははそんな観客たちを見て、歯を見せてしたり顔で笑います。こいつらは何も分かっていない。まったく大衆というのは馬鹿なものだ。物語はすぐにメルヒェンと化してしまう。
そして彼は、観客にその姿を見られることは一切無いのです。
歯並びうさぎは、劇中では間違いなく、大衆を巧みに利用した、文字通り劇場型の完全犯罪を成し遂げました。しかし、視聴者たるこの私の推理の前には、罪を隠しおおせることはできなかったようですな。
……しかし、まだ分からないことがある。動機だ。あなたはなぜ殺人を犯し、それを二重人格の少女になすりつけなければならなかったのか。それを教えてくれないか。
私がそう言うと、彼はぽつりぽつりと語り始めた。
「全ては……あいつが悪いんだ……」
裏方の存在
すいません、取り乱しました。
実は歯並びうさぎ以外にももう一人、なざのうさぎが登場します。彼(彼女)は2番サビ直前に一瞬だけ映ります。
さて、何をしているのでしょう。場面はチャッタちゃん処刑直前です。レバーのようなものを引いているようにも見えます。
ここで、一つ皆さんに紹介したいネタがあります。「殺す」という言葉の演劇用語としての意味です。
見てもらえれば分かるように、「殺す」というのは「舞台装置を固定する」という意味です。チャッタちゃんは役者という意味でも、歯並びのの犯罪計画においての意味でも、まさに舞台装置です。
さっきの影うさぎは、裏方でチャッタちゃんを「固定」している人です。裏方だからあまり映らないし、暗くてよく見えないのです。
裏方。演劇を演出する人。具体的には誰か。そう、夏山よつぎ張本人です。
アルセチカ、あるいはその他この作品に関わった人の可能性もありますが、少なくともこの作品の製作サイドです。
そして、彼こそが真犯人の動機です。
今私は、視点によっては当然のことを言ったまでです。すなわち、歯並びうさぎも役者にすぎないということです。
今まで私が得意気に述べてきた推理、考察、全ては「ころしちゃった!」という楽曲とそのMVに基づいたものです。そしてその作品は、夏山よつぎ・アルセチカがパソコンに向かって作業した結果です。
チャッタちゃんは人を殺した。大衆は何も考えず彼女を誹謗した。チャッタちゃんは大衆によって死に追い込まれた。
しかし真犯人は別におり、そいつはチャッタちゃんの二重人格を利用して大衆を操り、偽の情報に踊らされる大衆を嘲笑う。
以上のこと全ては、この作品の作者が企図したもの、あるいは私がその企図を読み取ろうとしたものでしかないのです。
観客の盲目を嘲笑う歯並び。そしてそれを「見抜いた」私。しかし私も、所詮作者の手のひらの上で踊らされているにすぎないのです。
この作品は、「偽の情報に踊らされる大衆を描いて大衆を風刺する演劇」を描いたものです。
そしてその視聴者もまた、「作品」という限られた情報からあーだこーだ言うだけの烏合の衆に過ぎない。
ここに観客の二重構造が真の意味をもって顔を覗かせるのです。
唐突で一瞬の裏方サイドの描写はしかし、このことを暗示していのではと、私は邪推してしまうのです。
しかし邪推したところで、それもまた作品の上で踊っているにすぎない。
完璧な風刺
もはや何を言ってもよつぎに嗤われている感覚が拭えなくなってきました。
もう一度言います。観客を巻き込むことによる効果は風刺としては絶大です。作者は観客自身を風刺の対象とし、彼らを嘲笑う。観客は気付かないうちに目の前の作品に嘲笑われる。
だからこそ、この作品は人気を得てより多くの人に届くことが重要だと考えます。キャッチーでクセになるメロディーがあってこその、そしてボカコレという規模の大きい大会で上位に入ったという実績があってこその、風刺音楽として非常に完成度の高い作品です。
また、これはまったく烏滸がましい以外の何物でもないのですが、僕にとってはこの考察を世に出すことを以て、作品が再び完成するように思えてしまうのです。