娘としての器
娘はきのう友達とショッピングモールに行った。
学区外なので付き添いが必要で、
私がモール内でコーヒー飲みながら読書して2時間程度の待機。
帰ってきてからいつものように、
嬉々として買ったものを見せてくれたり、
撮ったプリを自慢してきたりしていて。
ふと、渡したお金ほどの戦利品じゃないなと思い、
「お金、あまった?」と聞くと、
ううん、ほとんど使っちゃった…のこり200円とかならあるんだけど、
と言いながら目が泳いだ。
なんだろう、嘘をついているなぁ、と思い、
詳しく聞いてみていると、どうやらカギはゲーセンにありそうだった。
ゲーセンで1500円くらい吸われちゃった。と言う。
なにも取れなかったの?
うん。
めずらしいね。
うん。いろいろチャレンジしたんだけどね…
さては、1500円以上溶かしたか?
持たせたお金以外に自分のお金も持って行っていそうだし、
それが発覚することを恐れてこの子はようすがおかしいのか。
そう思って、それ以上は聞かなかった。
自分のお金に手をつけてしまったのなら、それは自己責任だし、
無駄なことした…みたいなのも勉強だろう的な。
そして今朝。
起きてまず娘の部屋に行くと、まだ寝ていた。
休みの日でも、体温を学校に送信しないといけないので、
いつも真っ先に熱をはかりにいくのよ。
寝ている娘の体温をむりやりはかって、
リビングに戻ると、プレゼントが置いてあった。
おかあさんへ。
いつもありがとう。
ゲーセンでなにも取れなかったってうそついてごめんね。
ほんとうはこれに1200円くらいかけました…
母の日プレゼントだった!
私の集めてる、ミッフィーのぬいぐるみシリーズの新作。2体!
これのために、目を泳がせて嘘をつき、
早起きしてセッティングして二度寝したんだ…
もっと言うなら、きのうのお買い物自体がこのためだった。
私は、お母さんにありがとうと言ってこない人生だったから、
娘にこんなことをされるべき人間でもないのに、
娘は、私にありがとうと言ってくれるの。
毎年胸が痛いし、この気持ち、なんだろう。
ありがたい、うれしい、なのに、当の私は実母になにもできない。
ありがとうと、思ってあげられない。
母を反面教師のように思って、
母のようになりたくないと思ってきて、
私は娘にありがとうと言われプレゼントを用意してもらえる母親になれたんだ、
ある意味成功じゃないか、と、考えられなくもない。
でも何か違うんだ。
娘をもって、娘という人間力を見せつけられているような、
私が娘として器の小さな娘なんだというような、
そんな気すらする。
母みたいになりたくないと思いながら、
母みたいなことをしたり言ったりして苦悩した日もあるんだ。
だから、母みたいなことをしたり言ったりした私にすら、
娘は、感謝をもってくれているということになって。
娘から、痛いほど思い知らされるよ。
私も、すべきことがあるなって。
明日、お菓子くらい持って、実家に顔だそうかなと思った。
近いくせに、いつも考えないようにして、
呼び出されるまで行かない私のことを、
わかっているだろう母のところに。
母の日なんて、あったね…くらいに振る舞ってきたから、
気味が悪いと思われるだろうけど、
きっと母は毎年本当は少し期待しながら、自省もしていると思う。
そのくらいの自覚はあると思う。
これでも、小学生のころに、少ないおこづかい握りしめて、
習い事の帰りに1輪だけカーネーションを買って渡したことはあるんだ。
喜ばれなかった記憶しかなくて、細かいことが思い出せない。
ただ、それきり何もしたことはなくて、
母が喜ぶことは、別のことだけだとよくわかった。
今なら母もわかってると思うけどね。
期待するほど、私はかしこくはなかった。
少しかしこいくらいだった。
そして何より、努力家じゃなかった。
持てる量でできる分でいいと思うタイプだった。
そのままを、そのままに、してほしいと思ってたなぁ。
私は娘にそれをやりすぎてよく、
「ねぇ、もうちょっと私に期待してよ」
とか言われちゃうけど。
私は子育てに向いていないとつくづく思う、
思ったのは子どもが生まれてからだ。
でもこの、見え方の違いを知るために、
私に、必要ではあったんだとも思う。
それをまたきょうも感じたので、
ここに書きにきたね。
最近、さして忙しくはないのに五月病みたいにボーッと過ごしてしまう日々が続いていたよ。
明日、実家に行くという一大行事を再スタートに、
ボチボチ活動的になっていかないと。
では、また!
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