鬱転した時には、自殺しなきゃあなりません。
愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。
最近まで、調子良いと思っていたら、それがどうやら躁だったらしくて、一週間前に鬱転した。バイト行くことが苦ではなかったのに、苦になったり、難しい文章が読めなくなったり、頭が朦朧としたり、自分でも何言ってんのか分かんなくなったり、楽しかったことが億劫になった。
盛り上がっている行為を見る。ノレない時がある。昨日はノレた。人生にはノレない。ずっと溺れている。
愛だけじゃどうしようもないよ。鬱は脳の機能障害で、病気なのならば、言葉で治るものではない(と一旦は断定しておく)。愛を希求したところで、そこに愛はあるのだから、それを拾えるかどうかだ。鬱になれば、拾うことも億劫になり、煩わしく感じるだろう。つまり言葉は鬱にとっては余計であり、余剰である場合が多い。僕は最近、生きる意義を考える人向けに色々文章を書いてきたが、それも不必要な言葉なのかもしれない。
鬱にとって言葉が余計であり、余剰であるならば、鬱状態は詩的だと言えることができる。鬱に晒されることは、詩に晒されることだ。同時に死にも晒される。鬱になることは詩を捉えることとイコールなのではないか。詩を読む時、人はタナトスに向かっているとも言える。ではタナトスは何への希求か、と言われると、永遠性だと想う。
詩は、人を、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである
案の定、ここを読んだ途端、全てが分かった気がして、必要な文章を読んでしまった気がして、やめてしまった。まあ僕が頭悪すぎて、文章を読む力がない、読む気もないからとも言える。
詩は世界と世界にあるすべてのものを明示すべきなのである。わたしたちにものを与えるためでなく、わたしたちからそれを奪うために。
これは同じことを言っているように思う。要するに詩とは五感の解放であり、五感を解放すると、その情報量の多さに死に向かってしまうのだ。と考えた。
という、ここで今まで書いた詩論は本当はどうでもよくて、というか人生において重要なことはほとんどなくて、ただ物事は現在を滑っていくので、気にすることはほとんどないし、気にする必要はない、ということは分かりながらも、脳が上手く理解していないのか、言葉で認知されても多分、心みたいなものが納得していない。僕はずっと表層意識と深層意識の矛盾が気にかかっていた。どれだけ言葉で繰り返すように納得させても、言い聞かせても、トラウマは無くならない。
鬱転した時には、自殺しなきゃあなりません。僕が何かしたか。何かしたのなら、直すから教えて欲しい。といじめに対していつも言っていた。と同時に正しいのは自分だろうとも思っていた。それと同じことを人生に感じている。僕が何かしたか。何かして悪いことが起きているのか。そうでなければ許して欲しいとさえ思うのだ。
今まで僕は「自殺志願者の自殺したい気持ちは肯定したいが、自殺する行為は否定したい」と言ってきた。僕自身、自殺することはいつだって正しい、と思うがそれを否定したい気持ちもある。それは自殺志願者も同じだろう。人は自殺を考える時、一人の身体で二つのことを思う。自殺をするのは行為としては間違っており気持ちとしても正しくない。その気持ちとして正しくないとするのは他人の目線であり、自殺する気持ちが間違っているとする、同調圧力だ。他者により自殺志願者は、二人に引き裂かれる。自殺したいが、自殺してはいけない。その矛盾が人を自殺に追い込むのではないか。と考える。ならば、自殺しない方法は自殺する気持ちを否定するのではなく、行為を否定するということだ。そうすれば気持ちの面で矛盾せず、抑圧はない。
今まで自殺した人たちをどうすれば肯定できるだろうと考える。上に書いたのと同じように、行為を否定して、気持ちを尊重するしかないのだけれど、それで何か変わるのか?と思う。そして僕は今鬱なので、自殺という行為は正しいと言いたくなるし、実際そう思ってる。どうすれば人は、不条理に抗えるのだろう。理不尽な傷みで死んだ人の安らかな眠りを祈れるのだろう。
今の大学一年生は震災の時、5歳くらいで、よく覚えていないそうだ。震災後に産まれた人も大人になって来た。どうすれば不条理に抗うことを伝えられるのか。知らない人に祈る行為を肯定させることができるのか。よく考える。
人が死んだ時、僕は祈る行為すら、烏滸がましいと思ってしまう。自分のためなのではないかと思う。他人が死んだ時、人のためになれなかった反省が、他人のために祈るフリをした自分のためで良いのか。他人を祈ることで、自分を許しても良いのか。考えている。僕はずっと何かに怒っているのだと思う。そして何かに抗っているのだが、何に抗っているか分からない。
この文章も自分のためで、誰に対しての祈りにもならない。僕はどうやって生きるべきか。君はどうするのだろうか、とよく考えている。