それで?(死にたいとして)それで何?
死のうと思ったことがある。
例えば、駅のホームで電車を待っている時、踏切で止まる時、信号が青で点滅している時、ふとした時。
虹を見た時や、タイムラインで可愛い女の子の顔が流れてきた時、星を見た時、詩を書いた時など、などなど。
僕は、「今なら安らかに死ねそうだ」と思った時、衝動に駆られる。飛び込み自殺なんて安らかな訳がないのに、今の精神状態なら安らかに逝けそうだ、と予感が不思議と何故かある。
けど死にたいことは珍しいことでもなくて、僕の知っている人たちは、大体、一生に一回くらいは、死にたいと思ったことがある。ただ、その頻度の多さに辟易としているだけ。流石にしつこいし、めんどくさい。
リストカットをしてODをする人がいる。首吊りをする人がいる。飛び降りをする人がいる。あの破滅願望は何だろう。僕は、安らかに逝けそうだという気配がない時は、その眼前にある死に対して、恐怖を覚えてしまう。ODなんて特にそうだ。僕は死と現実が地続きでない気がしている。大きな断絶があると思っている。だからこそ、自身が死んで行く過程を正面から捉えることはできないだろう。病気もそう。ODも、死に向かう過程ではないのか。怖くないのか。
勇気が欠如している。無謀でないから生きているとも言える。けれども欠如している勇気のせいで、怖くてできないことがいっぱいある。最大のできないことは自殺、だとして、残りは何だろう。多分、傷つくのが怖いだけだ。傷つくのが怖い。身体じゃなくて心が。だから人間関係に飛び込めない。飛び込んだとして、いつも怯えている。この人はいつ僕を拒絶するのだろうか。別に拒絶されても仕方のないことだ、と分かっている。けれども、人格を否定されるのはあんまりだ。別に構わないのだけれど、でもそれは大切でない人の場合、自分がどうでも良いと思っている人の場合だ。自分が大切だと思っている人には嫌われたくない、のは仕方ない。
にしても、僕はいつまで能動的に人を愛さなきゃいけないのか。いつになったら受動的になれるのか。それはまあ無理だろう。愛することは難しい。愛される以上に。けれどもその愛されるのが難しい。もうどうしようもない。
というかいつまで僕は弱者の顔をしているのだろう。本当のところ、この弱者のフリをして救われるのを待つ簡単な、自己憐憫的なムーブは脱しなきゃいけないのに、救いというものがあると信じて、だからこそ救われるような弱者を演じてしまっている。
かと言ってもう、誰かを救うのはやめにしたい。誰も救ったことがないけれど、誰も、何も言ってくれないけれど、やめにする。
じゃあ、僕のアイデンティティは?弱者のフリをし続けたら、本当に弱者になってしまった。どうすれば良いのだろう。このメンタルで、この男という性別で、シンデレラ症候群のままでいて良いのか。よくないとして、どうすれば良いのか。本当に、いつ誰が、僕のことをちゃんと見てくれるのか。
左川ちかが24で死んだと聞いて、ああそっか、もう有名人が、誰かが死んだ歳になったのかと思った。僕はドラえもんが好きなので、藤子・F・不二雄が死んだ歳までは生きると決めている。そして藤子・F・不二雄がドラえもんを描いた歳までは諦めないと決めている。けれども今のままで、どうしようもない今のままで、何がどうなるのか。全く分からない。
もう一度産まれたいという願望がある。胎内に帰りたいよりも、もう一度産まれたい。なぜそう思うのだろう。全てやり直したいからか、身体が、心が重く感じるからなのか。僕は長い間、眠っている気がしている。確かに生きているのに、生というものを実感しない。ある時期を境に、閉ざしてしまった感受性の扉の、鍵がなくて二度と開けない、ような。
死にたい、と呟いて、誰も助けてくれないとして、じゃあ全てに何の意味があるというのか。僕はもう、物事の意味づけすら疲れてしまった。兎に角、知らない誰かに助けて欲しい。とずっと思っている。助けて欲しい。
締め方が分からないので、最後に短歌を置いておく
無機質な天使の遠吠えのように春は勝手にページをめくる
僕はずっとこういうことがやりたい。意味わからない語を、意味分からなくても伝わると信じて、書き続けるしかない。そうだ。書き続けるしかないのだ。僕はこれまでもそうしてきたし、これからもそうするだろう。けれどもずっと、頭の中で「それで?、それで何?」という言葉が鳴り止まない。