人生つんでいるかもしれない(人の模倣について)
とっくのとうに分かっていたつもりなのだが、人生がまず、つんでいて、というのも私はパニック障害、躁鬱病(双極性障害)、不安障害であるから、何にしろ、私がする「人間がする行動」というものには精神的な障害が纏わりつく。今、フルタイムのバイトを休んでいるのだが、躁鬱が混合しているため、メンタルが死んでおり、しかし行動力はあるという状態の上で、パニック障害が被さってくると、もう終わっている。休んでいる理由としては鬱だからなのだが、混合状態のために行動力があり、しかしその行動したこと全てにネガティブが付きまとっている。鬱の割合も時間によって変わるので、全く動けないということもあり、その為にバイトに行けない。ストレッサーがバイトであるから、他のことをやろうということで、昨日は気合で『怪獣ヤロウ!』という映画を見に行ったのだが、閉鎖的な所がパニック障害と不安障害のために苦手なので、少し気が狂いそうだった。ぐんぴぃの面白さで耐えたところがある。その後、寿司を食べにいったのだが、パニック障害の吐き気が出て、これは飯のせいで吐き気が出ているのか、ただの体調不良なのか、パニ障が由来の体調不良なのか、とんと検討がつかない。電車に揺れて帰ってくる時も、これは乗り物酔いなのか、ぱにぱに(以下パニック障害はぱにぱにと略す)なのか、全然分からなかった。精神疾患の怖いところはこういう対象が実際のところ明確でない所にあると思っていて、私の場合多少軽度であり、身体も弱いので、ただの体調不良なのか、それとも精神疾患が由来しているのか、全く分からない。バイト中も度々、ぱにぱにが起こり、その度に抗不安薬を飲み耐えてきたのだが、このぱにぱにの要因も、酒を飲んでいたからなのか、カフェインをとったからなのか、どちらの原因なのかも分からない。(本当は酒もカフェインもよくないのだ)それとも、何の関係もなくぱにぱにしているのか。だとすれば人生もうぱにぱにするしかないじゃない。そう、バイトに鬱になっているのはこのぱにぱにへの忌避がある。薬を飲んでいてもたまにぱにぱにしてしまうので、まじで怖い。急に倒れるのではないかとか、それで迷惑かけるのではないかとか、ここら辺のネガティブな想像は多分不安障害由来のものではあるが、色々な障害が連鎖的に、或いは複雑に絡み合い、精神疾患の宝石箱みたいになっている。私は人と喋るのが苦手なのだが、躁の時は「アドラー先生も言ってたし、嫌われてもいいじゃん!」のメンタルで何でも喋れる。むしろ喋り過ぎると言ってもいい。喋ってはいけないことまで喋るし、口を滑らせて、色々な悪口を、(私の中では)理論的に言ってしまう。頭もよく回る気がしている。実際、詩を一か月で95篇くらい書いた時は躁だったと思う。鬱の方が良い詩は書けるのだが。まあ詩についてはどうでもいい。喋り過ぎるので、嫌われたりするのだが、嫌われるのが楽しくなっちゃっている所があり、鬱の時に後悔する。鬱の時は躁とは真逆で、人の機嫌を伺うことが多い。そして、ぱにぱにがいつ発動するか分からないので、薬は持ち歩いているが、病院行くにしろ何にしろ、鬱なので移動が億劫というまあ、面倒くさい状態にいる。
というか、鬱関係なく、小学生を卒業した辺りから、心の底から笑ったことがない気がする。というのも、私は見ているもの、感じているものが、やけに薄く見えるというか、表層で捉えており、表層で捉えざるをえない感じ、抑圧的なものを凄く感じている。どんなにその場が楽しいと表層で捉えていようが、深層の方は本当に楽しいのか、問いかけてくる(のを無視している)。深層はフィードバックみたいなもので、無視したものは遅れてやってくるので、その場限りは楽しいと言っても良い。しかし過ぎ去った後の虚しさよ。かといって表層的な楽しさに永遠にノることもできないので、というか過ぎ去るものしかこの世にはないので、その無常感をどうにかできないかと考えているのだが、どうやら思考を変えて、表層が現実であり、深層は存在しないと抑圧を強めるか、或いは表層であることを受け入れて、諦念の感で生きるかどちらかな気がしている。どちらにせよ、表層的な楽しさにメタ認知は入れない方が良いし、メタ認知している方が(仮に存在するとして)世界の真実に届いてる感がある。それで、表層が全てだと思っている、いんすたぐらむをしている奴を馬鹿にしたりするのだが、実際のところ、ノれるものはノっといた方が良い。むしろ、表層を信じ切っている、或いは表層と深層が直結している人間は羨ましくある。私はかなり初期段階で人生の波から落ちた人であり、もはや波に乗るすべはない。では、どうしたらよいか、色々考えた結果、「人間の模倣をやめるべきなのではないか」と思った。というのも、私の行為は大体模倣であり、この二足歩行も、他者がしている効率の良い進み方としてやっているだけで、「効率の良さ」にたどり着く過程を、考えずにすっとばせるのでやっているだけだ。私は他人に何かする時の方法を尋ねることがあるが、それは考えずに手っ取り早く行動に移せるからだ。短歌にせよ詩にせよ、文章は口調の模倣である。作り方も表層的な模倣にすぎない。或いは形式から逆算した精神の構築による模倣、精神から肉体(形式)への連結の模倣である。勉強とか、短歌とか上手くいかないのは、精神の構築が上手くいかないからの時もあるし、精神と肉体の連結が上手くいかない時もある。どちらにせよ、色々折衷していけば(オリジナルとは混合でしかないのだから)大体のことは上手くいくのだが、完璧な模倣を目指してしまうと、全く持って上手くいかない、というのは分かった上で、アドバイスは求めることが多い。それは単純に、精神を模倣するプロセスが楽しいからであり、精神が模倣できないと他者との認識の齟齬を感じて楽しいからである。この絶対的な他者性(実のところ他者も流動的、柔軟ではあるのだが)の確立において、文章を書くことは凄く良い。私は小説が書けないのだが、それは形式を精神に落とし込む時点で躓いているからであり、普遍的であろう小説の精神というものが、私には合わないというのが分かる。これを角度を変えて、小説的なものを書こうとすると意外と書けるのだが、大体が詩っぽいものになる。という試行錯誤が、形式から精神の模倣の点で起こるので、この場合小説を書ける人という絶対的な他者性が確立されて、人を尊敬することになる。まあ簡単に言うと「真似できないから凄いよね」だ。短歌とか詩とか読んでいると、それにぶち当たることが多いので、楽しいのだが、詩に関しては同業者なので、同世代を認めるわけにはいかず、困っていたりする。他者を認めつつ、プライドとして尊敬をしないスタイルが一番良いだろう。詩はその場限りの出会い的な文章が多いので、特に「この文章は書けないなあ」というのが多いが、「書いたところで」と思うのも事実である。大体が「書いたところで」であるから、未だ詩を舐めプしているし、実際、それくらいの距離感の方が良いと思っている。私は文章を読んでいて、完璧なものと遭遇したことがないので、書き続けられているとも言える。完璧に近かったのは村上龍と堀川正美、最近で言えば(ある一定の方向に置いては)杉本真維子か。といっても、文章は不完全の方が良かったりするので、詩はそういう不完全さも包含する限り完全にはなりえないので、まあ面白いと言える。短歌は完璧な短歌というものが存在する気がしている。それは「この状況を表すにはこの文章が最も適当」という意味で、それは三十一文字というルールがあるから、に違いないと思っている。
というのもどうでもよくて、私の出した結論として、「人間の模倣を辞めよう」が出た。模倣をすれば普遍性を手に入れたようで嬉しいが、ことに芸術に限っては、まあ意味のないスタイルである。私はとうに、詩においては模倣を折衷しオリジナリティを出すというのは過ぎ去ったので、次は0から1を作る番だと思っているのだが、これが中々難しい。大体のことは昔の人がやっている。完璧に模倣をすれば、また評価はされるだろうが、それじゃ意味がないし、そんなものはできない。短歌においては模倣すらできない。ので難しい。と思いつつ、0から1を作るのって楽しいよなって思う。勝手に考えていることとして、ぱにぱにしている時、不安障害の時って、0に晒されている時、或いは0から1を生む過程に起こる不安定さではないのか?というのがある。兎に角、私は人間の模倣をやめるので、社会的にアホなことをするし、抑圧を少しづつ弱めていき、変なこともしだすだろうが、それすらも、模倣だろうか?という疑念は置いて、死に直結しない限りのことは何でもやっていこうと思う。特に社会的な模倣として、バイトがあるのだが、これについても検討中である。というか単純に鬱期間は復帰できないだろうと考えている。この期間にクビになる可能性が高いし、いっそそうしてくれという感じである。そうしてくれた方が、私は私として完璧な肉体に成れるのだし、私は私として解放された精神性を手に入れることが出来る。少しづつ抑圧を弱めて行く作業として、人間の最も効率的とされている行為を疑ってみるというのもあるのだが、それは時間がかかるし面倒くさいので、肉体的な行為は疑わず、精神に比重を置きながら、まあ死なない程度に生きていきたいと思う。ここでいう死なない程度とは、死地が見えるギリギリのことを言う。というか、右の上下の親知らずだけ抜いてあり、左は両方残っている辺り、人生に置いて左に偏るのも仕方がない。