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「書く」ということ

先日、久しぶりにnoteに文章を書いた。同時に自身のnoteの下書きページを見てみると、2020年の下書きが残っていた。

当時の悩みや考え事が書かれていたのだが、そこから4年後の未来の私からすると「そんなことで悩んでいたのか」と思わず吹き出してしまいそうなものばかりだった。

確かに4年前は、先の見えない真っ暗闇の中にいたことを覚えている。自分自身の醜さや弱さ、愚かさに頭を抱え、目の前の現実から逃げ続けていた。

とっくにその闇からは抜け出してはいるが、その時の八方塞がりな感覚を久しぶりに思い出すことができた。

これは当時の写真や動画を振り返っても決して思い出せないもので、自分が書いた文章でしか確かめることができないものだと思う。

文章にはその時の温度感がハッキリと残っているのだ。悩みの足跡が、迷子の言葉が、稚拙な考えが、書き殴った熱がそこにある。

文章によって鮮明に思い出すことができたその当時と今を比較して、明確にかつ着実に前に進んでいることを実感する。間違いなく成長できているのだ。昔の悩みは、未来の今の私にとって悩みではない。

自分の中での比較のものさしになってくれるのが、過去の文章であると思う。そういった意味で、「書くこと」は大切にしたい。

私は昔から「書くこと」が好きだ。特に自分の考えや気持ちを率直に書くことが好きだ。

日々の仕事でも、文章を書く業務ではつい熱が入ってしまう。(幸い、書くことが多い仕事でもある)Instagramをアンインストールして、代わりに始めた日記は4年目に突入した。気になったことをスマホのメモアプリに書くのが癖であり、大量のメモが溜まっている。読んだ本のアウトプットや自分の考えを整理するためのフィジカルとしての大学ノートにもたくさんの文章を書いている。

「書くこと」で頭が整理され、スッキリする。書いていないと、気持ちが悪いのだ。汚い例えで大変申し訳ないが、自分にとって”排泄”と同じである。

そして自ら例えた手前で恐縮だが、その”排泄”と明確に違うのが、ずっと残っていくものであるということ。

書いたものは、自分で消さない限り、消えることがない。流されない。残り続けていく。

だから、上述の通り、自分の中での比較のものさしになってくれる。前進や成長を実感できる瞬間は、自分の書いた過去の文章を読んだときである。

このnoteの内容も、いつかの未来の私が読むと「恥ずかしいなあ」なんて笑い飛ばしてくれると思う。いや、そう思ってもらいたいから、日々の生活を頑張りたいし、「書くこと」はやめない。

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