木漏れ日と愛おしさについての考察
どうということのない日常の風景に、頬に突き刺さる秋の終わりの風に、やけに感傷的になる。自分の中の柔らかくて繊細な部分に掛けられた鍵を無理やりこじ開けて、冷たい空気が勝手に流れ込んでくる。
寒い!と身震いするのとほとんど同時に、それでもこの世界で歩いて行かなくてはならないのだと、いつの間にか緩んだマフラーをぎゅっと固く締め直す。
今日は久々に何も予定がない休日で、家にこもってダラダラしたり、ちょっとだけ医師国家試験の勉強をしたり、以下横並びで待機している〇〇したり、を一つずつ片付けていくつもりだった。
けれど、ベランダから外を見るとあまりに天気が良くて、空がやりすぎなくらい深い青だったから、X-Pro2と散歩に出かけることにした。
X-Pro2は、5年前に新型コロナウイルス流行時の給付金をはたいて中古で買った、FUJIFILM製のミラーレス一眼カメラだ。発売から9年弱経つ古いカメラだが、素人が趣味で使うには十分すぎる画質の良さと、余りにもカッコいいルックスに惚れ続けていることもあり、手放すことは全く考えていない。
人生で初めて自分の、自分だけのカメラを手にした瞬間の興奮を、今でもまだありありと思い出すことができる。僕が世界にレンズを向ける時、世界がむきだしにせり出してきて、キラメキとザワメキが一気に押し寄せてくる。圧倒的なまでの波にクラクラしながら、それらを決して逃すまいと、瞬きの代わりに必死でシャッターを切った。
ところが感情というものは不確実性に満ちたリズムとエネルギーを帯びていて、突発的かつ爆発的に動き出すこともあれば、あるいはその逆で、何の前触れもなく急に足を止めて、まるで海底に沈められた錨のように動かなくなることもあるみたいだった。
カメラを手に入れてから約2年が経過した時、僕は何を撮れば良いのか、いったい自分が何を撮りたいのか分からなくなって、完全に迷子になった。
それまで心を躍らせながら何枚も撮っていたはずの大好きな夕焼け空や、旅先で出会った果てしなく広がる海に、心が動かなくなった。日常の光景から湧き出ていたはずの衝動の炎が、弱く細くなっていくのを感じた。
そして大学4年生になる頃、ついに僕はカメラを置いた。「昔写真を撮っていた自分」を隅に追いやって、それがまるで見覚えのある赤の他人であるかのように、与えられた日常のリズムに身を委ねた。
大学5年生の秋になった。
おそらく人生の歯車を滑らかに駆動させるための部品はそこかしこに存在していて、自分からそれを全力で探しにいくこともあれば、なんとなく拾ってはめてみたものが、後から振り返ってみると、あれが重要なパーツだったのか、と気付くこともある。
偶然、まとまったお金が入った。欲しいものも特に無いから貯めておこうかなと思った矢先、何故かカメラのことを思い出した。そういえば、昔どうしても欲しいレンズがあったっけ。
どうせだから、と思いカメラ店のサイトを巡ってみると、やっぱり高い。高すぎる。学生が気軽に手を広げられる趣味ではないよ、と文句を垂れていたその刹那!偶然近所のカメラ屋でセール中になっていたそのレンズを発見する。
その名を、「xf35mm f1.4」という。なんと、12年前の単焦点レンズ。FUJIFILMユーザーで知らない人は居ないであろう、通称「神レンズ」と呼ばれる珠玉の一品だ。「その場の空気感まで切り取れる」「写真が上手くなったかと錯覚するほど」etc...
ふーん。確かめてみたいかも、この手で。「レンズ如きで」という気持ちと、僕にとって未知の領域である単焦点レンズへの興味がせめぎ合って、将来お金が貯まったら買ってみたいと保留にしていたレンズ。
荻窪で手に入れた一本のレンズから、感覚の歯車が、再び動き出した。
その場の空気感まで切り取れるレンズ。異名は、本当だと実感した。
光、線、存在感。その時の周りの匂いや心の揺らぎまで閉じ込めてしまうような描写力に、「カメラってすごいな、レンズってすごいな」と素直に、驚くほどすんなりと心が動いた。
分かりやすい感動、かっこいい画。それは景色の方からやってきて、どうにか逃さないように標本にしておくものだと思っていた。
でも、違う。それも勿論あるけれど。もっと微妙で、風が吹いたら飛んでいきそうで、目を凝らさないと見逃してしまうほど些細な輝きが、そこにはある。しかも、元から。
世界を、見つけようとする。霧がかかった視界の中で、自分の心が導かれるほうへ。怖いけど、進んでみる。心を、薄目で開けてみる。
そのとき、僕たちは自分と2人きりになるのだと思う。この地球に潜む、そして他でもない自分自身に潜む、優しさ、思いやり、切なさ、怒り、悲しみ、諦め。そして、誰かのことを想う、心からの愛おしさ。自分の奥底を見つめるときに、反射鏡のように世界はそれを投影する。それはたとえば、木漏れ日に安らぎや、慈しみや、愛おしさを感じるときのように。
それらを発見したとき、世界はほんの一瞬だけ、わずかにキラリと光る。その一瞬を捕まえて残しておくために、他の誰かと共有するために、僕たちは写真を撮るのかもしれない。
育ちが、家庭環境が、経済力が、学歴が、知能が、習慣が、方言が、言語が、宗教が、哲学が、思想が、肌や髪や瞳の色が、国籍が、歴史が、ジェンダーが、大切にしたい価値観が、違う。君と僕は、目を凝らしたら、生まれた時から何もかもが、まるで違う。
人間は線を引きたがる生き物だから、いつでもその外側がある。目玉焼きにソースをかける君の気持ちが、僕には一生分からない。
世界の分断が、戦争が、個人の孤立が、自己責任論が、この先もずっと、止むことがない耳鳴りみたいなものだとして。
僕はそれでも、論理の、争いの、その先に行きたい。世界を捉えようとする一瞬の煌めきが緩衝材となって、ひとときだけでも自分ではない他人と心を一緒に動かして、肩を組み合える時間があると信じている。
それが、僕たちホモサピエンスが芸術を手にした、一つの答えになるのではないだろうか。
年が明け国家試験に合格することができれば、研修医となる。医療の現場から、芸術の側面から、様々な角度から人間を見つめていきたい。歯が浮くようなセリフだが、次の世代に夢や希望を繋げられるように、医師としての実力も人間としての感性も、磨き続けていく。
最後に、僕の敬愛するMr.Childrenの「口がすべって」の歌詞を引用する。
(了)