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存在を相対化すること
僕は基本的に、人生とはただの容れ物だと思っています。空っぽのかばんみたいなものです。そこに何を入れていくか(何を入れていかないか)はあくまで本人次第です。
だから「容れ物とは何か?」みたいなことを考え込むよりは、「そこに何を入れるか?」ということを考えていった方がいいと思います。
(中略)
よく探せば、きみの周りに、きみのかばんに入れたくなるようなものがいくつか見つかるはずです。探してください。
これは2015年頃に公開されていたwebサイトでの、小説家・村上春樹氏と読者との問答を収録したエッセイ『村上さんのところ』の一節だそうだ。質問者は10代後半の高校生男子。
人生なんてガラクタだと最近思います。親に言われるから勉強をし、人から嫌われないために世間体を気にし、結局 僕って何?人生って何?と最近つくづく思います。思春期だからという問題ではありません。春樹さんは人生をどう捉えていますか?
人生とは?僕とは?誰もが直面するであろう、自分の実存に対する危機感や焦燥感。そこに対する村上春樹氏のアンサーは、「人生とは容れ物である」だ。
今年で24歳になった僕も、思い返せばつい半年前くらいまで、当時の高校生男子と同じく、自分の存在証明を探し続けていた。
小学生の頃、親の薦めで中学受験塾に週4回通った。まず、小5で算数と理科につまずいた。成績は受験が近づくにつれじわじわと落ちていき、初めにいたクラスから3つも下がった。親と塾の先生からの叱咤、自分の無能を突きつけられる恐怖。尋常ではないストレスで髪を触ることが止められなくなり、10円ハゲができた。結果、優秀な兄が通う第1志望の中学には落ち、第2志望に入学した。劣等感の種が心の奥底に埋め込まれた。
中高では友人に恵まれ、楽しく過ごすことができた。一方で、運動でも勉強でも芸術でも、自分よりセンスの良い人や成績を残している人と比較し続け、そのたびに落ち込んだ。「自分には何もない。何もできない。何でこんなにからっぽなんだ。人に胸を張って誇れる何かが欲しい。」高校生の時に親の前でそう告白した時、自然と涙が出てきて止まらなかった。劣等感は根を張り、芽を出した。
親は絶対に手に職を持てと言い、理系の同級生の大半は医学部を目指すことを当然としていた。僕も人と話すことが好きだったし、何より生まれた時からの持病で小児科にずっとお世話になっていたから、医学部を目指すことにはなんの躊躇いもなかった。それでも、「人命を救いたい」と強く思って志していた訳ではなかった。口煩い親と、世間体と、個人的な体験による因果であった。
また親の金で塾に通わせてもらい、それなりに大変な受験戦争を勝ち抜き、勝負できる可能性が高い医学部に現役合格した。合格は当然ではないはずなのに、心の底から飛び上がるほど嬉しいと感じることはできなかった。僕は中学受験の悪夢から、挑戦を選べなかった。また逃げた、というほんのわずかな気持ちが劣等感の芽に水をやったことに、その時は気付かなかった。
こうして入学した医学部では、自分より勉強や運動が出来る人がひしめき合っていた。何の分野でも、トップレベルで努力して結果を残していて、人格も優れている魅力的な同級生が数多くいた。対して、自分は。僕はなにをやってるんだ。医学の勉強もままならず、運動部の雰囲気に馴染めずに全学の音楽サークルに逃げ、恋愛でも拗らせて人間関係を悪化させている。何なんだ僕は。僕の人生など、ぐちゃぐちゃのハリボテで、底の浅い道化だ。
なまじ取り繕うことに関して長けていた僕は、外面的にはそのような自己否定からくる醜さを表に出すことはあまり多く無かった。何事もないように、外交的なキャラクターとして友人達や先輩後輩と付き合い、それでも、劣等感はついぞ立派な森林となり、自分の心の目を覆い尽くした。孤独感は深まり、心の中にそれはそれは立派な壁で囲まれた、自閉的な部屋を作った。大好きな音楽だけが、僕の救いだった。特に、BUMP OF CHICKENの音楽と、藤原基央の歌詞や言葉に随分と助けられた。「変われないのに変わりたいままだから苦しくて」と代弁してくれる彼らがいなければ、今日の自分は居ない。
自分はきっと、何者にもなれない。生産性のない一日がまた一日として過ぎていき、時間という川の流れの中で、泥濘に足を取られて身動きが取れず、「成功した」他者の人生の傍観者になる。もういいよ、と本気で思った夜が何度もあった。ベッドが自分を掴んで離してくれない朝が、何度もあった。昼飯を家で1人食べている時、突然涙を流したことがあった。裏寂しさがうっすらと心を支配したときに、涙はこんなにも自然に流れ落ちるものだと知った。
そんな僕の「自己中心的」自己否定からくる人生に対する劣等感や無力感は、大学5年生の時にコペルニクス的転回を迎えることになった。
「自分が代表者として、同級生と、医学部初の音楽サークルを設立した。」
ここだけ切り取れば、誰が僕を屈折した、偏屈な愚か者だと考えるだろうか?おそらく、大半の人は自信・人望・野望に満ち溢れ、挫折を知らず、自分の人生に疑いを持ったことがないタイプの人間を想像するだろう。だが実際のところ僕は、全くそうではなかった。
大学4年生のとき、全学サークルの引退が近づき、辛うじて続けていた音楽を辞めなければならない可能性を突きつけられた。音楽は僕にとって殆ど唯一と言って良い自分の心の拠り所であり、侵害されることのない安全基地であり、他者となんとか繋がるための手段でもあった。続けなくてはならない。本能的に、そう直感した。僕は音楽を、なんとしても続けなくてはならない。
だから、数少ない信頼の寄せられる同級生を巻き込んで、医学部に音楽サークルの設立を巻き起こした。初めは、自分や、自分の好きな人達が楽しく音楽ができる場になれば良いと思っていた。それはおそらく、自分の人生のアイデンティティを埋めるピースとして。表向きは多くの学生が音楽を楽しめるようにと銘打っていたけれど、きっと、かなり自分に矢印が向いていたと思う。
だが、団体の規模が大きくなるにつれて、少しずつ、少しずつその矢印が、外側に向き始めるのを感じた。劣等感が急に消えた訳ではない。それでも、そんなことをうだうだぐるぐるうじうじと考えている考えている自分が、段々と馬鹿らしくなってきた。
そこには、当初全く想像もしていなかった出会いや、化学反応が無数に発生した。今まで活動の場がなく、ギターの才能を封印していた彼がステージで見せた情熱と愛。新たな繋がりを得て、表情が明るくなっていく彼女。この場所を作ってくれて本当にありがとうという声。
沢山の心に音楽を通じて触れるたびに、「この場所の、この人達の、そして音楽の豊かさを、守っていかなけらばならない」と強く感じた。そしてそんな風に、自分ではない誰かのことを、何かのことを想うことが、こんなに心をはずませ、凝り固まった考えをほぐしてくれ、愛おしく、貴重なことなんだと、骨の髄まで実感したのだった。
そこで僕はようやく気付く。自分1人で生きる意味を禅問答するだけが、人生ではない。勿論、自分の中で深く自己の存在について、愚鈍である自身が生きる意義について問いかけることは、人間の本質的な孤独性に耐え得る試練として、必要な側面もあるだろう。しかし、頑丈な殻に閉じこもってそれだけを問いかけて続けても、人生や自己の存在に明瞭な答えは返ってない。
そして、成績や結果といった、特定の単一的な尺度のみで人生を定義することもまた、難しい。
そのような分かりやすく存在するものに依拠した自尊心、あるいは劣等感は、大局的な視点から見れば殆ど意味をなさない。何故なら、それは普遍的なようでいて、それらが通用し、「よい」と持て囃される特定の文脈でしか機能しないものだからだ。僕が成績や部活での成果を気にして劣等感を抱いていたのは、それらが当然に素晴らしいとされる世界の中での話だった。
では、何が人生を、そして他でもない自分の輪郭を形成するのか?それは、「他者との相対的な距離と化学反応」であるというのが、僕の現時点で出した仮結論である。ここでいう他者は、人だけでなくあらゆるモノが含まれる。僕はこれまで、まず自分という存在が絶対的にあり、その本流に対して他者が関わり合ってくる、というイメージを抱いていたのだと思う。どうやって人より秀でるか、抜きん出るか、個性を出すか、自分という存在を示すか。それがうまく出来ないから、ドロドロとした内的なコンプレックスを抱えていた。
しかし、自分が巨大なネットワークの中にいるたった一つのちっぽけな存在と考えれば、どうだろうか?それは、大それた言い方をすれば縦横無尽に人類史に紡がれた網目である。僕たちは家族から、友達から、恋人から、好きな本や映画、音楽から、動物や植物、美しい景色から、沢山のものを受け取っている。感動、笑い、悲しみ、慈しみ、希望、憎しみ、、、そういうものを、「自分」という変換器を通して、いちど咀嚼する。それを今度は、自分の関わった人との交流や、アウトプットする仕事や作品に祈りのように、あるいは傷のように封じ込まれていき、それがまた世界のどこかを巡り巡っていく。その無数の文脈において僕たちは、他者との相対的な位置関係を絶えず形成している。そこに生まれる化学反応(例えば、誰かを/何かを大切で愛おしいと想うような)が起きた瞬間、自分という曖昧な輪郭がややはっきりとした形で浮かび上がってくるのではないだろうか?
自分の人生それじたいに大義があるのではなく、人生で次々と起こる事象を自分を映す鏡のようにして、相対化されたものが自分の構成要素になる。人生とは、数直線ではなく多面体だ。
すなわち、視点を自分の外側に一旦移動させることで、(冒頭の村上春樹氏の言葉を借りれば)人生の「容れ物」性に自覚的になり、「どんな中身を詰めていくか」という発想に移動して、その先で大きな流れの経由地点にいる自分、という鳥瞰的な姿勢を持つ。
そして容れ物に大義がないのだとすれば。あとは、自分が関わり合う人やモノに自分がどのようなスタンスを持つのか、どのように楽しむのか、何が好きで何が嫌いなのか、無意識下で自分が好むものはどのような地下水脈を構成しているか、という「人生の中身」一つ一つの位置関係を面白がり、自分で選択していくことができるのだ。
自分が受け取ってきたもの、そしてこれから誰かに渡すもの。僕たちはある文脈ではTakerであり、ある文脈ではGiverでもある。消費者であると同時に、生産者でもある。自分という主体は、それを駆動させる装置だ。そのような循環と呼吸の中で、僕たちの人生と世界は、まるで星座のように相互にきらめきあう。(了)