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いつもの時間に電車がやってくる。

ファシズムの社会心理学的分析で有名なエーリッヒ・フロムが、カフカの『審判』を取り上げて、精神分析学的に説明しているのを読んだことがあります。

「審判―カフカ・コレクション」(白水Uブックス)カフカ,フランツ(著)池内紀(訳)

「審判―カフカ・コレクション」(白水Uブックス)カフカ,フランツ(著)池内紀(訳)

毎日を何の気もなく過ごしている平凡な青年が、突然裁判にかけられて、結局有罪の判決を受けるという話なのですが、彼は最後まで自分の何が有罪なのかを理解しません。

彼は何も法律に違反していません。

ただ、毎日を何の自覚も使命感もなく生活しているだけなのですが、果たしてそれで人間的にまともに生きているといえるのかどうか、というところが問題なんでしょうねぇ、無自覚すぎるのが罪ってことかとも感じました。

芥川龍之介の箴言集である『侏儒の言葉』の中で、こんなことを言っています。

「侏儒の言葉・西方の人 (改版)」芥川龍之介(著)(新潮文庫)

「侏儒の言葉・西方の人 (改版)」芥川龍之介(著)(新潮文庫)

「道徳は、「便宜」の異名である。「左側通行」と似たものである。」

道徳の与えたる恩恵は、時間と労力の節約である。

道徳の与えたる損害は、完全なる良心のマヒである。

であれば、道徳というのはパブリックなルールと言い換えることができるかもしれません。

パブリックがあるならプライベートも当然あるといった感じでしょうか?

パブリックから外れない範囲内で「マイ・プライベート道徳」を規定しておくと、ブレずに意志決定や判断ができると思われます。

ただ、「道徳」とか「良心」というような言葉は使う人によって違う価値観が付けられて使われるので注意してほしいですが、ここでは芥川龍之介は「道徳」を「約束事・社会規範」としてとらえており、それだけで完結した人生は「完全なる良心のマヒ」状態だと言っているのです。

カフカが有罪であると考えるのも、そういうような、義務的に生きる、表面上まじめな人間の姿(フロムの言う権威主義的人間)なのであって、彼は、ほかに「健全なる良心が発揮された積極的な生き方」があることを、人々に訴えようとしているわけです。

そんな状況を見抜く力を高めるには、対象を分析する前に自己分析をして、自分の思考のクセやコンディション、知識・能力などをチェックすることが重要になるのだと思います。

そういう意味では、「マイ・プライベート道徳を規定する」ためにはメタ認知を磨けばよい、ということになりそうです。

メタ認知とは、認知を認知すること、人間が自己を認識する場合において、自己の思考そのものや行動そのものを対象として把握し認識することです。

セルフマネジメントを考えるに、このメタ認知力、自分自身の言動、所作を、自分自身が認知していることが一つのポイントなのだろうと思います。

最近の認知心理学では、メタ認知ができる、できないで、「頭のよさを決めている・・・・・・」というくらいメタ認知は大切なものとされています。

ところが、メタ認知については、「自己にまつわる認知」や、「自分のことがよくわかっている」、いわゆる自己認知なのだと思われがちです。

しかし、それだけではありません。

「自分の認知パターンを知っている」、「知識パターンを知っている」、「自分の思考パターンが把握できている」という以上のものが必要なのです。

つまり、Knowing what I know.(私が知っているということを知っている)、 Understanding what I understand.(私は理解しているということを理解している)を認知している必要があります。

メタ認知能力を測る9項目として、以下の質問に「はい」と答える数が多いほど、メタ認知能力が高いことになるそうです。

1.自分が用いる方法がどのような問題解決のときに、最も効果的なのかを知っている

2.どのようなやり方が有効か、十分考えてから課題に取り組む

3.問題の中の重要な部分に意識的に注意を向けている

4.自分がどの程度よく理解できているかについてうまく判断できる

5.問題が解けたとき、自分がどういう方法を用いたかわかっている

6.問題に取り組んでいるときに、うまくいっているかどうか、定期的に自分でチェックしている

7.勉強するときは、その目的に合わせてやり方を変える

8.勉強したり課題を行うときには、計画を立てる

9.考えが混乱したときには、立ち止まり、もとに戻って考えてみる

そうした積極的な生き方においては、自分は不幸であるとか、ああしてほしい、こうあってほしい、あるいは自分が立派な人間かどうか、というようなことは実はどうでもよく、問題はつねに、無条件に、「私はいま何をなすべきか」になるはずです。

ここで少し身も蓋もないない話をすると、「生きることに意味がない」というのは、その通りだと思っています。

どんな大哲学者だって、結論は「人生無意味」に決まってます。

当たり前のことです、そんなもん。

なぜか?

花にも蝶にも、生きる理由などありません。

ただ、何も考えず、一生懸命、与えられた生命を全うしています。

人間だけが、「生きる」とか「死ぬ」とか言っているんですよねぇ、可笑しいとは、思いませんか?

そうした不自然でよけいな思想のことを、宗教学では「偶像崇拝」と言いいのけています。

宗教イコール偶像崇拝だと思っている人も多いようですが、本当の宗教は、自分の生きる意味を他の何ものかに転化する生き方すべてを「偶像崇拝」として拒否しています。

人間誰しも、何がしかを信望しているものであり、世間的な地位や名声、金銭や権力への欲望、あるいは英雄・権威への盲従、それが「偶像崇拝」です。

「神」や「阿弥陀仏」以外を信じないと言うのは、「神」や「阿弥陀仏」は何も語らないからです。

そう言った意味で「人世無意味」、それは確かに真理ですが、だからといって自分がどう生きるかは、全く別の問題だと思いませんか?

それまでの自分の生きる意味を転化し、それを失ったから・・・・・・というのは、やはり「偶像崇拝」に他なりません。

自分の人生は自分が責任をもつ、それが「自分が主人公」ということです。

人生が無意味なのは、答えるべき人がいつまでも問う側にまわっているからです。

主人公が観客席でいくらしびれを切らしても、幕は当分上がりそうにないのだから・・・・・・

話を戻して、前述で「人生は無意味」に決まっているということを言いましたが、言い換えるとそれは「道はない」というのと同じことです。

極論すれば、「評価」とか「定義」とかはすべてつまらないものです。

それより、自分自身の「目標」を発見していくことが大切です。

そう、あるのは目標だけだ、道はない!

ここから関西弁風に(^^)

何回失敗しても間違ってもいいねんで。

心が生きてるかぎり。

あんたの道(=目標)に終わりはないんやから!!

さぁ、今日も気合入れてp( ̄0 ̄)/ ファイト~!!

きちんとすると気持ちがいい♪もんねぇ(^^)

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