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【脱・自動化】新しい経験こそ脳が成長するチャンス

出典:pixabay.com

毎日の生活の中から、

「慣れ」

を排除してみる。

そこで、

「いつも同じことをしているなあ」

と感じることがあれば・・・

少し違った方法でやってみる。

また、あえて、今まで、経験していなかったことに、挑戦してみる。


人間が、頭脳を使う時、ブドウ糖を多く使うため、同時通訳の間、通訳の方達は、チョコレートを食べ続けるそうです。

そうでないと、頭の葡ブドウ糖が足りず、頭が充分に働かなくなるからだそうです。

それほど、頭を使うということには、エネルギーが必要なわけなんだけど、読書は、その頭を使う一つなんですよね。

確かに、テレビを見るだけの状態と、本を読んでいるときでは、明らかに、読書中のエネルギー量が、(測定していて検証しているわけではないので勝手な持論なんだけど)勝っていると思われます。

本の種類に注意が必要ですが、読書中は、視覚から食欲を刺激されるものがありませんから、何かを食べたいという衝動も少なく、また、面白い本をひたすら読んでいると、飲み食いしなくてすむため、読書の習慣はダイエット効果もあり、読書で痩せるかも?!(信じる者は救われますよ( ^^) _旦~~)

↓(信じる者たちは先に進む)

ダイエットとして、読書を採用したいと思われた方は、自分が興味のある分野で、なおかつ、大変頭を使う難しい本を読むと、効果は大きくなると思われますが、運動しないから頭の体操になるだけか・・・?

いやいや、寝る前に記憶した内容は頭に定着しやすいという医学的な結果もあるから、毎日寝る前に読書をすれば、いい頭の運動になるし、ストレッチで凝り固まった体を伸ばしていると、体がリラックスしてくるので、ダイエットも成功する確率が高くなると思います。(そうなりたいという思いを語ってみました(^^)/)

そうそう、人のタイプにもよりますが、読書よりも、自分で文章をつくる方が、よりエネルギーを使うという場合が多いと思われるため、読書と同じように、自分で文章を作るということも、また、かなりいいダイエットになるのではないでしょうか?(この意見についても、なんらエビデンス等有りません(^^;)


ここで、私が自分勝手な意見を述べても、同意が得られるすべもないと思われることから、ちょっと、こんな新書をテキストにして、考えてみました(^^)/


■テキスト①(刺激の対象:おもしろさを追究する複雑系で生きてみる)

「脳がほぐれる言語学 発想の極意」(ちくま新書)金川欣二(著)

[ 内容 ]
ビジネスマンや学者に限らず、発想の転換は誰にも必要。
夕飯の献立もデートの会話も、マンネリにならないように機転を利かせることで楽しくなる。
発想は新鮮に生きるための文法だ。
歴史上の大発明も日常の小さな発見も、大なり小なり型破りな視点から生まれるけれど、人は誰かに意味づけられた記号によって話し行動する。
言語の「正しさ」に振り回されると、ありきたりな考え方しかできなくなってしまう。
つまり言葉の限界が発想の限界なのだ。
そこで-。
“笑う言語学”による「創造的なひらめき」を得るためのヒント集。

[ 目次 ]
第1章 発想を妨げるもの(発想はいつでもどこでも必要 発想の現場から ほか)
第2章 言語を反省する(「共有」のためのコミュニケーション 「構造主義者」ソシュール ほか)
第3章 たった一つの「正解」で満足?(真理は一つもない コンテクストで意味が変わる ほか)
第4章 果報は寝て待て(別解を求めて セレンディピティとひらめき ほか)

[ 問題提起 ]
発想力が豊かな人は、大概、多弁で、話があちこちに飛ぶ。

話に参加しようと思うと、もう話題は違うところに行っている。

脈絡がないともいえる。

まじめな話かと思って聞いていると、突然ダジャレになる。

話について行けない。

こういう人は話を掘り下げることはできないが、発想を掻き立ててくれる意味では貴重な人種である。

言語学者金川欣二はそういうタイプの人ではなかろうか。

著者もあとがきで話が飛んでしまうのは、古いけど「古館伊知郎のいうバスガイド思考」であると書いている。

「右に見えますのは・・・」と言った瞬間、もう歌い出しているような思考回路らしい。

「言葉にも、言葉の学問にも一貫性などない」と信じている著者の縦横無尽な話術が、なんとも刺激的だ。

言語学者にとって「発想は新鮮に生きるための文法」なのである。

[ 結論 ]
発想は「複雑系で使われる創発(emergence)であり、緊急事態(emergency)と同じ語源だから、突然パチンと現れる」ものなのである。

明日までにアイディアをまとめないと大変なことになると崖っぷちに追い込まれて、やっとアイディアが出てくる。

絞り出す感覚ではなく、ふっと湧き上がる感覚に近いのではないか。

そうなれば掬い取るだけでアイディアを自分のものにできる。

要は緊急事態に持ち込む勇気があれば、いい結果に導くことができる。

広告ではコピーライターはデザイナーといっしょに仕事をすることが多いから、一種の夫婦関係に近い。

苦闘の末、デザイナーのアイディア・スケッチがまとまりそうになると、軌を一にしてコピーライターもコピーができあがる。

これなど著者の指摘する「クーバード/擬娩」ではないか。

同じことを考え続けているうちに、シンクロニシティ(共時性)が生じるのだ。

たいていアイディアが生まれるときは難産になるし、それを緊急事態と考えれば、わかりやすい。

もうひとつ、本書で興味を惹いたのは異質なものを結びつけたり、衝突させたりする発想法である。

正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は「二物衝撃」の手法である。

柿と鐘をぶつけると、物語と想像力が生まれてくる。

これがシュールレアリズムになると、「デペイズマン」(dpaysement)と呼ばれている。

「本来あるべきところから物やイメージを移して、別の場所に配置することで生じる驚き」を指す。

これは「異種結合」である。

昔のCMで、白クマが南の楽園で踊っている、というアイディアがこれに当たる。

北極の白クマを南の島に移すことで、イメージの格闘が起きている。

「白クマは暑くて汗だくだろうな」と思ったとき、エアコンが出てくるわけである。

[ コメント ]
言語学者は言葉を操って口先で生きているように思うけれど、存外、努力の人である。

著者はこの本のタイトルを当初「言語ギャクと現代思想」というように考えてみたと言っているところにその思考が垣間見える。

言語学者はおもしろさを追究する複雑系に生きており、広告人はおもしろければいいという単純系に生きていることがよくわかった。

それが、なによりの衝撃だった。


■テキスト②(刺激の対象:からだで「よむ」)

「親鸞をよむ」(岩波新書)山折哲雄(著)

[ 内容 ]
今、あらためて親鸞をよむ。
頭で「読む」のではなく、からだで「よむ」。
それは、描かれたその面がまえから、残された筆跡、歩いた道筋から、そして主著『教行信証』や“和讃”の言葉から親鸞の息づかいを感じとり、その苦悩にふれる営みである。
加えて妻・恵信尼の自筆文書を新たな視角で読み解き、親鸞九十年の生涯の到達点に迫る。

[ 目次 ]
序章 ひとりで立つ親鸞
第1章 歩く親鸞、書く親鸞-ブッダとともに
第2章 町のなか、村のなかの親鸞-道元とともに
第3章 海にむかう親鸞-日蓮とともに
第4章 弟子の目に映った親鸞-唯円と清沢満之
第5章 カミについて考える親鸞-神祗不拝
第6章 親鸞をよむ-日本思想史のもっとも戦慄すべき瞬間
第7章 恵信尼にきく-日本思想史の背後に隠されていた「あま・ゑしん」の素顔

[ 問題提起 ]
この当時、親鸞や道元・日蓮など鎌倉仏教の祖師に多くの関心が注がれており、多くの著作が生まれていた。

かつての鎌倉仏教への関心には、日本の宗教改革といった方面からのものや、権力との関わりに注目したものが多かったのだが、ヨーロッパ世界との比較からではなく、祖師そのものと直接に向かい合って、探ってゆくことが行われるようになっている。

本書もまた、頭で読むのではなく、親鸞を「からだでよむ」ことを提唱し、その多元的な把握に努めている。

これまで『悪と往生』『親鸞の浄土』を著わした著者の親鸞三部作の第三作であり、これ以前には主に頭で読んできたのであったが、それを「からだでよむ」べく試みたのである。

[ 結論 ]
親鸞の生きた鎌倉時代は、栄西や道元の禅宗といい、一遍の踊り念仏といい、身体に注目する仏教が広がっており、そのことを考えるならば、当然になすべき作業であろう。

そこでは、親鸞を描いた肖像画の解読からはじまる。

親鸞の「鏡の御影」を取り上げて、道元の「月見の御影」と比較しつつ、そこに時代の精神をよみ取る。

「愚禿(ぐとく)親鸞」という署名からは、その九十歳の長寿を生きた親鸞の生命の強靱さを指摘する。

そして親鸞が住んだ町や村、親鸞が対峙した海や山に触れ、そこから親鸞と直接に向かいあって、考察を進めてゆく。

ここでは著者自身の体験を踏まえつつ、「想像が想像をかきたてる」なかで、奔放に想像の翼に乗り、親鸞の歩いた道を追体験してゆく。

海にまつわる日蓮との対比が特に面白い。

ただその分析は歴史的文脈からすると、筆者にはやや首を傾げたくなるような記述も散見するのだが、その現代から中世への飛躍のあり様がまた興味深い。

著者が親鸞をよむにあたって重視したのは、主著『教行信証』であり、晩年の和讃である。

親鸞といえば、すぐに思い起こされる『歎異抄』については、弟子の唯円による著作であることから、それとは距離をとって、『教行信証』と和讃とから親鸞の考えに迫ってゆく。

『歎異抄』の悪人正機説や、神祇(じんぎ)不拝の考えの捉え方なども、これらから再検討し、説得力ある見解を導いている。

たとえば悪人正機説は可能性としての悪を、『教行信証』は現実の悪を問題としていると指摘する。

決して一元的には割り切れない、親鸞の思想がそこから浮かびあがってきて、まことに刺激に満ちた作品である。

考えてみれば、『歎異抄』は弟子の唯円から見た親鸞の言説であり、『教行信証』や和讃は、親鸞から発する親鸞についての言説であり、著者が注目した親鸞の妻の恵信尼の文書は、恵信尼から見た親鸞の言説である。

いずれも親鸞の一部であって、著者のいう、「からだでよむ」とは、そういう広い視点からの接近と理解した。

「よむ」と特に仮名書きにしたのは、和讃をよむことに注目してのことでもあろうが、対象のあり方にそって様々に「よむ」行為が必要になるという考えに基づくのであろう。

なお親鸞が名をいくつか変えていたことに、著者が注目した点は、なるほどと興味深かったが、なぜか最初の名の「範宴」に触れておらず、恵信尼が親鸞を「善信御房」と称していたことにも触れていない。

この点はどう理解すべきであろうか。

その点も含めて、著者にはさらに親鸞についての第四部を書いて欲しい、と思った。

[ コメント ]
本書の上に立ってさらなる、「からだでよむ」作業の展開を望みたい。


■テキスト③(刺激の対象:想像力)

「手に職。」 (ちくまプリマー新書)森まゆみ(著)

[ 内容 ]
勉強だけではメシは食えない!
20人の下町の職人たちが、モノつくりになるまでの道筋と喜びを語る。

[ 目次 ]
鮨―野池幸三(谷中)
大工―菊池芳明(谷中)
三味線―野口哲彦(千駄木)
江戸和竿―中根喜三郎(千住)
手植ブラシ―宮川彰男(浅草)
指物―木村正(下谷)
足袋―宮内梅治(両国)
提灯―恩田舜史(駒形)
つまみかんざし―石黒誠治(寿)
江戸刺繍―竹内功(千住)
切子硝子―門脇健二・裕二(北砂)
おろし金―大矢昭夫(和光)
江戸やすり―深澤敏雄(上野)
鋏―川澄巌(足立)
貴金属眼鏡枠―会田耕治(台東)
桐箪笥―町田金三郎(尾久)
べっ甲―赤塚博(谷中)
佃煮―金子誠(日暮里)
そば―越康次
鳶―西出の頭(神田)

[ 問題提起 ]
手仕事によって丁寧に作られたモノには、ひとつひとつ固有の物語がある。

モノの背後には、技を守り受け継いできた歴史があり、それを作った職人の人生がある。

たくさんの人の手を通して技が形を結び、いまここに存在している。

そうした物語の数々を、東京とその近郊で拾い集めたのが本書だ。

登場するのは三味線や江戸刺繍、切子ガラス、桐箪笥といった伝統工芸の王道から、おろし金や鋏などの日用品。

鮨やそばなどの料理、さらには鳶や大工、手植ブラシや貴金属眼鏡枠といったふだん耳慣れないものまで。

総勢20名の職人を取り上げている。

著者は、「谷根千(やねせん)」の愛称で親しまれる地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集人でもある作家・森まゆみ氏。

彼女の問いかけによって、なぜ彼らがこの世界に入り、その後どうやって「手に職」をつけていったかが引き出されていく。

[ 結論 ]
たとえば江戸和竿の職人、中根喜三郎氏(千住)の場合。

五世四代目竿忠である氏は昭和6年生まれ。初代の父親も竿屋であったため、五世を名乗っている。

江戸時代から続く竿作りは長子相伝。喜三郎氏は三男で、家業を継ぐ気はまったくなかった。

だが、東京の大空襲によって両親と二人の兄を一度に亡くしたことで人生が一変する。

父の顧客だった三遊亭金馬師匠が生き残った喜三郎氏とその妹を引き取り、喜三郎氏に竿屋になることを強く勧めた。

19歳で押上の竿辰に遅い弟子入りをした喜三郎氏は、最初は竹の上下さえもわからなかったが、早く仕事を覚えたい一心で修業に打ち込んだ。

その後「竹の子」という銘で独立。

屋号「竿忠」を名乗ったのは、昭和49年、40代になってからだった。

江戸和竿は天然の竹を継ぎ漆で仕上げた竿で、ハゼやキスなど江戸前の魚を釣るためのもの。

竿忠の竿は、漆の塗りに特長があるという。

親から直接教わったわけではないが、先代や先々代の作ったモノを見て学んだ。

跡継ぎはいない。

だが〈伝統技術というものはなくなることはありません。あたしだって父や祖父に教わりはしませんが、見て、ははァ……こうやるんだなって模倣しましたからね〉と語っていたのが人知れぬ努力を感じさせる。

本書には、一人ひとりの年齢は明記されていないのだが、話の内容から察するにおそらくはほとんどが60歳以上、なかには80歳を超えている人もいる。

彼らの経歴や仕事の内容は先述した通りそれぞれ異なる。

語り口も、無口な職人タイプもいれば、気風のいい江戸っ子タイプもいる。

だが通して読んでいくと、そこにいくつか共通点が立ち現われる。

戦争というものが落とした影。

師でもあった父親との関係や、跡を継ぐ者に特有のプレッシャー。

作り手より仲介する人間のほうが利が大きいという流通の構造的問題。

質のいい材料を入手することの難しさ。

そして、後継者の問題。

だが、特に似通っているのはその仕事に対する、どこまでも謙虚な姿勢だろう。

さきほどの中根喜三郎氏は、

〈お客様は仕事の遅れや値段のことは忘れて下さいますが、仕事の悪いのは忘れてくれません。古い言い方ですが、自分の基準以下のものは出しませんね〉

と言い、一方、足立で二代続く鋏鍛冶の川澄巌氏も

〈評価されるというのはこわいんです。それ以下のものは作れないから〉

と、同じように仕事の厳しさについて語る。

ほかにも、

〈もう五十年以上だが、まだ一人前と思っちゃいないよ。大九じゃなくて大六か大七くらいだ〉(大工・菊池芳明)

〈私だってまだ一人前とはいえません。朝と夜で仕事がちがう。まだまだと思っているうちに老眼鏡使うようになって、そろそろおしまいかも〉(べっ甲・赤塚博)

といった言葉からは、奢ることなくひたすら仕事に向き合う姿がうかがえる。

職人たちの言葉には、長い時間をかけて培ってきた重みがある。

それらはまるで、彼らが作り出すモノに似ている。

使い込んでいくうちに手垢によってツヤが出たり、色が少しずつくすんでいったりして味わい深くなるように、彼らの人となりも仕事によって磨かれていくのかもしれない。

人は、そうした作り手の言葉や物語に魅せられ、出来上がったモノにひとしおの愛着を覚える。

著者自身も、取材中けっこういろんなものをお買い上げしている。

おろし金、かかと削りと爪やすり、金縁眼鏡。

そりゃそうだ、物語をひとたび聞いてしまったら、目の前のモノが「とっておき」に見えてくるに決まっている。

かくいう私も著者と同じように、物語に触れて「えいや」と財布を開いてきたクチである。

丁寧に作られたモノは、なかなか手荒には扱えない。

大切に味わったり、使ったりしていくうちに、モノはちょっとずつ風合いを増していく。

そう、豊かな物語を秘めたモノは、作り手から使い手の手に渡って、また新たな物語を紡いでいくのである。

[ コメント ]
本書には、モノの写真は載っていない。

仕事をする職人たちの姿が描かれたイラストが一人につき1カットあるのみ。

それがかえって個々の物語を際立たせ、「この人が作るモノはどんなモノだろう」と読む者の想像力を刺激する。

しまった、また欲しいものが増えちゃったなあと思いながら、本を閉じた。


■今世紀の大きな課題

最後に、取扱注意事項として、超正常刺激の巣窟(資本主義やインターネット)に、くれぐれも気をつけてください、ね(^^;

そこには、以下の通り、ドーパミンが放出されやすい3つの要素がたくさん存在しているためです。

▶新奇性:驚きや意外性の度合い

▶顕著性(直接的効果):刺激が、具体的かつ直接的に、日常生活へ、どの程度影響しているか、あるいはどの程度重要か。

▶遺伝:生まれつき、脳の一部の領域でドーパミン濃度が高くなったり低くなったりする人もいる。

現実の刺激と超正常刺激の違いを理性では見分けられるはずのヒトも、超正常刺激に惹き付けられることはよくあること。

2000年代後半、ブログ名義のk-punkとしても知られるイギリスの哲学者で政治・文化理論家のマーク・フィッシャーは、

「資本主義リアリズム」

「資本主義リアリズム」 マーク フィッシャー(著)セバスチャン・ブロイ/河南瑠莉(訳)

【参考記事】

という用語を再利用し、

「資本主義が唯一の実行可能な政治経済システム」

であるだけでなく、それに代わる首尾一貫した選択肢を想像することさえ、不可能であるという広範な認識を示していました。

このような状況では、

「資本主義の論理」

が、

「政治と社会生活の限界を定める」

ようになり、その抵抗方法に対して、重大な影響を及ぼしています。

その結果、

「資本主義の終焉よりも世界の終焉を想像する方が簡単」

な状況になっているのが、現代社会だとも指摘されています。

この点を認識した上で、大袈裟に言えば、

「今世紀の大きな課題」

は、

「(時間を無駄に)消費(すること)を如何に減らすか」

を学ぶことではないかと、考えられないでしょうか。

フィッシャーは、こうも書いていました。

「私が理解する資本主義リアリズムは、文化の生産だけでなく、労働や教育の規制も左右し、思考や行動を制限する一種の目に見えない障壁として機能する、広く浸透した雰囲気のようなものです。

資本家は暴力や武力ではなく、資本主義体制こそがすべてであるという広範な認識を作り出すことによって権力を維持しています。

彼らはほとんどの社会的、文化的制度を支配することによってこの見解を維持しています。」

そして、フィッシャーは、資本主義の枠組みの中では、

「社会構造の代替形態を思いつく余地はない」

と主張しています。

さらに、日本では、若い世代に限らず、

「代替形態を認識することさえ関心が少ない」

事からも、理解できるのではないかと考えられます。

つまり、

「既存のモデルに代わるものを求める欲求を刺激する」

のではなく、危機への対応によって、

「既存のシステム内で修正を加えなければならない」

という考えが強化された世界(現代社会)を、今、私たちは生きていると推定されます。

「わが人生の幽霊たち つ病、憑在論、失われた未来」マーク フィッシャー(著)五井健太郎(訳)

「奇妙なものとぞっとするもの 小説・映画・音楽、文化論集」マーク フィッシャー(著)五井健太郎(訳)

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