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【なんだかんだ言いながら僕らはこの世界で共生してる】世界には、お腹のすいてる人と、お腹の出ている人がいる。

私たち、日本人は、古代から、自然との共生を大切にしてきました。

▶コーヒーブレイク①

「〈生かし生かされ〉の自然史 共生と進化をめぐる16話」渡辺政隆(著)

自然を、さまざまな形で、

・神として敬い

・祭りを行い

・習俗を継承して

共同体を、作ってきました。


▶コーヒーブレイク②

「生命はゲルでできている」(岩波科学ライブラリー)長田義仁(著)

そして、そのなかで、

「豊かな情感」

「繊細な美意識」

「優しいもてなしの心」

等を育んできました。


▶コーヒーブレイク③

「土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る」(ブルーバックス)藤井一至(著)

農村や山村、漁村。

それは、まさしく、日本の原風景、日本人の心の原点、だったりしますよね。


▶コーヒーブレイク④

「自然の哲学(じねんのてつがく) おカネに支配された心を解放する里山の物語」高野雅夫(著)

「フォト・レポート 里山危機 東北からの報告」(岩波ブックレット)永幡嘉之(著)

ただ、

「平成の合併」

で、かつて、2,600程あった町村は、1,000弱に迄、減少してしまいました。


▶コーヒーブレイク⑤

「町村合併から生まれた日本近代 明治の経験」(講談社選書メチエ)松沢裕作(著)

そして、もっとも、身近な、日本人の遺産といわれ、歴史のなかで、愛され、誇り、とされてきた、多くの町村名も、消えてしまうことになり、愚かな行為ではなかったかと思わざるを得ません。


▶コーヒーブレイク⑥

「日本の進む道 成長とは何だったのか」養老孟司/藻谷浩介(著)

そう思うのは、平安時代から江戸時代迄の約1,000年間、律令国の変更がなく、68国あったとされていましたが、明治初期の再編で、律令国は、84国になったものの、1871年の廃藩置県によって、江戸時代の藩にほぼ対応する形で、都道府県が誕生させたのに、現在は、統合が進み、1都、1道、2府、43県の計47個になっています。


▶コーヒーブレイク⑦

「進化する里山資本主義」藻谷浩介(監修)Japan Times Satoyama推進コンソーシアム(編)

この様に、効率だけを追求し、市場主義に偏った制度改革で突き進んだら、もう、後戻りはできなくなります。

「ふるさと」

を失うことは、

「日本」

を失うことに等しく、

「日本人のアイデンティティー」

を永遠に失うことに変わりありません。


▶コーヒーブレイク⑧

「ふるさとの生活」(講談社学術文庫)宮本常一(著)

「改訂新版 新書アフリカ史」(講談社現代新書)宮本正興/松田素二(編)

[ 内容 ]
人類誕生から混沌の現代へ、壮大なスケールで描く民族と文明の興亡。
新たなアフリカ像を提示し、世界史の読み直しを迫る必読の歴史書。
変化の激しいアフリカ現代史を新たに書き加え、従来の記述も新しい知見や主張に基づいて内容を大幅に見直した改訂新版。

[ 目次 ]
アフリカ史の舞台
アフリカ文明の曙
コンゴ川世界
ザンベジ・リンポポ川世界
ニジェール川世界
ナイル川世界
トランス・サハラ交渉史
インド洋交渉史
大西洋交渉史
ヨーロッパの来襲
植民地支配の方程式
南アフリカの経験
アフリカ人の主体性と抵抗
パン・アフリカニズムとナショナリズム
独立の光と影
苦悩と絶望:二〇世紀末のアフリカ
二一世紀のアフリカ
アフリカの未来

[ 問題提起 ]
アイデンティティや帰属を、固定されると、崩壊するものがある。

自分は、何に、所属しているか、自分のアイデンティティは、何か。

何かを、選んでもいいが、

「選んだ」

ことを忘れて、依存しきったり、同化しすぎたりすると、脆弱性が増す。

流動性や弾力性を、忘れないほうがいい。

自分は、アフリカの歴史について、何を知っているだろう。

「ブーンドックス」

を見る限り、アフロアメリカンさん方も、自国内の黒人史ならともかく、アフリカ史については、さほど、詳しくはないようだが。

歴史って、

「マンデルブロ集合」

みたいだな、と思う。

どこをどう拡大しても、どう縮小しても、どう切り取ってもひたすらマンデルブロー。

細部にも、大局にも、宿りたまいて、姿を現す歴史という物語。

世紀単位でも、時間単位でも、国単位でも、個人単位でも、物語としての歴史は紡ぎうる。

記される歴史は、取捨選択の結果。

私や、彼らの個人史も、その捨てられる部分に入るのだろうけれど、アフリカ大陸の歴史という巨大な物語も、大半が、語られず、捨てられていた。

注目されるどころか、意図的に、無視されていた。

なんせ、人類発祥の地だ。

しかも、ばかでかい大陸。

なんで、そこの悠久の歴史が、全然、沙汰されないのか。

西洋人がこしらえた、アフリカ観&アフリカ野蛮史という、ひどく、ねじれた絵からの脱皮独立を目指す人々。

[ 結論 ]
これまでのような、西欧近代主導の歴史記述だけでは、地球上の全人類の過去、その達成の全体像を、把握しきれないということが、わかってきたのである。

酋長などいなかったのに、西洋人が、支配に来てからはじめて、管理の必要性から

「酋長が率いる部族」

という組織形態が、押し付けられたケース。

中世に、遠隔貿易繁栄から大国家が生じても、貿易が、衰退すると、国家は、解体し、小集団に、拡散していったケース。

国家は、最終目的ではない。

他者にたいして、姿を現すために、必要なものとして、形作られるのが国家。

状況によって生じる、粘菌の子実体のようなものにすぎない。

酋長も、国も、組織も、持たずして、自然に、結束し、行動できるヌエルの人々。

巧みな血縁関係が、コントロールする紛争と和解。

ヨーロッパ方面との奴隷交易で、狩り残されたのは、身体変形を習俗としている部族の人々であったという事実。

これは、習俗の人為淘汰と言っていいのか?

フルベの聖戦、独立した独自のイスラム、状況に応じた選択肢としての抵抗や協力。

現代に尾を引く

「部族間抗争」

という色眼鏡。

政治問題も、経済問題も、党派や、主義主張ではなく、単に

「部族問題」

として処理されてしまいがちな、西洋的偏見の落とす影。

戸籍、国籍、国境、所属、民族。

人間は、そういう杭打たれるような、一カ所に、縫いつけられるようなシステムに、適応するようには、こしらえあがっていない。

一カ所に縫いつけられるようなシステムが、発生したゆえに、生じた悲劇、それは、

「ブリンジ・ヌガグ」

「ブッシュマンとして生きる」

「呪医の末裔」

でも、ひとしきり。

一つのシステムは、すべてを受け入れたり、すべてを許容したりするようには、なかなか行かないもの。

何かを切り捨てて、成り立つこと多し。

切り捨てられる存在たち。

その体系で、切り捨てられるのであれば、違う体系を探してさすらう、人にとって、優しい世界は、それが可能であるべき。

空き地が要る、変身隠遁の余地が要る。

心の中にも、地理空間にも。

自分に適した体系を探して流れさすらう。

ちょっと隣におじゃまする。

なんとなれば、自由に、自分の所属や民族を変えることが、可能であった社会群。

それが、可能であったアフリカ世界。

自分は、今の居場所で、今のポジションで、窒息しそうになってはいないか?

他人のためにこしらえた

「自分像」

の中で、金縛りにあってはいないか?

ふと考えると、これは、ゲームのリセットや、ジョブチェンジと、どう違うんだろうか・・・

旧世界のほうが、ゲーム観を待たずして、そういう体系を持っていた?

いや、リセットが効かなくなった現実の中で、心が求めるリセットを、単に、記号的に体現したのが、ゲーム内のリセットというシステムだったのか?

いじめの構造も、クラスや会社という、所属の枠に、人間性質が、呼応して、生み出されるもの。

居場所が、流動的であれば、固定されていなければ、発生しないという。

アフリカの柔軟で、多元的なアイデンティティを評して、

「浮遊するアイデンティティ」

と呼んだ人類学者がいたが、単一のアイデンティティを強要する国家や、民族という集団どうしの殺戮や、対立を忌避するためには、浮遊する柔軟なアイデンティティが必要となるだろう。

[ コメント ]
アフリカ社会は、こうした可能性を、秘めているのである。

多民族の平和な共生は、民族主義や、国家国境が、踏みにじってくれる例が、あまたある。

学ぶことは、まだ、たくさんある。

考えることも、まだまだ、たくさんある。

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