【読書メモ】「私・今・そして神 開闢の哲学」永井均(著)(講談社現代新書)
「私・今・そして神 開闢の哲学」永井均(著)(講談社現代新書)
【参考文献】
「〈私〉の哲学を哲学する」永井均/入不二基義/上野修/青山拓央(著)
「〈私〉の哲学をアップデートする」永井均/入不二基義/青山拓央/谷口一平(著)
「存在と時間 哲学探究1」永井均(著)
「世界の独在論的存在構造 哲学探究2」永井均(著)
「独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3」永井均(著)
「<ぼく>と世界をつなぐ哲学」中山元(著)(ちくま新書)
[ 問題提起 ]
私がこの世界に存在するということは、すなわち世界が開闢(※1)するということであるとして、この現実の私をめぐって永井哲学が進行する。
※1:
精選版 日本国語大辞典 「開闢」の意味・読み・例文・類語
かい‐びゃく【開闢】
〘名〙 (古くは「かいひゃく」。「開」も「闢」も「ひらける」「ひらく」の意)
① 天地の開け始め。世界や国などの始まり。創世。→天地開闢。
※続日本紀‐養老三年(719)一〇月辛丑「開闢已来、法令尚矣」
※太平記(14C後)一六「夫日本開闢(カイヒャク)の始めを尋ぬれば」 〔揚雄‐劇秦美新〕
② (━する) 信仰の場としての、山や寺を開くこと。また、その人。開白(かいびゃく)。
※私聚百因縁集(1257)七「此れ等は併ら大師開闢(カイヒャク)の御跡也」
③ (━する) 荒れ地などが切り開かれること。
※再昌草‐永正三年(1506)七月七日「従来不レ似二黄河水一開闢年年只一清」
世界が開闢することで、その世界の中に存在する事物の存在規準が適用される。
今ある私は、世界とともに存在するが、世界の中に私が存在するようになると、私は、世界の中の一人となり、他者との対比としての私が存在する。
この世界について、五分前世界創造説や、五十センチ先世界創造説といった、ありそうもない仮説を検討しながら、この世界を成り立たせるにあたっては、「神の全能」が必要と説く。
この神は、デカルトが必要とした神であり、我々には違いが識別できないが、理解可能なことができる全能者である。
可能な世界から、現実の世界を此処にもたらすライプニッツの原理と、統一的な客観的成立可能性の条件を示したカントの原理とを対比させながら、私・世界の分裂というよりラディカルな世界についての考察を進める。
この中で、マクタガードの時間論(A系列とB系列)もでてくるが、それとウィトゲンシュタインの意味盲人、相貌盲人のアイデアを取り入れ、A系列盲人、B系列盲人という議論がでてくる。
この議論の最後に、端的な私的言語の不可能性について述べ、端的さ(概念によってとらえられない現実存在)の意味を把握する仕事が言語の本質に反するからではないかという指摘は鋭い。
言語というものが、「私と同格の他者の存在を認めなければ機能しないのと同じく、現在と同格の過去の存在を認めなければ機能しない」ものであると述べられている。
言語とは、この私を他者と語る私にする。
この時に、この私は隠れる。
この言語(今、私がただそれだけ理解する言語)の、この有意味性、それ自体が開闢なのだが、それは、その言語の内部には、現れることがない。
神の存在論的証明が成り立たないのと同じように、その開闢性をその内部で語ることはできない。
私は、この言語の有意味性の中に閉じ込められている。
それが開かれる時は、永遠に来ない。
来たとわかれば、来ていないのだから。
言語は、開闢を隠蔽する。
逆に言えば、世界を開く。
人称、時制、様相は、客観的世界の成立に不可欠な要件だが、それは、開闢それ自体を隠蔽することによって可能になるのだ。
[ 発見(気づき) ]
本書は、私、今、神という3つの大きなテーマに対して、過去の大物哲学者たちの定義に対する修正や反論を試みつつ、総括する。
私たちは、これらの概念を当たり前のように使ってしまっているが、深く考えると、如何に、それらの定義があやふやであるかがよく分かる。
この本の中心テーマの切り口のひとつが五分前世界創造説。
世界や宇宙は、100億年前だかに始まって、今まで続いていたように考えられているが、もし、起源が5分前にあったと考えたらどうなるか?
世界は、いたずら好きな神によって、あたかも長い歴史を経たかのように、5分前につくられたと仮定してみる思考実験である。
それは、化石も古文書も、5分前に偽造されて存在しているような世界だ。
過去という概念は記憶と関係がある。
カントは、「経験一般をならしめる条件が同時に経験の対象をならしめる条件」だとした。
これを記憶という経験にあてはめれば、「記憶一般を可能ならしめる条件が、記憶の対象をならしめる条件」ということになる。
記憶の対象とは、過去のことだから、では、「記憶をならしめる条件」とは何か、ということになってくる。
著者曰く、それは、「過去が現在に記憶をはじめとする痕跡を残すという構図そのもの」なのではないかという。
実際に、記憶していること自体が、過去そのものを作り出すわけではない。
例えば、永遠に発覚しない完全犯罪が考えられる。
誰も覚えていないからといって、現在に痕跡を残さなかった過去そのものの存在を否定することはできない。
過去は、記憶と独立して存在できる。
過去、そのものと過去の痕跡は別物である。
過去の痕跡(記憶)は、インスタントに作ることができる。
だから、「きまぐれな神によって5分前に全住民が架空の過去を信じた状態でこの世界が創造された」は、可能な事態である。
だが、全能の神であっても、過去そのものを、それと同時につくりだすことはできないのではないか?という面白い考え方を、ここで著者は持ち出す。
「住民の今の記憶を5分前に神が創った」という事態の意味を、私たちは理解できる。
だが、神が、誰も覚えていない過去そのものを、その時点で同時につくる、とは何をすることなのか、私たち住民は、理解することができない。
私たちは、無神論者であっても、神を信じてしまっているからだ。
全能の神だが、全能とは、私たちが、何をしているのか識別理解できる範囲で全能なのであって、その意味が理解できないことは、神にもできないことになる。
私たちは、理解できる形で捉えられてはじめて、それが起こったことと考える。
理解できないことは起こりえない。
そうした事態は、強く無意味だからである。
よって、全住民の記憶が5分前に作られたという自体はありえるが、5分前に世界自体が過去そのものなしにつくられたという自体はありえないことになる。
著者は続けて、今度は、記憶ではなく近くがすべて偽者だったとしたら?
もし世界5分ごとに作り直されているとしたら?
私が昨夜作ったのだとしたら?
等々、いくつかの違った仮定を検討していく。
世界を開闢という特異点を考えることで、私や今や神といった根本的概念を洗いなおしていくことになる。
「開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。
そのことによって、われわれの現実が誕生する。
だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。
この構造こそが、本書全体を通じて私が問題にしたいことの根源である」
では、ライプニッツの原理とカントの原理とは何か?
前半では、「今」を考えるにあたって、二つの原理が考察される。
・何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ(ライプニッツの原理)
・起こることの内容的なつながりによって何が現実かが決まる(カントの原理)
ライプニッツの原理では、例えば、突然、ドラエモンが目の前に現れたり、ある時刻を境に、自然法則が逆になるようなことが起きても、それは、現実だと認めていく考え方。
カントの原理は、平行分裂する世界観を前提としていて、今と連続する内容でなければ、現実ではないとする考え方。
ライプニッツの原理の正しさは、特に、「私」の現実にとっては、疑いようがないほど確かなものになる。
たとえ信じられないようなことが起きようが、主体の私が現実とつながっているのだから、現実でありえる。
過去の歴史経過と、今起きたことがつながっていないように思えてもなお、起きたことは、現実である。
だが、世界の現実という視点を考えてみると、カントの原理も正しそうに思えてくる。
分裂していく世界のうち、過去の歴史経過とつながった世界と、そうでない世界があったら、つながった世界の方を私たちは、現実だと認識するだろう。
そうでないと、「私」が存在で分裂してしまって存在できないように思えるからである。
この他、時間に関する考察だとか、私的言語の可能性などが論じられる。
長い議論の末、著者はこう書いている。
「現実世界は諸可能世界の内の一つの世界であるに過ぎない。
ところが逆に、それらの諸可能世界はすべて、現実世界の内部で構想されているに過ぎないともいえる。
だから、われわれはその現実世界の存在を「証明」することができない。
それは必然的に前提されるほかはない。
すべてはそこから始まるのだ」
開闢は、どうやらこの前提するという行為の中にありそうだ。
だが、言語や知覚や、脳が作り出せる概念のあり方について、構造的制約があるがゆえに、前提の内容を確認しようとすると、逃げられてしまう気がする。
そういう逃げられてしまう根本を、あの手、この手で追い詰めて見つめなおす作業自体が哲学の面白さであり、パースペクティブを拡げる手段としての有用性でもあるのだろう。
[ 教訓 ]
おそらく大昔から、ある種の人々が、「これはなんだろう」と首をひねりつつ、うまく言葉にできなくて放っておくしかなかったにちがいないこの謎を、著者は、〈私〉という言い方で結晶させてみせた。
あのとき「世界は動いた」のだと思う。
「<子ども>のための哲学」永井均(著)(講談社現代新書)
その思考を丁寧に読みたどった人は、哲学の専門家でなくとも、頭の中に初めての光が点灯するのを感じたはずだ。
しかも周囲を見回せば、読者どうし同じ光がチカチカし始めたことを互いに知ったはずだ。
「我思うゆえに我あり」という歴史も、これに似た衝撃だったのではないか。
で、本書『私・今・そして神』では、その〈私〉がぐっとバージョンアップする。
〈私〉が成立する奇妙で巧妙な入れ子の構図を、〈現実〉や〈今〉という構図と照合しながら、総合的に言い換え、綿密に語り直す。
著者が用いるのは、まずライプニッツとカントのそれぞれに卓越して対をなす現実構成原理、くわえて時間や私的言語に関する根源的な思索。
こうした哲学のベース基地とも言えそうな地点から、〈私〉の位置をいっそう明白に指し示すのだ。
それにしても身にしみて分かった。
哲学とは理屈だ。
日常使われる言葉とはちがい、まぎれもなく厳密な論理だけが駆使される。
無用な修飾もない。
だから、読みながら、ときどき数学の証明をたどっているような気になった。
とくに論述の展開が循環性や対称性に乗っかって膠着してくるところなどは、方程式や図形の難問を同級生がすらすら解くのを側でただ眺めている気分だった。
しかし、そうした軽業師レベルの理屈に支えられてこそ、〈私〉はやっと本当の骨格を現わしてくる。
その図抜けて精度の高い透視図を、いくらかは共有できるのだから、この本はやっぱり凄い。
あえて疑問みたいなことも二つ述べておきたい。
著者は、〈私〉とは何かが気になるとき、例えば、宇宙の果てがどうなっているかは気にならないのだろうか。
素粒子の素がどうなっているかは気にならないのだろうか。
私は同じく気になって仕方ない。
〈私〉の謎が解けるとしたら、緻密な思索がどこまでも近づいていくが、けっして到達できないある極限においてだ、という言い方ができるようだ。
その極限とは、宇宙や素粒子の正体を考えて七転八倒するときの極限と同質だと思う。
[ 結論 ]
もっと具体的に、人間という現象にとっての遺伝子の位置・脳の位置・言語や情報の位置、といった疑問を深く覆っている霧が、いまにも晴れそうで晴れないのも、同じことだろう。
しかし、こうも考えられる。
宇宙や脳に関する科学的な知識や整理など、〈私〉の解明には何の役にも立たないのだと、著者は、なんらか整然とした根拠で判断しているのだと。
そう考えなければ、デカルトやカントの時代でもないのに、現代の知識がほとんど出てこないのは、やっぱりヘンじゃないだろうか。
あるいは、著者の「公理系」は、そうした煩雑な部分を排することで、これだけ厳密な命題と証明を成立させたのだ、と言うべきなのか。
たとえば中島義道氏の本などを読むと、(哲学書とは言えないが)、浮世の格闘と哲学の格闘とが一つの境地で結びついているふうだ。
一方、著者の本では、そうした下世話な空気はきれいに滅却されている。
同書の冒頭で、世間的な煩わしさにもちらっと触れているが、全体としては、世過ぎ身過ぎでぐだぐだ悩む人物には見えない。
それは、ある意味で当然だ。
著者は、大学の教員として給料を確保しつつ、本質的な問いを中心に生活できる立場なのだろうから。
私からみれば極楽。
その点は中島氏だって極楽の住人のはず。
そうでない立場にとっては、経済や生存の問題こそが否応なく切実なのだ。
もちろん、この〈私〉をどうしたものかという問いは、この生活をどうしたものかという問いと、少なくとも同程度に切実であると私は確信している。
しかし、そうではあっても、生活の深刻さに容赦なく気づかされるほど、哲学の深淵さにだれもが気づくわけではない。
生活苦(生活がうまくいかない)を実感するには、哲学苦(哲学がうまくいかない)とちがって、特別な思索や読書を経由する必要はない。
しかし、いろいろ考えた結論。
それでも、けっきょく、哲学の重大さと生活の重大さとは同じ次元でありうるし、同じ次元であるべきではないか。
哲学に、ときとして私がのめり込んでしまうのは、生存や経済の問題をも、だいぶ遠いけれども、実は、直接に照らしているからなのではないか。
そうでなければ、このような本を手にする動機や意義はない。
そうすると、中島氏のように、世間的、そして哲学的な懊悩(どちらも相当贅沢な懊悩だが)が同居しているような姿勢のほうが、やはり必然なのではなかろうか。
[ コメント ]
さて、少し引用もしておこう。
以下は、同書の入口だと思われるが、エッセンスが詰まっているようでもあり、入口にしては狭い。
でも、中へ進むともっと狭くなるのだ。
出口は、なおさら狭いし、困ってしまうほど遠い。
いや、そもそも出口が分からないのは私だ。
だから、まだ、外へ出ていないと思われる。
しかし、まず、これくらいは通り抜けないと、きっとお話にならない。
「気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。
そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、〈私〉とか〈今〉とか、いろいろな名づけがなされていく、といった感じである。
他人との対比が持ち込まれれば〈私〉ということになり、過去や未来との対比が持ち込まれれば〈今〉ということになる。
身体との対比が持ち込まれれば〈心〉ということになり、外界との対比が持ち込まれれば〈内界〉ということになり、死との対比が持ち込まれれば〈生〉ということになり、さらに非現実との対比が持ち込まれれば〈現実〉ということになり、もっとさらに決定論のようなものとの対比が持ち込まれれば〈自由意志〉ということにもなる……といったぐあいである。
対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれる。
そして、この錯覚こそが現実になるわけだ。
〈私〉と他人との対比が持ち込まれると、あたかもそれらに共通の「人間」というものが存在するかのように考えられることになり、〈今〉が過去や未来と対比されると、あたかもそれらに共通の客観的な「時間」というものが存在するかのように考えられるようになる。
もともと存在しているのは〈 〉で囲んだほうだけなので、それがそれ以外のものと一緒にその内部に位置づけられるような共通項は、じつは存在しない。
人間たちの中には私はおらず、時間の中に今はない。
むしろ〈私〉の中に人間たちが、〈今〉の中に時間がある。
〈 〉で囲んだほうが存在することこそが、世界の開闢そのものなのである。
これを「開闢の奇跡」と呼んでおこう。
ところが、対比が持ち込まれた後では、話が逆になって、もともと存在していた〈 〉で囲んだほうが共通項の中の一つとされるので、その例外的なありかたを何とかうまく共通項の中に埋め込んで消去しようとする、倒錯的な努力が開始されるのである。
開闢それ自体が、それによって初めて成立したはずのものの内部に位置づけられることになるわけである。」
「開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。
そのことによって、われわれの現実が誕生する。
だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。
この構造こが、本書全体を通じて私が問題にしたいことの根源である。」