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朝顔、蝉、蛍、時代の情操と音律。

Photo:明治19年(1886)に制作された月岡芳年の「月百姿 はかなしや波の下にも入ぬへし つきの都の人や見るとて 有子」という浮世絵(太田記念美術館所蔵)

季節外れの話題だけど。

「朝顔の花一時」以外に、物事の盛りの時期の短いことのたとえとして、「蛍二十日に蝉三日」ということわざがあります。

蛍と蝉は、ともにその命の短さから、盛りの短いものの代名詞に使われています。

日本には蛍になぞらえて、せつない恋心をうたった短歌がいくつかあり、短命な蛍と蝉もまた恋にからめた表現が少なくありません。

妄想力の高まる蛍で伝えるせつない恋の歌であれば、和泉式部のとても情熱的な「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」(あの人のことで思い悩んでいると、水辺を舞う蛍もわが身からさまよい出た魂かと見てしまう)。

「後拾遺和歌集」(岩波文庫)久保田淳/平田喜信(校注)

また、相手に会わないで激しく思い焦がれるさまを、「見ず」と「水」を掛言葉として「水に燃え立つ蛍」(水上を燃え立つように光り輝き飛び回る蛍)と例えていますね。

切なさが爆発な恋の歌だと、「古今和歌集」の読み人知らずの作品である「明けたてば蝉のをりはへ泣きくらし夜は蛍の燃えこそわたれ」(夜が明ければ蝉のようにずっと泣き暮らして、夜になれば蛍のように恋心が燃え続けます)。

「古今和歌集」(岩波文庫)佐伯梅友(校注)

ヤンデレじゃん!とか思ってしまうよね(^^)

和歌の表現として多少盛ってる?のかもしれないけど。

古の人はきっと、現代人よりもずっと、ずっと感情豊かで、これくらいの感情の放出は普通だったのかなって、そう感じたら、ちょっと、怖くなった^^;

そんな燃えつきそうなほどの恋って凄いなって、想います。

例えば、この歌も・・・・・・

「忘れじの行末までは難ければ今日を限りの命ともがな」(愛を味わえる今この瞬間に命尽き果ててもいい。)

「玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする」(愛に苦しむくらいならば死んでしまったほうがいい。)

与謝野晶子どころではないなあ^^;

もし、この歌を、愛する人から貰ったとして、返歌は、何が良いんだろう?って考えてみました。

ん~

この歌は、新古今和歌集に入っている和歌だから、本来なら新古今和歌集から選ぶべきかも知れないけど。

百人一首の中にも入っている有名な歌なんだよね。

同じく百人一首の中に入っている和歌から選ぶとすると、

「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」(こんなにも思っているのに。伊吹山のさしも草のように燃える私の思いがそれほどまでに強いとは、あなたは知らないでしょう)

とか、

「逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり」(愛しいあなたに会えて、お互いの気持ちを確認した今、またすぐ会いたいと思う気持ちに比べたら、つい最近まで抱えていた切なく苦しい想いはなんでもないですね。)

かな?

なに、これ。

久しぶりに、「小倉百人一首」をさらさらさら~と読んで選んでみただけなんだけど、こんなに熱い人たちだったとは。

「原色小倉百人一首」(シグマベスト)鈴木日出男/山口慎一/依田泰(著)

人は感動・共感・尊敬・感謝・愛情・孤独・・・・・・さまざまな想いを心に秘めています。

そんな心の中を、時には花に、時には月や風に映し、僅か三十一文字に描いた百人の心模様を集めたものが『小倉百人一首』。

恋というのは相手を想う心。

心は目に見えないけれども、「人は恋することではじめて人間らしい心を知っていく」という和歌もあるように、平安時代はとても恋を大切にしていた時代でした。

恋というものが、人が人となる原点だと考えられていたようですね(^^)

『小倉百人一首』には、四十三首の恋歌があります。

そして百首には、百の心の型がある。

改めて読んでいると、純粋な心の在り方に近づいていくような気持にさせられる歌ばかりです。

そう、人の命には、必ず最後が訪れ、そして恋にも必ず終わりがあります。

なかでも失恋や別れなど悲しい歌が多いのは、永遠の恋はないことを知っていたからでしょうねぇ。

人の想いや絆を象徴するものが恋歌だったのではないかと、そう想います。

そんな『小倉百人一首』四十三首の恋歌から、人生への想いを重ね合わせた印象的な、片思いの歌・忍ぶ恋の歌・別れの歌を探してみると・・・・・・

◆片思いの歌
「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」(陸奥のしのぶもじずり(の乱れ模様)のように、誰のせいで思い乱れはじめてしまったのでしょう。私自身のせいではありませんのに。(みんなあなたのせいですよ。))[小倉百人一首 第十四番 河原左大臣]

◆忍ぶ恋の歌
「玉のをよ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」((私の)命よ、絶えてしまうものなら絶えてしまっておくれ。このまま生き永らえていくなら(ますます恋心が強くなって)、心に秘めていることが弱ってしまうかもしれない。それでは(人目について)困るから。)[小倉百人一首 第八十九番 式子内親王]

◆別れの歌
「いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな」((逢うことをさえぎられて)今はただ、あなたのことを思い切ってしまおうということだけを、人づてでなく、伝えする方法があればよいのになあ。)[小倉百人一首 第六十三番 左京大夫道雅]

このように『小倉百人一首』の恋歌は、ハッピーなものよりも悲しくせつない歌が多いのが印象的でした。

これは、たぶん。

困難が多い人生で、当時の人々は和歌によって慰められ、共感し、生きる力を与えられていたのではと思います。

そして恋の作法も今とは違います。

男と女が顔も見ず会わないうちから歌のやり取りで恋が始まり、会ったときにはもう強く心を通わす仲になる。

歌で何度も恋心を伝えてから、会うに至るわけですから、いかに恋する心を的確に歌に詠んで相手に伝えるかが重要なことでした。

和歌は心と心、人と人との絆を繋ぐ大切なコミュニケーションツールだったことが、『小倉百人一首』の恋歌を読んでいるとよくわかるから、現代におけるSNSでのコミュニケーションも、短い言葉で、思いを伝えているのだから、会えない時間を大切にして、もう少し的確な言葉で伝えられたら、良いのかなって、そう感じました(^^♪

古今和歌集の「大空は恋しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ」の歌なんかも、とてもロマンチックで、なんだか、少女マンガの1シーンのようには思えませんか?

少女マンガに詳しくないけ、そんな感じがしたんだよね(^^)

河原の土手とかを歩いている一人の女性。

恋人と別れたばかりの彼女は、ふとその人のことを思い出すと、大空を見上げてしまう。

まるで、大空があの人の形見であるかのように・・・・・・

でも、本当の・・・・・・

大空を見上げてしまう理由は・・・・・・

あふれる涙がこぼれ落ちないようにするため(T_T)

あれ?

中島みゆきさんの「この空を飛べたら」と、似ているような?
https://www.youtube.com/watch?v=xtP-GNaK-SQ
https://www.youtube.com/watch?v=kx5rsAgfTIs

ただ、空の大きさを感じるなら、こんな曲の方がよいかな?(^^)

間慎太郎「遥か」
https://www.youtube.com/watch?v=b7y6UAFc5xA

同じ空を見上げる「ゆふぐれは雲の旗手に物ぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて」の歌は、「思ふ人」を焦がれる思いが詠われている名歌ですが、この歌ほど、その解釈を巡って異論があったそうだけど、人の心の中は、その人しか分からないから、ねぇ(^^)

【参考文献】
『雲のはたて考(2)』 前田圓
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/http://junmaeda.sakura.ne.jp/madoka_research/Madoka_Kumo_070617.pdf

この歌は、中河与一の「天の夕顔」のエピグラフ(本の巻頭などに付される独立した詩、文。 題辞。)として添えられてもいます。

「天の夕顔 (改版)」(新潮文庫)中河与一(著)

同じ古今和歌集の「ほととぎす鳴くやさつきのあやめぐさ あやめも知らぬ恋もするかな」は、「古今和歌集」の恋の一番初めに載る歌。

恋の始まりを読んだ歌ですね。

いわゆる恋の順番なんかいろいろすっ飛ばしちゃって、ちょっとドキドキ、どころか悶々としてる状態。

どうして好きになっちゃったのか。

恋は、人間が頭で考えてもどうしようもない。

ご縁があればしてしまうものなのかなって、そう想います(^^)

ある意味、人間の考えを超越した、宇宙の采配のような、宿命的なものだと、昔の人は思っていたようですね。

「恋愛名歌集」(岩波文庫)萩原朔太郎(著)

そうそう、この歌を、「恋愛名歌集」の中で、朔太郎はこう評していました。

「・・・・・・ああ、このロマンチックな季節!

何ということもなく、知らない人もそぞろに恋がしたくなるという一首の情趣を、巧みな修辞で象徴的に歌い出している。

表面の形態上では、上三句は下の「あやめも知らぬ恋もするかな」を呼び起こす序であるけれども、単なる序ではなくして、それが直ちに季節の風物を写象しており、主観の心境と不離の有機的関係で融け合っている。

しかも全体の調子が音楽的で、丁度そうした季節の夢みるような気分を切実に感じさせる。

けだし古今集中の秀逸であろう。」

朔太郎の詩論は、和歌・俳句などを音楽としてとらえていることに尽きますね。

【参考記事】
時代の情操と音律『恋愛名歌集』(一)萩原朔太郎
https://blog.ainoutanoehon.jp/blog-entry-133.html

頭韻や脚韻『恋愛名歌集』(二)萩原朔太郎
https://blog.ainoutanoehon.jp/blog-entry-135.html

調想不離の美『恋愛名歌集』(三)萩原朔太郎
https://blog.ainoutanoehon.jp/blog-entry-136.html

音律構成の織物『恋愛名歌集』(四)萩原朔太郎
https://blog.ainoutanoehon.jp/blog-entry-137.html

もっと激しいのは、短歌ではありませんが歌舞伎や人形浄瑠璃にも使われている慣用句「鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」ですかね。

説明するまでもないけど、口に出せる想いよりも口に出せない想いのほうが切実・・・・・・

深いですね。

「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」という都々逸から来ているという説もありますが、前述の「後拾遺和歌集」の中に収められている次の歌がもとになっているのではないかとも言われています。

「音もせで 思ひに燃ゆる蛍こそ 鳴く虫よりも あわれなりけれ」

恋愛の心情を口に出すより心の奥底で思いを深く内向させているなど、恋をしていてもしていなくても妄想力を掻き立てられる言葉たちであり、恋をしているひとなら、もしかして、同じ景色を眺めて共感できるかもしれません、ね(^^)

こんな激しい恋って、「愛と誠」か、西城秀樹の「激しい恋」の歌くらいか?(爆)

西城秀樹「激しい恋」
https://www.youtube.com/watch?v=GpqeHW8yzmY

それとも、GReeeeN「愛唄」とかかなあ~

でも、ちょっと、激しさに欠けるような?

GReeeeN「愛唄」
https://www.youtube.com/watch?v=EvwRYGlJWfQ

なので、こんな静かな激しさを持つ男の歌も良いかも、ね(^^)

浜田省吾「もうひとつの土曜日」
https://www.youtube.com/watch?v=g--Si-ptXBA

【関連記事】
恋愛関係より親友になる方が難しい?
https://note.com/bax36410/n/n9199e74d9748

「愛」は動詞である
https://note.com/bax36410/n/n878d15c13d8d

【朝顔がタイトルに使われているMV】
折坂悠太「朝顔」
https://www.youtube.com/watch?v=tZs7LDOxRes

Jazztronik「Aoi Asagao」
https://www.youtube.com/watch?v=--6_rjHQnvo

ツユ「アサガオの散る頃に」
https://www.youtube.com/watch?v=VP7FM1yyMpU

【蝉がタイトルに使われているMV】
長渕剛「蝉 semi」
https://www.youtube.com/watch?v=qHmTJIIqJTg

カノエラナ「セミ」
https://www.youtube.com/watch?v=4CHM_Y8401A

さだまさし「冬の蝉」
https://www.youtube.com/watch?v=i5aTpZKdmbI

【蛍がタイトルに使われているMV】
EVISBEATS feat. Itto「蛍 (ほたる)」
https://www.youtube.com/watch?v=34cCdA3upY8

鬼束ちひろ「蛍」
https://www.youtube.com/watch?v=PAbh3bpJxlk

中山うり「ホタル」
https://www.youtube.com/watch?v=lMc8bpeCrRA

【おまけ】
高校時代、百人一首を暗記させられたりしたけど、和歌がこんなに艶っぽいとは思っていなかった。

もちろん教科書に解釈は載っていたので、意味は分かっていた筈なんだけど。(怪しねぇ(^^;)

「朝寝髪われはけづらじ美しき君が手枕(たまくら)触れてしものを」(美しい艶を放つ愛する人の黒髪・・・・・・今夜も彼女のところへは行けなかったから、俺のいない寝床にあの黒髪をなびかせて、彼女は嘆いていることだろうな。)

「長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ」(あなたの心は末長く心変わりしないということは信じがたいことで、お別れした今朝は、わたしの黒髪が乱れるように心も乱れ、いろいろともの思いにふけってしまうのです。)

「枕だに知らねば言わじ見しままに君語るなよ春の夜の夢」(ふたりの秘密を知り洩らすという枕を交わさずに夜を過ごしたということは、枕もその秘密を知らず、枕も私も誰も人に話すことはないわ。だから貴方、ただひとり昨日のすべてを知っている貴方、見たままの事をどうか語らないでね、貴方と私だけの春の夜の夢のような一夜を。)

久しぶりに読んでみたんだけど、一夜を過ごした後の気怠さを、ここまで生々しく詠んでいるとは・・・・・・

よくもまあ、こんな内容の歌を、高校生に教えていたものだとも思う^^;

そんな心情だとは、これっぽっちも感じないから、興味も湧かず残念。

どうせなら、もっと、その時代背景(結婚観)と絡めて教えてほしかったなあ。

此の様な想いを歌うのは、日本の結婚が妻問婚が基本であったことも関係しています。

女児が家を含む財産を受け継ぎ、年頃になるとその家に男性が通う、母系社会の名残をとどめた結婚の形で、万葉の時代には、完全な通い婚。

夫婦が一緒に暮らすことはありませんでした。

現代では、夜這いだと勘違いされている「よばふ」という行為は、通ってきた男が外から女を「呼ぶ」ことを言います。

許可なしでは入れないほど、“ 夫 ” は「客人(まれびと)」であったということです。

男は女と夜を過ごし、朝早く、人目に立たないうちに自分の生家へ帰ります。

それまでの時間だけが “ 夫婦 ” なので、男が他所へ通うことも、女のところに、別の男が訪れることもありました。

生まれた子は、女性の実家で等しく育てられますから、誰の子かなどと騒ぎ立てる必要はありませんでした。

もちろん、これはとても不安定な関係となります。

気持ちひとつで消えてしまうシビアな関係であり、愛し合っていても何らかの事情で時間が取れなければ、互いに嘆きながら過ごさねばならない関係でもあったんだよね。

現代と、その時代、どちらが幸せかと問うのは野暮かな(^^)

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