明日死ぬとしたらどうしたい?
※話脱線しすぎてうざモード発動してます※
数日前から耳下のリンパ節が腫れていたことが
本日、耳鼻咽喉科に行ってわかった。
正直ホッとした。
なぜならこの数日間、
本気でこのリンパ節の腫れを
腫瘍だと思って
「あー明日死ぬ気がするー…」
と毎日思いながら過ごしていたから。
そうです。アホです。
うちのオカンも同じような感じで
私が小さい頃から、ことあるごとに
膵臓のあたりを押さえながら
「わたしはもうきっとこの先長くはない…」
と寝る前に痛い痛いと静かに眠るのであった。
幼心に、明日の朝、母が死ぬかもしれない
そんな想像をしながら
毎日オカンに抱きついて眠っていた。
(うちは一人部屋が無く、実家を出る18歳の終わりまで母と雑魚寝空間で育った)
私の生きる上での覚悟というか
これについては潔く諦める事象
という項目がいくつかあって。
その中のひとつに
治療をしても苦しみそうな病気や
治るか治らないかわからない病気は
発覚しても治さない。
ということがinしている。
軽い風邪なら病院に行く。
薬局で風邪薬買うより
的確に効く漢方薬を出してくれるから。
抗生物質は極力飲みたくない。
漢方だより。
そんなわけで、
腫瘍ができたと思って、
久しぶりに
死が近くに感じた。
そうだよなあ
別に腫瘍があろうがなかろうが
明日死ぬかもしれないのは
大して変わらない確率、運だよなあ
そんな当たり前のことを
思い出した。
あした死ぬとしたら
何をするだろうか
わたし、貯金をしないから
財産がぜんぜんない。
財産が多少あるなら
明日死ぬなら両親に
車と家を買って、
おいしいご飯を食べてもらって、
最低限の自分の思う恩返しをして
死にたい。
でも、いま
明日死ぬとしたら
それをする資金がない。
あ、もし資金がなかったら
借金をして両親に使いきって
自己破産をして
迷惑をかけない状態まで清算してから
死にたいな。笑
1日では無理か。笑
宵越しのお金くらいは持ちたいが
別に将来のためにお金を貯めていく気兼ねはない。
好きな時に好きな物事に使って
それでも何故か
手元には常にお金が少しだけ残るから
あまりお金のことは考えずに
使っている。
まあ使いたい物事が大抵自分の中であるので
それ以外の出費を極力セーブしたり回避している。
ただ、使う物事には
すごくマイルールや直感を適用していて
自分の未来に繋がらないと感じる物事や
使った時に嫌な感覚になったり
モヤモヤが残る物事には
使わない。
使いたくないから、使わない。
使いたいと勝手に心が思って
勝手にお財布が開いている。笑
お金のこと、この世でいちばん愛しているから
愛しているお金を
愛を持って循環させたい。
愛している自分の命の時間と引き換えに
引き寄せた愛しているお金ちゃんを
愛のない消費で死なせたくない。
死なせてたまるものか!!!
巡り巡って
大きくなって帰ってきいやー!!!
そんな親心。
この物質世界で
自分のことをいちばん信用信頼していて
愛している。
もう、溺愛。
わたしの夫はわたし、のマインド。
なんでも買ってあげるし
とことん楽させてあげる。
労わってあげる。
尽くしてあげる。
の、次に愛しているのがお金ちゃん。
お金は裏切らないし嘘をつかないから。
期待したらしたぶんか、それ以上に
返してくれる存在。神ってる存在。
他人よりも動物よりも意思疎通がとりやすい。
望んだものを運んできてくれる。
愛を伝えさせてくれるし
伝えてくれる。
あれ、これなんの話してんだっけ?
お金のはなし?してたっけ?
あーなんかそんで取り敢えずまとめると?
お金が無くなったら
借金して、借金もできなくなったら
自己破産して
自己破産して立て直しきかなくなったら
生活保護受給して
そこから少しづつ働いて
また一から生活を作り上げ直せばいい
そう思って生きてる。
これは私が一番働き盛りの
20代後半に
間違った方向に頑張りすぎて鬱になって
働けなくなってお金が底を尽きて
生活保護申請直前までいった経験から。
案外、働けなくなっても
健康な命さえ放棄しなければ
何とかなりそうな現実を知ったから。
困った時は
税金払った分くらいは
日本の制度に頼らせてもらえばいい。
もし日本の制度が変わって
積みゲーの場合はそれはそれで
どうにかなるし、どうにかする。
その覚悟はある。
誰かに養ってもらおうとか
もたれ掛かろうとか
そういう他力本願な結末は想定していない。
自分の意志決定でそう生きるんだから
周りを巻き込まない。
あくまでも、手元にある手札の中から
最善を選ぼうか。
そんな楽観思考。諦め。手放し。
とか言いながら
頼りたい人には頼りたいのが人間よね。
そこはその時になってみないと
自分の弱さ狡さが出るかもしれないし
わからない。
でも、一応
自分の責任を抱えて生きていくつもり。
そのつもりのその日暮らしをしている。
20代、積みゲーが何度かあり
自死を何度か試みたが
それもまあ、
積みゲーに向かうしか脳のなかった愚かな自分の
責任の取り方としてだった。
知識や経験が少ないと
選べる手札自体が少なくて
責任の取り方も極端な取り方になる。
ゼロかヒャク思考は本当によくない。
死ぬか、人に寄生するか、自分を売るか。
自分を売ることは死ぬこと同然の私には
実質、死ぬことしか選択肢が見えてなかった。
これはどんな小さな物事の選択でもそうで。
この人合わないなとか思って
ふつうは距離を置くとか
上辺だけで関わるとか
そういうマイルドな選択が無数にあるんだけど、
ゼロヒャク思考だと、
縁を切るか無理して深く関わるかしかない。
縁を切れるタイプなら
どんどん縁を切って孤独になって
人との関わりの中でしか得られない
大切な学びを得られないし、
縁を切れないタイプなら
自分が無理をする関係をどんどん増やし
自傷行為のような人間関係が増えて
悪い人間関係や環境に依存する。
どちらも正しい学びを得る機会の損失が大きい。
年齢を重ねていくにつれ
社会的に置かれるステージが変わる。
本人が抗おうとも
社会から用意されるステージの段階ってのがある。
その年齢ごとのステージの中での学びを
少しずつ積み重ねていくと
相対的な自己形成を経て
オリジナリティーあふれる自己が確立されていく。
揺らがない自己。
" 若い時の苦労は買ってでもしろ "
という言葉は
こういう「芯」を一本通すためでもあるし
苦労の分だけ痛みを知り
他者に対する想像力、思い遣り、優しさの
範囲を広げていくためでもある。
苦労の分だけ
自分とは違う価値観や生き様に触れ
心の許容範囲も広がる。
ある程度若いとされる年齢でないと
苦労に直面した時に向き合って立ち向かうだけの
体力がなかったりする。
一度、向き合い立ち向かうための体力が備われば
体力で補えない部分は知恵や経験でカバーできる。
だから、
若いうちはできるだけ
社会に出て
たくさんの人に揉まれながら
汗水流して働くという選択をしたほうが
「自己成長」になるし
「自己認知力」や「自己効力感」がちゃんと育つ。
自己認知力がちゃんと育てば
他者を認知する視野が広がる。
人を正しく見極める目が育つ。
人を正しく見極める目が育てば
人に寄りかかろうとか
人に依存したり甘えたりといった
自己責任の放棄もしなくなる。
というか、出来なくなる。
その先の代償がどれほど自己にマイナスかが
想像、認識できるから。
折れても失敗しても
体力さえあれば何度でも立ち上がれるし
這い上がれるし
マイナスからでもやり直せる。
ストレス耐性も備わる。
根拠のない自信が湧いてくるようになる。
だって、何度だって
そこから前を向いて
立ち上がればいいだけなんだから。
上を目指して、這い上がればいいだけなんだから。
何かあった時に
あたふた混乱して頼り甲斐のない大人より
どんと構えたカッコいい大人がいい。
なんか、話変わりすぎてる。。。
しかも熱血押し付け感やばうざい。。。
べつにさ、ぷらぷら適当に生きればいいのさ。
ただ、夢や目標や理想だけは大口たたくくせに
被害者ぶって不幸ぶって
理想の自分になれない自分を嘆いてる
そんなのは自分や周りが見えて無さすぎるよね
ってはなし。
そう、だから
明日死ぬとしたら何したい?
わたしはね
国会の前で弾き語って
全国生放送で晒されて
わたしの生きた証の歌声と姿を
全国に、国会に、日本に
届けたい。
なんて思ったんだ。笑
迷惑行為がすぎる。
最後までやっぱり「歌」を聞いて欲しい
それだけなのかもなー
なんて呆れたよ。
ほんとうにしそうで怖いでしょ。
アホの戯言でした。
みんなは明日死ぬとして
何したい?