琵琶を、はじめた人の話
20代前半。
中央大学総合政策学部政策科学科を2年足らずで中退する要因となったのは、入学と同時に旗揚げしたミュージカルサークル「劇団The座」との出会いでした。
高校で合唱部と演劇部を掛け持ちしていたので、芝居とコーラスどちらも兼ね備えたミュージカルは自分にはもってこいだったのかもしれません。
幼少期にミュージカルの舞台に胸躍らせた経験がまた僕の背中を押したような気もします。
大学中退後はミュージカルサークルでの舞台制作を続けながら外部のワークショップや養成所で芝居の基礎を身につけ、その後フリーの役者として複数の劇団やユニットの舞台、映画に参加するほか、TVCM、展示会MC、声優など、さまざまな経験を積みました。
30代前半
生まれたばかりの息子のことで頭がいっぱいになったのか、どうも台詞が頭に入らないようになったのを機に舞台から降りて派遣先の会社に就職することになりまして。
祖父の形見として実家に保管されていた琵琶は、息子とともにゼロから成長していけるものをと思い立ち手に取ったものでした。
流石に初期費用(修理費用)15万円程と分かった時には子育てでお金もかかる時に…と当時の配偶者からは文句を言われましたが、配偶者の勧めではじめたものでなんとか琵琶のスタートラインに立ちました。
修理の際、虎ノ門の石田琵琶店店主の石田さんに「まだお師匠さん決まってないんたろ?」と紹介していただいた師匠の名は岩佐鶴丈。
祖父の琵琶演奏者としての名は馬場鶴洲。
師と祖父は鶴田錦史の直弟子であり、岩佐先生は祖父のことを「丸い顔の」とご存知でありました。祖父が亡くなる少し前、まだ小学生だった僕は病院で言葉も発せなくなって息をしているのかもわからない状態で伏せていた祖父の手をおそるおそるにぎり、子供ながらにもう無理なのかもしれないとわかっていながらも「また遊びにきてね」と声をかけたのを、祖父は覚えていてくれたに違いありません。
琵琶が僕のところへやってきたのはそういうわけです。おじいちゃんの琵琶、今でもよく鳴ってくれています。本当に遊びに来てくれてありがとう。おじいちゃんの琵琶がまた多くの人を惹きつけています。これからもよろしくね。
(撮影 howdygoto)