ネガティブな戦国武将
皆さんこんにちは、ばったです。
今日は、めちゃくちゃネガティブだった戦国武将、
毛利隆元【もうりたかもと】について
お話ししていきたいと思います。
【毛利隆元】とは
毛利隆元は安芸(広島県方面)の戦国武将で、
【毛利元就(もうりもとなり)】の長男です。
1523年(大永3年)の生まれで、
戦国武将で1番有名な”織田信長”は1534年生まれなので、
隆元は信長の11歳年上ということになります。
【性格】
隆元の性格は温厚で実直だったといわれ、
裏を返せば、戦国武将としては気弱とも取れる性格
だったと言えます(父の命令もあり、戦には参戦
して実績もあげています)。
そして隆元は武芸よりも、
今で言えば書道・絵画などが
得意で、文化的教養の高い人物でした。
隆元は24歳で毛利家の当主になりますが、
実権は父の元就が握っており、当主として
自信が持てずにいたと言われています。
しかも書道や絵画が好きということもあって、
あまり外に出なかったことも問題視されていました。
実際に父の元就から、狩りや蹴鞠(けまり、球技)を
勧められていたと言われています。
1557年、隆元が34歳の時に父・元就(60歳)が隠居を
宣言するのですが、これに隆元は大慌てでした。
その時の発言が、実際に毛利家の文書に残っています。
「父が隠居するなら、自分も当主を息子に譲って隠居する!
(息子は後の毛利輝元、当時4歳)。
家がどうなろうと知ったことじゃない!自分が毛利家を
滅亡させた当主にはなりたくない!自分は毛利家を
継ぐ器じゃないし、そんな才能もない!国を治めるなんて
できるわけない!」と、不安な心情があったことが
窺えます。(本当に自信が無かったんですね💦)
結果的に父の元就は隠居を撤回し、隆元の優柔不断さに
呆れながらも助言を続けることになります。
隆元自身は、偉大の父の背中を見てきた側面もあるので、
「自分なんて・・・」と比べてしまい、劣等感を
抱いていたのかもしれないですね。
さらに、弟2人が優秀だったことも、ネガティブな性格
に拍車をかけています。
他家に養子に入っているので苗字は違いますが、
吉川元春、小早川隆景の2人です。
父・元就は「3人兄弟が結束して毛利家を支えるように」
と家訓を残していますが、
「弟たちは自分の家のことばかりで、
相談事があっても自分ではなく
父上の方にいってしまうではないですか!」
といった不満を元就に訴えています。
(当時の兄弟仲はイマイチだったようです💦)
【最期】
そんな最中、隆元は41歳で急死してしまいます。
死因ははっきりしていませんが、宴の後に倒れた
とも言われています(毒殺!?とも言われています)。
父・元就は息子の死を嘆き、毒殺を疑って
家臣数名を処罰しています。
その後の毛利家は、財政状況が大きく悪化していく
ことになります。
実は、隆元は金銭感覚が非常に優れており、
財務能力が高かったのです。
父・元就や弟たちも、隆元の能力を
改めて認識したとされています。
その後は隆元の息子、輝元が
当主として動いていくことに
なりますが、
弟の元春、隆景は【毛利両川】として、
当主・輝元を補佐していくことになります。
【最後に】
毛利隆元のエピソードで、個人的に
注目したい点があります。
「誠実な人柄で、商人たちからの信頼が厚く、
多額の融資を受けていた」
という点です。
これは、「今後の人生で何かを変えていきたい」
と思っている人にとっては、
大きなヒントになるのではないでしょうか。
最後までご覧いただき、ありがとうございました^ ^