窓に届いた一筋の光
クリープハイプが活動して15周年。
私が好きになってからは10年くらいが経つ。もっと前から応援している人たちからしたらそんなに長い期間ではないかもしれないけれど、でもここまでまっすぐに何かを好きでい続けられたことって人生で初めてかもしれない。
そんな存在に出会えたことが、そんな存在が人生にあることが、それがクリープハイプであることが、たまらなく嬉しい。
『ままごと』
初っ端を聴いた瞬間、初めて『ラブホテル』を聴いて一瞬で恋に落ちた時のことが蘇ってきて、思わず涙がポロポロこぼれてきた。
あの時からずっと変わらずに格好良いままで、だから私はクリープハイプに毎回恋をしてしまう。
真っ直ぐなメロディーのそばで、思わず「どこに行っちゃうの?」って心細くなるような幸慈さんのギターが好きだ。
かと思ったらソロでは急にメロディーラインをなぞってきて、まるで『ズルくてぬるくてだらしない人』そのものみたいに思える。
『リグレット』『あの嫌いのうた』『愛の標識』『ラブホテル』『2LDK』『手』『ただ』『蛍の光』『料理』『凛と』って、アルバムの一曲目を飾ってきた曲たちがとにかく愛おしくて、『ままごと』は彼らと並んで負けず劣らず明らかに誇らしげな顔してる。
これらが曲じゃなくてマンガのキャラクターだったら、私はきっと『アルバムの一曲目男子アンソロジー』とかって訳わからん同人誌を出してたと思うし、
これが芸人だったら『僕達“アルバムの一曲目芸人”です!』とかってトーク番組の企画しちゃってたかもしれない。
どちらにせよめちゃくちゃに黒歴史になるに違いないから、よかった、これらが全部曲で。
『人と人と人と人』
『人と人と人と人が まだ出会わないことで生きている街』って、すごない!?
歌詞のついていない音源を聴いたとき、堪えきれないくらい寂しい気持ちになったのを覚えてる。
そこに歌詞がついて、メロディーがはっきりして、メロディアスなベースやギターがよりくっきりして、シンバルの音は華やかさを増して、曲が、音が、こんなにも意味を持つものになるんだって感動した。
まだこの世に存在しない完成形を目がけて一曲を組み立てていくのは、もしかしたらまだ見ぬ惑星を探すような、果てしなくあてのない旅かもしれない。
少なくともそんなことを15年以上続けてきて、それで研ぎ澄まされてきた美しい筋肉が、彼らにはたくさんあるんだと思う。きっとこの4人には私には到底分かり得ない世界が見えてるんだろうなと思った。
そしてそんな曲に付けられた意味が、まだ知らぬ誰かと出会わないことを肯定することであったことが、すごく嬉しい。
人でごった返す駅の中を歩いていると、たまに自分のあまりの“エキストラ感”に気が遠くなる。
自分は誰かの特別ではないし、ここにいる人たちのことも何一つ知る由もないし、日々惰性で続いてゆく日常は代わり映えがなく、なんか、何してんだろ、これ、なんのために生きてんだろ、ってものすごい無力感に襲われることがある。
でも、これからはこの曲が隣にいる。そんな何でもない私がこの街を生かしているのだと、存在に足る街にしているのだと優しく語りかけてくれる。
『青梅』
リリースされたのは2023年5月31日。アルバムリリースまで1年6ヶ月経った!
当時私は渋谷の広告代理店で働いていて、特異な音楽を流しながら街を行き交うアドトラックに「今月○日にどこどこでイベントがあるので、ここを走ってください」とか指示を出す仕事をしていた。
駅から会社まで行く最中、ビルの大型ビジョンにPairsの広告が流れるから、その時少しだけ聴けるこの曲と、画面の隅に表示される“クリープハイプ”の文字に毎朝心を奮い立たせていたのを覚えている。
アルバムは毎回こうして、タイムカプセルみたいに私の時を引き戻す。
シングルカットされた曲をどんな風に聴いて、雑誌のインタビューをどんな風に読んで、MVをどんな風に観て、ブログの文章をどんな風に噛み締めて、フェスやライブで新曲をどんな風に受け止めて、アルバムに収録されるまで、自分がどうやって生き抜けてきたかを詳らかにして、褒めてくれる。
そんなご褒美のような体験をくれる。
氷菓子みたいにシャリシャリしたハイハットの音とか、遊び心あるポワンポワンしたベースの音とかを聴くたびに、昨年の夏を生き延びた自分を思い出す。
夏の日差しの中、この曲で耳を満たして、折れそうな気持ちをなんとか支えて、ハチ公前の人混みを何度も通り抜けた。
焦げみたいに苦かったし、梅干しみたいに酸っぱかった。
『生レバ』
2024年11月16日に初めて聴いて、あまりに格好良すぎて訳もわからず涙が出てきた。
なんかもうとにかく格好良すぎてどうしようかと思った。
ゴリゴリしてる無骨なベースに泣けてくるし、挑発的なギターに誘われて胸が苦しいし、安心感あるくせにどこか乱暴なドラムに突き放されて、尾崎さんとカオナシさんが言葉というより音を繰り返すサビにくらくらした。
その点『ダフ屋になって〜』からは不思議な爽快感と切なさが入り混じって、そこからまた一際攻撃的な間奏が来て。(ここの幸慈さんのギターめちゃ好き)
聴いているうちにボコボコと血液が沸騰してきて、サビ前の拓さんの「ドンッ!」って音で最高潮に達する。
あの日のステージに立ち上った炎に何よりも焼かれていたのは、私の心だったかもしれない。
16日はもはや圧倒されて微動だにできなかったけど、これからどんどんライブで聴いて、どんどん沸き立ちたい。
『I』
『どうせ、愛だ』がリリースされたのが2020年。
私は留学先のニュージーランドでこの曲を聴いて、あまりの格好良さに気が動転し、当時日本にいる友達とプレイしていたオンライン大富豪のユーザーネームを『格好良かったな〜』にしてしまった。
そこから3年経ち、クリープハイプが『I』をリリースしたのが2023年。それを受けて空音さんが『男はこう粋であるべき』とツイートされたのがとても嬉しかった。
そして今回アルバムに収録された2024年。
聴いているうちに、『どうせ、愛だ』から『I』までの3年間、そして『I』がアルバムに収録されるまでの1年間を思ってしまう。
冒頭の焚き火のような音から、胸を締め付けられる。ライブで何度もこの曲を聴いて、受け止めてきた。彼らにとってきっと大切な曲だし、私にとっても大事な曲になった。
アコギの弦が時折鳴らすキュって音がまるで衣擦れみたいに響く。
『どうせ、愛だ』の“彼”が左の壁に付けて置いていたベッドを思い起こさせる。自問自答を繰り返して、ようやく素直になって、でも素直になりきれない、健気で愚直で天邪鬼で、そんなクリープハイプの歌の登場人物が私は本当に好きだ。
『インタビュー』
まるで讃美歌みたい。高いところからあたたかな光が降り注いでいるような心地に包まれる。
そんな中でシューゲイザー感のある歪んだギターがかき鳴らされていて、まるでザラザラの傷跡を撫でていくみたいだ。
とある日の夜、当時の職場から家までの道をチャリで走りながら、私はこの曲を聴いてボロボロ泣いて帰った。
かなり個人的な話になって申し訳ないけれど、私は今月、1年間務めた英語学校での先生の仕事を、かなり色々ひどいことがたくさんあって辞めた。
楽しくて仕方がないとやりがいに邁進した日々があったし、天職だと感じて結果も出て、何もかもが順風満帆で上手くいってキラキラ輝く日々があった。
何かがおかしくなって、そこから崖を転がり落ちるようにすべてがおかしくなって、もう半年くらいずっと地獄の底の泥の中を歩いているようだった。呼吸をしようと喘ぐたびに肺に泥が落ちていって、息が胸が詰まっていって、優しいと思っていた人々が手のひらを返すように高圧的に私を虐げた。
どこにも居場所のない、閉鎖的な環境の中で人はどんどん露悪的になって、状況はまるで私のオールタイムベスト映画『ドッグヴィル』みたいに思いつく限りの最悪を更新し続け、とにかくなんかもう笑っちゃうくらい最悪って感じで、ああ、どこ行ったって人間って結局こうなんだなとボロボロに打ち捨てられながら感じた。
生徒さんの中に、1年間ずっと苦労してきた小・中学生男子4人組がいた。とにかくやる気がなくて集中力もなくて、何度も匙を投げそうになった生徒たちだった。
最終日、彼らに「今日で私、最後だから」とそっけなく伝えると、思いもがけない熱量で、彼らは叫んだ。
「嫌だ!」「先生がいい!」「先生じゃなかったら辞める!」「戻って来てよ!」と。
びっくりした。嬉しかった。
陳腐な言葉だけど、自分がやってきたことって間違ってなかったんだなと思った。
家までの帰り道、チャリで15分の道を、この曲を聴きながらボロボロ泣いた。とめどなく涙が溢れてきて、嗚咽すら漏れて、マスクがびしょびしょになった。
燃え尽きて消え尽きたけど、でも確かにあったんだよなと思った。
『喜びと悲しみと苦しみと痛みと
憎しみと信頼と慰めと諦め』
って歌詞。明るいことばかりに満ちていないこの歌詞が、何よりも優しい。
『べつに有名人でもないのに』
合唱曲みたいに穏やかなピアノのイントロに驚く。でもそこから紡がれるのはクリープハイプらしい、素直になれないひねくれた女の子の姿で、そのけなげさがこの上なく愛おしい。
この曲の幸慈さんの色っぽいギターの旋律がたまらなく好き。
サビのカオナシさんのコーラス、その上に乗る尾崎さんの声で届けられる、やけにいじらしい『好きな人』とか『可愛い家と赤いお花』って言葉の一つ一つに胸がキュってなる。
私はこんな曲の中のこの娘ほど可愛いところはないし、『好きな人と好きにしてた』こともなくて、だから『今は離れ離れ』なんてこともそんなに経験してきていないのだけど、この曲を聴くとどこか自分の中にもこういう面があるような気持ちになれるから不思議だ。
こういう曲があるから、私は他の人の当たり前を羨まず妬まずに人の形を保っていられるのかもしれないと、割と真面目に、思う。
それまでゆったりと、でも思い思いにリズムに乗っていた楽器の音色が、『それが嬉しい』のところで全員同じリズムになるところ、得も言われぬ気持ちになる。
素直になれた彼女へのちょっとした祝福のように思えて、大好き。
『星にでも願ってろ』
この、カオナシさん曲に登場する手のつけられないほどひねくれた男の子像が最高です!
バスドラの音が力強いというか、ちょっと違う感じがしてすごく好き。かと思ったら小気味よいリムの音が響いて、それにメロディアスなベースラインも乗っかって、ギターは左右で好き勝手してるし、この目まぐるしい感じが本当にたまらない。
そのくせ『僕がどうしたいかがわからない』『物騒過ぎ てんで笑えない』でリズムが揃うところとか、2回目の『でも孤独に寝てますように』でベースとギターの旋律が揃うところとか、とにかくツボすぎて胸を痛いくらいにかき乱される。
私はクリープハイプの、曲として同じ方向を向いてはいるのに、その実全員がバラバラに好き勝手なことをしているようなところがとにかく大好き。この曲と、次の『dmrks』にはそれが詰まってると思う。
尾崎さんの色気あるハモリも最高。どうしようもなく、私の大好きなクリープハイプ。
『dmrks』
アルバムリリースされてから一番私を支えて鼓舞してくれたのがこの曲かもしれない。朝の通勤も、昼の休憩も、夜の帰宅時も、イヤホン耳に突っ込んでこの曲を流すと、景色がすこーんと冴えて、億劫な足を一歩また一歩って進める原動力になってくれた。
とにかく、トンチキなイントロからして本当に最高。
おもちゃ箱みたいにカラフルでデコボコで、サビではそのバケツをぶちまけたみたいにあらゆる音が迸って、言うまでもなくどれもこれも好き勝手していてゴツゴツしていてキラキラしていて、思わず頭を振り乱したくなる。
こんな音の洪水にずっと溺れていたいと思う。
かと思いきや、急にバグったか?みたいな展開のあと、えっ?ここ神社でしたか?みたいな神道の道が開けていてびっくりする。
目を開けたら目の前に急に鳥居があった。そうか、この打たれていた水は洪水じゃなくて滝行だったのか……と思う間もなく元の世界へ戻らされる。気付いたら全部手のひらの中の小さな画面の中のことになってる。
息付く間もない凄まじい展開の中で、ひたすらにまっすぐにクズ、ゴミ、カスと言えない本音をぶちまけていく。この目まぐるしさにひたすらに胸が一杯になって、息をするのも苦しい。大好きすぎる。大好きすぎるクリープハイプ。
『喉仏』
贅沢なホーンにポップなメロディ、MV監督も山口淳太さんで、どこか大好きな『イト』を思わせる軽快な曲調。
それだけで『イト』からの6年が急に乗っかって、胸にずしりと響くものがある。
同じバンドをずっと好きでいた人にだけ与えられる、特権的な曲の楽しみ方だと思う。それが味わえるだけで、もう、好きでいてよかった。
この曲はなんと言っても尾崎さんの声が好き。
初めてクリープハイプを聴いて胸を打ったあの時のみずみずしい感情を、ちっとも枯らすことなく思い起こさせる。
なんて綺麗な声なんだろうって、私はあの時からずっと思ってる。
『言ってるけど』のところで一際高く響く声がたまらなく心を締め付けて苦しい。時折喉の奥で鳴るキュって音や息継ぎの音が、否応なく”喉仏”を連想させる。
堅苦しい概念的なことを述べているのかと思いきや、『またそうやって謝ればいいと思ってる』『どうせそうやっていつも許されると思ってる』で急に登場人物が立体的になって引き寄せられる。底抜けに明るい曲調に、意味を持たせた歌詞をぶつけてくるクリープハイプが本当に好き。
『本屋の』
イントロの冒頭がキラキラして、まるでガラスに反射して煌めく朝日みたいに綺麗。虹色の光が目に浮かぶようだ。
そこから一点、疾走感があるのにどこか切ないサウンドに「ああ、クリープハイプの曲だ」ってたまらない愛おしさでいっぱいになる。
ちょっと珍しい散文的な歌詞が、まさに思い出の1ページをめくっているように胸に響く。
それを置き去りにするようにドラムは打ち鳴らして、ギターはメロディを突き放すように切ないところをひた走る。続くように負けじとベースもメロディアスに追いかけてくる。まるでそれぞれの音色が、歌詞で語られないぶんの喜怒哀楽を代弁してくれているかのように思う。
『買取価格一円そんなある日』で急に堪えきれない後悔や寂しさのようなものが溢れてきて、それまで急いていた旋律も、そんな感情を後押しするようにここでは足並みを揃えてくる。
最初は朝だと思ったのに、間奏の頃にはいつのまにか夕方になってる。どこか痛切さを匂わせるギターの音色が、薄い空をピンク色に染める夕焼けを映してるような心地になる。もう10分もすれば暮れてしまう、あの時間をはっきりと思い起こさせる。
寂しいけど、ギターの余韻が残る終わり方に、彼女の(なぜかこの曲の主人公は女の子だって思う)日々はまだこれからも続くんだとも思う。
『センチメンタルママ』
太客じゃなくて当時を知らない人はせめて『尾崎ニシダラジオ』の#21 の36分くらいからを聴いてからこの曲を聴いてほしいんだけど、
2024年2月頃、体調を崩した当時の尾崎さんは本当に辛そうで、『(喉が痛すぎて)6階から飛び降りようかなと思った』と語るのを聞いて、私は本当に苦しかった。たぶんあの時太客全員辛かったと思う。
『雪が降ってたから今日はやめとこうと思った』という発言に、何度大寒波に感謝したか知れない。
そんな“死にたい”くらいの思いをしているさなかに、まさかこんな曲を作っていたなんて。
まさか『死にそうなほど今を生きてる』という歌詞に、泣かないわけがない。
氷点下、ありがとう。雪、ありがとう。尾崎さんを引きとどまらせてくれて。まあそもそも寒いせいで体調崩したのなら、そこは気候にもちょっと考え直してほしいところはあるんだけど。
『センチメンタルな月曜日 電話してくれるママもいない』って歌詞にはっとする。尾崎さんは本当によく子供時代のことを覚えているなって毎回思う。
言われてようやく思い出す、風邪をひいて親が学校に電話してくれるときの、あの申し訳無さと罪悪感と安心感。
明るいようでいてちょっと寂しそうなメロディに、その後ろでドカドカ鳴らしてるタムの音がまるで脈打つ鼓動みたいで好きだ。
できればこの先、彼らにはずっと尊い36.3度の平熱でいてほしい。辛い思いなんて一ミリもしてほしくない。
『もうおしまいだよさようなら』
どんなロックチューンが流れるんだと思わせるほの暗い冒頭から、急に下町情緒あふれるイントロにつながる。
この、歪んだロック感と演歌っぽさが融合した雰囲気が愛おしい。この上なく粋だと思う。
その曲調もあり、男性コンビであるトム・ブラウンのポッドキャストに向けて書かれた曲ということもあって、最初はなんとなくちょっと情けない、少しテキトーな男性像を思い描いて聴いていたのだけれど、
聴くうちに、そんな男性を見守り、時に優しくケツを叩く女性目線の歌に思えてきた。
『寂しくなったらまたおいで』『会いたくなったらまたおいで』のところとか、そう思うとすごく優しい。
『大丈夫』にも通ずるような、「あんたほんとしょうがないね」って受け止めて、待っていてくれる、そんなひと。
コンパクトな尺の中で、間奏のギターがしっかり色っぽくてキマってて本当に格好良い。
別れるためのさようならじゃなくて、次に会うためのさようならなんだな。そう思ったころには伴奏がなくなっていて、尾崎さんの声だけが響いてる。
ひどくあたたかいその声を抱きしめて、次に会うときまで進んでゆける。
『あと5秒』
まさかのギターソロ2回!!ありがとうございます!ありがとうございます!!
結構無骨なベースとロック感マシマシで歪む尾崎さんのギター、硬派な拓さんのドラム。その上でしとやかに爪弾かれる幸慈さんのギターが、この曲の柔らかさを一手に担っている感じがする。
そうかと思えば、ソロではめちゃくちゃ格好良く、けれどどこか悲痛に響いてきて、まるでこの曲の女の子の代わりに叫んでいるみたいだ。
自分が本編ではなくて広告だったって気付いて身を引くこの子はたまらなく美しいと思う。
“本編に成り上がってやろう”みたいなハングリー精神ばかりが良いものとして持て囃される世の中で、真理に気付いて現実を直視する彼女はけなげだ。
かと言って自分を守るために悲劇の拳を振りかざし、周囲を殴るようなこともしない。自分の心に穴をあけた画鋲が、相手の”優しさ”であると分かってる。
そういう人をいつだって取りこぼさずに、本編になれた側の方ではなく、スキップされる広告側に寄り添うクリープハイプはかけがえのない光だ。
メインから外れてしまう人にだけ降り注ぐ光だ。
私にも『一緒に歩けばまるで好きなバンドのMVだ』って思う帰り道が何回かあった。
そして、そのバンドはいつだってクリープハイプだったよ。
『天の声』
2024年11月16日。その前のMCの流れから演奏されたこの曲に、ボロボロに泣いて涙が止まらなかった。
肩が震えて、息もできないほどに泣いた。
未だにこの曲を語る言葉を持たない。
2023年のぴあフェスでのMCを聞いて、どうしようもなく支えられてしまう言葉を貰って、私はそれ以来ずっとそれをお守り代わりに大切に持ち歩き、それに縋って生きてきた。
そして2024年11月8日。
尾崎さんのTwitterで歌詞が公開されて、その中に『大丈夫それなら曲の中でぶっ殺すから』の文字を見つけて、私はわんわん泣いた。前述の前の職場のあれやこれやでズタボロの時期だったから、年甲斐もなく恥も外聞もかなぐり捨てて叫び出したいほどに泣いた。
また一つ、なすすべもなく縋る曲が増えてしまったと思った。
何も持たない自分に、特別すぎる意味を持つ曲ができてしまったと思った。
曲にしてくれたから、もっと大切にできるとも思った。
16日に聴いて、泣いて、アルバムがリリースされて、ちゃんと落ち着いて聴こうと思ったのに、結局またしゃくりあげるほどに泣いた。
歌詞も、陽光のようにあたたかく降り注ぐサウンドも、かなぐり捨てるようなメロディも、すべてが大好き。
私なんかが好きでいるには、いいバンドすぎる。
こんなバンドを好きでいる自分がたまらなく嬉しい。そう思えることが嬉しい。
何度ももう生きるのをやめたいと思ったゴミみたいな日々の連続の中で、それでもこの10年間をなんとかやってこられたのは、ここに彼らがいてくれたからです。
私にとって、暗く小さな窓に届いた一筋の光がクリープハイプでした。
曲を聴くたび、ライブに行くたび、ああ、こんなにまばゆく輝く光が私の人生の中にあるんだって思えることが嬉しくて、そんな素敵なバンドを好きでいられていることが嬉しかった。
『こんなところに居たのかやっと見つけたよ』って言葉は祝福だ。
きっとこの先も、その先も、この曲と生きてゆける。
本当にありがとう。