思いを伝えようとすると、泣きそうになってしまう「あなた」へ 【『この世の喜びよ』井戸川射子さん】
こんにちは。
ポッドキャスト「真夜中の読書会〜おしゃべりな図書室」のスクリプト公開、今回は、芥川賞受賞作の井戸川射子さん『この世の喜びよ』をご紹介した2023年1月11日放送回です。
”育休切り”にあってしまったというリスナーさんのお便りと、「面接で泣いてしまったらダメですか」という就活生の相談をご紹介。お悩みへの共感と小説のキーフレーズに反響の大きかった回でした。
理不尽なことに直面したときに、乗り越えるヒント
今夜のお便りご紹介します。ペンネーム@くろまめさんからいただきました。
それはそれは……人事部長としては聞き捨てならぬ扱いですね。
といただきました。リクエストありがとうございます。
今夜の勝手に貸出カードは、井戸川射子さんの『この世の喜びよ』にしました。
@くろまめさんのリクエストの「理不尽なことを乗り越えるヒント」には直結しないかもしれないんですけど、育児とお仕事のお話であり、子育てにおける記憶の話なんです。@くろまめさんが読んだら、どんなご感想を持たれるか聞いてみたいと思ってこの本にしました。
「とっつきやすくはない」けど、噛むほどに深い味わい
井戸川射子さんの『この世の喜びよ』のあらすじを簡単に説明します。
ショッピングセンターの喪服売り場で働く主人公と、そこのフードコートの常連の少女との出会いと交流を描いた短編小説です。主人公の女性にも娘さんが二人いて、その二人はもうすっかり大人なんですけど、少女と話しながら、二人が幼かった頃、子育てしながら働いてた頃のことを思い出す、というお話です。
「へえ、とっつきやすそう」って思うじゃないですか。
ところが、ぜんぜんとっつきやすくありません! 先にお伝えしておこうと思います。
これ、二人称で書かれた小説なんですね。小説の多くは三人称です。「彼は〜」「彼女は〜」だったり、「鈴木は〜」「太郎は〜」どうしたこうしたって書かれている。第三者視点の描写がほとんどです。
一人称の小説もあります。「私は〜」で始まる「独白形式」なんて言いますけど。例えば、湊かなえさんの『告白』。教師である主人公の一人語りから始まります。話者を変えながら自分語りで進んでいく一人称小説もあります。
でも、二人称ってすごく珍しい。
『この世の喜びは』は、主人公=「あなた」という書き方をされていて、「あなたは何々した」「あなたは何々と気づく」「あなたは少女にこのように言った」みたいな描写で物語が進んでいきます。
正直にいうと、私も最初は戸惑いました。どんどんグイグイ読める小説ではありません。指で言葉をなぞりながら、音読するように読んでいくような小説です。ゆっくりゆっくり意味をとって、なぞるように読んでいくと、「あなた」っていう呼びかけがだんだんしっくりきて、私がその喪服売り場で働いてるような気がしてくる。
こういう”純文学らしい純文学”を久しぶりに読むぞっていう方には、頭に入ってくるまでに時間がかかるかもしれません。でも噛めば噛むほど滋味深い、味わい深い小説だなと思いました。
主人公が少女と出会うことで、主人公が昔のことを思い出すシーンが何度も出てきます。そこがこの小説の読みドコロなんです。
一つ、好きなシーンをピックアップしましょう。
少女には歳の離れた弟がいて、ダイニングで勉強しながら、ちっちゃい弟に食べ物を与えたりとか、こぼしたものを吹いたりとかいろいろしなきゃいけないんだっていうことを主人公に喋ってるうちに、少女の目に涙が浮かんでくるんです。
それに対して主人公が、自分の思いを主張しているうちに泣いてしまうというのが若いときにはよくあった。胸ってすぐに詰まるものと思い出し、「そうだよね。いちいち面倒くさいんだよね。そんなに褒められもせずにやってて」と答えるっていうシーンがあります。
何か抗議をするつもりじゃないけど喋ってるうちに胸がいっぱいになってきちゃって、涙目になってくるっていうことってあるな〜。私も若いときはよくあったなって思って。
そしてなにより「胸ってすぐに詰まるもの」って、いいフレーズですよね。
面接の途中で、声が上ずって泣きそうになる
ついこの間、就活生向けのイベントに(講談社の人事部長として)出演する機会がありまして。就活生からの質問で「好きなものや好きなことについて喋ってると、いっぱいいっぱいになってきちゃって泣いちゃうことがある。面接で泣いちゃうのはよくないですか」というご相談がありました。
出版社の採用面接では、好きな本や漫画とその理由を聞くことがよくあります。作品にまつわるエピソードを喋ってるうちに感情が高ぶってきて、声が震えて涙声になってしまう方は少なくないです。思い出し泣きなんかもありますよね。
「面接でそれってダメですか」っていうご質問だったんですけど、「泣いたから落とすということはないです。喋ってるうちに胸がいっぱいになっちゃうこと自体はいいことだと思いますよ」と答えました。
だけど、泣いちゃったっていう自分にショックを受けて、頭が真っ白になり、話そうと思ってたことがすっ飛んじゃったり、ベストパフォーマンスじゃなくなっちゃうのはもったいないですけど。
このご質問に「胸ってすぐに詰まるもの」って『この世の喜びよ』のフレーズを思い出しました。
私はすっかり「胸がすぐに詰まらなくなっちゃったな」と。こうやって私は今、好きな本を人に紹介したり、大人数の前で喋ったりしてても、感情が高ぶりすぎて、声がうわずってしまうようなことはほとんどなくなりました。そのことにすごく寂しい気持ちになって。だから「いいと思いますよ。すぐに詰まる、胸いっぱいになりがちな胸を大事にしてください」というようなことをお答えしました。
ちょっと話がそれました。
今日はこの『この世の喜びを』から神フレーズをご紹介したいと思います。
若さは失われるのではなく、見えずらくなっていくだけ
主人公が少女に語るシーンを読ませていただきました。
「若さを失う」とはいうけれど、「若さを取り落としてきた」って、珍しい言い回しですよね。面白いですよね。若さを取り落としてきたとあなたは思っている。でもそうじゃなくって、降り積もっている雪みたいに、若さのまわりにいろんなものが降り積もってしまって見えなくなっているだけで、だから懐かしく思い出したり、あるときふっと出てきたりするっていう意味でしょうか。
そうか、若さは取り落としてきたわけじゃないんだよな。自分の体の中に若さはあって、たまたま今見えなくなってるだけなのか。
今日、@くろまめさんにこの本をご紹介して、「子供はどんどん大きくなっていくから、一緒に過ごす時間を大切に」とかいうつもりでは全然ないんです。理不尽なめにあった怒りを頭の隅から追い払いながらも、子育てに邁進していらっしゃった時期のことを、この先お子さんが大きくなってから思い出すことがあるんじゃないかなと思って。そのときに嫌な記憶というよりは、楽しさのほうがまさっているといいなって思ったのでした。
そして、手を離さないと、次のものはつかめないから。もしかしたら元のお仕事をされるより、違う素敵なものをつかめるんじゃないかなと思っております。応援しています。リクエストありがとうございました。
さて、そろそろお時間になってしまいました。「真夜中の読書会〜おしゃべりな図書室」では、みなさまからのお便りをもとに本や漫画、神フレーズをご紹介しています。お便りは、インスタグラム@batayomuからぜひお送りください。
それではまた水曜日の夜にお会いしましょう。
おやすみなさーい。おやすみー。
<今日の勝手に貸出カード>
<放送回>