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【捉え方】仲間の概念
どうも、地方公務員のばたやんです。
今回は、仲間について書いていきます。
🔷仲間の概念
「仲間」
ある物事を一緒になってする者。または同じ種類に属するもの。
私は、この説明を受けて、わかるようなわからないような感覚になりました。
なぜこのような感覚になるのかを考えてみて、分類的には仲間とされていても個々の意識が同じ方向に向かっていなければそれは仲間とは呼べないのでは?という疑問があることに気づきました。
ひとところに集まって各々が自分のやることをやっている、けど根幹には同じ志がある、みたいな感じですかね。
この「志」が会社やコミュニティだと理念だったりするのですが、これに沿っていない人は仲間じゃないのかと言われればそうでもないように思うのです。
うーん、わからんww
そんなとき、GACKTさんのラジオ放送をYouTubeで見つけて色々聞いていたところ、「友達の概念」についてお話している動画と出会いました。
その動画の中でGACKTさんは次のようにおっしゃっています。
友達というのは、その時その時の自分のレベルと同じレベルの人が同じ階段上に立っている。
同じ階段上に存在し続けられる人っていうのは、同じように階段を上がっていける人なんだけど階段を上がっていくペースは人それぞれちがう、そうすると今までの友達とは同じ階段上には居れなくて、自分と同じ階段上に居る人たちを友達だと思っていく。
GACKTの"友達の概念"
とても納得させられました、確かにいろんな場所に仲間はいるけど、今一緒に走っている仲間ってその時その時で変わっていくよなと。
そう考えると「志」もこの階段の理論に当てはめて考えることができそうです。
離れていってしまった仲間はきっと私より先に階段を上ったかもしれないし、私が先に上ったのかもしれない、もしかしたら途中の踊り場で別の階段を上っていくことを選んだのかもしれない、そんな風に考えると人それぞれのペースは生き方なのかな、と思考してみたり。
一緒に階段を上がれないことは、悲しいことじゃなくて自然なことで、階段を上った先にいる新しい仲間たちにワクワクする、一緒に上がれなかった人たちもいつか上がってきて会えたらそれでいい。
実際先月からグラフィックレコーディングのサークルに参加させてもらってそこで新しい仲間に出会ったりしていて実体験として感じていたから、この概念をスッと受け入れられたのかもしれません。
社会人になってから、友達と呼べる存在は少なくなって、仲間を呼べる存在がたくさん増えました、これはきっと大人としての関係性を得ることができてとているんだなと思うと、成長を実感しとてもうれしく感じます。
今回は、なんとなくふわっとした内容になってしまいましたが、この記事の内容が誰かの力や気づきになれれば幸いです。
それでは、地方公務員のばたやんでした。