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考えすぎって言われるけど

もう何十年とやってきた「考える基準」を今更変えられないですよね、悲しいことに。考える程度?深度?広さ?の基準のようなものがきっと各個人にあって、自分の基準と他人の基準を比べて、いやそれは深く考えすぎだよ、広く捉えすぎだよ、って思った時に人は「カンガエスギダヨ砲」を発射すると思うんです。かなりくらってきたなあ。

考えすぎって言ったって、私にとってはそれが基準で、普通で、でも相手にとっては基準から大きく外れた程度なわけで。くらい続けるとイラッとすることもあるけれど、相手の「考える基準」を分かりたいと思うなら、一発、二発、くらっておかないと、とも思います。

最近、この考えすぎちゃう人とか、ハイセンシティブな人を「優しい人」という名前でまとめて、生きづらいけど大丈夫だよ、みたいにナデナデする風潮がある気がします。それに救われる時もあるし、なんか腑に落ちない時もあるし、でもやっぱり「カンガエスギダヨ砲」は発射する側とされる側にある程度分けられるということなのかなと思いました。私の場合は、圧倒的にされる側ですが、母に対しては発射する側です。あの人は考えすぎだと思います。と、このように、両側に足突っ込んでる人も一定数いると思います。

考えすぎない方が生きやすい、自分軸で生きるのが賢い、というのはある種の真理なのでしょうが、そう簡単にはいきません。考えすぎる私のまま、いさせてもらえないものでしょうか。やっぱむずいか!

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