卒業式で泣かない人の方がよりよく生きられるのかもしれない。
誹謗中傷についての記事をいくつか書いて、そこでも言っていたように誰かの人生に介入しようとする人がここ最近多いように感じる。
youtuberやインフルエンサーといった、半一般人に対して人格批判をしたり、どうでもいいことで謝罪を要求したりと気弱な人間がクリエイターを名乗るには不利な環境が生まれている。
インターネットが人々の生活に馴染み始めたころ、あらゆる活動を自由度の高い状態でできることが期待されていた。匿名の不謹慎にもみえる危なくもユーモラスな2chのスレタイは、当時のユーザーらがもっていた理解のよさを表しているといっても良い。
『人を傷つけない笑い』がもてはやされた現在において、これらのスレタイのうちいくつかは不謹慎を理由に批判されるだろう。それが私たちを馬鹿にし傷つけるものでないにしても、どこか遠いところで誰かを傷つけることになる可能性があれば、批判の対象にあげられるのだ。
芸能人の不倫がそうだ。彼らが配偶者以外の人間と関係を持っていたという事実があった際に、「配偶者がかわいそう」「その不倫に愛があったのか?」などといった意見がとかく目だつ。
配偶者は、不倫をされていることなど知る由もなく、健全な結婚生活を送ることができていると、スキャンダルが発覚するまで思っているわけだから、「愛していた人に騙された可哀想な人」のように見えてくる。
愛人の方も同じく、どれだけ逢瀬を重ねても相手の家庭に大きな問題が生じて離婚しない限りは愛人以上の関係になれず、何も進展しない様が空虚なもののように感じられ、これもまた「性をいいように利用された可哀想な人」のようであろう。
一夫一妻をルールとし、生涯愛することを誓う式のもとで結婚が行われる社会だ。物語では、1組の男女が生涯を共にいれることをハッピーエンドとされる世の中だ。そのようにみると、確かに配偶者も愛人も可哀想である。
しかし、配偶者も愛人も自身を可哀想な人間だと言っていないし、ましてや社会による私刑なども求めてはいない。彼らが世間からみていかに可哀想だったとしても、そうであることが彼らにとっての事実であるかのような話をしてはいけない。
「あなたは裏切られた可哀想な人間だよね!あなたのために相手をとっちめてあげるね」というような考えは、字面からもあからさまに余計なお世話感が溢れていることは理解できると思う。(意図的な言い換え方をしているので、表現に悪意があることは否めない。)
とある一般ユーザーは、Gotoキャンペーンを機に止まった旅館の料理が多かったことに大きく不満を漏らした。それに対し、旅館を擁護するユーザーらが彼を批判し始めた。そのこともあって。彼は『廃棄前提おじさん』と揶揄されていたが、彼は自身が思ったことを厳しめの表現で書いただけであり、想定されうる使い方でSNSを使ったにすぎない。
彼がいかに旅館の料理をよく知らない世間知らずでも、いかに「体験価値」とかそれっぽい言葉を使って人の神経を逆撫ですることに長けたキザなヤローでも、自分が好きでないものを主張する権利は十分にあるはずだ。そして、その投稿を見た他のユーザーも旅館の料理とは元来そういうものだと言うことだけを彼に伝え、旅館の良いイメージを発信することだけが距離感の良い批判であっただろう。
しかし、残念なことに有象無象は彼の人格や職業をも貶してしまうほどの過激さで彼を批判し、彼を擁護する取り巻きのリーダーも「嘘を嘘で見抜けない人は…」とわざわざ実名を晒しているアカウントで、元々旅館側と手を組んでいたかのような大ボラを吹いてしまう頓珍漢っぷりを披露して見せた。
話題に過剰な反応を示した彼を含めたユーザーのほとんどに、リテラシーはないのではないかと思った。いや、もはやこれはリテラシーの問題ではなく、自分とは関係のない問題に無闇に首を突っ込むなというごくごく当たり前のことを忘れているのではないか。
確かに、料理が多すぎると難癖をつけられてSNSで批判された旅館としては、苦虫を噛み潰したような思いであろう。サービスとして不誠実を働いたわけでもないのに、客のクレーマー気質のために納得のいかない批判を受けるのは良い気持ちはしない。
それを見かけた他のユーザーも同時に不愉快を覚えるのは理解できる。彼らの仕事や生活において、そのような不条理によって心を痛めた経験がない人は少ないし、真面目に頑張っている旅館がいわれない批判を受けているのをみて応援したい気持ちは湧き出てくるだろう。
だが考えてみてほしい、彼らは私たちの生活において人畜無害な赤の他人なのである。『廃棄前提おじさん』がどれほど旅館にクレームを入れたとしても、それが妥当かどうかを決めるのは後の客であって、Twitterで騒いでいる人たちでは無い。
また、件の旅館が自分にとって縁があったものだったとしても、それを守るために相手の言葉や人格を批判することは道理に合わないことである。旅館への批判に対してフォローをすることは良いとしても、批判をした人間の特徴を批判することによるフォローというのは旅館側としても求めていないことだ。
SNSが隆盛してから、「共感」はバズるための第一条件として語られやすい。ニッチなようで、人の本質的な部分を捉えたようなツイートは1万RTを優にこえ、かなりの注目を浴びることができるようになる。
その影響は音楽をはじめとしたあらゆるカルチャーにも影響が出ている。現在の音楽シーンでは、誰かとの恋の思い出を歌うよりも、先がわからない不安や自分の本当の気持ちが理解されない苛立ちなどの方が人気を得られるように思える。
現実における人間関係はとかく複雑なものであり、学校や職場をはじめとした閉じられた小さなコミュニティにおいて、当たり障りのないことでその場をうまく取り持つことが必要とされる。
精神的に未熟であることを自覚しながらも、怒りや悲しみを表立って出すことはせずに気取った人間として見せることは、自分を裏切っているような気がしてきて心をすり減らすものだ。
そういった中で、私たちの感情的な部分を代弁してくれるSNSの投稿だったり、カルチャーだったりは本当の自分を認めてくれるような心地よさを感じるものである。
その一方で、「共感」が求められるあまり、寄ってたかって人を傷つける行為は過激になっているように思われる。
これは、アーティスト小沢健二氏の発言を巡った騒動であったが、彼を積極的に批判していたとあるライターは、「大間違い」「こういう人にサブカルチャーを語って欲しくない」と強く憤慨していた。
ちなみにそのライターが書いた小沢健二氏への批判文は、内容をみてみると彼の言いたいことの方向性とほぼほぼ同じなものであるはずなのに、なぜか対極のものとして取り扱っている様が印象に残った。Twitterも含め、インターネットの世界はつくづく思想と相性が悪いのだと思わされる。
といった脱線はさておき、小沢健二氏の発言に対してライターのような怒りを感じた人は数多くいた。「彼は問題の本質をあまりに曖昧に捉えすぎているし、にもかかわらず書きっぷりばかりはどこか流暢であるから多くの人間に間違った認識を生みかねない。」といったように。
私たちに、思考できる体力があり、まともな教育を受けてきたのなら、彼の発言一つ一つを精査し、どこに問題があるかを明らかにしながら彼の誤ちを正すように働きかけるだろう。自分にとっても、第三者にとっても意味がある批判というのは、ある程度の満足な対話をもってようやく完成するものである。
ところが、小沢健二氏を批判する人たちは全くそのようなことをしなかった。全ての発言が、「彼は頓珍漢なことを言っている」という主張だけに焦点を当てており、彼の発言を土台に自分が言いたいことだけを言い散らかした。
あげくには、「小沢氏も時代の感覚についていけなくなった」「彼の育ちの良さもあって社会構造を甘くみているのでは」といった小沢氏の名誉を傷つけることだけに特化した無意味な言葉だけが生成されていった。
ここでいう無意味は、「後の議論にて不要」という意味だけで、「共感」を軸に全ての言葉が成立しているのなら確かに大きな意味をもってくる。明らかにおかしい主張をする人は、性格や人格に難があったのだと言ってしまった方が納得されやすい。
小沢氏を批判する人たちは納得としての共感を得るために、彼の生まれを、彼の音楽を、彼の思想を、批判したのだ。
これはSNS時代の「共感」を重視する文化によって顕在化した負の部分の一例であるが、日常生活でみられるものは「誰々が不倫した」「場の空気を悪くした」などというもっとくだらないものであるので、その面白可笑しさは多くの人にも理解できることであろう。
しかし、小沢氏の問題のようにイデオロギーや倫理が複雑に入り混じる議論であったとしても、共感を目的とした相手のパーソナリティを批判するような行為は卑劣極まりないものであるし、そんなものに共感しているほど私たちの人生は暇ではないはずだ。
私が生まれる前、斉藤由貴氏が歌った卒業の歌詞に
ああ卒業式で泣かないと冷たい人と言われそう
でももっと哀しい瞬間に涙はとっておきたいの
という言葉があった。卒業式で泣けることは、印象良い人間として認知される機会であるだろうが、知らない誰かの卒業式でも無闇に泣くことが暗に推奨される異常な世界において、涙を流す場面を自分で決められる方がより善い人生を歩めるような気がしてならない。