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国威、都市の日常という幻想(STARS展、マンガ都市TOKYO展感想)

 そういえば「マンガ都市TOKYO展」と「STARS展」の感想書くわって言っておきながら、全然書いてなかったっすね。

ふつうの感想

 まあそこまで書くことないんですわ。「STARS展」はこれがあのフィギュアか~とか、これがもの派か~みたいな、名所めぐりみたいな感じで、良い展覧会だったけど、他者に対していまさら語ることは多くなかった。フィギュアを後ろから見られない展示形態だったのは許せぬ。

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 奈良美智って正統にかわいい目も描くんだなと思った。


 「MANGA都市TOKYO ニッポンのマンガ・アニメ・ゲーム・特撮2020」はいろいろな漫画やアニメの原画が見られたところはよかった。しかし複製原画やただの印刷なんかも多かった。アニメの原画描いたアニメーターの名前が載っていなかったのは許せぬ。展示の根本的問題は後述。あと目玉の1/1000東京模型はデカすぎて見づらかったし、細かい出来はいまいちだった。グーグルマップの方がおもしろい。

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 電車の展示(もとはフランスでやったときの展示なのでこういうのもある)。奥にスクリーンがあって、風景が流れていくのだが、内装はJRなのに車窓はゆりかもめというキメラ感がとても面白かった。


現代美術は国威再興だった?


 STARS展では資料的に戦後日本の現代美術の歩みみたいなのが展示されていたのだけどそれが興味深かった。1950年代の宣言や批評には戦後の復興、日本という国の威光を再興させるという趣旨のことが、作り手および評論家の言葉にもめっちゃ書いてあった。

 詳しくないから、全体としてそういう空気があったのか、こういう場に持ち出される権威的な存在だけが国威と現代美術を結び付けていたのかは知らないんだけど、それって戦時プロパガンダ的な国家芸術観の継承なのではという疑念を持った。まあ国を背負って立つものが欲しいという心情はわかるんだけど、日本という国は戦争時に作られた国家観をだいぶ引き継いでいるような感じでした。(村上隆の日本の伝統文化意識しました、みたいな最近の作品もそうした国家芸術観の延長、回帰を感じないでもない。)


日常の幻想

 戦後の国家観が戦時に作られたということをすごく明確に感じたのは大塚英志によるプロパガンダ漫画研究「大政翼賛会のメディアミックス」だった。同書において目玉となるのは『サザエさん』などの一つの場所を舞台にした明確な主人公を持たない「日常漫画」のひな型が、戦中作られた国民参加型プロパガンダ漫画、『翼賛一家』にあったことを示したことだ。だがそもそも日常という概念が、戦争協力体制を臣民に根付かせるためにすりこんだものであるという点が同書の根幹にしてもっとも重要だと思う。

 「サザエさん」にある、都市を舞台にしたほのぼのしたご近所づきあいは、戦前においても多分に幻想であり、その幻想は隣組を基本とする戦時協力体制のなかの机上の理想として発現していたということである。どうしてそれが幻想であったかいろいろ詳しい説明がなされるが、そもそも東京は明治以来大量の人の流入出が起き続けているのだから、それもそうだろうと思う。そしてその幻想を無毒化したものが戦後日常漫画の端緒となっていったわけだ。

 坂口安吾の「白痴」はとなりに気違いが住んでいても気にされない、分断された都市生活が戦争と空襲によってぐちゃぐちゃになっていく、ある一種の幸福が描かれていて、それはかなり本質的に日本全国で起きた事象を捕らえているのではないかと思う。しかし実際のところ破滅的なエンドもなく、大抵の人間は戦争の終わりとともにそれまでと大差ない生活に戻った。その中ですりこまれた日常観念を抱えて戦後の日常、ひいては国家を作っていったのではないか。

都市の日常という幻想は死んだのでは?

 さて日常観念に亀裂が走ったのが1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件である、というのはもう定説と言っていいだろう。普遍的なわれわれの生活の舞台となる都市が実はとても脆く、それが凶悪なテロリズムを産むほどに病んでいたことを知らしめた。

 日常幻想のはじまりを1940年の近衛新体制とするとわずか55年の"信仰"ということになるからわりに短い。

 サリン事件を題材としたアニメ作品「輪るピングドラム(2011)」はその日常の崩壊を描いた。両作品は日常や人とつながりといった信じられてきた幻想が、脆く砕けていくものであることを描いた。疑似家族への回帰という別の幻想を賛美しているという問題はあるが、日常が欺瞞であったという点は鮮やかに描いている。ピクトグラムで表現されるモブが象徴的で好きです。

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 しかし、「MANGA都市TOKYO」展では「ピングドラム」を「東京の日常」と題されたコーナーで、弁当を料理するシーンを切り取って展示していた。いや、それが嘘をはらんでいるって作品だろ!?これを選んだ人はピングドラムの何を見ていたのかと驚愕してしまった。

 つまり「MANGA都市TOKYO」展は、ただ作品を東京というくくりで作品を並べただけで、そこに古ぼけたプロパガンダ的幻想を上乗せした、文化をバカにした展示だったというわけです。
 ゴジラやAKIRAで東京を破壊するシーンとか詳しく展示していたが、そもそもなぜ都市を破壊したいとサブカルチャーの作り手が思ってきたのかいっさい理解されていないように思った。まあ文化庁の展示なんてこんなもんだわな。クールジャパン万歳。

 都市と日常という幻想がなぜ今も生きているのか、なぜ文化庁主催の展覧会で利用されるのか、それは日常という幻想が全体主義国家の統治の中で生まれたことと無縁ではない、と考えるのは早計だろうか?

 ちょっと話が変わるが、世論調査で同性婚の容認が8割以上の賛成を得ても、自民党は「伝統的な家族観」を利用に法制化を拒否している。こういうときに利用される都合の良い「伝統」と「都市と日常」という幻想には通底するものを感じる。

おまけ:Ko²ちゃんのパンツ、透明感のない懐かしい感じの塗りがとても良い。

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