モンテスキューも笑ってる。
私がnoteを書くのは今回が二度目で、いささか前回ほどの緊張感と小っぱずかしさは無い。「何を言ってるのか。」と思われる方は、前回の私の書いた記事を読んでほしい。簡潔に言えば、居酒屋で会った「リーダー」にいきなり、このnoteのアカウントのIDとパスワードが書かれた紙を渡され、思ったことを書き連ねろと言われた。
前回の終わりの方に書いていたが、このアカウントを譲渡してきた「リーダー」とは、今も連絡はなく、ただ居酒屋で呟かれただけの言葉に従ってこの記事を書いている。
彼の成し遂げたかったことは何なのか。無数にあるwebサービスの中で何故「note」という媒体を選んだのか。彼の設定したアカウント名「場末のアンちゃん」とは、どういう意味なのか等、色々と思いを張り巡らせてみたが一向にわかる気配もない。
ただ、彼の書いた三つの記事。関西弁の話し言葉で読みづらく書かれていたあれらの記事。学がなくとも社会の底辺を歩んでいるなりに感じることというのをどこかに発信したかったのかもしれない。これからの時代まだまだ貧富の差は広がるだろう。世の中の基準、スタンダートの置き位置に困り、メディアが仮置きした物差しに批判が集まりだすのもそう遠くない。しかし、そのような騒ぎがあろうがなかろうが、いつの時代にも底辺から社会を見ていた人間はいて、そのような人たちの声が反映されることはなかったのが今までだった。インターネットのお蔭とやらで、意見を誰でも発信することができるようになった?馬鹿言えと。リーダーが書いた「底辺からの啓蒙記事」も私が書き連ねる駄文も世間の中央に配置されることはない。誰の目にも触れられなければ、それは発信してもしてないようなものではないか。
結局のところ、現実世界の「自分の名前」の持つ力、その袴を履かせなければ、如何なる陳情書だろうが、意見だろうが汲み取られることはない。インターネットを利用するものが人である限り、権威主義の影響力には勝てない。所詮、底辺が殿上人に意見を献上するなんてことは、この世では無理なんだと。
そのような「発信」することにおける世間の持つ難易度について「リーダー」は知っていたのだろうか。自分の酷く落ち切った身の上を「匿名」によって最低限の脚色をしていたのではなかろうか。
かつてモンテスキューは学術論文を匿名で専門誌に送っていたという。才覚ある人間が、匿名の場から見出されることは、今の世のほうが簡単かもしれない。世を憂い、思いついた改善の策を何故彼は匿名で発信したのだろう。名を持たぬ発言は、その文章の表す真意をそのままに、バイアスから解放してくれる。真に言葉を伝えたい。匿名にするだけで届けたい文章がいかに本気であるのかを伝えらえる。我々がやっていることがbitの砂場に埋もれようとも構わない。ただ心の底から伝えたい言葉があるということだけは覚えていてほしい。モンテスキューは私たちの馬鹿げた行為を笑うだろうか。
底辺より。
関東近郊の寂れた「場末」は「場末」な場所に生息している人たちで運営しています。 コラム執筆は「リーダー」が担当。その他は「私」が担当します。