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お見舞い

祖母のお見舞いに行った。

そういえば病院へのお見舞いは初めてだ。

父から祖母の着替えを渡され、面会用紙を持って受付へ行く。
忙しそうで声がかけづらい。
通りかかった男性の看護師に面会用紙を渡し、女性の看護師へ引き継いでもらい、着替えを渡す。なかなか忙しそうで、面倒なのか、ぼそぼそと面会に来たのですが、と伝え、やっと案内された。

病室の入口にあるアルコールで消毒し、入る。祖母は寝ていた。

管につながれ、呼吸している祖母を見て、案の定、涙が止まらなかった。

年齢も年齢だ、仕方ない。老衰だ、仕方ない。そう思っても、いざ死が近づいている人間を目の前にして、どうして冷静でいられようか。

ぼそぼそとばあちゃん、と声をかけても目は閉じたままだ。

仮に、起きてたとしても私はばあちゃん、と呼ぶ以外に何も話は出来なかった。

そっと祖母の手に触れた。少しつるつるとして、ビニールのようだった。

私はなぜ泣いているのか。

もっと意識があるうちにくれば良かったとか、もっと孫孝行できたのではないかとか、そんな今更なことを考えても仕方ない。
普段は、そんなこと微塵も考えない人間に、そんな後悔する資格などないと思っている。

声を押し殺してすすり泣いて、ばあちゃん、またね、と言って病室をそそくさと後にした。

祖父が入れ替わりに病室へ行っている間、父と少し話した。自分の親を見送る準備というのは、どういう気分なのだろうか。今は必死だろうし、まだ祖父もいるからそんなこと考える余裕はないのかもしれない。

しんどい。人の死はいつだってしんどい。己の身内であればもっとしんどい。

大丈夫、まだ呼吸している、呼吸していたじゃないか。そうは思っても、しんどい。

こういうときは感情にふたをしてはいけない。ひとりのときにひたすら垂れ流すしかない。垂れ流して、落ち着くまで垂れ流すしかない。

あとは、仕事に没頭して一瞬気持ちを紛らわすしかない。生活は待ってくれない。自分の生活をしなければいけない。自分の生活で埋めよう。








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