ひとの目が気になる人へのラブレター
※ この文章は、「自分らしく生きたい、何かやりたいけど、どうしても周りの目が気になって自分に嘘をついている…」という人に宛てました。「そういう経験はないし、これからもそうはならないだろう」という人は、時間の無駄かと思いますので、引き返してくださって構いません。
「やりたいことをやる」
なんとも心地よい響きである。
自分の思うがままにいろいろなことをやる、きっと楽しいことだろう。
大なり小なり、やりたいと思ったことをそのまま行動に移せる人生は、きっと清々しい。
やりたいことができない、自分らしく生きれないということは、つまるところ「自分に嘘をついている」ということだ。
自分に嘘をついていても、得られるのは一時的な安息だけで、時間が経ってから、人生の限りある時間をごまかしながら使ってきたということの重大さに気付く。そういう話は多くの人が聞いたことがあるかと思う。
しかしながら、気の向くままに、自分の思うように生きている人は意外と多くない。
いろいろな原因があると思うのだが、1つの大きな要因としては、「周囲の目が、世間体が、どうしても気になってしまう」ということがあろう。
人間だれしも他人との関係の中で生きているものである。何かをしたいと思っても「こう思われたら嫌だな…」「否定されるの怖いな…」と、心がブレーキを踏んでしまう。
その一方で巷では、
成功者が、自己啓発本が、どこぞのアーティストが、
繰り返すようにして
「やりたいことをやれ!」
……
うるせーよ!
やれって言われてできるなら誰も苦労しねーよバカ!
やれるやつはやれるかもしれないけど、やれないやつはやれねーんだよ!
という話である。
おおいにその通りだと思う。
文字の上で納得しただけで直ちに行動に移行出来る奴は、多分サイボーグか何かである。
この文章は、「やりたい」という気持ちにフタをして、心の奥にそっとしまいこんだことのあるあなたへのラブレターだ。
「やりたい」と思ったことをそのまま行動に移せない場合、心の中で「もし失敗したら…」という発想になっていることが多い。
例えば話し合いで意見を言えなかった、という場合には、「もし自分の勘違いだったら…」とか、「もしおかしなことを言っていたら…」とか。
何かと「失敗」の発想が生まれてきている。
しかし、もし失敗だったとしたらどうだと言うのか???
失敗したところで、本当にあなたの思うような苦難はふりかかってくるのだろうか???
答えはノーである。
失敗はマイナスではなくプラスだ。
なんなら笑い話にでもしてしまえばいい。
なので、失敗しても特に何も問題はない。
「失敗してもいい」なんて、もしかしたらあなたは聞き飽きているかもしれない。
かの超有名発明家が「失敗は成功の母」と言ったように、多くの成功者が「失敗を恐れるな」と言っている。論理的に考えて正しいのだからそりゃみんな言うだろう。
でも、言葉の上では何となく理解できてもそう信じ込むことはなかなかできないのが人間である。
僕が思うに、失敗しても問題ないと本当に思えるようになるためには、3つの条件がある。
まず1つに、「自分の行動に、その結果に関わらず意味があると信じられること」。
失敗することとは、何かを失うことではなく得ることだ。
もう1度例の発明家の言葉を借りれば、「失敗=上手くいかない方法」の発見である。
方法が良くなかったのだと反省して、次の行動に繋げればいい。
その意味で、あなたは確かに前進している。
つまり、その行動には意味がある。何もおかしなことはやっていない。
とはいえやはり、失敗を外から見ている周囲の人々はそう思っていないこともある。
行動とは、一種の自己表現ともいえる。
周囲の人々はその行動を見て、その人がどういう人なのかを判断する。
行動しなければ誰にも気付かれず、傷つけられなかった自分という人間を、衆目のもとに投げ出す行為である。
周囲からの批判、軽蔑、冷笑、はたまた無関心……自分に対してマイナスの感情を持たれてしまう可能性は大いにある。
「あいつあんなことやってるよ笑」
「何言ってんだこいつしょーもな笑」
「無駄なことやってんな笑」
本来、安全な場所から石を投げるだけの人間を気にすることはないのだが、そうもいかないという人もいることだろう。
そこで2つ目の条件だが、「心のよりどころがあること」だ。
自分自身が正しいと思っていても、その正しさに気付かない人はどんな場合でもいる。というか気付かない人の方が多くて当たり前だ。
多くの人は、他人の行動に対してそこまで深く考えようとはしないからだ。だから、表面的なレッテルでその行動を判断してしまう。失敗はプラスになると少し考えればわかるのに、失敗した人間を攻撃してしまう。
そんなときに心を支えてくれる、よりどころが必要だ。
きっとそのカタチは人それぞれだろう。
僕の場合は家族や古い友人たちがそうだ。
無様なくらいに失敗をし、今近くにいてくれている人たちが味方でなくなったとしても、受け入れてくれる場所がある。話を聴いてくれて、僕の考えを理解してくれて、筋が通っていなければ指摘してくれて、最後には一緒に笑い飛ばせるだろうなと思える人間がいる。そして彼らのおかげで、そこからリスタートできるだろう。
そんな彼らのことが、僕は大好きだし、同時に感謝している。
思い返してみて欲しい。
あなたにも、そういう場所があるのではないだろうか。
もしこれを読んでくれている人が、「最後によりどころにできる場所」がないと感じるなら、この文章が、よりどころになればいいなと思う。
こんなことを言うのはおこがましいだろうか?
たしかに僕は、何かを成し遂げた人間ではない。
そこらへんにいるしょうもない一大学生だ。
それでも、自分の意志を持って行動することの難しさを知っている。
そして、行動した事実は、その結果にかかわらず、必ず自分のプラスにできるということを知っている。
信用できないだろうか?
たしかに僕は、あなたにとって顔も名前も分からない。
そもそもプロフィールが正しいという保証すらない。完全にネットの中の身元不明、不特定多数のうちのひとり。
でもそれは僕にとっても同じ。
僕のnoteを読んでくれている人、そのほとんど全員の顔も名前も僕は知らない。
それでも僕は、その赤の他人にとって、些細でも何かプラスになればいいなぁと本気で思って文章を書いている。
だから、信用してみて問題ない。
僕が言っていることは感情論にすぎないが、そもそも論理的に言葉の上で理解したところで効果がないことはもう分かったのだから、今さらそんなこと気にしなくてもいいだろう。
あなたが何かをしようとして失敗したとしても、この文章が必ず受け入れる。
自分の想いに基づいて、自分で選択し、自分で行動するなら、その結果はどうあれ、その行動は正しい。
何か行動して、もし誰かに笑われたり冷ややかな目で見られたり、傷つくことがあったとしても、あなたの価値にかすり傷ひとつ付きはしない。
そしてどうしようもなく何かを吐き出したいときは、あなたの話を聴かせてほしい。
その行動を讃え、あなたの考えを理解し、失敗を笑い飛ばし、少し休んだら、反省すべきところは反省し、次に向かうあなたの背中を押そう。
その行動に費やした時間が、後で「よかった」と思えるものになるように、あなたと話をしたい。
どれだけボロボロになったとしても、その存在を肯定する文章はここにある。
だから、安心して飛び込んでみてください。
1回やってみたら、意外と何も怖くなくなるもんです。
……あ、3つ目の条件を言ってませんでした。
3つ目の条件は、「とりあえず1回やってみること」です。
上で一度、「言葉で言われて納得できても中々信じ込めない」と書きましたが、やはり実際に体験するのが一番です。
そのために、ぜひ1つ目2つ目の条件と向き合ってみてください。
さて、冒頭で「自分らしく生きたい、何かやりたいけど、どうしても周りの目が気になって自分に嘘をついている…」という人に宛てた、と書きました。
その葛藤を抱えている時点であなたのことが大好きです。そして、結果はどうあれ、何かをやったあなたのことが、間違いなくもっと好きです。というわけで、このnoteのタイトルはラブレターとします。
それではまた。
▼自己紹介です。興味のある方は是非!