私のDDMO原点はここ。
前書き
先日の大学オータムリーグ・・・
私の母校である明星大学(=ストリートボール大学)がついにインカレ出場を決めました。
これは、日本のバスケシーンの将来を大きくかえる快挙だと確信しています!!!今回は私とDDMOの出会い、ちょっとしたサイドストーリーを書いていきます。(画像は勝手に使います!w)
全てのきっかけはこの監督
僕の人生を大きく変えたのはHCである柴山監督との出会いです。
ええと、あまり書くとあれなのですが、エピソードというよりは彼の人柄に学ぶことが非常に多かったです。
バスケに向き合う姿勢で彼に学ぶことは本当に多かったです。
「アメリカではな」「ストリートではな」「アスリートはな」「プロはな」と、彼が持つスケールとアメリカナイズされた価値観は非常に刺激的でした。
私が直接彼のもとでプレーをした期間は短く、2012〜2013年の2年間です。自分が今まで持っていなかった世界観でバスケを解かれ続けていました。しかし、当然当時の明星大学は評価をされていないただの大学でした。チームが持ち続けていたものは、『目の前の努力をただ信じて、結果が出るまで自分たちを信じる』ことしかできなかったのではないかなと思います。
監督は、いつでも言っていました。スタイルをかえるな。そんなんで勝ってもなんの価値もない。自分たちのスタイルを貫け。
私は、かつての私を知る多くのプレイヤーから「進学を失敗した」と言われていました。
変な大学に入った。変なチームで変なことしてる。
蓮のスタイルに合わない。
確かに後悔しそうな瞬間はたくさんありましたし、迷っている時期、自分を、チームを信じることはやっぱりできていなかったと思います。
どちらかというと、当時のその疑いのおかげで今の自分がいます。
大学でグッと広がった人間関係、それは当時のキャプテンとの出会いとかそのおかげで渡米を決意したのはこのチームのおかげです。
答え合わせのバスケ留学
DDMO、DDMOとにかくドリブルの練習、ドライブから活路を開くスタイル・・・1ON1大学だと思っていましたが、本家をみたいと渡米をしました。そこまでに壮絶な苦労があったのですが、ここでは割愛します。
アメリカでは、日本以上に基礎に厳しかったり、ミートのトラベリングが厳しかったり、カルチャーショックが多かったり、今となってはYOUTUBEなどで受け取れる情報も、当時はあまりありませんでしたが、我々の監督が言っていることが完全に正しかったです。
嘘はなかったです。
でも、私のアメリカ留学の1番の課題は、監督から言われた
『バスケを好きでい続けられるか』という問いでした。
当然、自信しかありませんでした。しかし、現実はめちゃめちゃ厳しかったです。それだけの苦労がアメリカにはある。身に染みて経験をしました。
DDMOはアメリカではメジャーというか、日本でオーソドックスなパッシングを基本としたアーリーオフェンスパターンとか、バタフライはじめとしたカッティング中心のオフェンス展開と同じような基本的なムーブメントとして触れられていました。
草バスケレベルでも高いスクリーンの技術、ドラッギングなどドライバーのスペースを作り、活用することなど当たり前の教養のように馴染んでいました。「ダンクできないならドライブするな」とかよくいじられたものです。
DDMOって大学まで習わなかったというと、君のようなスラッシャーはどうやって生きてきたの!?と言われるくらいなれているというか、そもそもモーションオフェンスについてしっかりとみんなが理解している環境がそこにはありました。
そんな答えがありました。
示した新たな価値観、ススメ日本!!
個人的な記事になってしまいますが、僕らOB(僕をOBと言っていいのかは微妙。w)様々な人の思いがあって、今のチームがいるというのは変わりません。ただし、大きな歴史を作ってくれた今の代の選手たちには大きな感謝とリスペクトを送りたいと思います。
まず、世の中に言いたいことは、
ほら!!DDMOをバカにしていた人とちはちゃんとバスケットをみよう
戦術がダメだったのではなく、僕ら(今まで)はスキルが足りていなかっただけですよね!?
やっぱりDDMOは難しいオフェンスシステムなのです。高いスキルを求められるのです。それはちゃんと論文でも触れられています。
高いスキルが前提で作られている戦術です。
ということで、今日は嬉しくてありがとうで記事を書きました。
もっともっと僕も勉強して育成年代にこの戦術をアウトプットできるように頑張ります!!
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