世界を狂わす歌劇オタク~劇場版スタァライト感想~

アニメを一切みずに、劇場版スタァライト初見で見に行った。直感的に思ったのが

「やっぱ世界を狂わすのはオタクパワーなんだよなぁ」

という雑感である。

この記事は、この雑感を結論とはしない。まだ初めて見たばかりのコンテンツであり、『オタク』てどの範囲や?狂わすとは?等々、色々突っ込みどころがある。その突っ込みどころを、自分の中で整理する形で、自分の中で感じたものを一つずつ丁寧にひもといて行く形で理解を深めていくものとする。

ストーリー理解の不足や、言葉の認識違いについては適宜指摘いただいたり、大目に見ていただけると助かる。

(追記:描いているうちにアニメ見ちゃった。)

感想~直感でわかる。説明不要~

まず、映画が完全に初見で見に行った。もちろん、アニメを見てから見に行く、もう少し前情報をいれてから……等々あったが、こちとら社会人であり、学生時代なら色んなマンパワーを割けたが、今なら勢いづいた時にみておかないと、そもそも作品自体を摂取せぬまま終わる事態になるし、映画の完成度が高いことは深く読まずとも自然と流れてくる大量のコメントと感想でわかっていたため、勢いで見に行った。結果、その判断は正しかった。

土曜日に映画を観に行き、そのままアニメを見返し、日曜日にはぜんぶ見終わり、現在ロンドロンドロンドを見ているところである。

映画そのものが、非常に作りとして直感的に分かりやすかった。特に、現実からワイ(ル)ドスクリーンバロック(※1)に移るところは非常になめらかに、そして境がないように描かれていて、それでいてはっきりと「現実とは別物である」ということがわかる描き方であった。

(※1)ここでは、ワイ(ル)ドスクリーンバロックを、アニメでいう地下のような存在、「現実と別世界だがアニメのオーディションとはまた違う世界全般」を差しているものとしてこの単語を使用する。これは自分の、現状での解釈。

だから、直感的に『演じるパワーを競いあう別世界』のような、ふんわりとした理解をすることができた。それはかなり「舞台装置」を意識した作りにもなっていたことが大きいように思う。最初のワイ(ル)ドスクリーンバロックとの邂逅において、もしただ単に列車が勝手に開いてバトルに移るだけであったら、バトルものなのか?この世界はあくまでも現実なのか?というところが理解できなかっただろう。しかし、いきなりキリンの円形の何かが転がってきて、物理的にあり得ないこと(衣装が画面一杯にぶら下がる)が起こり、かつ、「舞台装置」たるものがいくつも出てきたことにより、これはあくまでも「舞台に関する抽象的世界である」ということが直感的にわかった。衣装がたくさんぶらさがり、列車は照明で丁寧に照らされ、血糊が降ってきて、ワイヤーで飛ぶ。そういった、本来ここまで抽象的世界であれば省略可能であるような舞台装置をはっきりと描いたことで、初見の自分でも明確にそれがわかった。それは、アニメを見た後に思ったが、アニメではなかった描写だ。アニメでは衣装が作り上げられるシーンは鮮明に描いていたが、「舞台」を意識した作りは少々甘かったように思う。ステージでライト照らしてたらまあ舞台かな、じゃないけど。そもそもの日常的な舞台はちゃんと描いていたと思うけど、アニメにおける『オーディション』に置いて、舞台の意識は薄かった。バトル自体がメインになっていた印象である。

たぶんアニメの反省を存分に生かしたのだなと感じる作りになっていて、当然だがばななちゃんがなんでラスボス的位置なのかとか、ひかりちゃん華恋ちゃん以外の各々の絡みについてはアニメを見ないとわからない部分だが、話の根本の理解ができれば十分だと思っていて、アニメに引き込むための動線としてはとても良い出来だと思う。

「グレンラガンに類似性を感じる」

グレンラガンぽい。というのも、終わったときに出てきた雑感のひとつとしてあった。それはなんでかというと、たぶん「色々ぐちゃぐちゃになるけど、直感的に理解できる」という共通点からだと思う。「色々ぐちゃぐちゃに…」というのは、グレンラガンで言えば、なんかドリルは気合いで強くなるし、どんどんでっかくなったりする。理屈と気合いがごちゃ混ぜない交ぜにになっていく。しかし、そこにある程度納得させる力があるので、話に違和感を感じることなく進む。劇場版スタァライトも同様で、突如電車が変形し、戦闘が始まり、交差点にキリンが現れ、現実を破壊してくる。ただそこに至る過程を丁寧に描いている。アニメの『オーディション』では、スマホの通知と、バッジが融解され衣装が生成される固定演出というわかりやすい境を得て、現実とオーディションが切り替わる。あの固定演出をもう少しカットしたり変化させてもよかった気がするが、ほとんどの場合、カットせずにフルでほぼ同じ演出を流し続ける。少し守りに入っている。しかし、劇場版にはそういった固定演出はなく、扉が空いた瞬間突如キリンが現れたり、電車の中で突如キリンの円盤が転がってきたり、現実とソレがいきなり混ざる。アニメよりも遥かに高度なことを劇場版ではやってのけている。当然だが、現実とオーディション等の架空空間の境目は、同じようなシグナルがある方が圧倒的に"安全"である。むしろ劇場版のような表現方法は、伝わらない"危険"はある。どこが現実でどこが架空空間か伝わらず、アニメがやりたいのが「あくまでもリアルの舞台を中心に据えた架空空間でのバトル」なのか「よくわからないバトル映画」なのかがわからなくなってしまう。しかし、劇場版は見事、そのリスクを乗り越えた上で、それを視聴者にもしっかり伝えるということをやってのけている。「グレンラガンぽい」とは言ったものの、こう考えるとグレンラガンはあくまでも現実一本が中心である。グレンラガンは、色んな表現や世界観が勢いで理解できるようにはなっているが、現実と抽象世界が混ざるようなアニメではない。そういった点で、グレンラガンの表現手法ややり方とはまったく別物である。「ノリで把握する」、つまり特に個別具体的な説明やソレに対する理解を必要とせずに話の流れや世界観を把握できるという点で一緒なだけで、それ以外の部分については根本的な技術も別物だろう。

キリンはただの歌劇少女オタク

他に思ったのが、「このキリン…歌劇少女オタクじゃん」という感想である。「歌劇少女のきらめきが見たいンゴォオオオオオオ」「きらめき集めさすンゴォオオオオオオ」「わかる」「きらめき最高ンゴォオオオオオオ」ってやってるし、もう、オタクじゃん。

ここでのオタクの定義をもう少し絞ると、こだわりが強すぎるという意味での「オタク」。もちろん、このキリン、「なんかにハマりすぎてテンション変な人」的な、若干蔑称に近い「オタク」でもあるわけなんだけど、一番重要なのは、やはり「こだわりが強すぎる」という意味合いであると思う。
たぶんそこは製作者も意識していると思う。こだわり強すぎるゆえの若干の"キモさ"。それはたぶん、もうちょっと丁寧にいうと、世界を崩壊させかねんほどのでかいエネルギー使ってまで歌劇少女の輝きを見たいという”狂気”であるんだよな。
そこは紙一重であると思う。
あのキリンは、完全に歌劇少女に”狂って”いた。まあ発想としてはまどマギと一緒だろう。人々のきらめき(想い)的なものは集めれば集めるほど強大になるのはよくわかる。んでもって、それを完全に「世界を変える」だのなんだのではなく、「俺自身がめちゃいい輝き見たいンゴォオオオオオオオ」でしか原動力がないのが、余計に狂っているし、マジで「オタク」だなと思うのだ。そこに「世界が~」とかなんだとか、大きな概念が関わったらアレなのだけど、僕から見るに、キリンは完全に自分の欲望のことしか考えていないし、しかもそれが「歌劇少女の輝きを見たい」から一切ぶれないので、そういったところで余計に「オタク」を感じた。

だからまあ、やはり、世界を狂わすのはオタクの力なのである。

こだわりの力なのである。

もうすっかりハマってしまったので、今度映画2回目を観に行く予定なので、その後また改めて丁寧な考察をあげるとしよう。

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