見出し画像

「エホバの証人と必要悪 : 無神論者の視点からの宗教と信仰の解釈」

丸い三角形は存在しない。よって神は存在しない。
神とは「美味しい笑顔」のようなものだ。笑顔には味などなく食べられないのだが、誰もが美味しい笑顔というものが存在しているかのように錯覚させられている。

ヤクの売人が刑務所で教誨師の影響を受けて改心し、出所してから神学校を出て今では牧師をやっていたりする。ヤクの売人だった人物が今では宗教という名の薬物を売りさばいていたりするのだ。
刑務所は人生の縮図だ。

今朝方、エホバの証人が駅前に立っているのを見た。なんて目障りなのだ。皆が働きに出掛けるのに何をしているのだ。『目覚めよ!』だって?寝呆けているのはお前たちではないか。まだ若いくせに何でこんな所で油売ってるんだ。お前たちも働けよ。これから職場に向かう労働者の皆様方への嫌がらせのつもりかよ。目が腐るではないか。明日からの連休を大勢の人が楽しみにしているのに、気持ちが萎えるではないか。少しくらい気遣いとか配慮とかデリカシーちゅうもんはないんか。ハイ、御座いません。
因みに『目覚めよ!』とはエホバの証人が隔週で発行している下劣な小冊子のことだ。
エホバの証人は「人の命にはそれぞれ意味がある」のだと言う。ならば彼らの人生や行動にもそれなりの意味があるのだろう。駅前にド鬱陶しい格好で突っ立っているのも意味があるのだろうか。

「小さな山火事はたまにはあった方が良い。小さな山火事ならば消すことが出来るが、大きな山火事は人間の手で消すことが出来ずに長期間ただ呆然と為すすべもなく放置せざるを得ない。小さな山火事をたまに起こしておけば、大きな山火事に発展することはない」
ナシーブ・タレブが『ブラック・スワン』という著作の中でそのように書いていた。バブル崩壊についての考察や喩えとして。
経済を語る上では割と有名な喩え話なのだろう。つまり大きな山火事は余計だが、小さな山火事は必要悪なのだと。山火事など無いに越したことはないのだが、小さな山火事をゼロにしようと傾注するほど逆に大きな山火事が発生するリスクが高まるというジレンマに陥ってしまう。必要悪と言うことか。
エホバの証人や統一教会や福音派などのキリスト教信者はその喩え話を知っているだろうか?
タレブはレバノン出身でギリシャ正教の家系だ。
エホバの証人もまるで小さな山火事のようなものだ。どうも目障りで納得いかない面も多々あるが、必要悪。そういうことにしておく。
山火事で命や財産を奪われたり家を焼け出されたり虐待されたり献金額が多過ぎて破産したりする人もいるから、それを看過するのは信条的に絶対に許せない人もいるだろう。小さな山火事でも火事は火事なのだと。生命保険目的で子供が殺されて、それを親の信教のせいにされたらどうなるのかと。
漫画の鬼滅の刃では上弦の鬼が「お前も鬼になれ」と炭治郎たちに迫る。上弦の鬼のその問い掛けは読者や視聴者への問い掛けでもある。大きな山火事に見舞われた時、鬼にならなければ自分の命が助からない時、上弦の鬼の誘いを断ることができる人はフィクションの中だけでしかまず存在しない。
そこのあなたも鬼の毒に侵されているか、既に鬼化しているのかも。何故ならば誰もが人を喰らって生きていくのがこの社会なのだから。江戸時代の飢饉の時には、塩漬けにした女房子供の死肉で食い繋いだご先祖もいたのだから。南方の戦線では戦友の死肉を喰って生き延びたのだから。
エホバの証人は既に鬼なのか?もしやそうなのかもしれない。「お前も鬼、いや、信者になれ」と伝道者は考えている。彼らが導こうとしている門は狭き門とは反対の門だ。暗黒面への入口だ。
「信者になれば救われます。楽園に行けて永遠の命を得られます」
伝道者は鬼そのものだ。
今日もエホバの証人たちは歩く小さな山火事として生きていく。小さな山火事として駅前に立ち続ける。それが彼らの生きる意味なのだろう。
必要悪に感謝を、敢えて。汝の敵を愛せ、寧ろ。

宗教そのものが大なり小なり山火事みたいなものなのだ。
必要悪が小さな山火事ならば、大きな山火事とは何なのか?
漠然と思い浮かべられるのは、イスラム国、共産主義、ナチス、そしてプーチンといったところか。
元々は世界金融恐慌やブラックマンデーやパンデミックなどの喩えではあるのだろうが。
せっかくコロナがおさまったと思いきやまたぞろエホバの証人が目立ってきて、ついつらつらと駄文を綴ってしまった。私も鬼の毒に侵されかけているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?